chapitre129. 母と娘
文字数 8,873文字
「ほら」
ハードカバーの本を一冊引き出して、ロンガをここに閉じ込めたエリザとは別人である、分枝世界のエリザが微笑む。空気を含みながらゆっくり捲れていったページは、どれも真っ白い。本だと言うのに、何の文章も綴られていなかった。
「エリザの記憶に残っていない部分は、書かれていないと言うわけね」
「本当ですね」
何冊か取り出して同様に調べてみたが、全て結果は同じだった。本の題名だけ、あるいは僅かな記述だけが走り書きのように残されている本もあったが、やはりほとんどのページは空白だった。
「本って凄いわよね」
エリザが呟きながら、臙脂色の本を棚に戻す。
「たったこれだけの厚み、片手で支えられる程度の重みに、
「ええ……そうですね」
「私は、いえ
「私も、本の、そういう特性が好きです。でも――例えば、プラリネなら」
相槌を打ちつつも、ロンガはひとつ引っかかるものを覚えた。分枝世界でエリザの従者のような存在だった自律歩行型データベースを思い出して、その名前を口に出す。
「ここにある程度の量など、彼ひとつで全て覚えておけますよね」
「ええ、勿論よ。だからここ数世紀の
エリザはハードカバーの背表紙に手を触れて、目を細める。
「でも、限りある場所しかないからこそ……何を残し、どう記すか思案する。その心をくみ取り、理解しようと努力する。紙面の向こうにある苦悩や、指の脂で汚れたページの隅にこそ、人の祈りが介在すると思うのは、私が古い人間だからかしら。書籍というのは、有限の身体しか持たない人間が、遠い世界に送り出した箱船だと……私は、そう感じるの」
白銀色の――いや、少々色あせた灰色の瞳に、エリザはステンドグラスの煌めきを映した。そのまま数秒間、彼女は色彩に見とれるかのように静かに立ちすくんでいたが、戸惑うロンガの視線に気がついたのだろう、ごめんなさいね、と微笑んだ。
「ここから出る方法の話だったわね」
「ええ――はい。試したいことがあると言っていましたが、何か、思い当たる節があるんですか」
「そうね……」
彼女は棚に戻した本を、もう一度取り出す。ハードカバーの表紙をめくって、真っ白いページを開き、開いた形のままロンガに差し出した。
「記憶していない文章は記せない。つまり、ここにあるものは全てエリザの心なの。勿論、本の一文字までも例外ではない」
「――もしかして」
「ええ。ここに貴女が書いた言葉は全て、エリザに伝わるはずよ」
ふたりは連れ立って階段を登り、七色のステンドグラスの足下にあるテーブルを挟んで座った。ひとつも文字の記されていない本が、ロンガの前でじっと待っていた。
「貴女の心しか知らない
エリザはどこからかペンを取り出して、ロンガの手に握らせる。
「リュンヌ、貴女がエリザの身体に辿りつくまでの物語を、教えてあげて欲しいのよ。本当のことが伝われば、エリザだって少しは違うように感じるはず」
「でも……許してもらえるかどうか」
ペンを握りしめて俯いたロンガの頬に、柔らかい手のひらが触れた。10年前から心の奥底にありつづけた、優しい微笑みがこちらを見ている。
「まずは、お話ししてみないと。ね」
その笑顔に一瞬だけ目を奪われて、それから気がつく。陽光に照らされたエリザの身体は、煌めく無数の粒子に分かれて溶け始めていた。
「あの、エリザ……身体が」
「やっぱり、あまり長くは持たないみたいね。安心して。あるべき場所に帰るだけだから……」
微笑みの輪郭だけを残して、エリザの身体は光に変わった。その微笑みも泡のように弾けて消えてしまい、後にはロンガと白紙のページ、そして言葉を綴るためのペンだけが残された。揺らめく色彩の下で、ロンガは小さく息を吐いてペンを握りしめる。
書いてみよう、と思った。
誰かの心に語りかけるための、不完全だけど何よりも頼れる道具、言葉を使って、エリザに伝えてみよう。言いたかった感謝と、言えなかった謝罪、届けたい祈りを。図書館の扉は固く閉ざされていても、エリザの心に祈りを届けるために、大切なことだけを選んで、言葉の箱船に乗せるのだ。
*
――創都345年1月20日 午前9時46分
――新都ラピス ハイバネイト・シティ最下層
「声が聞こえるね」
エリザの利用している居室を訪ねるため、緩く湾曲した通路を歩いて行くと、誰かの細い声が聞こえてきた。カノンは立ち止まり、確認の意図を含めて、数歩だけ後ろを歩いていたアルシュに問いかける。彼女も気がついたらしく、無言で視線を持ち上げた。
「起きてくれたようで、何よりだ」
「うん、でも……」
ここ数日エリザは寝込んでいた。彼女の持つ総権を頼みの綱にしているカノンたちにとって、エリザの体調が優れないのは大問題だった。ひとまず目覚めたことに安堵するものの、アルシュの表情は険しかった。
「なんだか、様子が変」
彼女の言葉に頷きながら、耳を澄ます。泣き声に近い掠れた声、そして抑えられた低い声。どちらも女性のもので、かつ聞き覚えのある声の質だ。そして彼女らの口調が穏やかさとは程遠いことに気がつき、カノンは思わず舌打ちをした。
「止めてこよう」
「――待って」
早足で歩き出そうとしたが、いつの間にか前に出ていたアルシュに止められる。カノンの胴の前に片腕を
「違う気がする。何かが」
「何かって。あんたも分かってるだろう、マダム・カシェをエリザに会わせるのは危険だと――」
「そうなんだけどさ。少しだけ、様子を見ても良いかな。上手く言えないけど、違うんだ」
彼女がかたくなに止めるので、カノンはひとつ溜息をついて「分かった」と頷いた。
他者の心情を読み取ることにかけては、アルシュの持つ能力には遠く及ばない。まだ会話の内容も掴めないほど遠い声のやりとりから、彼女は何かを読み取ったのかもしれない。その判断を信頼することにして、足音を抑えながら通路を進む。声がはっきりと聞き取れるくらいの距離まで近づくと、想定とは違う会話が交わされていることが分かった。ふたりは通路の角に身体を隠して、カシェとエリザの会話に耳を傾ける。
「ねえ……カシェ?」
親しげに呼びかけるエリザの声は、夜の雨のように冷たかった。耳に突き刺さる鋭さに、あまり動じることはないと自負しているカノンですら、冷たいものが背筋を駆け上がるのを覚えた。頬から血の気を失ったアルシュが、息を殺すように口元を抑える。
「私のために泣いてくれる。私のために人を殺そうとしてくれる。何て素敵な友情、かしらね」
「私は……誰かを殺そうとなんてしてない」
「忘れてしまったのよね。それも、知ってる」
か細く揺れるようなカシェの声に比べて、淡々と言葉をつなげるエリザの声には芯があった。平坦な口調の奥底に、冷え切った怒りと悲しみが燃えている。
「貴女は、人として守るべき道理を越えようとしたのよ。良かったわね、ラムもリュンヌも、どうにか逃げ出したようで」
「ねえ……本当に私が、ラムや貴女の娘を殺そうとしたって、そう言ってるの? エリザ、貴女までもが、そんなことを言うの」
「そうよ。これは冗談でも何でもない」
エリザは言葉をひとつひとつ区切って、丁寧に針を刺しこむように発音した。
「ちゃんと、受け入れて。未来を見通す目を持った私たちは、もう人間とは呼べないかもしれないわ。だけど、身体が人の枠を超えたからって、心まで失って良いわけがないでしょう」
「違う……違うわ、こんな記憶は嘘」
「受け入れて。認めたら真実になってしまうようで怖いでしょうね。でも、本当なの」
数秒ののち、カシェの金切り声に近い悲鳴が耳をつんざいて、カノンは思わず顔をしかめた。
ふたりは若い頃、親友であったと聞く。甦生したエリザを見て、以前にカシェは「これはエリザではない」と言っていたが、どうやら今は違う風に感じているらしい。カシェの精神はかなり不安定に見えるので、そのせいだと片付けることもできる。だがたしかに、エリザの言葉から感じられる雰囲気が、どことなく違うように思えた。
アルシュに小声で伝えると、彼女も頷いた。
「やっぱり違うよね」
「雰囲気が入れ替わる……多重人格ってやつかね」
「いや、どうかな……」
アルシュは床に腰を下ろして、口元に手を当てる。彼女が考え込んでしまったので、カノンは相談を諦めて、今まで通りエリザたちの会話に耳を澄ました。カシェの叫び声は掠れて消えていき、代わりに激しい呼吸が聞こえてくる。
「少しは思い出した?」
「待って――エリザ、どうして」
「どうして私がそれを知っているのか、と?」
「……ええ」
「知ってるわよ、眠っていても、貴女の声は聞こえたもの。それに……言葉が聞こえるの、染み渡るみたいに、見えていないはずの景色が見えてくるの」
彼女の声は苦しそうに歪んだ。
「きっとこれは――私の中にいるリュンヌが、教えてくれている記憶」
「えっ……」
隣にいるアルシュが、小さく息を呑んだ。カノンも思わず背筋が伸びる。今、エリザの声で綴られた名前は、たしかに
アルシュがふらつきながら立ち上がり、声が聞こえるほうに歩き出そうとした。通路の角に身体の側面をぶつけてよろめく。カノンはその肩を支えながら、おい、と少し厳しい声で呼びかけた。
「何をしようとしてる」
「だって、今、ねえ、リュンヌって――」
「言ったね。たしかに言った」
「じゃあ!」
「だからこそ、待ってくれ。俺たちが今割り込んだら、聞ける話も聞けなくなる」
でも、と勢いのままに反論しようとしたアルシュが、振り返って小さく目を見開いた。いくつか瞬きをしてから、小さく微笑んで視線を逸らす。
「……分かったよ」
彼女は肩をすくめて、通路の角に引き返した。
「分かったからさ、そんな顔しないで。こっちが調子狂うよ」
「そんな顔?」
「自分より混乱してる人がいると、落ち着くって話さ、あれ、本当なんだね」
そう言ってアルシュが苦笑したところを見ると、どうも自分は相当切羽詰まった表情をしていたらしい。言われてみれば、顔の筋におかしな力が掛かっていて、じわりと痛かった。どことなく気恥ずかしくなり、カノンは返事の代わりに唇を横に引きしめた。
幸いにもカノンたちの声が聞き咎められることはなかったらしく、エリザとカシェの会話は続いていた。嘘でしょう、と、先ほどまでとは違う声色でカシェが問い返している。真実を受け入れたくないための拒絶反応ではなく、純粋に信じられないといった調子だった。
「嘘じゃない。どうやってここを見つけたのか知らないけれど……今、リュンヌがね、私の中に
「エリザ――貴女は嘘を吐かないわ。でも、本当とは思えない」
「いえ、カシェもD・フライヤの力を借りているのなら、きっとその恩恵を無意識に受けているわ。彼らは人の深層心理を覗くことができる。人の心が発する声を、その人自身よりも明晰に感じ取ることができる」
「なるほど――そうか」
膝を抱えたアルシュが、顔を地面に向けたまま呟いた。
「
「まさに
「そうだね」
アルシュが顔を上げて、ふっと微笑む。
「特にカノン君ならそうだろうね」
「なあ――そろそろ怒っても良いかい」
「そういうこと言える人は怒ってない。でも、踏み込みすぎた……ごめんね」
彼女が肩をすくめて謝るのと前後して、扉が開く音がした。
薄暗い通路の奥に下がって、こちらに近づいてくる足音をやり過ごす。額を抑えたカシェが、物陰で息を潜めているカノンたちには気がつかないまま、通路をふらふらと歩いて行った。
足音が十分に遠ざかるのを待ってふたりは立ち上がり、エリザの居室に向かった。ノックをして扉を開けると、エリザはゆっくりとこちらに顔を向けて、ひとつ瞬きをした。
「貴方たちは――ええ、
エリザはそう言いながら、痩せた腕をゆったりとした動作で持ち上げた。
「アルシュとカノン。どちらも、あの子が研修生だった頃に知り合った、リュンヌの大切な友人ね」
隣に立っているアルシュが、短く息を呑んだ。否応なしに高まる緊張をどうにか抑えつけて、カノンは会話を切り出す。
「ひとつ、お聞かせ願いたい。マダム」
「何なりと。どうぞ」
そう言ってエリザは――エリザの形を取った人間は、微笑んで見せた。アルシュがこちらを見て頷くので、カノンは唾を飲み込んで問いかけた。
「あなたは――誰ですか」
「そうね……少し難しい質問ね」
白銀色の瞳が揺らめいて、虹色の輝きを宿す。
彼女――エリザのことは、良く知っている。
ハイバネイト・シティの総権保持者であり、“
心、あるいは人格と呼ばれる存在。
記憶の累積によって絶えず変化する、感情や思考の源泉となるが、観測できないがゆえに未踏の地であり続けるもの。色も形も曖昧な心を、他者のそれと区別できる理由は、心が身体に付随し、身体は決して混ざり合わないからだ。
――そのはずなのに。
「私は……エリザであり、リュンヌであり、どちらでもない。どちらかと言えば、エリザだけどね」
その言い分が、今更、嘘だとも思えない。
エリザは細い人差し指を頬に当てて、ワンピースから伸びる足を丁寧にそろえた。その上品な仕草には、正直に言えばあまり見覚えがなかった。カノンの友人だった彼女なら、もっと楽な姿勢を取る。口調だってもう少し、固い話し方をするはずだ。
だが、彼女とカノンたちが研修生時代からの友人であることを、ここで眠っていたエリザなら知っているはずがないのだ。目覚めてから数日、エリザは自分の娘の所在について尋ねなかったし、カノンたちも積極的に教えようとはしなかったからだ。
「質問をさせて下さい――マダム・エリザ」
胸元で手を握りしめたアルシュが、緊張しきった顔を上げる。
「貴女を、私の友人の名前で呼ぶことは、妥当ですか。貴女と話をすることは、彼女と話していることになるんですか?」
「それは……多分、考え方次第ね。さっき言ったとおり、ややエリザの意識が支配的で、彼女の意識は奥底に沈んでいる。でも私が、知らないはずの貴方たちを愛おしく思うのは、きっと、リュンヌの心なのだと思う」
「じゃあ――」
近寄って手を取ろうとしたアルシュに「待って」とエリザは片手を広げて見せた。彼女の眉間には薄くしわが寄り、顔は青ざめている。
「それでも……
「どうしてですか」
「どちらでもある、とは――どちらでもない、ということなの。今はまだ、エリザに由来する意識と、リュンヌに由来する意識が別れているけど、このままでは、やがて混ざり合って不可分になる。そんな予感がするの」
「あんたはエリザでも、ロンガ――リュンヌでもない、第三の人格になると?」
カノンが割り込んで尋ねると「そう思ってもらうのが良い」と彼女は頷いてみせた。
言葉を失ったアルシュがふらついて、壁に手をつく。エリザ――の身体を借りた、現状ではエリザと呼ぶほかに名前を持たない彼女は、細めた視線を暗い窓に向けた。
「ごめんなさいね」
瞬いた目からひとつ、涙が落ちる。
「
彼女は手のひらを見下ろして、感慨深そうに指を曲げては伸ばす。エリザが感染症に罹って調子を崩してから10年、長い眠りを終えて、彼女は今ようやく自由に動く身体を取り戻したのだ。その口元が僅かに持ち上がって、笑みの形を取った。
「そう簡単に、譲れないのよ」
「……ま、そうでしょうね」
小さく溜息をついて、頷く。床に膝を付いているアルシュの前に出て「でしたら」とカノンは切り出した。
「今のは聞かなかったことにして、俺たちは今まで通り、あんたをエリザとして扱う。それでどうですかね。勿論その名前には、諸々の責任がつきまとうわけですが」
「ええ。理解しているわ」
「じゃ、そういうことで。早速、頼みたい仕事があります」
「ま、待って。その前に」
余計な感傷を抱いてしまう前に作業に戻ろうとしたのだが、アルシュの掠れた声がカノンを引き止めた。
「ひとつだけ……聞かせて下さい」
引きつった表情のまま、アルシュが問いかける。
「ロンガの心が今、貴女の中にあるなら――彼女の身体はどこに。まさか、もう無いとかじゃない、ですよね」
「ええ……無事らしいわ。こことは違う
「なら、どうして、身体と心が分離してしまったんですか」
「あら。分からない?」
白銀色の瞳が瞬いて、虹色の煌めきが散る。
「あの子がそれを願ったからに他ならないでしょう。人間の枠を捨ててでも、大切な人の沢山いる世界に戻りたかった……それ以上の理由なんて、必要ないと思うけれど」
*
ステンドグラスから差し込む陽光が少し弱まった気がして、ロンガは顔を上げた。黒い文字で埋まったページにペンを挟み込んで立ち上がる。無人の図書館を見渡すと、空気の中の塵までもが停止しているような静寂の中に、僅かに人の声が揺らいでいるのを感じ取った。湾曲した階段を降りて、開かない扉の向こうに聞き耳を立てる。
懐かしい友人たちの声が聞こえた。
ここから出して、と叫ぶ。しかし、張り上げる声は全て厚い扉に吸い込まれてしまうのか、ロンガの声に彼らが答えることはなかった。遠かった彼らの声はさらに遠ざかっていき、やがて静寂に戻る。
うなだれて扉に手をつくと、向こう側にエリザの気配を感じた。扉の裏側は見えないのだが、彼女が扉に手を当てているのが分かる。
「そこにいるのね……リュンヌ。色々、教えてくれたのは貴女よね。ありがとう」
静かな声が、心に直接語りかける。
「ラムのことを、私が誤解していたのは分かった。でも、ごめんなさい。当分はそこにいて欲しいのよ」
「エリザ……でも私は、ラピスの再生のために、仲間を手伝いたくてここに来たんです」
心の中に閉じ込められてしまっては、それすら叶わない。
「貴女の身体を、勝手に乗っ取ったことは謝ります。だけど、せめて外に出してくれませんか」
「いいえ、駄目よ。絶対に、出てきては駄目」
「どうして――」
目を見開いた瞬間、背後で高い音が聞こえた。
耳を押さえながら振り返ると、二階のステンドグラスに大きな亀裂が入っていた。陽光に満ちていた窓の向こう側は、いつの間にか大雨になっている。叩きつける強い風が壁を唸らせ、建物が小さく揺れているのが分かった。
「一つの身体に二つの心が、混ざり合わず、排斥せず、共存する……それは、難しいことだわ」
風音のはざまで、エリザが呟く。
「私の力ではこれが限界。こうやって、お互い手の届かない場所にいないと、私が私であり、貴女が貴女である事実すら、すぐに消えてしまうと思う。人格が混ざり合ってしまう……いつまで、この防壁が持つか分からないけれど」
彼女の言葉をかき消すように、雷の落ちる音がした。図書館の書棚が一瞬だけ白く照らされて、また暗闇に戻る。
「また、来るわね」
「待って下さい!」
「いいえ、待たないわ」
残酷なほどきっぱりと、エリザが応じる。
「私はまだ、エリザでなければならない。するべき仕事が残っているの。あの子の、隣にいなければ――」
それだけ言い残して、彼女の気配は遠ざかっていった。ひとり残されたロンガは、暗くなった図書館の天井を見上げて、絶望的なまでの無力さに膝を付いた。