chapitre13. 棺の傍らで
文字数 3,208文字
これらの保存食を、葬送を通じて自然に還る死者への捧げ物として、棺とともに船に乗せるのだ。リュンヌたち幹部候補生や、若手の幹部は、儀式でそれらの捧げ物を船に運ぶ役割を与えられる。若いことにとくに理由があるとは思えないので、伝統だからそうしている、という消極的な理由だろう。
だが、今回ばかりは伝統に感謝すべきかもしれない。
「これはチャンスかもね」
音量を絞った声で、同じく布と食物を受け取ったソレイユが言う。リュンヌだけに聞こえるように言ったのだろう。まったく同感だった。
これは、アルシュに接触できるまたとない機会だ。
とにかく外部と連絡を取ること。
研修生たち、ひいてはラピスの市民たちに自分たちの扱いを訴えること。
それが何よりもムシュ・ラムへの反撃となり得ることを、二人ともよく理解していた。あんな塔の上に閉じ込められているのが何よりもの証拠だ。真実が広まることをムシュ・ラムは何よりも恐れているのだ。
記憶を操作する技術のこと、時間を移動する装置のこと、ゼロという青年のこと。
それを暴露する機会さえ得れば、あの塔の上で知り得た全てが武器になる。ナイフよりも効果的な攻撃手段になるのだ。
――では、あの塔の上から告発の文章を書き付けた紙でも撒けば良かったのではないか?
リュンヌは実際、それを考えたが、ソレイユに相談する前に却下した。
理由はふたつある。一つは、そんな目立つ行動をすれば一気に統一機関中に問題が知れ渡り、上層部から口封じに殺される可能性、あるいはそこまで行かずとも今以上に自由を奪われる可能性があったこと。そしてもう一つ、突拍子もない告発を信じさせるためには、何よりも信頼関係が必要だ。時間転送装置のことだって、信頼するソレイユが反発しなかったからこそ信用に足ると踏んだのだ。そうでなければ絶対に信じなかった自信がリュンヌにはある。
だから内密に、時間をかけて、確実に進める。
その点で、始めに秘密を共有する人間としてアルシュは適任だった。
社交的でないリュンヌにとって、数少ない信頼できる友人であると同時に、その人間性にも信頼を置ける相手だった。アルシュは、多少真面目すぎて打ちひしがれやすい面はあるものの、政治部の人間らしく、人と人との間で上手く動くことに慣れている。
ただ、一つ不安な点があった。
最後にアルシュと会話したとき、幹部候補生に選ばれなかったことを悲観していたアルシュは、半ばリュンヌを拒絶するような態度を取った。それは一時的な反応であって、真に嫌われた訳ではない。そう思っているが、彼女が罪悪感から心を閉ざしてしまう可能性が怖かった。彼女は自分の失態を引きずる癖があるのだ。さらに、相方が襲撃事件で亡くなったのだ、アルシュが精神的にかなり参っているのは想像できた。
アルシュが話を聞ける状態にあるか、そして信用してくれるかどうかは、賭けだ。
じわじわと上がっていく気温に反するように、体温が冷えていく。リュンヌは心臓が早く打つのを抑えながら、受け取った乾燥肉を薄い布で包んだ。
死者のためにのみ捧げられる式典を、自分のために利用することの罪悪感がないとは言わない。名も知らない、棺の中に眠るアルシュの相方に申し訳なく思いつつも、だが今動かなければ次にいつ機会がある、という焦燥感の方が強かった。
自分はまだ、生きている。
だが危うい位置にいる。
死者に気を遣って死んでたまるか、というのが正直な感情だった。
すでに葬儀が始まっており、集まった市民たちの前で、立派な服に身を包んだ中年男性が平坦な声で何か話していた。おそらく死者の身分や功績を称え、彼の持っていた可能性を惜しむものだが、リュンヌにはその内容は全く聞こえていなかったし、多くの市民もおそらくまともに聞いていないだろう。あれは荘厳な雰囲気をつくるための音楽のようなものだ。
何人かが持ち回って話をしたのち、捧げ物を船まで運ぶ段になった。
ひとりずつ、棺とアルシュの待つ船まで向かっていく。
一列に並べられたリュンヌたちが、自分の順番を待っていると、前に並ぶソレイユがほんの少し顔を傾けた。
強い光を湛えた瞳の端にリュンヌを捉える。その唇が僅かに、言葉を乗せて動く。リュンヌはその動きに視線を注ぎ、彼の言わんとすることを読み取った。遊び半分で覚えた読唇術に、昨日からずっと助けられている。
「アルシュちゃんと話すのはルナに任せて良いかな。ぼくよりはルナの方が親しかっただろうし、ただでさえ混乱しているだろうから、情報は最小限にした方が良い」
「私が?」
「そう」
リュンヌが聞き返すと、ソレイユは口の端を持ち上げて笑った。任せたよ、という意味の笑顔だろうか。
演台の袖で待機している職員が、直角に肘を上げて合図をする。ソレイユはタイミングを合わせ、整然と歩いて行った。舞台の端で直角に曲がり、集まった群衆に一礼して、布で包んだ捧げ物を船に並べる。そして前にひざまづき、祈りを捧げた。
自分に託されたのだ、とリュンヌは気を引き締める。今までにない緊張感で顔がじんと熱くなった。
出発の合図が出された。
作法通りに歩いて行く。船のそばに行き、膝を折ると、蒼白な顔で俯いていたアルシュが僅かに目を見開いた。船に捧げ物を運んできたのが、他ならぬ自分の友人だと気づいたようだ。
彼女は顔を薄いヴェールで覆っているが、やつれているのが目に見えて分かり、胸が痛くなった。目が腫れている。その頬に涙は流れていなかったが、もう泣く元気すらないのだということが付き合いの長いリュンヌには想像できた。
アルシュの沈みきった瞳が僅かに動き、リュンヌを捉え、力のない唇が囁く。
「……リュンヌ」
友人は、小さい声で名前を呼んだ。広場に集まった民衆の、数百数千の視線を背中に感じながら、妙な静寂が二人の間で風船のように膨らんでいくのを感じた。緊張感で張りつめた、針で突けば消えてしまいそうな空気。
両手を組み、祈る姿勢を取りながら、リュンヌは習わしに反して目を開けた。顔の位置を固定したまま視線を持ち上げると、伸びた前髪ごしにアルシュと目が合った。祈りの途中なのに目を開けている彼女を、不思議そうな視線で見ている。
今しかない、と思った。絞った声量で話しかける。
「聞いてくれないか、アルシュ」
なに、と小さな声が答えた。
その響きを聞いて確信する。この事態においても、彼女は冷静なのだ。気の弱く繊細な彼女だが、それを補って余りあるほどの自制心を持っている。
「今、塔に閉じ込められている」
「塔って……幹部候補生に選ばれたんだよね?」
ヴェールの向こうで、当惑の表情を浮かべるアルシュが見えた。そう、とリュンヌは頷く。
「でも、ムシュ・ラムの罠だった」
「……分かった。調べてみる」
想像よりも歯切れ良く、アルシュは答えた。旧友の、落ち着いた声の響きに安心して、思いがけず涙が出そうになり、慌てて目をきつく閉じた。平常心を失っていたのは、実はアルシュではなく、自分の方なのかもしれない。作法通りに祈りを済ませ、立ち上がった瞬間、あっ、とアルシュが小声で叫んだ。
「後ろ見て、リュンヌ!」
リュンヌが振り向くと、広場の中央で、真っ白い光が弾けるのが見えた。