chapitre135. トレモロ
文字数 10,094文字
真横にある彼女の気配に話しかける。
波のように、実体を持たないからこそ重なり合うふたつの意識が、ほんの僅かな間隙だけを残して隣り合っていた。
呼びかけに応じて、脈打つような痛みが、共有した血管や神経を通じてやってくる。怒りという感情を、身体の反応として書き下したら、きっと痛みになったのだろう。そう、エリザは怒っているのだ。表層には浮かばない心の奥底で、彼女の身体に侵入したロンガの意識に対して怒り、憤っている。
それを求めたのはロンガ自身だ。
ふたつの心が混ざり合わないために、彼女に嫌われる必要があったのだ。肉体を持っていたのなら、苦笑した――と呼べるような反応に数秒を費やしてから、ロンガは真横の気配に語りかける。
「“
「……一般的なことは」
「では、その顛末は」
「よく知らないわ」
存在感が微動する。
首を振った――と解釈しても良いだろう。
「分かりました。では、一緒に――」
ふたつの心は、ひとつ息を吸い込んで、編み上げるように言葉を紡いでいった。
*
――創都345年1月28日 午前2時19分
――新都ラピス ハイバネイト・シティ第45層
今や数十万を数えるハイバネイト・シティ入居者のひとりである少女、ルージュ・サン・パウロは寝台の上でゆっくりと起き上がった。乾いた空気に喉がひりついていて、いくつか咳をする。擦った喉元に薄い線状の盛り上がりがあって、自分の声を変えてしまったその傷に、ルージュは思わず唇を噛んだ。
数秒前まで眠りの中にあった頭は、まだぼうっと霞んでいる。暗い部屋の中を手探りで起き上がって、床に落ちていたカーディガンを拾いながら、眠りを覚ますきっかけになった音の方角を見つめた。
聞き間違いなら良い――と思った。
新都ラピスでいちばん優れていると称えられる唱歌団、コラル・ルミエールに所属するルージュにとって、それが楽器の音にせよ誰かの声にせよ、耳に入ってきたものを正常に解釈できないことは、不名誉なものだ。
それでも、聞き間違いである方がまだ良かった。どうすべきか悩んで、ひとまず上着を羽織っていると、扉の前に誰かがやってくる音が聞こえた。靴音は四つ、来訪者はふたり。数秒の間を挟んで、ノックが三回。
「ルージュ、起きてるか。今の聞いてた?」
返事の代わりに溜息を吐き出して、ルージュは部屋の扉を開ける。唱歌団の仲間であり同期でもあるロマンとアックスが、白い顔でこちらを見下ろしていた。
『“
靴紐を締める時間も惜しんで、照明の落ちた通路を駆け抜ける。仲間ふたりは男性なうえに、ルージュよりもずっと体格に恵まれており、走る速度ではとても敵わなかった。空気が石みたいに喉に詰まって、思うように息ができない。遠く引き離されながらも走り、ようやく彼らに追いつくと、数十人の集まりの一番こちら側に知った顔を見つけた。
「リジェラ!」
名前を呼ばれて振り返ったのは、いつも通りの表情だった。ルージュの歌やピアノを褒めてくれたのと同じ、ぱっと明るく光るような笑顔だ。いつもは下ろしている麦色の長い髪を、後頭部で束ねているところだけが違う。
いつもと変わらない立ち姿を見て、思わず足を止めたルージュとは対照的に、ひとつ年下の少年、ロマンは走る足を速めて彼女の元に駆け寄った。
「……なに、やってんの?」
口元を無理やり吊り上げたような彼の声に、リジェラは少し首を傾げて応じる。
「こちらから挨拶に行くつもりだったんだけど……来てくれたんだね」
「挨拶って――こんな時間にかよ」
「それもそうだけど。お世話になったのに、何も言わずに行くのは駄目かと思って」
リジェラはそう言って、眉を下げたまま、申し訳なさそうな笑顔を浮かべてみせた。違う――とルージュの喉の奥まで言葉がせり上がってきたのと同時に、ロマンが「そこじゃねぇよ」と首を振って彼女に詰め寄る。
「下に行くのは決まってんのかよ。さっきの声のさ、言うとおりに……」
「ええ――そちらにも聞こえていたのね」
リジェラが肩をすくめるのと前後して、後ろから幾つもの足音が追いついて、追い越していく。ルージュたち三人以外にも、コラル・ルミエールの団員たちがやってきて、思い思いの“
「そうか……あなたたちは皆、耳が良いものね。でも、ごめんなさい――誰も、踏みとどまる気はないと思う」
「……なんで?」
「
どういう意味の言葉だったか――と立ち尽くしたルージュの斜め後ろで、そうか、と低い声が呟く。振り向くと、四つ年上の青年であるアックスが、血の気の失せた顔で人垣を見つめていた。
「つまり、これが……真祖の声か」
どういうこと――とルージュは唇の動きで訊ねてみたが、彼は呆然と前を見つめていてこちらに視線を合わせていなかった。ルージュと比べて頭ひとつ分以上も背の高い彼は、向こうから下を向いてくれなければ、その視界の中に入ることすらできない。シャツの裾を掴んで引っ張ると、アックスはようやくルージュに気がついて、ああ、とやけに遠い場所で溜息を吐いた。
『太陽を目指す試みは終わりました。私たちは失敗したのです』
「そう、貴方の言うとおりよ、アックス」
リジェラが機敏な所作でこちらに振り向いて、床を黒い影が走る。影になった頬の輪郭を、鋭い光の線が彩っていて、ルージュは思わず唾を飲み込んだ。背筋に力が入って、張り詰めたように痛む。
「四世紀に渡る冬眠から、ようやく真祖が目覚めた。これは、その
「リジェラ……貴女の信じる人のことは知っています」
一歩下がって聞いていたアックスが、思い切ったように踏み出す。
「真祖――と呼ばれる女性を、“
「安全じゃなかったら、どうするの?」
“
「それでも行くんだよ。真祖がそう言われたんだもの」
「
勢い任せに応じようとしたアックスが、壁にでも激突したように急停止した。言葉を続けようとした口元が、何か言いかけた形のまま凍りつく。数秒の沈黙を挟んでから、アックスは広い背を丸めて、浅い角度で頭を下げた。
「いえ……すみません」
「ありがとう。その続きを言われたら、流石に……少し、悲しかった」
「分かってます。ええ――分かりました」
アックスが一歩引き下がる。
その声色に不吉な感触を覚えて、ルージュは慌てて振り返る。心のどこかで、彼ならリジェラを引き止められるような――そんな淡い期待をしていた。だというのに、見上げた彼の見慣れた顔に浮かぶのは、綿のように捉えどころのない笑顔だった。
「……お気を付けて」
「ありがとう」
噛んだ歯のすき間から呟いたような言葉に、リジェラが微笑んでみせる。
「危険なのは分かってるよ、それでも……私は真祖が掲げる理想が好きなの。この暗い世界では、太陽を目指そうという、その言葉こそが――きっと太陽だった」
『どうして私たちは失敗したのでしょうか。太陽の下で生きたい、その当たり前の正義は、なぜ排斥されたのでしょうか。それはきっと、私たちが……地上の
「いちばん最初に真祖の言葉を聞き届けた人は、結局……記念すべき今日を迎えないまま、死んでしまったんだ」
ペンライトの光の下で、エメラルドグリーンの瞳は僅かに充血していた。ここではない場所を見つめて、下まぶたの縁にうっすらと涙が膜を張る。
「本当……本当に、残念だけど。でも、だからこそ、私たちはこのチャンスを逃してはいけないの。真祖が、あの人が描いた未来を、本物にしないと」
そうだ、その通りだ――と同調する声が周囲で共鳴した。音が白い天井に跳ね返って、ひとつの声が四方八方から聞こえるような錯覚を起こす。背筋を冷たい電撃が走り抜けて、ルージュはふらつきながら後ろに下がった。何かに背中をぶつけて振り返ると、呆然と立ち尽くしていたロマンと目が合う。冷や汗の伝った頬を無理に持ち上げて、彼は笑顔のような形を作って見せた。
「ルージュ、なあ……何、言ってんだろうな、あいつら。何だ、これ」
何も答えるべき言葉を持たないまま、ルージュは首を左右に振った。
せっかく異言語を勉強して、リジェラと言葉を交わせるようになったはずなのに、彼女が何を言っているのか分からない。勢いづいて部屋を出てきたはずのコラル・ルミエールの仲間たちはすっかり萎縮して、理解できない熱意を見せる“
――何か、しないと。止めないと。
焦りが背中を叩くままに、見えない針が敷き詰められたような空気のなかに手を伸ばす。指先に触れた薄いシャツをつかんで、斜め上でこちらを見ている、友達になれた気がした人の顔を見上げた。
「ルージュ?」
優しく名前を呼んだ声の主は、すぐそこにいるのに、どうしようもなく遠くに感じた。何か言わなければいけないのに、声の出し方を忘れてしまったように声が出ない。シャツの端をつかんだ指に、リジェラの冷たい両手が触れて、ゆっくりと引き剥がした。
後ろ向きに数歩、リジェラはルージュの手が届かない場所まで下がる。
「ありがとう、皆。楽しかった」
彼女は笑顔のまま手を振って、そして――背を向けた。一歩また一歩と、その背中は遠ざかっていく。彼らの歩みを裏付けるように歌う靴音を聞くしか、もはや、ルージュたちにできることはないように思われた。
「……マジかよ」
ぽつりとロマンが呟いた。
『ですが今――私たちの想定もしていなかった形で、世界は再び、変わろうとしています』
さざ波が引くように、足音がふたつの方向へ遠ざかっていく。一方は、はるか遠い場所に向かっていったリジェラたちの足音。もう一方は、諦めの溜息を残して居室に戻る団員たちの足音だった。
「――戻ろう。ふたりとも」
アックスの手のひらが肩を掴んだ。
「仕方ないことだ。リジェラは、“
「だからって――」
ロマンが振り絞ったような声で言う。声にならない息を吐き出して、なんで、と乾ききった声で呟いた。
「アックス、なんで……止めてくれなかったんだよ」
「分かるでしょう。あの人たちにとって、一番の優先事項は僕らじゃない。自分で決めて行ったんだ。止められるわけが――」
「一番じゃなかったら、口出しする権利もないって……そう言うのか」
なんでだよ、と俯いた口元が動く。
「せっかく……イチから言葉を作ってまで、仲良くなろうとしたのに。全部、真祖とやらの前には無意味だった、結局オレたちは違う側の人間だったって――そういう話になっちゃうのかよ」
静まり返った通路に、鼻を啜る音が響く。
ルージュは振り返って、リジェラたちが消えていった方向を見た。ハイバネイト・シティの構造は繰り返しが多く、どこに何があるのかは未だに把握しきっていないが、彼らが向かった先にあるものは知っている。地下施設を垂直に貫く、昇降装置と呼ばれる設備だ。彼らはあれに乗り込んで、真祖の指示した先へ向かうのだろう。
あの言葉にどんな意味があるのか、ルージュには分からない。どうしてリジェラがあんな、いつも通りの笑顔で別れを告げてきたのか分からない。だけど――違う、だからこそ、分からないまま諦めてしまうことなんて、できないと思った。
仲間たちに向き直り、伸ばした両手でふたりのシャツを掴む。彼らの視線が自分に向くのを待って、はっきりと見えるよう、ルージュは大きく唇を動かした。
――アタシ、追いかける。
『今度こそ――』
「本気で言ってるの?」
苦々しい表情を隠しもしないアックスとは対照的に、ロマンの瞳は一瞬にして輝いた。
「それだ。ルージュ、オレも行く」
「あのさ……危険だって言ったでしょう」
アックスが深い溜息を吐いて、行く手を阻むように立ち塞がった。
「だから皆を引き止めようとしたのに、どうしてそうなるの」
肩を押し戻すアックスの手のひらは力強く、ルージュはそれだけで一歩も前に進めなくなってしまう。だけど、いくら身体能力に差があったって、粘り強く押せばきっと応えてくれるはずだ。今までだって、そうだったのだから。
「だって! これで終わりっておかしいだろ」
隣でロマンが声を上げた。
「オレ、何となくさ、“
「あのね、ロマン……リジェラが背負っていた、細長い荷物、あれが何か分かる?」
「分かるよ。銃だろ」
間髪入れない答えに、問いかけた方のアックスが僅かにたじろいだ。大きく喉を動かし、唾を飲み込んでから「なら」と勢い良く言葉を返してくる。
「分かってるなら、どうして。つまり、
言葉の最後は、苦しそうに歪んだ。
「――子供じゃないんだから」
『――もう一度』
「……こういう時ばっか、大人扱いすんなよな」
唇を尖らせたロマンがぼやく。
「それに、分かってるよ。
俯いたロマンの視線は、彼の右手に注がれていた。束の間だけ不思議に思ってから、その視線があらわす意味に気がつく。リジェラと彼が初めて出会ったとき、いらだって叩きつけてしまった右手だ。彼がいま、地上ラピス市民と“
「だから、ここで終わりたくない」
ルージュも同意だった。
頷いて、あごを持ち上げる。
数秒か、あるいは数十秒の無言の押し合いの末に、アックスが重々しく溜息を吐いた。
「……分かった。僕も行こう」
やった、と内心で拳を握る。
「とりあえず――もっと動きやすくて、身体を守れる服に着替えてきなさい。靴もだよ。両手が空く鞄に、数日分は水と食事を入れてきて」
「え、戻るのかよ」
「それが最低条件です」
険しい表情で見下ろされて、流石にロマンも圧力を感じたのか「分かったよ」と視線を逸らした。そのまま手を払いのけて、居室の方向にぱたぱたと走っていく。ルージュも彼を追いかけようとしたが、肩をがっしりと掴まれていて動けない。抗議の意味を込めて睨み付けると、アックスはやや声量を落として言った。
「ルージュ。君にはもうひとつ、約束して欲しい」
「――なに」
喉から出る小声は、自分のものとは思えない、プラスチックみたいに無機質な声だった。砕屑を飲み込んで痛めた喉を、ハイバネイト・シティの管理AIとやらが治療と称して、声帯ごと作り替えてしまった――未だに、まったく好きになれない声。
アックスは人差し指を立てて、じっとこちらを見下ろした。
「何かあったら、ちゃんと
「……え」
「当たり前でしょう」
変わってしまったこの声が、団員たちに聞かれてしまう事態を想像して、背筋がぞわりと冷える。鳥肌が立った腕を隠すように、ルージュは手を背後に回した。
「それが嫌なら、ここに残りなさい」
「……やだ」
「どちらが?」
曖昧に逃した言葉は、すぐに捕まえられた。
「ここに残るか、危険なことがあったら声を上げることを約束するか、どちらか選んで。どちらも、は通らないよ」
「――分かったよ。約束するから、リジェラに付いていって良いでしょ」
眉間に深いしわを寄せて、重々しい溜息をひとつ零してから「分かった」とアックスは頷いた。肩をつかむ手から力が抜けた瞬間に、その手の下を潜って、後ろに駆け出す。自分の足音の合間に、アックスが苦く呟くのが聞こえた。
「何のために……そこまでするの。僕にはさっぱり分からない」
『そのために、どうか……力を貸してほしいのです』
ハイバネイト・シティ第36層にて。
柔らかい寝台を使う気にならず、固い床に身体を倒して浅い眠りについていたアルシュは、近づいてくる足音で目を覚ました。拘束されて不自由な手で床を押して、重たく痛む身体を持ち上げる。目元が汚れているのを指先で拭った。
細く開いた扉の向こう、白い光の満ちた通路に、人影がいくつか見える。ひとりが室内に入ってきて、
「――え?」
耳に入った人工音声が理解できず――正確には、予想だにしていなかったことを告げられて、アルシュは腫れたまぶたを瞬かせる。両脇に手を入れられて身体を持ち上げられながら、言葉が通じないことを知りつつも声を上げた。
「ちょっと――もう一度、言ってください」
引きずられるように部屋の外に出ると、同じく部屋から出されたらしいシェルと視線が合う。頬にはカーペットの痕が残っており、その顔は血の気が失せて白かった。
「コアルームが……交渉に応じた、だって。総権と引き換えに、ぼくらは解放される――何か?」
最後のとげとげしい声は、険しい表情でシェルの肩をつかんだフィラデルフィア語圏の兵士に向けられたようだ。兵士は早口の異言語で、何ごとかを告げてくる。内容はアルシュには分からないが、声のトーンから文句だと分かる。おそらくは、人質同士の勝手な会話に対して難色を示したのだろう。
何往復かのやり取りの後に、言いくるめられたらしい兵士が顔を背けた。シェルがひとつ息を吐いて、アルシュに向き直る。
「会話くらいさせてくれたら良いのにね」
溜息交じりに呑気なことを言う。
「まあ――それはともかく、予想が外れた。MDPが、そうそう簡単に総権を手放すわけがないって……思ってたんだけどな」
「――待って」
自分の聞き間違いや、翻訳機能の誤訳ではなかったのか、とアルシュは目を見張った。
「総権って……そんな無茶な要求を? そんなものと引き換えにされてたの? 私たち」
血が足下に落ちていって、身体がふらつく。
「シェル君は知ってたの?」
「そうかなとは思ってたけど――ごめんね、言わない方が良いかなと思ってた」
「――ああ、そっか」
気を遣ってくれたのだろう。
総権という、MDPが手放すはずもないものを対価に要求されているということは、アルシュたちの身柄が解放されることは絶望的だと――シェルはそう気がついたから、心配をさせないように黙ってくれていたようだ。
その感覚は正しいとアルシュも思う。
だからこそ、MDPが交渉に応じてしまったのが、信じがたかった。
銃を携えた兵士たちに連れられて歩いて行くと、ブレイン・ルームと呼ばれている円筒形の部屋に辿りついた。中に入るように命じられて、シェルに続いて扉を潜ると、僅かに煙った部屋の対角に佇む人影に気がつく。
えっ、と息を呑む。
「――エリザ?」
細い人影は、アルシュの声に応えるように僅かにあごを持ち上げた。その唇に薄く浮かんでいる笑みを目の当たりにした瞬間、アルシュは彼女の思惑を察する。総権そのものではなく、総権を持っているエリザの身柄を引き渡すことで、完全にフィラデルフィア語圏に総権が移ってしまうことを防いだのだ。あわよくば隙を突いて、彼女を取り戻そうと考えているのだろう。
なるほど――と内心で頷いた。
危険だが、その作戦は理解できる。
あの身体のなかにいる
「……ん?」
隣に立っているシェルが、アルシュ以外には聞き取れないだろう僅かな声量で、唸り声のようなものを発した。
「どうしたの」
「いや――」
同じく小声で問いかけるが、シェルの返答は空虚で、何か別のことに気を取られている様子だった。彼の表情をちらりと伺うと、見開いた目はエリザに集中している。その視線を追いかけて、アルシュは違和感に気がついた。
エリザの口元が動いている。
「――――」
声は聞こえないのに、言葉を紡いでいるように見える。顔は微笑みの形を保ったまま、唇だけがゆっくりと動いていた。その意図が理解できず、アルシュが首を捻ったのと同時に、隣で唾を飲み込む音が聞こえた。
シェルが死角からこちらを見上げる。
「……逃げるよ」
「え――」
次の瞬間。
白銀色の瞳がひときわ光ったかと思うと、薄闇に落ちていた四方八方――あらゆる世界が、目も眩むほどの純白に覆われた。
*
――創都前
――第八の分枝世界
プラリネを呼びつけて作業をしていると、シトロンが警戒音を発しながらやってきた。いつも珈琲を持ってきてくれる時間なのだが、今日はどうも様子が違う。エリザは膝掛けにしていたストールを羽織り直して立ち上がり、シトロンの案内に従って通路を歩いて行った。
その道のりに既視感を覚え、あら、と思わず口元を抑えた。
「もしかして……あの子の部屋?」
問いかけるが、随行するロボットたちは当然のように沈黙している。
人間の声を聞き取り、解析して応答するプログラムは組み込まれていないので、もとより返事は期待していない。そろそろ簡易的な会話応答システムの搭載にでも挑戦してみようかしら――などと呑気に考えていたのだが、鼻に突き刺さる鉄っぽい臭いに気がついて、背筋が凍りついた。先行するシトロンを追い抜いて通路を駆け抜け、解錠をするのももどかしく、リュンヌの居室に飛び込む。
「リュンヌ――!」
そこにあったものを見たエリザは、ひぃ、と悲鳴を上げて壁に縋り付いた。
寝台で眠っていたはずの身体が、真っ赤に染まっていた。見えない巨大な刃で切りつけられたかのように、服ごと斜めに裂けた胸から、噴水のように血が吹いている。目眩を起こしてふらつきながら、服が血で汚れるのも構わず、エリザはリュンヌの身体に触れる。医療室に運ぶべきか否かの判断をする段階はとっくに過ぎているように見えた。シーツを染めた血は床にまで滴り、大きな血溜まりを作っている。握りしめた手首は、すでに体温が失われ始めていた。
「嘘……やだ、どうして」
問いかけるが、冷え切った唇が答えるわけもない。分枝世界を生きるエリザにとって、彼女はたった一人の友人だった。眠っていて会話をしてくれなくても、リュンヌという他者が存在することに心のどこかで救われていたのだ。
胸が詰まって、涙が込み上げる。
何も考えられなくなって、エリザは人間だったものの形を抱きしめた。髪の毛が血で濡れて、べたついて頬に貼り付いた。そのおぞましさと、おぞましいと感じてしまった悲しみが心を押し潰して、涙が絶え間なくこぼれ落ちる。
そのまま、数時間は経っただろうか。
「……あら?」
ふと違和感を覚えて、エリザは嗚咽の零れる口元を抑えた。
Ⅸ 春を待つ者たち 了