chapitre37. 追憶の瞳
文字数 7,987文字
ロンガは2年前の秋、幽閉されていた塔でそれを知った。ロンガたちの身の回りを世話してくれた金色の瞳の青年は、かつて統一機関の隠していた真実に触れたことで記憶を奪われ、高頻度の記憶消去に晒されたことで自分の正体を忘れ去り、統一機関の言うとおりに動く人形と化していた。過去あったことの全てを忘れ去り、さらには記憶を長期的に留めることすらできない人間が人格を持てると考えられるほうがおかしい。
そうは言ってもリヤンの場合、「リゼとリヤンが
だが副作用をゼロにはできない。
「記憶操作を始めてからリヤンの性格に変化はなかったか?」
ロンガが問うと、3人は目を見合わせた。
代表してアンクルが答える。
「……何だか物分かりがよくなったなぁと思うことはあった。お転婆で我が侭だったのが少し落ち着いたというか。年齢的に、ただ成長したんだなと思ってたけど、もしかして記憶操作が関係しているのかな」
「言い切れないけど、可能性はあると思う」
「そうか。僕たちのせいでリヤンが……」
「そもそもの話、なのだけど」
青ざめて俯いたアンクルに代わり、サテリットが口を挟んだ。
「リヤンに掛けられている記憶操作の子細を、私たちは知らないのよね。言われた通りに続けているだけで……もしロンガが知っているなら教えて欲しいのだけど」
「うん。多分、特定のワードに消したい記憶を紐付けて隔離するタイプだ」
ロンガは、自分の理解が及ぶ範囲で統一機関の記憶操作について説明した。
まず、統一機関のしている「記憶操作」は「記憶消去」ではない。任意の記憶を「思い出せないようにする」仕組みである。人間の記憶は短期記憶と長期記憶に分かれるが、記憶操作で対象にするのは基本的に長期記憶だ。長期記憶は独立して存在せず、複雑に
そこで編み出された手法が「記憶網の再配置」だ。
薬剤投与と催眠療法を用いてその配置を組み替え、消したい記憶をすべて特定の単語だけにつなぎ替えてしまう技術である。無数のリンクが織りなす記憶網のなかで、そこだけが独立する。記憶領域のなかに、外部から一切干渉できず、観測もできない暗部が発生するのだ。
そして記憶を紐付けた単語を「鍵」とし、鍵の単語だけを対象者の記憶から消し去る。一度処置をしてしまえば、対象者が何らかの理由で「鍵」に曝露されるまで記憶は封じられる。かつてロンガの記憶が封じられていたときの鍵が「エリザ」だったように、日常でまず触れることのない単語や概念を指定するのが普通だ。
この手法は記憶操作の度合いが低いので比較的対象者に負担をかけないが、その代わりに脆弱でもある。記憶自体を意識の深層に追いやる手法などと異なり、なにかの切欠で関連事項に触れてしまえば即座に記憶網が回復してしまうからだ。
なので、この手法において万全を期すためには、対象者の身の回りの人物を協力者にする必要がある。ロンガにとっては友人ソレイユが協力者で、リヤンにとってはこの3人がそうだ。回復しかけた記憶網の再配置を行うプロセスはいくつかあるが、ロンガの場合はまた別の、とある単語が再配置のキーになっていて、いわば解けかけた催眠をかけ直すような働きをしていた。おそらくアンクルたちがやっているのはもう少し原始的なシステムだ。薬剤投与を用いて結合しかけた記憶のリンクを分解し、そこに偽の記憶をねじ込むことで記憶網の回復を阻害していると思われる。
と、いった内容のことをロンガがかいつまんで説明すると、3人はそれぞれ考え込んだ様子で黙り込んだ。彼らのしてきたことがリヤンにとって良かったとは言いがたいけれど、リヤンを誰よりも大切に思うからこそ、仕方なく記憶操作に加担していたのだ。
どうか思い直して、別の方法を模索してくれないだろうか――
半ば祈りながら、ロンガが彼らを見つめていると、うああ、と唸ってシャルルが天を仰いだ。大きい溜息を吐いて、疲れた目をロンガに向ける。
「――考えたよ。考えたけど、よく分からん!」
「どこか補足がいるか?」
「そういう意味じゃねぇ」
シャルルは苛立ったように首を振った。
「大体。なんでお前は、そんなこと知ってんだよ。一から十までぶっ飛んだ話すぎて、正直どこから考えたら良いか分かんねぇんだよ」
彼は疲れたように目を擦る。すでに深夜1時を越えていた。彼よりは幾分落ち着いているアンクルは、そんなシャルルの肩を労るように叩き、黙った彼の代わりにロンガに問いかけた。
「まあ落ち着いて、シャルル。でもね僕も同意見だ。ひとつ確認したいんだけど、ロンガ、君は記憶操作の代案を既に持ってる?」
「ない。だからこそ、君たちが別の方法を一緒に模索してくれることを期待している」
「オーケー。期待に答えよう」
アンクルはにっこりと微笑み、「でも、それならね」と言って真面目な顔になった。
「ここからは情報を整理して、何を僕らの指針とするか決定するプロセスって訳だ。であるなら、その前に全部の情報を出し切らなきゃダメだ。ロンガ、君がサテリットと秘密裏に話し合っていた内容は今の話で全部かい?」
「いや、それは違う」
「では、これからの議論と関連する?」
「それは――する、かもしれない」
ロンガは少し考えて答えた。
「サテリットと話していたのは、私が
「なら、話して欲しいな。どうやら僕たちには情報が足りないようだから」
笑顔で退路を阻まれた。宿長として、時に対立する意見を取りまとめなければいけない彼は、議論を交通整理する手腕になかなか優れている。
ロンガとしても、このままでは話が進まないと分かっていたが、一つだけ気掛かりな点があった。助けを求めるように、サテリットをちらりと見ると、彼女は小さく微笑んで「大丈夫よ」と励ますように言った。
「私たち、絶対ロンガを嫌ったりしないから」
その言葉で背中を押され、ロンガは言葉を選びながら話し始めた。
かつて統一機関の研修生だったこと。
エリザという名の女性を慕ったこと。記憶を奪われ、無二の友人は10年もの間、記憶操作の片棒を担がざるを得なかったこと。記憶を取り戻したと同時に、友人とともに塔の上に幽閉されたこと。時間転送装置のこと。記憶を消された青年と出会ったこと。危うく殺されかけたこと。そして、棺の中に眠る友人と共に葬送の船に乗り込み、ラ・ロシェルを逃れたこと。
一筋で話せるような内容ではなく、またロンガは説明があまり得意ではなかったので、話は時に右往左往したり、質問を交わしたり、時系列を遡ったりした。会話は長引き、椅子に座っているのも疲れたので、4人はテーブルからラグに移動して両足を投げ出した。夜が更けて部屋が冷え込むと、シャルルがブランケットを持ってきて、暖を取りながらまた話を続けた。
ロンガがバレンシアに辿りつき、第43宿舎の4人に出会ったところまで話し終えたときには午後3時も近かった。誰かがうっかりうたた寝をして、照れ笑いを浮かべたのをきっかけに、誰からともなくブランケットに包まり横になった。一旦寝よう、という提案が今さらのように出され、すぐに寝息が聞こえ始めた。目を閉じたロンガの意識も急速に遠ざかっていき、数十秒もしないうちに眠りに落ちた。
翌朝、足先の冷たさに目を覚ました。
氷のようなつま先を引き寄せ、もう一眠りしようかと思ったが、すでに誰かが起きて動いている気配があり、葛藤の末に上半身を起こした。ボサボサになった三つ編みをほどいて結い直し、強ばった肩の筋を伸ばしながらキッチンに向かう。火を起こしていたシャルルが振り向いて、「お。おはよう」と笑った。
「早いな。もう朝食の支度か?」
「起きちまったからなぁ」
そう言いながらも彼は大きな欠伸をした。木炭の煙を吸ったのか、ごほごほと咳き込む。
「ロンガこそ早起きじゃねぇか……あ、えっとだな、これからもロンガって呼んだ方がいいのか?」
「ああ、それなんだが――」
昨夜、今まで名乗っていたのは偽名だとシャルルたちに明かした。全て包み隠さず話す、という約束に則って教えたが、宿舎の外部に情報が漏れることは避けたかった。
「今まで通りにして欲しい。統一機関の人間だと知られたくないしな」
「分かったよ。まあ、本当の名前じゃないとしても、お前はロンガ・バレンシアとしてここに住んでるんだからな」
助かるよ、と礼を言った。
シャルルの隣に屈み込んで、ロンガはかまどの中で燃える木炭を眺めた。炭のはぜる小さな音が断続的に鳴り、冷え込んだ朝の空気に焦げた匂いが混じってゆく。シャルルが風を送ると、それに答えるように赤熱した範囲が強く輝き、わずかに広がる。そんな気の長い作業を眺めるだけの、静かな時間がしばらく続いた。
ややあって、「……なあ」とシャルルが小声で言った。
「昨日話していたエリザって人について聞きたいんだが」
「エリザのこと?」
炭火の暖かい光に気をとられていたロンガは、驚いて問い返した。
「なぜだ? ああ、いや、別に構わないが……」
「昔、世話になった人がいるんだが。同じ名前なんだ」
「別人だと思うけど。だってシャルル、育ちはバレンシアだよな?」
「ああ、そうだ。言いたいことは分かるよ。その人はずっとラ・ロシェルにいたんだろ? 俺が会えるわけない、
「そうだな。
「でもさ」
シャルルはにやりと笑って、安定し始めた火に木炭を放り込んだ。
「お前が昨日話してくれたのは、普通じゃないことばかりだった。記憶を消す技術だの時間を超える装置だの……」
「よく信用してもらえたなと思うよ」
「ああ。ただ言っとくが、お前の
「……たしかに」
意外な話の展開に驚きつつも、ロンガは頷いた。
思えば、2年前のあの日から見える世界がずいぶん変わってしまったものだ。あのまま自分の「役割」に埋もれ、優秀でもないが劣等生でもない、その他大勢のまま一生を終えるはずだったのに、どこで道を違えたのだろう。
あの日の自分なら、妄想は本の中に留めておけと冷たく言い放つのだろうな、と想像してロンガは少し微笑んだ。自分は良くも悪くも変わってしまったのだ。
「分かった。シャルル、教えてくれ。いつ、どこでエリザに出会った?」
「もちろん」
シャルルはいくらか力の抜けた顔で笑った。
「……って言っても正確には覚えてないんだが。俺が8歳のときの話で、アンたちに会うよりも前だが、当時の遊び仲間と一緒に森に入ったんだ」
*
成長期の元気を持て余している仲間と共に、ちょっとした冒険に出かけた。
危ないから入るな、と言われている学舎の裏の森に行ってみよう。表から入ったらバレるから、宿舎に帰るふりをして横の崖を登ろう。そんな子供らしい企みは当然、すぐに大人に見抜かれて、森に入って数分もしないうちに背後から怒号が聞こえ始めた。
――あんたたち早く戻りなさい!
大人の声に焦った8歳のシャルルは、戻るどころか逆に前を向いて全力疾走し始めた。元気いっぱいの子供とはいえ、大人に追いかけられればやがて捕まる。逃げれば逃げた分だけ怒られる。戻る方が得策に決まっているのに、何故だか、そのまま永遠に逃げられるような気がしたのだ。
*
「……無茶苦茶だな」
ハーブティーの入ったカップで手を暖めながらロンガは苦笑した。朝摘みのカモミールが爽やかに香る。
「本当に。でも子供ってそういうのだろ? 自分なりの世界観で生きてるもんだ」
「違いない。子供はやがて大人になるし、大人はかつて子供だったけど、お互い絶対にわかり合えないんだよな」
「そうそう! まさにそれだよ」
「で、子供だったシャルルはどうしたんだ?」
「なんかむかつくな。間違ってないけど。まあそれで、俺が必死こいて逃げてたらさ――」
*
もやに巻かれた、と当時のシャルルは思った。
よく晴れた夏の午後。
ほっとしたのも束の間、シャルルは違和感に気づいた。
さっきまでうるさいほど自分を呼んでいた声が聞こえない。……それだけじゃない、何かが違う気がする。枝のかたちや低木の位置は同じなのに、何だか、さっきまでと違う場所にいるような……。
焦りと恐怖が喉元をかけ上がった。
ここにいたら駄目だ、そう直感した。シャルルは来た道を戻る方向へ、転がるように走り始めた。帰り道には誰もいなかった。自分を追いかけてきたはずの大人も、一緒に森に入ったはずの仲間たちも! 必死に走り抜け、過呼吸になりかけながらも、どうにか森から出ることができた。学舎に駆け込み、見慣れた顔ぶれがそこにいてくれることを願った。
そこで出迎えてくれたのは知らない人たち、そして、
*
「――知らない言葉、ね」
ロンガが引っかかった部分を反復すると、シャルルは腹でも痛むように顔をしかめた。
「最初はただ、動物みたいにわめいてるのかと思って怖かったんだけどよ。よく聞いてると、どうも奴ら、意思疎通できてるみたいだったんだ」
「だから、意味は分からないけど何かの言葉だと思ったんだな」
ロンガは頷き、止めてしまった話の続きを促した。
*
――こいつら、言葉通じねえ。
そう判断したシャルルは必死に身振り手振りで説明したが、かえって気味悪がられ、どうやって闖入者を摘まみ出そうか相談している、という空気になった。
そこで割って入ってきたのが、ハニーイエローの髪と穏やかな微笑みが印象的な女性だった。
どうやら周囲から慕われているらしく、彼女が何か言うとシャルルを囲んでいた人垣が遠ざかった。ひとり歩み寄ってきた彼女は、スカートを折って座り、シャルルと視線を合わせた。化粧っ気のない唇が開く。
「こんにちは。私はエリザ。貴方は、どこの子かしら?」
未知の言語が飛び交う異世界で、聞き慣れた言葉が聞こえた瞬間、緊張の糸が切れて少年シャルルは泣き出した。
*
「……それで、あまり覚えていないんだけど、その人に連れられてまた森に戻ったんだ。気がついたらエリザはいなくなってて、俺は森の中に立ってて、でも昼間だったはずが夕暮れで、大人にぶん殴られた。俺は――」
シャルルは光の降り注ぐ天窓を見上げた。
「俺は何を見たんだろうな。ずっと、夢だと思ってたけれど」
「いや、夢じゃないと思うな。昨日話した、ティアという少年の話を覚えているか?」
「あぁ何だっけ……悪い、全部は覚えてない」
「彼は突然統一機関にやってきて、異言語を話したんだ。どうだ? シャルルの記憶とは視点が逆だが、よく似ていないか」
ロンガは話しながら、統一機関の塔の上で、かつての上司ムシュ・ラムが語った内容を思い出していた。水晶信仰の礎にもなったという、水晶の産地で人が消えたり突然現れる現象のことを、彼はロンガたちに語って聞かせた。どう聞いても世迷い言だが、ティアという確固たる物証がある以上信じないわけにいかなかったあの話を、遠い過去のように思い出す。
説明を聞いたシャルルはうぅんと唸った。彼の中でも曖昧なまま保持されてきた記憶だったのだろう、「信じてもらえたのは嬉しいけどよ」と難しい顔で言う。
「正直、夢であって欲しかったぞ。こんなおかしな話」
「そうは言うけど、私たちは既に似たような現象にいくつも遭ってるじゃないか。さっきまでとひと続きの場所にいるはずなのに、何かが
「まさか」
シャルルははっと目を見開いた。
「
「そうだ。幻像の分類で第一類、第二類とあるだろう? 滅多に発生しないが、第二類というのは、同じ時間で同じ場所なはずなのに違う世界と混線したことを指すんだ。ティアが統一機関に来たときに発生したのもそうだと思う」
「はぁ……なるほどな。十数年来の謎が解けた」
シャルルは複雑そうに顔を歪めつつも、感慨深げに頷いた。
「と、すると俺が会ったエリザって人はどうなるんだ?」
「情報は、穏やかな笑顔と蜂蜜色の髪か。私の知ってるエリザと同じだな……」
やはり同一人物なのだろうか。
ティアもかつて、彼の本来いた世界でエリザの名を名乗る女性がいたと明かした。彼女だけが何故か、分岐したあらゆる世界で観測される。――何者なのだろう。図書館で一緒に本を読んでくれたあの人はいったい誰なのだろう?
ロンガが思索にふけっていると、「いや、もうひとつ覚えてるぞ!」と隣でシャルルが顔を上げた。こちらを向いた顔が興奮で上気している。
「一番目立つとこを忘れてた。あの人、すごく変わった
「瞳?」
「そうだ。白銀色の瞳。まるで金属みたいに周りを映すのに、ガラスみたいな透明感があって、オパールみたいに不思議な色の煌めきがあったんだ」
「白銀色……」
ロンガは額を抑えて俯いた。
偏頭痛のように頭の一部がずきずきと痛む。
記憶の中で大切に保存されている、図書館の景色を呼び出して、椅子に座るエリザを思い浮かべた。何千何万と繰り返したはずの行為だ。なのに思い返せば、覚えているのはその微笑んだ輪郭だけで――微笑んでいるという印象だけで――
いくら笑顔を常に浮かべているからといって、その瞳を見ていない訳がない。そしてロンガは記憶力が良い。見たものは覚えている自信がある。シャルルが言うように特徴的な瞳なら尚更、なのに、覚えていないのだ。
2年前のあの日。
エリザと過ごした冬についてのあらゆる記憶を取り戻したはずなのに。
まだ、何か忘れている?
「ロンガ、大丈夫か?」
不安げに問いかけるシャルルの声が、やけに遠くで響いていた。