雪解

文字数 12,535文字

 木々の影が長く伸びる夕刻、冷たい空気が重たく淀んだ日陰で、アンクルは彼らを見つけた。溶けかけの雪が深く穿(うが)たれたなかに、リヤンの小さな手のひらが力なく放り出されている。駆け出したシャルルを追いかけてゆき、アンクルはリゼを見つけて、その肩に手を掛けた。

「リゼ?」

 暗くて表情が見えない。

 力の抜けたリゼの身体を抱え上げると、彼の首筋を支えた手に、ぬるりと嫌な感触が伝う。リゼ、ともう一度呼びかけるが、彼はぴくりともしなかった。

「――嘘」
「おい、どうした」

 目を見開いて動きを止めたアンクルの肩を、シャルルが後ろからつかむ。どろりとした感触に覆われた右手を、アンクルはおそるおそる引き戻した。月明かりがうっすら白く照らすなか、黒に近い赤色が指先を滴って、二人の目の前でぼたりと雪に落ちた。

 ***

 よく晴れた日の午後。

 日光にとろけた残雪を踏みしめて、アンクルは集会場に向かった。頭に靄がかかったようにぼやけていて、曲がるべき道を通り過ぎてしまい、はっと気がついて数歩引き返す。途中のベンチでサテリットが膝を揃えて座っていて、アンクルを見て瞬きだけを返した。

「ごめん……待たせたかな」
「いえ」

 小さく首を振って、サテリットは杖を使って立ち上がる。彼女の速度に合わせるため、普段よりも歩幅を三分の二くらいに抑えて歩き、三十分ほどかけて二人は集会場に辿りついた。

 外で待っていた職員が、無言で扉を引いて入るよう促す。通路の突き当たりで、また職員が待っていて、曲がり角の向こうの開いた部屋を示す。それだけ人数が割かれているのは、先日の一件を、彼らが重く受け止めたことの証明だろう。

「では――ここに、サインを」

 アンクルとサテリットがそれぞれに署名をして、その上からバレンシアの公印が押される。宿舎内の役職を変更する手続きのための書類だ。バレンシアの住民名簿から消えたリゼに代わり、今まで第43宿舎の副宿長だったアンクルが宿長になり、空になった副宿長の席にはサテリットを指名した。

 書類をトントンと揃えて、職員が顔を上げる。

「今日のところは、これで……また、追って連絡するので、よろしくお願いします」
「分かりました」
「あと……学舎のほうから、預かっているものがありまして」

 これを、と言って彼は背後の机から分厚い封筒を取り、こちらに差し出した。紐をほどいて封を切り、中身を出してみる。

「お休みされているぶんの教材、だそうです」
「リヤンの?」
「はい」

 機械的な動作で、職員が首肯してみせる。視界のはしでサテリットが唇を噛むのを見ながら、アンクルは頷いて封筒を鞄に押し込んだ。椅子を引いて立ち上がり、部屋を出ようとすると、背後から意を決したように「あの」と声を掛けられる。

「他にも、なにか不都合があったら、いつでも集会場に来て下さい。私たちは――」
「僕らは大丈夫です」

 背を向けたまま固い口調で言い切ると、一瞬たじろぐような気配があった。

「ですが――」
「今さら、なんだって……何ができるっていうんですか。放っておいてください、僕らのことは、もう」
「――アン」

 杖を持っていないほうの手で、サテリットが袖をつかんで引く。彼女は結った髪をひるがえして振り返り、職員たちに軽く頭を下げてみせた。

「私たちに気を遣ってもらって、ありがとうございます。何かあれば、力を貸してください」

 サテリットが横目でこちらを見て、ほら――と言うように唇を動かしてみせる。

 仕方なくアンクルも部屋のなかに向き直り「お願いします」とほとんど呟くような声で言って、頭を下げる。

 ***
 
「さっきは、ごめん」

 家へ戻る道も半ばまで来てから、ようやくアンクルは口を開いた。

「フォローしてもらって、その――ありがとう」
「そうね。本当は、貴方の仕事だわ」
「僕の、仕事……」

 凍った息が空に昇るのを追いかけるように、アンクルは青空を見上げた。深い青色は目に痛いほど眩しく、鮮やかに、冬の終わりを告げている。

「宿長の仕事って、なんだろう」

 公的な文書に書かれているところの、宿長の役割とは、バレンシア全体の物事を決める集会に出たり、手続きを行ったり――要するに宿舎の代表だ。アンクルも副宿長としてリゼの手伝いをしていたから、仕事の内容は概ね分かっている。

 だけどそれは全て、宿舎と外の世界を取り持つための仕事だった。

「リゼは、僕らに……何をしてくれていただろう」

 第43宿舎の宿長として、自分は、三人の仲間に何をすれば良いのだろうか。

 それが、分からない。

「どうしてか、分からないけど……苦しいとき、リゼが近くにいてくれると、状況は何も変わってなくても、安心できた。なんで、あんなことができてたんだろう」
「ねえ――アン」

 アンクルの独り言を黙って聞いていたサテリットが、こちらを見ないまま呟く。

「リゼの代わりになんて、なれないのよ」
「分かってるよ、僕じゃ力不足なのは。でも、僕が宿長になったからには頑張らないと――」
「違うわ、そうじゃなくて」

 もどかしそうに首を振って、彼女はアンクルを見上げた。

「うまく言えないけれど、リゼがいなくなった穴は、他の誰にも埋められないと思う。リゼがいた席を、誰かに渡すなんてできないし、そんなことしちゃダメなのよ」
「だけど、だって……リゼが支えてくれてたんだよ、僕らを。何もしないで、このまま――ばらばらに崩れていっても良いって思うの?」
「違うけどっ……」

 眉根を寄せて、サテリットが俯く。そのまま数秒黙っていたが、やがて額を抑えて「辞めましょうか」と呟いた。

「まだ、その話ができるほど、私たち――落ち着けてないわ」
「……そうだね」

 それきり会話は途絶えて、二人は沈黙のなかで坂を登った。

 途中で、見晴らしのいい崖沿いの道を通る。少し崩れた道のきわに、誰が持ってきたのか、干した芋と麦が供えてあった。

「私、この道、好きだったの」

 風にあおられた前髪を抑えて立ち止まり、サテリットがぽつりと呟いた。

「空気が澄んだ日だと、スーチェンの街が……少しだけ見えるの。あそこの、小高い丘の向こう側」
「知らなかった。そうなんだ」
「ええ、夏は木が茂ってしまうから、冬の終わりが狙い目なのだけど、今日は……少し霞んでいて、見えないわね」

 サテリットの指さす方角を見つめるが、たしかに空が煙っていて、人工物らしきものは何も見えなかった。スーチェンというのは、バレンシアの隣にある街の名前だ。あの日、ここから落ちたリゼたちの目には、果たして隣街が見えていたのか――そんなことを考えるが、口に出せるわけもなく、アンクルはただ霞んだ空に目を細めた。

 ***

「リヤン、起きてっか?」

 できるだけ明るい声で呼びかけるが、返事はない。意味がないと分かりつつ「入るぞ」と断って、シャルルは鍵の掛けられていない扉を開ける。寝台の上の、毛布をぐるぐるに巻き付けた塊が、音に反応して僅かに動いた。ベッドサイドのテーブルに置いた昼食は手つかずのまま、もう夕刻になろうとしている。

 ふぅ、と溜息を吐く。

「せめて水くらい飲めよな」
「――ぃ」
「あ?」

 毛布の層の向こうで、小さい声がなにかを言った気がした。シャルルが聞き返すと、今度は幾分かはっきりとした口調で言った。

「……寒い」
「この温度でか?」

 シャルルは首を傾げる。外は冷え込んでいるが、部屋の中は暖房でかなり温度が高く、蒸し暑いと言えるほどだった。風邪でも引いたのかと、毛布を剥がして額に手を当てようとすると、リヤンは突然取り乱して悲鳴を上げた。

「嫌っ――やだ、やだぁああああっ」
「お前っ、汗だくじゃねぇか」

 耳をつんざくような大声に思わず顔をしかめながら、暴れる腕を抑えてリヤンの額に手を当てる。泣いているせいで熱いが、平熱の範囲内だった。

「さむい、はやく戻して」
「寒いって、お前……これ以上汗かいたら、マジで脱水になるぞ」

 そう言いながらも、シャルルは泣きわめく彼女に根負けして、部屋の物入れから毛布を持ってきて掛けてやった。幾分か安堵した表情で、リヤンが目を閉じる。シャルルは床に腰を下ろして、また動かなくなった彼女の顔に語りかけた。

「なあ……水、飲んでくれよ」
「……寒いから、いや」
「あ――冷たいからダメなのか?」

 もしやと思い、シャルルはいったん階下に降りて湯を沸かした。火傷をしない程度に冷まして水筒に入れ、リヤンの部屋に持って行く。水筒ごと毛布の隙間に突っ込んでやると、毛布のなかでもぞもぞと動いた。

「……あったかい」

 そう呟くのだけが聞こえた。

 程なくして、動きが収まり静かになったので、毛布の隙間から飛び出していた水筒を引っ張り出す。小さく揺らしてみて、中身が減っていないことを悟り、シャルルは溜息を吐いた。

「このままだと、本当にさ――リヤン、お前まで持ってかれるぞ」

 シャルルが、駆けつけたアンクルとともに、崖下に落ちたリゼたちの元まで辿りついたとき、既にリゼの息はなく、彼の隣で気を失ったリヤンが倒れていた。

 二人が落ちたのは雪の深い場所だったおかげで、身体の怪我はどちらも打ち身程度だった。だが、春が近く積雪が緩み始めていたために、握りこぶしほどの岩が突き出していた。リゼはそこに頭から落ちたらしく、そのまま致命傷になったのだろう――と伝えられた。

 リゼが庇って、だからリヤンは生きている。

「せめてさ、リゼが守った、お前だけは……何とか、守ってやりてぇんだよ、俺たち」

 僅かに聞こえる呼吸に語りかける。

「なあ……今日、肉をさ、分けてもらったんだ。お前、燻製、食べたいって言ってたろ――なあ、何とか言ってくれよ」

 返事はない。

 諦めて立ち上がり、一切手が付けられないままの昼食をトレイごと持ち上げて、シャルルは部屋を出る。キッチンにトレイを置いて、その足で外に向かった。

 積もった雪をかき分けて宿舎の裏手に周り、立て付けの悪くなった倉庫の扉を開ける。埃っぽい空気に()せながら、積み上がった箱をどかして、使い込まれた燻製機を取り出した。ひとりで抱えるには少し大きいそれを、どうにか表まで運んでいくと、ちょうど集会場からアンクルたちが帰ってきたところだった。

 あれ、とアンクルが首を傾げる。

「どうしたの……それ」
「倉庫番のおっさんがさ、肉くれてさ」

 円筒形をした燻製機を地面に下ろして、その上に肘をつく。

「もう、冬支度って季節じゃねぇけどよ……せっかくだし、燻製にしねぇか」
「そう……みんな、今さら優しくなるんだね」

 アンクルが苦々しく呟いて、いつになく荒っぽい所作で玄関の鍵を開ける。去年の秋以降というもの、以前は上側しか掛けなかった鍵を、上下両方掛けて出かけることが暗黙の了解になりつつあった。

「取り返しの付かないことをしてから、いくら取り返そうとしたって……無駄だって分かんないのかな」
「……なんかあったのか?」

 アンクルと一緒に出かけていたサテリットに小声で尋ねると、彼女は苦い表情で頷いた。

「集会場でもね、何かあったら頼って欲しい――みたいに言われたのよ」
「ああ、そりゃあ……まあ嫌になるよな」

 シャルルは溜息を吐き出して、背を向けたアンクルの肩を、外套の上から掴んだ。

「でもさ……俺たちはさ、早く普段通りに戻ったほうが良いと思うんだ。助け合いの関係に戻ろうとしてるのはさ、悪いことじゃないだろ……な?」
「それって、リゼのことはもう忘れて、全部なかったことにしようって意味?」
「おいっ――ふざけんな」

 流石に頭に来て、肩をつかんだ手に力を込め、強引にこちらを向かせた。アンクルの虚ろな目を、シャルルは正面からのぞき込む。

「いい加減にしろよ、そんな意味な訳が――」

 だが、そこでふと思い出すものがあった。

 アンクルの肩から手を離して、シャルルはまっすぐ大部屋(サロン)に向かい、引き出しのひとつを開けた。皿やら薬やらを詰め込んだ引き出しの片隅から、指先ほどのデータチップを取り出す。

 これを貰ったのはかなり前の話だが、データチップの中身は鮮明に覚えていた。視界にも入れたくなくて、普段は開けない場所に封印したのだが、もしかしたら――今こそ、これを使うときなのかもしれなかった。

 大部屋(サロン)に入ってきたサテリットが、データチップを見て眉をひそめる。

「そんなの、家にあったかしら」
「いや……もらいものだ」
「えっと――誰からの?」

 その質問には答えず、シャルルは立ち上がって、二人の仲間を見回した。どちらも精神的な疲労がにじんだ表情をしているが、どうにか日常生活を営むくらいの気力はあるようだ。

 だがリヤンは――リゼと一緒に崖から落ち、おそらく死んでいく兄を間近で見ていたリヤンは、食事すら受け付けないほど参ってしまっている。このままだと、本当に弱って死んでいくのではないかと怖くなるほど、生きるために必要な諸々に意欲を示さない。

 それならば、いっそ。

「二人にさ……相談が、あるんだけどよ」

 データチップをぎゅっと握りしめ、シャルルは意を決して口を開いた。

 ***

 夜明けが日に日に早くなる。

 サテリットが、自室で目を擦りながら支度を済ませていると、軽い足音が勢い良く階段を下っていくのが聞こえた。髪の毛をまとめ、壁に立てかけた杖を取って、慎重に階段を降りていくと、大部屋(サロン)からリヤンの歓声が聞こえた。

「どうだ、美味(うめ)ぇか?」
「うんっ」
「そりゃ良かったよ……っと」

 食器を並べていたシャルルがこちらに気がついて、片手を持ち上げる。

「よう、ずいぶん早いな」
「陽が昇ると、目が覚めちゃって……だけど、リヤンだって早いわね。おはよう」
「うん、おはよう、サテリット」

 丸い頬をピンク色に染めて、その場にぱっと花が咲いたような明るさで、リヤンが笑う。

「燻製の匂いがあたしの部屋まで来てね、それで目が覚めたの」
「そう……良い匂いだものね」
「うん!」

 最後に残ったスープを飲み干して、ごちそうさま、と勢い良く立ち上がる。リヤンの服が、今までに見たことのないものだと気がつき、サテリットはひとつ瞬きをした。

「新しいお洋服?」
「うん、作ってもらったの!」

 リヤンがその場でくるりと回ると、膝丈のワンピースがふわりと広がった。薄いオレンジを基調とした花柄の生地に、白いセーラー襟とリボンが映えている。両手の指先でスカートの裾をつまみ、えへへ、とリヤンが笑う。

「可愛い?」
「ええ、似合ってるわ。春らしくて素敵」

 サテリットの率直な褒め言葉に、リヤンは照れくさそうに笑いながら、壁に掛けた外套を羽織った。

「あら……もう出るの?」
「うん、友達と約束してるの」
「そう」

 椅子を引いてそこに座りながら、行ってらっしゃい、と手を振る。リヤンは元気な「行ってきます」を返して、勢い良く玄関を飛び出していった。

「最近、なんか服に凝ってんな」

 シャルルがそんなことを言いながら、サテリットのぶんの朝食をキッチンから持ってくる。礼を言って受け取り、真っ白い湯気を立てているスープを吹いた。

「ま、楽しいみたいだから良いけどよ」
「良いことよね。美味しい食事と同じで、毎日楽しめる小さなものがあるのは、きっと……なにかの助けになると思う」
「そうだよな……」

 シャルルが頷いて、ふと真顔になる。

「リヤンが楽しく生きてくれればさ、それに越したことはないって、俺らの考えは――間違ってないよな。これで、良かったんだよな?」
「さあ、どうかしら」

 マグカップに口を付けて、サテリットは目を閉じる。

 シャルルが統一機関の人からもらったというデータチップの手順に沿って、サテリットたち三人は、リヤンから収穫祭以降の記憶を消した。今の彼女は、自分が野生児(ソヴァージュ)であることも、リゼが自分の兄であることも知らない。リゼは深い雪に足を取られて崖から落ちたことになり、リヤンはその場に居合わせなかったことになり、二人を取り囲んで罵った人々の存在は隠蔽された。

 真実と引き換えに、リヤンは笑顔を取り戻した。

 そして街の人々は、リゼを死に追いやったことの負い目から野生児(ソヴァージュ)の話題を出さなくなり、第43宿舎に対する有形無形の嫌がらせも途絶えた。リゼが死んだ悲しみは上書きできないが、見かけ上、サテリットたちは安寧を取り戻した。

 だが。

「不誠実なことをしたのは間違いないわ」
「なんだよ……お前らだって同意しただろ」
「ええ、今はこれが最善だったと思ってるけど――いつか、糾弾される日は来るかもしれないわ。でも、その時は、私もアンも一緒よ。貴方をひとりにはしないから」
「……おう、そっか」

 どこか安堵したような声で、シャルルが笑った。彼は隣の椅子を引いて座り、パンを指先でちぎりながら「実はさ」と呟くように語った。

「お前とアンのこと、聞いてんだけどよ」
「え――」

 シャルルなりに思い悩んで切り出したような口調と言葉回しで、サテリットは彼の言わんとしている話題を察する。

「やだ、知ってたの?」
「おう……ってか、あんだけお前のために頑張ってたら、まあ、言われなくても気付くだろって話だけどよ」
「私は気がつかなかったけど……」
「マジで言ってんのかよ。台風の目みたいなもんか……それともお前って、実は意外と鈍いのか?」
「――で、何の話よ」

 サテリットが片目を眇めると、ああ、と思い出したようにシャルルが笑った。

「お前、まだ返事してないんだろ」
「……ええ、そうだけど」
「お前らのことはお前らで何とかしろって思うんだけど、これはアンの口からは言えねぇと思うから、言うんだけどさ――リゼはさ、アンがお前のことを好きなのを、自分のことみたいに喜んでた」

 彼はひと息ついて、こちらを見る。

「収穫祭の後もな」
「……嘘よ」
「本当だっつの」
「どうして!」

 我を忘れて立ち上がりそうになり、サテリットは慌ててテーブルに手をついた。

「だって、リゼは……アンみたいに、誰かを好きになった人のせいで、あんな酷い目に遭ったのに」
「それは……なんつーか、順序が逆なんだろうな」
「逆?」
「リゼは多分、誰かの()()って感情が好きで、大切にしたい奴だったんだよ。アンも、顔も知らないあいつらの両親も、それを持ってたんだ。野生児(ソヴァージュ)じゃない俺たちと違って、あいつらは誰かの()()から生まれた。非正規児ってのは、確かにさ、烙印だったけど――」

 シャルルは言葉を区切って、小さく鼻を啜った。

「同時にあいつの誇りでもあったんだ」
「誇りだなんて……」

 にわかには信じ切れず、サテリットが服の袖を掴んで俯くと、まあ、とシャルルは身体を後ろに引いた。

「推測も入ってるけど――俺の覚えてるリゼは、そういうヤツだった。お前のなかのリゼだったら、どうだ」
「どうって」
「だからさ……あー、言葉って難しいな」

 自分の頭をじれったそうにかき回して、シャルルが目を細める。

「なんつぅか――好きって、すげぇ前向きでキラキラした感情だろ。リゼがさ、それを……ダメだなんて、あるべきじゃないなんて、言うか?」
「……どう、かしら」

 視線をシャルルから窓の外に映して、サテリットは初春に染まる草むらを眺めた。リヤンのワンピースの柄によく似たスプリング・スターフラワーが咲き誇り、朝日のなかで白く光っている。

 装いを美しく彩ること。

 暖かくて味わい豊かな毎日の食事。

 季節ごとに移りかわるバレンシアの景色。

 リゼはそんな、小さな()()が積み重なって作られる毎日を、大切にする人だった――と思う。色や味や光を愛するのも、特定の誰かひとりを異性として好きになるのも、リゼにとっては同じカテゴリの()()だったのかもしれない。

 サテリットが考えているのとは、まったく逆のことだった。

「本当に……そうなら」

 サテリットは目をきつく閉じて、吹雪に閉ざされていたあの日、療養所の病室でアンクルと話したときのことを思い出す。

「私……アンに、すごく見当違いなことを言ったのかもしれない……ねえ、シャルル、どう思う? 私、応えたほうが良いのかしら」
「あ? それは知らねぇよ」

 パンで頬を膨らませたシャルルが、片手をひらひらと振った。

「俺は、どうせリゼのことが引っかかってんだろうなって思ったから、今の話しただけで――後は勝手にやれよ。お前らの問題だろ」
「……そうね」
「おう」

 軽い口調で応じて、シャルルが笑う。使い終えた食器を重ねてキッチンに戻る背中を見送りながら、サテリットは自分のなかにある感情について考える。

 アンクルのことを好きかと問われれば、好きだ。

 宿舎の仲間と出会うよりもさらに昔からの友人で、気弱なところはあるけれど優しい人間だ。だけど、彼がサテリットのために杖を作ってくれたときのように、自分の時間を湯水のように注ぎ込んでまで、彼の役に立ちたいかと言うと――そこまでではない。

 嫌いではないけれど、彼と同じような感情は、おそらく持てていない。与えられただけのものを、返すことはできない。

「やっぱり……断った方が良いのかしら」

 宿舎を出て、ゆっくり坂を下りながら、サテリットは溜めた息を吐き出した。視界を覆う木立を抜けて、崖沿いの道に辿りつき、そこで少し立ち止まる。そこは、バレンシアでいちばん見晴らしの良い場所だ。条件が良ければ隣町のスーチェンが見えるのだが、残念なことに空気が霞んでいた。隣町と言っても、一生をこの街で暮らすことが定められているサテリットにとっては、空に浮かぶ天体と同じくらい遠い場所だ。

 ふぅ、と息を吐く。

「今年はもう、無理かもしれないわね」

 呟いて視線を落とすと、誰が供えたのか、残雪に埋もれて色鮮やかな花束が置かれているのに気がついた。澄み切った夕焼けの日に、ここから落ちたリゼたちの目には、もしかしたら隣街が映っていたかもしれない。

 そんな不謹慎なことを思い浮かべるが、すぐに、そんなわけがないと気がついて、サテリットは小さく首を振った。

 手が届かないほど遠くの街なんて、リゼは見ようともしなかっただろう。はるか遠くにあるものに憧れるような人ではなかった。そばにあるものを、取りこぼさないように包み込む人だった。

 その彼はもういない。

 だから、リゼの代わりにサテリットたちが、宿舎の穏やかな暮らしを守っていくのだ。見たこともないラピスの他の街や、さらに外側の世界に憧れたこともあった。けれど今は、手に届く範囲のものを守って、もう持っているものを大切にして生きていくしかない。

「……アンと話そう」

 そう心に決めて、サテリットは遠くの景色に背を向けた。アンクルがサテリットに向けてくれただけの好意を、彼に返せるかは分からない。だけど、野生児(ソヴァージュ)とかそういう都合を抜きにしたとき、彼が自分を好きだと言ってくれたのは、その暖かくて優しい感情の先にサテリットを置いてくれたのは――

「ありがとう……って言わないと」

 ――きっと、紛れもなく、嬉しいことだった。

 ***

 モータの単調で低い作動音が、ぶぅんと耳の奥で鳴っている。旋盤の向こうに置いた道具に手を伸ばそうとすると、おい――という怒号とともに腕がなぎ払われ、アンクルは勢いを逃しきれずに壁に背中を打った。

「ぼーっとすんな、おい!」
「……え、あれ」
「あれ、じゃあない。お前いま、袖、巻き込まれかけただろうが!」

 工房での師匠にあたる男性がつかつかと歩み寄ってきて、アンクルを険しい表情で見下ろした。そこで我に返って、アンクルは作業場の様子を改めて見直す。工房に入って最初に教えられたはずの安全管理すら、徹底できていなかった。

「お前なぁ……」

 深々と息を吐いて、鋭い目がこちらを睨む。

「やる気がないなら、帰るか」
「いえ――すみません。気をつけます」
「気をつけるのは、当たり前だ。良い機会だから言うが、アンクル、最近のお前は本当に気が散って――」

 唇をぎゅっと横に引いて、アンクルは師匠の叱責を粛々と聞いた。彼の言い方は厳しいが、決して意地悪で言っているのではない。工房でひとつ注意を怠れば、簡単に大怪我をする。いくら私生活のほうに事情があっても、気を抜いていい理由にはならない。

「……気をつけます」

 情けなさで涙ぐみながらも深く頭を下げると、師匠は少し表情を緩めて、アンクルの肩を励ますように叩いた。

「色々あったのは、俺も聞いてる……だから、やっぱり今日は帰れ。お前のぶんの作業は、代わりにやっといてやる」
「いえ」

 拳をぎゅっと握って、アンクルは顔を上げた。

「やらせてください」
「ダメだ」
「でもっ――」
「今のお前に、旋盤を扱う権利はない。どうしても残るなら、機械室からは出ろ」

 そう言って部屋を追い出される。

 日陰の道をとぼとぼと歩きながら、涙のにじんだ目元を拭いながら木工室の扉を開けると、場違いなほど明るい声が聞こえた。

「あ、アンだ!」
「……リヤン」

 年上の職人たちに囲まれていたリヤンが、こちらに大きく手を振ってみせる。慌てて後ろ手に扉を閉め、アンクルは彼女に駆け寄った。

「どうしたの。なにか直すものあったっけ」
「ううん。ねえ、見てこれ!」

 そう言ってリヤンがこちらに差し出したのは、革紐を編んで作ったブレスレットだった。

 事態が飲み込めず、アンクルは周囲の大人を見回す。

「どういうことですか?」
「うん、最近ね、学舎の子たちがたまに遊びに来て……ネックレスとかイヤリングとか、そういうのの作り方教えて欲しいって言うからさ、私たちも、手が空いたときに相手してるのよ」
「知らなかった。すみません、面倒見てもらったみたいで」
「いや、まぁその……罪滅ぼし、というか」

 リヤンの手前だからだろう、彼女はばつが悪そうに言葉を濁す。リゼが死んで以降、手のひらを返して優しくなった彼らに思うところはあるものの、アンクルはそれ以上問い詰めずに別の作業を始めた。

 陽が傾くころ、リヤンが声を掛けてきた。

「アン、あたし、そろそろ帰るね」
「あ、うん……暗くなるから、それが良いね」

 窓の外をちらりと見て応じると、リヤンがやけにそわそわとしているのに気がつく。アンクルが首を傾げたとき、彼女は後ろに回していた手を出して「あのね」と明るく笑った。

「これ、アンにあげる」

 リヤンが結んでいた手を開くと、細い真鍮の板を丸めて繋げたものが乗っていた。指先でつまみ上げて目の前にかざし、それが何であるか気がついた。

「えっと……耳飾り?」
「うん、作ったの!」

 楽しげに笑うリヤンの肩の向こうで、職人たちがこちらを見て頷く。

「教えてもらったんだ」
「良いの? 僕がもらって」
「だってこれ、アンのために作ったんだもん。今日のアン、なんか元気ないから」

 こともなげに言って、リヤンはふと心配そうに首を傾げた。

「要らない?」
「――ううん、そんなことない。ありがとう」
「良かったぁ」

 ぱっと笑って、踊るように楽しげにリヤンが工房を出ていく。彼女のくれた耳飾りは、手作りらしく少し歪んでいるが、リヤンが自分のことを思って作ってくれたのが嬉しかった。さっそく付けてみようとして、ふと気がつく。

「あ、これ……ピアスだ」
「おう、どうした?」

 リヤンの面倒を見てくれたらしい職人が、こちらにやってくる。彼はピアスとアンクルを見比べて、ああ、と眉をひそめた。

「そっか……開けてねぇか、穴」
「はい」
「気づかなくて悪いな。それ、イヤリングに変えてやるよ」

 ほら、と言って彼がこちらに手を差し出すが、アンクルは「ありがとうございます」と言いつつも首を振った。

「でも、リヤンが作ってくれたので……手を加えたくない。このまま、使います」
「使うって、お前……」

 彼は驚いたように肩をすくめたが、分かった、と頷いて持ち場に戻っていった。
 
 ***

 空が藍色に沈むころ、アンクルは作業を終えて立ち上がる。先輩の職人たちはもう帰っていて、アンクルが最後だった。外套を羽織っていて、リヤンからもらったピアスをポケットに入れたとき、そうだ――と思いつく。工房の道具入れを探ると、記憶通り、ピアスホールを開けるためのニードルを見つけた。ケースから出して、針の先端を間近で観察する。

「……うわ、怖いな」

 身体に穴を開ける道具だから当然だが、想像以上の鋭利さに、アンクルは思わず身をすくめる。ひとつ首を振って立ち上がり、工房に備え付けの洗面台に向かう。鏡を見ると、驚くほど疲れた表情の自分がそこに映っていた。これではリヤンに心配されるのも当然だ――と溜息を吐き、右の耳たぶに針先を合わせた。

 そのまま一息に押し込む。

 痛みに目を細めつつもどうにか貫通させて、ピアスをぶら下げたところで、指先が真っ赤に染まっていることに気がついた。

「わっ――と、血が」

 鮮やかな赤がぽたぽたと首筋に伝う。冷やすものを探したが見つからず、耳を抑えながら立ち上がったところで、まだ溶け残っている雪が目に映った。ハンカチに包めば冷やすのに使えるかも、と立ち上がって外に向かう。

 空は藍色だった。

 月の浮かぶ角度は、崖下でリゼたちを見つけたあの日の記憶によく似ていた。だけど、まだ雪深かったあの頃とは違って、季節は確実に春になりつつある。地面に膝をつき、積雪を素手で掬い上げると、鮮血が雪に落ちた。

 あの日の黒っぽい血よりも鮮やかな赤。

 その色の違いが、そのまま生きている自分と死んでしまった彼の差のように感じられて、行き場のない悲しみが胸を押しつぶす。熱くなった頬をいくつも涙が伝い、残雪に飲み込まれていった。

「リゼ……」

 ぼろぼろと涙をこぼしながら、それでもアンクルは目を見開いた。

 最後まで第43宿舎の住人たちが抱えた()()を守ろうとした、彼はもういない。彼の祈りを引き継いで、明日も明後日もその次も穏やかな暮らしが続くよう、まず誰よりも先に、アンクルが頑張らないといけない。

「僕が、宿長なんだから」

 じわりと滲むように痛む耳を抑えて、アンクルは立ち上がる。外套を羽織らずに出てきたせいで冷えてしまった腕を擦ると、林道の向こうから、不規則な足音が近づいてくることに気がついた。

「アン、まだいたのね」

 図書館からの帰りなのか、門の向こうからサテリットが顔を出す。杖で身体を支えながらこちらに歩いてきた彼女は、アンクルを見てぎょっとしたように目を見開いた。

「どうしたの、その血」
「あ、えっと……リヤンが今日、このピアスをくれたから、付けられるようにって」
「そのために穴を開けたの?」

 心なしか、呆れのにじんだ表情で言われる。

「ずいぶん思い切ったことしたのね」
「でも、リヤンがせっかく作ってくれたから、このまま使いたくて」
「そう……」

 頷いたサテリットが、口元に淡い笑みを浮かべた。

「似合ってると思うわ」
「――ありがとう」

 月の白い光に照らされた頬が、やけに眩しく見えて目を逸らす。じゃあ、と会話を切り上げて工房に戻ろうとすると、後ろから手首を掴まれる。

「待って、アン」

 静かな泉のように澄んだ双眸が、まっすぐアンクルを見つめていた。

「話したいことがあるの。ねえ、まだ……私のこと、好きでいてくれてる?」



 リゼの記憶 了
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登場人物紹介

リュンヌ・バレンシア(ルナ)……「ラピスの再生論」の主人公。統一機関の研修生。事なかれ主義で厭世的、消極的でごく少数の人間としか関わりを持とうとしないが物語の中で次第に変化していく。本を読むのが好きで、抜群の記憶力がある。長い三つ編みと月を象ったイヤリングが特徴。名前の後につく「バレンシア」は、ラピス七都のひとつであるバレンシアで幼少期を送ったことを意味する。登場時は19歳、身長160cm。chapitre1から登場。

ソレイユ・バレンシア(ソル)……統一機関の研修生。リュンヌ(ルナ)の相方で幼馴染。ルナとは対照的に社交的で、どんな相手とも親しくなることができ、人間関係を大切にする。利他的で、時折、身の危険を顧みない行動を取る。明るいオレンジの髪と太陽を象ったイヤリングが特徴。登場時は19歳、身長160cm。chapitre1から登場。

カノン・スーチェン……統一機関の研修生で軍部所属。与えられた自分の「役割」に忠実であり、向学心も高いが、人に話しかけるときの態度から誤解されがち。登場時は19歳、身長187cm。chapitre1から登場。

アルシュ・ラ・ロシェル……統一機関の研修生で政治部所属。リュンヌの友人で同室のルームメイト。気が弱く様々なことで悩みがちだが、優しい性格と芯の強さを兼ね備えている。登場時は19歳、身長164cm。chapitre3から登場。

ティア・フィラデルフィア……とある朝、突然統一機関のカフェテリアに現れた謎の少年。ラピスの名簿に記録されておらず、人々の話す言葉を理解できない。登場時は10歳前後、身長130cm程度。chapitre1から登場。

サジェス・ヴォルシスキー……かつて統一機関の幹部候補生だったが、今の立場は不明。リュンヌたちの前に現れたときはゼロという名で呼ばれていた。赤いバンダナで首元を隠している。登場時は21歳、身長172cm。chapitre11から登場。

ラム・サン・パウロ……統一機関の研修生を管理する立場。かつて幹部候補生だったが現在は研修生の指導にあたっており、厳格だが褒めるときは褒める指導者。登場時は44歳、身長167cm。chapitre3から登場。

エリザ……かつてラ・ロシェルにいた女性。素性は不明だが「役割のない世界」からやってきたという。リュンヌと話すのを好み、よく図書館で彼女と語らっていた。笑顔が印象的。登場時は32歳、身長155cm。chapitre9から登場。

カシェ・ハイデラバード……統一機関政治部所属の重役幹部。有能で敏腕と噂されるがその姿を知る者は多くない。見る者を威圧する空気をまとっている。ラムとは古い知り合い。登場時は44歳、身長169cm。chapitre12から登場。

リヤン・バレンシア……バレンシア第43宿舎の住人。宿舎の中で最年少。年上に囲まれているためか無邪気な性格。登場時は17歳、身長152cm。chapitre31から登場。

アンクル・バレンシア……バレンシア第43宿舎の宿長。道具の制作や修繕を自分の「役割」に持つ、穏やかな雰囲気の青年。宿舎の平穏な生活を愛する。登場時は21歳、身長168cm。chapitre33から登場。

サテリット・バレンシア……第43宿舎の副宿長。アンクルの相方。バレンシア公立図書館の司書をしている。とある理由により左足が不自由。あまり表に現れないが好奇心旺盛。登場時は21歳、身長155cm。chapitre33から登場。

シャルル・バレンシア……第43宿舎の住人。普段はリヤンと共に農業に従事し、宿舎では毎食の調理を主に担当する料理長。感情豊かな性格であり守るべきもののために奔走する。登場時は21歳、身長176cm。chapitre33から登場。

リゼ・バレンシア……かつて第43宿舎に住んでいた少年。登場時は16歳、身長161cm。chapitre35から登場。

フルル・スーチェン……MDP総責任者の護衛及び身の回りの世話を担当する少女。統一機関の軍部出身。気が強いが優しく、MDP総責任者に強い信頼を寄せている。登場時は17歳、身長165cm。chapitre39から登場。

リジェラ……ラ・ロシェルで発見されたハイバネイターズの一味。登場時は22歳、身長157cm。chapitre54から登場。

アックス・サン・パウロ……コラル・ルミエールの一員。温厚で怒らない性格だが、それゆえ周囲に振り回されがち。登場時は20歳、身長185cm。chapitre54から登場。

ロマン・サン・パウロ……コラル・ルミエールの一員。気難しく直情的だが、自分のことを認めてくれた相手には素直に接する。登場時は15歳、身長165cm。chapitre54から登場。

ルージュ・サン・パウロ……コラル・ルミエールの一員。本音を包み隠す性格。面白そうなことには自分から向かっていく。登場時は16歳、身長149cm。chapitre54から登場。

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