chapitre35. リゼの記憶
文字数 8,002文字
「大丈夫みたいね。よく寝てる」
サテリットは、垂れ眉をさらに下げて笑みを浮かべる。4人の間にほっとした空気が広がるのを肌で感じながら、ロンガは音を立てないよう慎重にリヤンの部屋の扉を閉めた。
4人は第43宿舎の中央にある
「お茶を入れるよ」
そう言ってアンクルが立ち上がった。
彼が向かった窓際には、手作りのプランターが幾つも並んでいる。手作りのハーブ菜園だ。
最近ではもう、珈琲やお茶、紅茶のような嗜好飲料はほとんど配給されなくなった。それでも、「食事が栄養のためだけじゃ、ダメだよな」と言ったシャルルが先導してハーブを育て始めた。プランターはアンクルが工房の竈を借りて焼き上げ、ロンガは伝報局で知り合った相手に種を譲ってもらった。育て方はサテリットが図書館で調べて、リヤンが率先して苗の面倒を見た。5人で作り上げたハーブ菜園は第43宿舎のちょっとした誇りだ。
アンクルはそのうちのミントとレモングラスを摘んで、台所に持っていく。ロンガは席を立ち、彼を手伝った。鍋に入れて、多めの水と一緒に湧かし、沸騰した湯が綺麗なグリーンに染まったらざるに流して漉す。ポットに入れた液体を、テーブルに並べられた4つの器へ均等に注ぎ入れた。
揺れていたハーブティーの水面がすっかり静寂に満ちても、誰ひとり手を付けようとしなかった。お茶を入れようと言い出したアンクル当人すら、難しい顔で机を見つめていた。
ロンガは控えめに口火を切った。
「……説明して欲しい、と言っても許されるかな?」
口に出してから、その言い方のあまりの他人事っぽさに頭を抱えた。ああ、いや、と意味を成さない言葉を、いくつも零した。言葉を切り、改めて言い直す。
「どうか教えてくれないか。リヤンたちが見た景色の、その意味が知りたいんだ」
「私はいいと思う。どうかな、みんな?」
意外にも一番最初に反応したのは、宿長のアンクルではなくサテリットだった。彼女は濃色の瞳でアンクルとシャルルの顔を交互に見比べる。無言の押し合いの末、分かったよ、と根負けしたようにアンクルが微笑んだ。
「でも、そう言うなら僕も聞きたいことがあるよ。――2人は屋根の上でいつも、何を話してるのかってこと」
今度はサテリットとロンガが目を見合わせる番だった。ややあって、知ってたの、とサテリットが小さい声で呟く。その口元が拗ねたように尖っているのは、ロンガが少し驚いた程度には珍しいことだった。
「ごめんね。知ってたことと、知ってたのに黙ってたことと」
「アンや皆が寝た後に話してたのにな」
「屋根の補修してたら、レンガが変な欠け方してるのに気付いて、あれって思ってさ。その後、夜中に起き出したときに偶然見たんだ」
「……ふぅん。まあ、隠し事を聞き出すのに、こちらが隠し事をするのはフェアじゃないかもね」
ふてくされた表情を隠さないサテリットの存在が、逆に張りつめた空気を弛緩させた。ロンガはハーブティーに口を付けて、ほのかに柑橘の薫る風味を楽しんでから、「アンの提案を呑もう」と頷いた。
「敢えて黙っていたことがある、それを全部話す。代わりに教えて欲しい、それでいいか? ……シャルルも」
ロンガは黙りこくっているシャルルに視線を向けた。彼は幻像のなかでリゼたちの姿を見てからというもの、誰が見ても分かるほど沈痛な顔をしている。ロンガに水を向けられたシャルルは、面を上げて頷いた。
「良かったら俺に話させてくれ」
「大丈夫かい? シャルル、君だいぶ顔色が酷いけど」
アンクルが気遣って声を掛けたが、シャルルは、いや、と決意した顔で首を振って見せた。
「言葉に出して、整理したいんだ。俺自身……あれが遠い昔の景色だと、そう分かっているのにまるで、気分だけあの頃に戻ってしまったようで、今にもリゼが扉を開けて入ってきそうなそんな気がするんだ。だから、あれは変えられない過去なんだと思い知るためにも、俺に話させてくれないか」
*
バレンシアの収穫祭。
言葉の響きからは内輪で催される
5年前。
16歳の少年リゼは、その日ちょっとした大役を仰せつかっていた。
丘陵地帯にあるバレンシアまで、はるばる駆けつけた権力者たちの馬車を引いてきた馬を預かり、
元より
全ての引き金を引いた馬車は、陽も高く登った正午前に訪れた。
黒地に金刺繍のジャケットで正装したリゼは、すでに慣れた手順を踏んで馬車馬たちを連れて行った。厩舎の引き戸を閉め、仕事の完了を管轄責任者に報告しにいくと、クラシカルなロングドレスに身を包んだ彼女は妙な顔でリゼを出迎えた。
「先程のお客様がね。何だか、リゼ君に話があるようなんだけど」
「話、ですか? 僕が何か不手際を……」
「いえ、お叱りの類ではないようだけど。ただ、貴方ひとりを控室に寄越すようにと」
眉をひそめて言った後、彼女は声量を下げて「何かあったら呼んでね。危ないことがあったら逃げて良いのよ」と囁き、リゼの肩をぽんと叩いて去って行った。
そして向かった先で、生まれて初めて告げられた。
自分が
何よりも誇りを持っていた自分の「役割」が、後天的に与えられた、無理やり割り振られた仕事だったこと。宿舎で年少の女の子として可愛がっていたリヤンにも同じ災厄が降りかかっていたこと。
――まあ君たちはもう自分の「役割」を貰っているようだから本来何も言うことはないのだがね。ただ、君の実の親が先日亡くなった。もう隠してやる義理もないから教えておいてやろう。私に恩を押し売ったろくでもない奴らがお前の親だ。
真実は、リゼの心をいとも容易く打ち砕いた。
彼は高潔でまっすぐな心をしていた。人に貢献することを喜びとし、調和を愛していた。空を目指しひたすら伸びた枝のようなリゼの心は、皮肉なことに、横から薙ぐ一撃を堪えられなかった。
*
リゼ・バレンシアが自分を取り戻したとき、右の手のひらには銀の物体が突き刺さっていた。手の甲まで貫通した銀の氷柱を赤黒い血が染めていく。リゼは両眼をゆっくりとしばたたき、皮膚のしわに沿ってじわじわと広がっていく液体を見つめた。
――僕は何をしたのだろう。
問うまでもなくその答えは分かった。両腕を屈強なガードに捉えられ、本革張りのソファにふんぞり返る男はまだらの紫に染まった額を抑えていたからだ。ご丁寧なことに、ガードの片方、スーツに筋肉の浮き上がった男はリゼの首元にナイフを構えていた。
「
統一機関の中堅幹部だという男は、額から手を離して顔の横で広げ、活劇のように大げさな素振りでやれやれと首を振った。指先のかたちや視線のうごき、一つ一つがリゼを骨の芯から嘲笑っているのが伝わる。リゼは侮辱された悔しさに歯噛みしながら、一方で自分がしでかしたことの大きさに気付きつつあった。
「やはり人として欠陥しているなぁ。形質ゲノム選別の重要性が再評価された、より規制緩和を進めることとしようか」
虫の死骸でも見るような視線が、リゼの手足に泥のように纏わりつく。手のひらからぼとぼとと落ちる粘土みたいな血は、確かに人間の血液なのに、自分は――そうだ。
この男に、おまえは人間じゃないと言われたのだ。
それで気が立って、怒りのまま、にやついて緩んだ顔に拳を振り下ろした。自分でも驚くほど身体が動き、完全に油断していたそいつに飛びかかって殴った。近侍していたガード二人がリゼの手足を抑えてもなお、内から溢れるエネルギーに任せて身体をがむしゃらに動かした。ガードのもう片方、髪を短く切り揃えた女が、一切の容赦なくナイフをリゼの手のひらに突き立てて、ようやくリゼはその場にへたり込んだのだ。
心臓の鼓動に合わせて、小爆発のような痛みが右腕全体で脈打った。リゼは脂汗のしたたる真っ白な顔を、それでも怒りに燃やして男をにらみつけた。
「違う。僕は、人間だ」
「ヒトとして扱ってやってるじゃねぇか。統一機関の温情でさ」
「ふざけんな。貴方の意思ひとつで決められる存在ではないと言っているんだ、人間ってのはそういう意味だ」
男はリゼの剣幕に一瞬たじろいだが、リゼがガードたちに捕らえられていることを思い出したのだろう、すぐに余裕に満ちた笑みを取り戻した。彼がやれと言えば即座に首を切られるのが今のリゼだ。圧倒的優位にあるからこそ強気に出る男の小物さは、正義感の強いリゼにとっては吐き気を覚えるほどだった。
心までは負けるまいと歯を食いしばったリゼの首筋に、突然冷たいものが押しつけられた。ナイフの存在を思い出して全身の毛が逆立つ。
だが実際には、予想したのとは違う感覚が与えられた。
張りのある肌が点で押され、極限を超えてぷつりと破れる。異物の先端が体内に入り込み、その場所から経験したことのない熱が等方的に広がった。
注射だ。何か薬を盛られた。
絶望と恐怖で顔を引きつらせたリゼに、哀れむような笑みが捧げられた。
「――まあ安心しな。毒とかじゃないからよ」
「だったら何だよ!」
「真実は苦いだろ? すぐに忘れさせてやるよ」
男は曖昧にはぐらかす。リゼの反応を見て楽しんでいるのだろう。
その瞬間、好きにさせてたまるか、という反骨心がリゼの胸中で爆ぜた。リゼが諦めたと踏んだのか、あるいは注射の片付けでもしているのか、ガードの一人は離れていた。男の、あるいはガードの、波のように張り詰めては弛緩する緊張。
部屋の空気はそれらの重なり合い。
もっとも弛緩した一瞬を、隙の重なった一秒をリゼは逃さず捕らえた。
利き手の甲に突き立てられたナイフを全力で引き抜き、火事場の馬鹿力以上の何かでガードに体当たりを喰らわせた。驚いた彼らが声を上げる前にテーブルを引き倒す。卓上の豪奢な料理がけたたましい音を立てて散らばり、さらに隙を作り出す。
扉は内鍵だった。
リゼは半ばぶつかりながら扉を開け、叫び出す男の声を背後に廊下を駆け出した。
*
「ねぇぇ、まだあ?」
着慣れないドレスが鬱陶しくて、リヤンは何度も生地を引っ張った。
唇をとがらせ、もう随分待っているのにパーティーの始まる兆しすらないことへの不満を訴える。第43宿舎の同居人、シャルルとアンクル、サテリットが宥めてくれるが、実のところ大好きな宿長であるリゼがここにいない点が不満の多くを占めていた。押しても引いてもへそを曲げっぱなしのリヤンに、3人は困った笑顔を見合わせた。
彼らはリヤンより年上、とは言っても当時まだ16歳。
好奇心盛り、感情まっしぐらに生きている元気な12歳をその場に留めておけるほどの技量と器はまだ備えていない。
シャルルが家で焼いて、持ってきてくれたお気に入りの焼き菓子を頬張り、それでもリヤンの機嫌は斜めだった。どうしようね、と副宿長のアンクルが苦笑したとき、リヤンは突然すべての動作を止めてぱっと顔を上げた。
顔を塗り込めていた不満が嘘のように晴れ、花のような笑顔が咲く。
「リゼだ!」
と、言ってリヤンの指さした先にはリゼどころか人一人いなかった。普通なら気味悪くすら思うところだが、リヤンの耳の良さを知っている3人は、彼女の言葉を聞いて一様に安堵した笑みを浮かべた。
良かった、頼れる宿長が来てくれた。声にこそ出さないが、3人に浮かぶ表情はどれも似たようなものだった。
だがその瞬間、「あれ?」とリヤンが怪訝な顔になった。
「なんか変だよ。喧嘩してるみたいな……」
3人の誰かが「喧嘩って?」と問い返した直後に、扉が吹き飛ばす勢いで開かれ、薄闇の廊下からひとつの影が飛び出した。影は毛足の長い絨毯に足を取られて体勢を崩しつつも、後ろ向きに床を一回転して立ち上がる。
手から滴る赤黒い液体がその足元を汚す。
その少年は誰が見ても満身創痍で、傷ついた手を庇いながら、明らかに慣れていない構えでナイフを翳していた。その視線の先、半開きの扉から、彼とは対照的に余裕のある雰囲気の集団が入ってきた。
突然の闖入者に会場は騒然となる。
驚きに固まっていたシャルルは、近くにいた集団が動き出したのを見て我に返り、リヤンの手を引いて後方に逃げようとした。だが「待って!」とリヤンが鋭く叫び、手を払って反対方向に走り出す。
「リゼ!」
「待てってリヤン!」
彼女を追って走り出しながらようやく気付く。元の顔を忘れるほどに眉を吊り上げ、歯をむき出して荒い息を吐いている少年は、自分が慕う第43宿舎の宿長だ。
あの怪我は何だ? 任せられた仕事はどうした?
頭の中を渦巻く疑問もそのままに、シャルルはリヤンに追いついて捕まえた。後ろからやってきたアンクルとサテリットに彼女を任せ、自分はそのままリゼの元まで走った。リゼを庇うように立ちはだかり、黒服の集団を睨んで見据える。
「リゼに何をしてる!」
シャルルは威勢良く叫ぶ。
第43宿舎のなかでは一番背丈が大きくて筋肉があり、バレンシアの平均から見てもそれなりに体格の良いシャルルは、若さゆえの勢いも手伝い、一切の躊躇なく対立の真ん中に飛び込んだ。割り込んできたシャルルを見て、対峙する女性は鬱陶しそうに息を吐いた。
「罰するのよ」
集団の先頭に立つ、黒いワンピースに身を包んだ女性には見覚えがあった。収穫祭の運営に関わっている一人だ。集会で話していた記憶がある。よく見ると彼女の顔は青ざめていた。震える手で血の気の引いた頬を覆う。
「あぁ――来賓のお客様、それも統一機関の幹部の方に殴りかかるなんて。お祭が台無しよ、どう責任を取るのかしら」
「殴った?」
ぎょっとしてシャルルは声が高くなった。
「リゼが? まさかそんなこと」
「悪い、それは本当なんだ、シャルル。殴ったことの罰なら幾らでも受ける。だが言わせてくれ、あの男は僕に、何かおかしな薬を――」
「いいえ、何もしていないと仰っているわ。ただ貴方が突然暴れ出したと」
「貴女それを信じるんですか! 何かあれば呼んでと言ってくれたのに」
「だって、ねえ。貴方、それにリヤン――」
彼女の歪んだ唇に次の言葉が乗る、一瞬だけ早くリゼが叫んだ。
「
矢のように飛んできた声でリヤンは凍りついた。
彼女を抑えようとどうにか踏ん張っていたアンクルたちが、勢いを殺せずに体重を乗せてきてもろとも床に転ぶ。サテリットが手を伸ばしてリヤンの耳を塞いだが、それより先にリヤンの耳はもう聞こえなかった。必死の形相で叫んでいるアンクルたちの声も、驚き逃げ惑う人々のざわめきも、微かに聞こえていた音楽も全部、静寂の向こう側に消えてしまった。
音を失った世界でリヤンは自問する。
――なんで突然、何の音も聞こえなくなったんだろう?
――あ、そうか。だって、リゼに命令されたから。だから聞こえないんだ。
「だって、ねえ。貴方、それにリヤンという娘――
会場中に響き渡ったその声は、ラピス中からやってきた全ての来客の耳に届いた。
唯一、静寂に沈んだリヤンだけを除いて。
*
「今でも後悔する。あと一瞬だけ早く、あの女の口を押さえておけばと」
シャルルは一息ついて、そのまま顔を伏せた。語り口は落ち着いているが、彼自身の感情を代弁するように大粒の涙が絶え間なくこぼれていた。抑制された無表情の頬に伝う涙はどこかミスマッチで、それだけにより痛々しく思えた。
彼の後悔は痛いほど理解できた。
だが、実際シャルルひとりの力ではどうしようもない場だったことは明らかだ。リゼのしたことにも理由があるとはいえ、先に手を出したのは彼の方だ。リゼは八方塞がりの状況に運悪く飛び込んだのであって、それを守れなかったシャルルに非はない。
しかし慰めに意味はないのだろう。ましてや、当時を知らないロンガの言葉など。
冷め切ったハーブティーを飲み干し、視点を変えて話を切り出した。
「――
「世代によるけどね」
アンクルが穏やかな顔のまま眉を下げた。
「年配だと特にそう。ソヴァージュの子供に役割を充てて登用することすら嫌がったりする。ラピスの正規な市民だと思ってないんだよね」
「そう。……酷い話だよね」
サテリットが同意し、でも、と付け足した。
「リゼたちは乳児の頃に、2人の親が、その統一機関幹部に便宜を図ってもらったから書類の上では正規児なんだよね。そいつが変な気さえ起こさなければリゼとリヤンは普通に暮らせるはずだった、のに」
「隠していた……もしかして、今も?」
3人は一瞬目を合わせて、それから頷いた。
「あいつは自分が
「それは……」
それはどうなんだ、と疑問を呈しそうになったが、ロンガは取りあえず踏みとどまる。誰かのために秘密を抱えておく苦しさと葛藤は、自分の経験でこそないが、よく知っているものだったからだ。
「……分かった。でも、どうやって? 不特定多数に既に知られたのだろう」
「それは、あっ――」
カタ、と軽い音がした。
前に座っているサテリットの表情で、何が起きたかを察する。きぃと軽い音を立てて扉が開いた。恐る恐る振り返ったロンガの視線は、何も見ていない虚ろな瞳に絡め取られた。力が抜けた唇から、風音のようにか細い声がこぼれ落ちる。
「眠ってたら声が聞こえて……ねえ、今のほんとうの話なの?」
当のリヤンが、廊下の暗闇に立ちすくんでいた。