揺れる初秋/地上
文字数 5,772文字
揺れる舟の上、棺のとなり。蹲るようにして、女性が座っている。
花冠を被った彼女に向かって、アルシュは一歩、また一歩と歩を進める。あと数歩の位置まで近づくと、こちらに気がついたらしい、青色の瞳がわずかにこちらを見た。目が合った瞬間に膝が崩れ落ちそうになるのを必死に堪えて、アルシュは作法通りに布の包みを差し出す。
死者への供物と見せかけて、中身は着替えと保存食だ。
ラ・ロシェルの伝統的な葬儀――葬送では、死者を納めた棺と、生前に死者と親しかった者をともに小舟に乗せる。この付添人は
――逆を言うと。
棺とともに川に流された
そして、今日、
だからって、と腹の底で呟いて、参列に戻ったアルシュは歯を食いしばった。
リュンヌをラ・ロシェルから逃がすために、その
信じたくない、とかではない。
信じられない――のでもない。もはや現実は明らかだ。現に葬送の小舟は拵えられて、体温の失せた身体は花とともに棺に詰められた。そして今、厳かな音楽とともに、小舟を括りつけていたロープが外される。支えを失った舟はゆるやかに動き出し、ちょうど人が歩くのと同じくらいの速度で下流に流れていった。
舟が遠ざかっていく。
彼女のシルエットも遠ざかる。喧噪に背中を向け、振り返ることすらしない。まるで世界を自分ひとりに閉ざしてしまったようだ。ラ・ロシェルや、そこに残るアルシュのことなんて気にも留めない、拒絶だけが形作った背中。否――この葬送はすべて、彼女が逃げるための茶番なのだから、彼女は振り返ってはいけないのだ。振り返ってしまえば、全部が水泡に帰してしまう。
だから、せめて――どうか生き延びて。
アルシュは祈った。一方で、暗い思いが渦巻くのは、もう止めようがなかった。
――私は。
半月前の葬送を思い出して、アルシュは歯を食いしばる。あの日、アルシュは死した
その結末が、これなのか。
――私は、貴女のために舟を下りた。
アルシュは下流に目を凝らし、友人の姿を睨みつけた。
――貴女が助けてって言うから下りたのに。貴女は助かったかもしれないけど、この結末をどう思ってるの。
ほとんど呪詛のような言葉が胸から迸り、涙に変わる。頬を伝って止めどなく落ちていく。周囲の参列者からは、死者を悼んで流している涙と思われただろう。その想像が真実ではないことを、アルシュと――ラ・ロシェルでもう一人だけが知っていた。
***
葬送が終わった午後、講義はなかった。
アルシュたち研修生に休講の理由は告げられなかったが、誰かに言われるまでもなく、アルシュは真相を知っていた。昨日まで研修生たちの統括役だったラムという男が、葬送で流された彼、ソレイユを殺したと疑われ、軍部で取り調べを受けているためだ。
彼は実際には毒薬を飲んで死んだので、ラムに掛けられた疑いは濡れ衣だ。
ただ立証は出来ないだろう。あの時ラムは麻酔銃のようなものを持っていた。他ならぬアルシュ自身が撃たれて昏倒したので間違いない。続いて撃たれたソレイユが死んだとなれば、一発目には麻酔薬を潜ませていたが、二発目には致死性の毒を盛っていた、と考えるのが自然だろう。死体を検分すればその限りではないが、生憎、彼はすでに流された後だ。
唯一――アルシュなら、ラムの無罪は証明できずとも、黒幕を糾弾するくらいのことはできるのだが。
とん、カツン――と、不規則な足音がこちらに近づいてきて、無人の講義室で座り込んでいたアルシュは顔を上げる。泣き疲れた脳が揺さぶられてぐらりと眩暈がした。そして足音の主を見定めた瞬間、卒倒しそうなほど血の気が引く。
真っ青な顔でアルシュは彼を睨む。
「……今更、何の用なの」
「釘を刺しに来た」
杖を突いた大柄な男――カノンは素知らぬ顔で言った。それから少し声を潜め、
「――あんたが変に動くと台無しなんでね」
「あ……貴方って、本当っ……」
顔の血管が膨れ上がったのが自分でも分かった。罵倒が口を突いて出そうになったが、どんな酷い言葉を使っても、今の憤りを吐き出せる気がしなかった。
何を隠そう、一連の計画を組んだのはカノンだ。アルシュが
怒りで早くなる呼吸を、必死に抑えつける。襟元を掴んで締め上げたい衝動を堪えて、アルシュは彼の高い背を睨め上げた。
「……こんなやり方して、嬉しいの。貴方」
「嬉しいかどうかなんて基準が、そもそも無意味だね。別に、俺はムシュ・ラムに勝ちたかったわけでも、楯突きたかった訳でもない――」
「――ただ、リュンヌに恩を売るためにやった」
低い声でアルシュは遮る。
「そうでしょ。だからあんな酷い真似ができたんだ。私の知っているリュンヌなら、友達を死なせて助かったところで、貴方に感謝なんてしないと思うけどね」
「さあねぇ……まあ、助かって欲しかったのは確かだ。そこは俺もあんたも変わりない」
「一緒にしないでよっ……」
震える声を振り絞って、アルシュは講義室の机に両肘を突く。はは、とカノンが低い笑いを吐き出したのが聞こえた。なぜここで笑えるのか、意味が分からない。悪夢のような相手だ、と思った。同時に、どうして自分はこんな男に助けを求めたのだろう、という自己嫌悪すら湧いてくる。
「……帰って」
顔を上げる気力などないまま、アルシュは言った。
「釘なんて刺さなくたって、もう、何もしない。大体……貴方のことを告発して、ムシュ・ラムの罪を
だって、と呟いて、アルシュは遠ざかっていく小舟のシルエットを思い出した。
「舟は……もう、出ちゃったんだから」
「そうだね」
平淡な相槌が応える。
「ソレイユ・バレンシアは死んだ。俺でも、彼でも、あの子でも、好きに恨めば良い。命を命と取り替えたことを非道と憤るなら、それも好きにすれば良い。ただ、あんたが真実と思っているそれを広めたところで、好転することは何一つ存在しない」
学術的文書でも読み上げるような口調でカノンは言った。
「それを伝えに来た」
「馬鹿じゃないの。そんなことを言いに、わざわざ来たんだ……?」
精一杯の嘲りを込めてアルシュが言うと、カノンは「じゃあ」と簡素な挨拶をして、講義室を出て行った。
***
その日以来、アルシュがカノンと会うことはなかった。
二人はともに統一機関の研修生であり、しかも同期である。蛇蝎のごとく嫌おうが、講義や訓練、あるいは集会や日常生活で否応なしに顔を合わせる――はずが、その常識は現実とならなかった。ソレイユの葬送と前後して、あらゆる日常が崩れ始めたのだ。
最初の異変は、講義が休みにばかりなることだった。
研修生たちの本分は、新都ラピスを統治する官吏になるべく勉学と鍛錬に励むことだ。日々のスケジュールは朝から晩まで隙間なく詰められていた。夕食の後に多少の自由時間こそ与えられてはいたが、名目はあくまでも「疲労を回復させ心身を養う時間」であり、講義と訓練こそが研修生の中心に据えられていた。
だが。
朝、いつも通りに目を覚まして、空になった隣のベッドを一瞥してから身支度をする。朝食を食べてから講義室に行くと、今日もまた自習の張り紙ばかりが残されている。講義がなく、監視の目もないとなると、大人しく自習をする研修生の方が少数派だった。ラ・ロシェルの街に遊びに行ったり、あるいは途方に暮れて統一機関の廊下で屯したり、何が起きたのかと噂をしたり。
……何か、おかしい。
秋風の吹き込む窓際でノートを捲りながら、アルシュはため息を吐いた。
大人たちが何かを隠しているのが分かる。その証拠に、研修生が過ごすより下の、統一機関職員が仕事をしているフロアからは、毎日のように言い争う声が聞こえてくる。いつも粛々と仕事をこなしていた彼らから怒号が発せられるなんて、想像したこともなかった。
何が起きたのかは分からない。
けれど――研修生たちに構っている余裕がなくなるだけの何かが起きたようだ、というのは辛うじて分かる。アルシュたち研修生は、将来のために教育を投資されている立場だ。未来のことを憂うほど余裕がなくなり、いま目の前にある問題を解決することに全てのリソースを奪われている。どうも、それが現状のようだ。
また息を吐いて、アルシュはノートを閉じる。
書かれている文字列が、まったく頭に入ってこない。言い訳めいてしまうが、こんな状況で勉強のみに励めという方が無理な話だった。脳が働いてくれないまま、秒針が休み時間まで進むのを待っているのは、あまりにも退屈すぎた。
「……街の様子でも見に行こう」
荷物をまとめ、アルシュは無人の講義室を出る。自習を命じた張り紙が、開け放した窓から入ってくる風に捲られて、頼りなくぺらりと揺れた。
手すりを掴み、とぼとぼと階段を下りる。研修生たちの居住区である高層階と地表を結ぶ階段はひどく長い。ひとつ隣の建物に移動するだけでも、十数分かけて階段を上り下りする必要がある。鳥のように空が飛べたら早いのだが、翼を持たないアルシュたちにとって、高さというのは絶対的な壁だった。
青い天窓を見上げて、ふとアルシュは、天を翻るシルエットを思い出す。
――
特定の場所を行ったり来たりできるよう躾けられた鳥のことだ。手紙を脚に括りつければ、古典的な情報交換の手段として使えるため、
「……甘かったな、本当」
唇を噛んで、呟く。
ひとつふたつのアイデアを持っていたくらいでは、このラピスを統べる統一機関に、真っ向から対抗できるわけがなかった。アルシュは個人で、向こうは組織なのだ。圧倒的な不均衡のなかで足掻くなら、カノンがやったように、組織の枠組みに追従しつつ裏を抜けるくらいしか方法はなかった。
だから結局のところ、カノンの案が局所的には最適解だった。
きっと、そうなのだろう。あれが限界だったのだろう。無力な研修生のアルシュが、統一機関の暗い思惑に対して成せることなど、たかが知れていたということ。幾重にも自分の無力さを噛みしめ、アルシュは重々しいため息とともに、日陰の踊り場を折り返す。
下りの一段を踏み出したときだった。
「――上に戻れと言っている!」
険しい声が飛んできて、まさに階段を下っていたアルシュはびくりと肩を跳ねさせる。その声は、しかし、アルシュを咎めたものではなかった。ひとつ下のフロアと階段室を隔てる扉が半分ほど開いていて、そこで言い争っている一団があったのだ。
「ここは立入禁止だ」
険しい顔をした男性が言う。年頃や服装から見て、統一機関の職員のようだ。
「指定外のフロアに入ってはいけないのは、勿論分かっているな。今引き返せば見逃すが、あまりに居座るようでは罰則の対象に――」
「だっておかしいじゃないですか!」
抗弁するのは、黒髪を短く切り揃えた少女だった。
首元に紺のリボンを結んでいるから、おそらく軍部所属の研修生。吊り上げた眉と、ぱっちりとした二重の目が特徴的な顔立ちはまだ幼く丸い。自重を知らない血気盛んさも含め、十代半ばといった印象だった。
「なんでずっと自習なんですか。半月以上も続くなんておかしいでしょう! もう誰も自習なんてやってないですよ、遊んでるか喋ってるかです。もっとちゃんと顧みて下さい、私たちのことをっ――」
そう叫ぶ少女の目の前で、扉が閉ざされる。
行く手を塞がれていたアルシュは、黙って様子を見ていた。監視の目がなくなって無秩序になる――どこでも同じようなことが起きているらしい。目元に涙を滲ませながら肩で息をしていた少女が、ふと視線を持ち上げてアルシュを見た。
「……すみません」
気恥ずかしげな表情を浮かべつつ、少女が道を譲ってくれる。アルシュは頷いて隣をすり抜けながら、仕方ないよ、と胸のうちで呟いた。
彼女もアルシュも、同じだ。
真正面から正論を叩きつけて抗議したところで、たったひとりでは、追い返されて終わりなのだ。個人は集団に勝てない。そういうものなのだ、とため息とともに飲み込んで、アルシュは少女を視界から外した。