chapitre144. 導かれる信仰
文字数 7,387文字
床を埋めるプラスチックケースを取り除くと、壁に埋め込まれたパネルが現れる。そこに刻まれた文字を、まだ乏しい異言語の知識と照らし合わせる。やはりシェルの推測通り、ここはハイバネイト・シティにおける墓地だったようだ。
「アルシュちゃん」
頬に伝った汗を拭って、隣で作業をしている彼女に呼びかける。
「今更だけど、本当に、コアルームに行くんだね?」
「うん、行くよ」
遺骨を収めたケースが床を埋めており、ふたりはその山を協力してかき分けた。数十分の作業のすえに、ようやく扉まで辿りつき、シェルは
「言いたいことは分かってるよ」
通路に先に踏み出したアルシュが振り向く。
「水は上から下に流れる。身の安全を第一に考えるなら、最下層のコアルームに行くなんて正気の沙汰じゃない」
「……そうだね」
「でも、ここまでハイバネイト・シティを好き勝手しておいて、今ここで逃げ出すわけにいかないよ。それに下には、MDPの仲間がいるから」
無事なとこ見せたいしね――とアルシュが微笑む。それから真顔に戻って、あのさ、と少しトーンを落とした声で言った。
「ここまで手伝ってもらって、今更だけど――シェル君には、無理にとは言わないよ」
「え? いや、ぼくも手伝うよ」
「あ――うん。ごめん、手伝ってもらうのは、勿論そのつもりだったけど」
小さく息をついて、アルシュは人差し指を天井に向けた。
「コアルームじゃなくて、上層に向かってもらっても良いってこと。居住区域に、動いてくれる人がいると、何かあったときの保険になる」
「下の人手は足りてるの?」
「そうだね、MDPのメンバーがいるから。それも、全員は必要ないと思う。最低限だけを残して、あとは遊撃に回ってもらうことになるんじゃないかな」
「分かった。それなら、ぼくは上に――」
そこまで言いかけたとき、天井のスピーカーがノイズを吐き出して、ふたりは会話を中断した。耳障りな波形がだんだんと収束して、女性の声だと認識できる音になる。
『シェル、アルシュ、まだそこにいるかしら』
「あ――マダム・エリザですね?」
アルシュが素早く反応して、スピーカーに声を返す。
「ええ、いますよ。そちらはご無事ですか」
『そうね――あの、私、コアルームに向かった方が良いわよね?』
「無理にとは言えませんが――」
アルシュが言い淀む。先ほど、シェルに向けたのと近い言い回しだが、その意味合いはほぼ真逆だ。総権を持っている彼女がコアルームにいないのでは、何かと不便だろう。
「そうですね、できれば下に向かって頂きたいです。矢継ぎ早のお願いですみません」
『ええ、協力するわ。でも――ごめんなさい、そのためにも、少し手助けが欲しいの。手術の傷が開いてしまって』
「あ――それなら」
アルシュが振り向いて、シェルに目配せをしてみせた。
*
“
知らされている作戦は、それで全てだ。
【C-36-205で待機】
命令は常に散発的、かつ文脈が不明。
リジェラの他にも数十名の“
だが、知る必要はない。
だって、リジェラたち個人より遥かに多くを知る存在が、集団を高みから見下ろしているのだから。その指先ひとつ、あるいは細胞のひとつとして、命じられるまま行動すれば良い。求められた以上のことをしなくとも、それで勝手に状況は好転し、作戦は成功する。
【C-36-208へ移動】
声が命じる。
リジェラは小さく頷いて、通路の角から飛び出し、斜め向かいの区画へ向かう。その姿を見つけた敵兵が、ここにいるぞ――と叫びながら走ってくる。彼らの走りは速く、あっという間にリジェラの背後まで肉薄して、靴音がすぐ後ろで鳴った。
風がひゅうと音を立てた。
リジェラの髪を掴みそこねた誰かの爪先。
追いつかれそうになった瞬間に、天井で僅かな金属音が鳴る。
背後でシャッターが落ち、髪の毛の先を掠めるような際どいタイミングで、リジェラと彼らを隔離する。そこから更に数十メートル駆け抜けて、ようやくリジェラは立ち止まり、口元を拭いながら振り返った。シャッターの向こうに取り残された人たちが、鬼の形相でこちらを睨んでいる。
「――やった」
思わず呟いてしまう。
堪えきれない高揚感が胸を満たした。
一秒にも満たない時間だけ、彼らの悔しそうな表情を眺めてから、リジェラは背を向ける。指示された区画に辿りつくと、そこで待っていた仲間が、口角を上げて見せた。笑顔で応じながら「凄い」とリジェラは目を丸く広げて見せる。
「今のは本当に捕まると思った。本当に、指一本ぶんの距離で、こちらと向こうを分けたのよ」
「うん……凄いけど、でも、当たり前だ。私たちの真祖は未来が見えているんだから。敵の動向を読み、奴らの足下を掬うなど造作もないことだよ」
「それもそうね」
紐で括った髪を背後に流し、リジェラは次の指令を待つ。
全て上手く行っていた。
だが。
地面の僅かな揺れのあとに、貯水タンクの破裂を告げる緊急放送が流れ、とつぜん途切れる。それに続く十数秒の停電を挟んで、事態は一転した。部屋の照明は復旧したものの、イヤホンからは耳障りな雑音が流れ続けている。
「ちょっと――何これ」
仲間が血の気の失せた顔で耳を抑える。
「無線のトラブルかしら」
「ううん、これもきっと……作戦の一環だよ。だって、真祖に見えてない未来なんて、ないもの。大丈夫だ」
「うん、だけど――プルーネ、そこの部屋に入りましょう? ここ、もし敵が来たら、すぐ見つかる」
リジェラが手を差し出すと、“
「来ないよ、敵なんて」
「どうして――」
「だから、真祖は
呆れたような彼女の言葉が、イヤホンの雑音と混じった。頭がぐらりと揺れて、非常灯の光が滲んだように感じる。リジェラは目眩を堪えて、仲間の手を握った。
「プルーネ――私は、これ、異常事態だと思う」
「なにを言ってるの?」
「だって、私たちに指示を出すための機械が不調なのよ。わざとこんなことをする意味があると思えない」
近くにいるかもしれない、フィラデルフィア語圏の敵たちを警戒して小声で言うが、プルーネは怪訝そうに手を払った。
「触らないでほしいな」
「どうして――」
「こんなこと言いたくないけど……きみ、今日、ちょっとおかしいよ。真祖が失敗するはずないんだから」
「真祖は、たしかに未来が見えているとはいうけど、万能だとは――」
「どうすれば成功するか、失敗するかが分かってるなら、絶対失敗しないでしょ!」
勢いよく言葉を遮られる。叩きつけるような叫び声に、殴られたかと錯覚するほどの衝撃が頭を突き抜けた。
冷たい感覚が身体を包み込む。もしかして――自分たち“
「ねえ……」
振り払われた手を再び差し出すが、睨むような表情とともに無言で拒否された。困り果ててリジェラがうつむいたとき、雑音ばかりを垂れ流していたイヤホンから、糸が切れるような音とともにアナウンスが流れ出した。
プルーネが弾かれたように顔を上げ、リジェラも耳を抑えて音に集中する。
【――異常事態です】
明らかに肉声だ。
だが、掠れて低い女性の声質は、上で聞いた真祖の放送とも違うような気がした。
【S-1方向に向かって逃げなさい。これ以降、個別の指示は送れません。中間層で貯水タンクの破裂が発生し、計算機能および通信に致命的障害が発生したためです】
「え? どういうこと――」
【予期していなかった事態のため、一時、作戦を中断します。“
それだけ告げて、糸が千切られるように音声が途絶える。プルーネが壁にへたり込んで、嘘だ、と呟いた。
「
「真祖にも、見えない未来がある――」
「違う!」
銃声のような叫びで、リジェラの独白は閉ざされた。
「そんなわけ、ない」
プルーネが上ずった声で呟く。
「未来が見えないなら、真祖じゃない。だから違う、ちがうっ、あれは偽物――」
抑揚のない声で、自分に言い聞かせるように繰り返す。リジェラはうずくまる彼女から視線を引き剥がして、周囲を見回した。
S-1方向、アナウンスに指示された方向を見遣る。混乱に陥るのを免れたらしい仲間が、通路の向こうを駆けていくのが見える。
そして、正反対であるS-4方向からは、金属を叩きつける嫌な音が聞こえ始めた。交差路の角に身を隠して、リジェラはそちらを伺う。遠隔操作で降ろされたシャッターを、どうにかこじ開けようとしているのだ。
一刻も早く逃げたいが、プルーネが動こうとしない。どうしよう――とリジェラが途方に暮れて立ち尽くしたとき、逃げる“
「大丈夫ですか?」
聞き覚えのある声に、リジェラははっと顔を上げる。ギプスで覆われた片腕を庇って、癖っ毛の少年が立っていた。
「放送を聞きましたか。S-1方向に逃げてください」
「あ……きみ、総代の――」
いつの間にか顔を上げていたプルーネの呟きに、少年は固い頷きを返す。琥珀色の瞳がほんの僅かな揺れもなくこちらを見据えて、リジェラは思わず唾を飲み込んだ。
彼は、かつて総代の補佐役を務めていた、小柄な従者だ。いつも目深にフードを被っていたので、その素顔は初めて見たが、予想以上に幼い姿をしている。まだ10歳前後といったところだが、見た目の幼さと不釣り合いに落ち着いた雰囲気は、プルーネの混乱を少し取り払ったようだった。
「ねえ……私たち、あちらに向かえばいいんだよね? それが真祖の作戦なんだよね?」
「真祖の――」
光の錯覚かと思うほどの短い間だけ、彼は真顔になってから、即座に笑顔を浮かべた。
「――ええ。その通りです」
「ほら! 言ったとおり。なぁんだ、ほっとした」
「はい、ですから、急いでください」
安堵した表情のプルーネが駆け出して、それと交差するように、少年は敵兵を閉じ込めたシャッターの方へ歩いて行く。リジェラは振り返り、彼の背中に問いかけた。
「ええと――貴方は、なぜ逃げないの」
「僕には果たすべき役割があるので」
「それも真祖の指示――という
思い切って問いかけると、彼が唇をぎゅっと横に引くのが見えた。視線だけをリジェラに寄越して「そうとも言えます」と曖昧に答える。
「貴方、いったいどういう――」
「リジェラ、早く!」
今度は仲間に急かされ、少年も無言の圧力をかけてくるので、リジェラは問答を諦めてプルーネと同じ方角へ走り出した。保険のつもりで背負っていた銃を下ろし、ケースを通路に投げ捨てる。
曲がり角をいくつか越えたところで“
「奴ら、もう向こうに回り込んでる」
「そんな……早すぎるわ」
「こちらもダメだ!」
曲がった角の向こうで、引きつった声が言う。
「六方位すべて敵がいる。幸い、まだこちらを見つけていないが、目星はついているだろう。時間の問題だ」
「上に戻れないか。ほら、さっき降りてきた場所を探して――」
「天井に開けた穴よ、どう昇れって言うの。
「大柄な奴が支えになれば――」
「ひとりはここに残れ……ってか。誰がその犠牲になるんだ。お前か?」
「ちょっと! こんな時に喧嘩は止めて」
刺々しい意見が飛び交って、空気がにわかに険悪になった。目指すところは同じなはずなのに、仲間たちが睨み合う。どの道も塞がれているから、どうしようもない――その結論を口に出すのが怖くて、押し付け合いをしているのだ。
こんな事態は聞いていない。
矮小な自分たちの力ではどうにもできない、そんなときは、いったい何を頼れば――
「――真祖エリザ!」
緊張感に耐えきれなくなって、リジェラは天井に叫んだ。
小声で言い争っていた周囲の仲間が、一様にぎょっとした表情を浮かべてこちらを向くが、リジェラの行動を咎める者は誰もいなかった。みな、心のどこかで、真祖の声を待ち望んでいるのだ。
すると。
天井から光が差して、リジェラは目を見開いた。赤い光が円錐形に広がり、立ち尽くしたリジェラを包み込む。
「はい、リジェラ」
一瞬の沈黙。
そして、歓声。
リジェラは周囲より数秒遅れて、息を呑み、涙が浮かんだ目元を抑えた。
「わ……私の、名前――」
縋りつくような呼びかけに応じてくれただけに留まらず、総代に付けてもらった大切な名前まで。真祖がそこに
「み――見てくれていたんですね……!」
力が抜けて、思わず膝をつく。
耳の奥に押し込んだイヤホンこそ音を発さないけれど、真祖が直接こちらを見てくれていたのなら、こんな機械は有っても無くても関係ない、無用の長物だ。やはり、プルーネの言うことが正しかったのかもしれない。一見トラブルのように見えた停電や通信の不調も、全て真祖の策のうちだったのか。
安堵で胸が緩む。
だが、ほんの僅かに、心の片隅で警鐘を鳴らすものがあった。
スピーカーから流れ出した真祖の声は、やけに平坦で、感情の起伏というものをまるで感じさせなかったのだ。人の声というのは、本来もっと暖かく、少し揺らいでいて、それでいて芯があるものではなかったか。そうだ、あの人たちが歌い交わす声のように、もっと――
「真祖、エリザ……?」
「リジェラ、ご用ですか」
「た、助けて欲しいんです。地面が揺れて、閉じ込めた敵がこっちに!」
「お伝えできる情報は、総権保持者の要請により制限されています。少々お待ちください――」
「真祖……?」
感情の乗らない、矩形の声だ。
その瞬間リジェラは、氷が割れるような音を、どこかで聞いたような気がした。膝が震え、まっすぐ立っていられなくなって、壁に片手をつく。
「
口に出した瞬間、身体中が震えだした。
「違う、ああ、なんて勘違いを――これ、機械の声だわ」
ハイバネイト・シティには、その広大かつ複雑な構造を一元的に管理する人工知能が組み込まれている。何の偶然か、あるいは必然なのか、そのAIには真祖と同じ
リジェラの問いかけに真祖エリザが応えたように見えたのは、真実でもなんでもない。ただ、組み込まれたルーチンに従って、機械が答えただけなのだ。
「みんな、目を覚まして」
リジェラは手を広げて、夢を見ているような表情の仲間たちを見回す。身体が妙な浮遊感に包まれて、自分だけ天井の裏から彼らを見下ろしているような、そんな錯覚に襲われる。目眩を堪えて、リジェラは拳を握りしめた。
「ちゃんと聞いて――分かるでしょう。これ、ただ、音と音を
「お前――なんて馬鹿なことを!」
仲間がリジェラの喉元に手を伸ばして、壁に叩きつける。喉元を圧迫される苦痛に眉を歪めながらも、リジェラは仲間の両肩を押し返した。
「ちゃんと――聞いて」
「この期に及んで、おかしな事を言うな。今はそんな与太話をしている場合じゃない」
「わたしの話、じゃなくてっ……あなたたちが真祖と思ってる
「違うとでも言うのか!」
彼は顔を真っ赤にして、天井を振り仰いだ。
「ねぇ! 貴女は真祖エリザですよね?」
彼の問いかけに、機械の無機質な声が応じる。
『ええ、私は
「ほら! やっぱり真祖の声じゃ――」
『――ハイバネイト・シティの総権を預かる、人工知能です』
額に汗を浮かべた彼が、勝ち誇ったような表情をしてみせた瞬間に、続く言葉が被さった。声を途切れさせた彼に代わってリジェラは上を向き、スピーカーに問いかける。
「エリザ、貴女は――人工知能というものは、人間なのですか?」
答えは簡潔だった。
『いいえ』
*
「こっちだ」
壁の向こうを指さしたロマンが、ほとんど唇の動きだけで告げる。
「音が零れてる。こう、下向きに、ぼわっと広がって聞こえるだろ」
「ああ、言われてみたら、本当だね――それにちょっと
「床に爆弾貼っつけて、ってことだよな。凄ぇな」
「放送で言ってたのより、ひとつ上の階層だっていう話も、じゃあ、勘違いじゃなかったのか。最初からそういう計画だったんだ」
「だからオレ言ったじゃん」
「なんで勝ち誇ってるの。余計、物騒だってことじゃない」
しかめっ面で言い返すアックスの横で、ルージュは背負っていた荷物を降ろす。リジェラたち“
リュックサックの口を開けて、一巻きのロープを取り出す。用具入れから拝借したものだが、下に降りる必要があるなら、何かの役に立つかも知れない。
その提案をしようとすると、ロマンが勢い良く顔を上げた。ルージュも一瞬だけ遅れて、ハイバネイト・シティの乾いた空気越しにやってきた、良く知った人の叫びを感じ取る。
「やっぱ、あっちだ!」
言うなり彼は荷物を背負い直して、足音を隠すことすら忘れたのか、勢い良く駆け出した。
「ああ――ほんっと、もう……!」
アックスが柄にもなく舌打ちをして、行くよ、と屈んでいるルージュの腕を掴んだ。