chapitre107. 世界の終点
文字数 4,933文字
「……断る」
ロンガは身体をよじって、シェルの腕を強引に払った。数歩、窓際に下がって、シェルの無表情を睨み付ける。
「過去に戻って、死んだ人や燃えた技術をなかったことにして、だから何だって言うんだ。今ここにいる、この世界が私たちの生きてきたラピスだ。違う場所でやり直したって、意味なんてない――」
「……そう」
「と、私は思ってる」
シェルの強い視線に押されて、思わず弱気な口調になる。しばらく視線の押し合いが続いたが、シェルが根負けしたように笑顔を浮かべて「分かった」と呟いた。朝陽をまっすぐに受け止めて、濡れた瞳が光る。
「そしたら、これでお別れだ」
瞬きした拍子に、シェルの両眼から何粒もの涙がこぼれ落ちた。シェルがいつも右耳から下げている、太陽を象ったイヤリングを外して、名残を惜しむように握りしめる。
「い、嫌だ。行かないで、ソル」
「ごめん。でも、決めたんだ」
「どうして、こんなことを。ビヨンドに何か囁かれたのか。そんな後ろ向きなことを考えるなんて、ソルじゃない……」
「そうだね、ぼくじゃないんだよ」
彼はゆっくりと左右に首を振りながらロンガに近づき、手を伸ばして、太陽のイヤリングをロンガの右耳に付けた。
「他の誰の意志でもない。ぼくはぼく自身の意志で、ルナを騙してここまで連れてきて、過去に戻ろうとしている。誠実で前向きな人間が
「分かった、それでも良いから! お願いだ、このラピスを捨てるなんて言わないでくれ」
「思い出して。出生管理施設が燃えたんだってば」
シェルは小さく溜息をついて、リュックサックを背負い直した。ロンガをここに引き上げるために使ったものだろうか、リュックサックの金具に繋げられていたロープを外して落とす。カラビナが床に跳ねて、固い金属音が響いた。
「あれがない限り、ぼくたち人類の余命はそう長くない。たとえ、今の世界の全部を捨てたって、取り戻す価値がある」
「……未練とか、ないのか」
「あるよ。ルナが来ないなら、余計にね。本当は、ルナもこの世界に見切りを付けてくれないかなって思って、諦めて欲しかったんだけど」
彼は悲しげに肩をすくめて、でもダメだったね、と笑った。
「たくさん友達ができたんだね、ルナ。この場所を捨てられないくらいに。それは、とっても良いことだと、ぼくは思う」
「それがどうしてか、分かるか。ソルが、私を、ここから連れ出してくれたからだろう。私の世界を広げてくれたからだろう……」
「そんなこと言ってたね。誰かと話してたとき」
「誰か、って」
中間層で、取り残された宿舎の仲間たちを助けたとき、スロープが動くまでの待ち時間に話していたことだった。シェルは人の顔や名前を覚えるのが得意な方なのだ。少なからず彼らと会話を交わしたのに、名前を覚えていない理由が分からない。
「なんで覚えてない。彼の名前は――」
「言わないで。聞きたくない」
「……わざと、覚えないようにしたのか」
少しでも未練を残さないように。
ロンガが唖然としながら問い返すと、そうだね、とシェルは頷いた。
「ぼくの世界がこれ以上、広がらないようにしないといけなかった。グラス・ノワールの仲間が死んで、地下での友達もサジェス君もムシュ・ラムも死んで、削り落とされた世界は……ルナひとりいれば良いかな、って思えるくらいまで収束したのに」
ルナ、来てくれないんだもの。
口元がそう動いて、震える頬に涙が伝い落ちた。ロンガは彼に近づいたが、腕が縛られていて、どうしようもなく辛そうな彼の身体を抱きしめることすら叶わない。目の前で泣いているのに、その苦しみの一厘すら肩代わりすることはできず、彼は全てを捨てようとしている。
シェルを苦しめたくないのなら、彼と一緒に過去に行くしかないと言うのか。ここで培ったものの全てを捨てて、まだ傷ついていないラピスでやり直すしかないのか。
「……違うだろう」
ロンガは歯を食いしばって、ずっと友人だったはずで、これからも友人でいて欲しい人の顔をぐっと睨んだ。
「ソル、絶対に後悔するぞ。過去に戻ったら、永遠にこの未来には辿りつけない。きっとその世界にも私はいるけどな。いるけど、ソルが知っている私じゃない」
「……止めてよ」
「アルシュもいるだろうな。でも、
「止めてってば」
シェルは床に膝を付いて、手で自分の耳を塞いだ。目を閉じて激しく首を振る、強い拒絶がそこにあった。だが何としても彼に言葉を届けたくて、ロンガは必死に腹から声を出した。
「世界が広がらないようにしたって? 広がったのに気がついてないだけだろう! 宿舎の仲間たちだって、コラル・ルミエールの人やリジェラだって、ソルのことを知ってる。新しく
「止めて!」
シェルが目を見開く。
それを見たロンガは、反射的に上半身を引いた。
長い睫毛の縁取る、その中は。
金属のように光を跳ね返し、ガラスのように透明度があり、オパールのような遊色を持つ――ロンガの右眼と同じ色だった。
赤茶色だったはずのシェルの両眼が、超越的存在ビヨンドの干渉を示す白銀色に輝いている。ロンガがそう気がついた次の瞬間に、彼の背後にある時間転送装置から、白い光が弾けて膨らんだ。
「ソル、後ろ!」
光球はまたたく間に広がり、ほとんど動きも取れないままにロンガとシェルは呑み込まれる。
足元にあったはずの地面を感じなくなり、浮遊した指先に、辛うじて何かが触れる。ルナ、と呼んでいる声を頼りに、ロンガは壁か何かを蹴り飛ばし、無我夢中でそちらに向かった。後ろに拘束されている腕を力尽くで前に持ってくると、肩の辺りでいやな衝撃が弾ける。それすら構わずに、指先に触れたものを彼に繋ぐ。
白い世界。
何も見えないまま、そこにある彼の体温だけを感じた。永遠にも思われた一瞬だけ、頬と頬が触れ合って、その熱と感触が脳に刻み込まれる。それから両足を身体に引きつけて、窓の方角へ、彼の身体を思いっきり蹴飛ばした。
反動でロンガは後方に飛んでいき、目も眩むほどの白に飲み込まれる。身体にハーネスが食い込むが、その感触も薄れていき、やがて、全ては一点に収束した。
*
早朝の空。
冬の澄んだ冷たい空気を切って、手足が振り子のように揺れる。終わりかけの朝焼けを両眼に映した、永遠にも思われた一瞬、シェルはここにいる理由や、自分の存在、そのほか全てを忘れた。
太陽に照らされたラ・ロシェルの上空に、逆さまに浮かんでいる。風を含んで広がった髪が、ゆっくりと揺れ動く。シェルは首を捻って、自分が飛んできた方向に視線を向けた。
白い光球が、塔の窓からせり出して広がっている。
「
その名前を叫んだ瞬間、背負っていたリュックサックがぐっと引っ張られて、凄まじい勢いで塔の壁が接近する。シェルはどうにか身体を反転させて、両足で壁を蹴り、叩きつけられて肉塊になる未来を回避した。片方の足首に嫌な痛みが走ったが、動けないほどではない。リュックサックにいつの間にか繋げられていたハーネスをベルトに繋ぎ替え、ロープを伝って登っていく。
ふと、嫌な音が耳に届いた。
その発信源を探すと、自分のポケットだった。ハイバネイト・シティで借りてきた
その次に見えた文字を見て、シェルは目を疑った。
「遷移性……?」
ほんの僅かだけ息が止まり、それから大急ぎでロープを握り直した。
「お願い!」
祈りながら叫び、塔の中央目掛けて発砲する。
光球がまるでガラスのように砕けて、四方八方にまばゆい光が飛び散った。細かい欠片から顔を庇った瞬間、リュックサックに支えられていた身体が落下する。壁の微細なへこみに何とか指を掛けて、シェルは壁に貼り付いた。荒い息をしながら、垂直の壁を這い上がり、どうにか窓から部屋に倒れ込む。身体の前面が床に叩きつけられるが、構わずに起き上がって、そこにいた人の名前を呼ぶ。
「ルナ――」
そこには誰もいなかった。
彼女の名前を叫びながら、塔の回廊を一周する。それでも彼女はどこにもいなくて、シェルは床に膝をつき、さっきまでイヤリングを下げていたはずの右耳に触れる。涙さえ出なかった。彼女がどこに行ってしまったのかは分からないが、ここではない時空に行ってしまったのは、問うまでもなく明らかだった。
「なんで……?」
背後を振り返り、一方の水晶板が砕け散った時間転送装置を見る。まだ起動していないはずだったのに、突然あの白い光が現れたのだ。床を睨みながら考えると、ふと、とある男の言葉を思い出した。
『白銀の目を授ける、その存在は、人間の祈りが好物のようだ』
祈り。
そうだ、あの瞬間、自分は確かに強く祈った。いや、祈りと呼ぶにはあまりにも醜い、後悔とか執念みたいなものだったかもしれないけど、とにかく願ったのだ。何もかも全て手に入れたい、大切な友人も死んでしまった人も失われた技術も――全部が欲しいと願った。
「ぼくが、
言葉にすればするほど、その仮説は確からしいように思われた。自分が巻き起こした時空間異常に巻き込まれて、いつかのエリザが過去から未来に連れ去られたように、大切な友人はどこかに行ってしまった。時間転送装置は自分の手で壊したから、一縷の望みに賭けて彼女を探すことすら叶わない。
全身から力が抜ける。
死んでしまいたい、と思った。
そのまま床に身体を預けて、もう何も考えることができず、シェルは横に傾いた部屋の景色を瞳に映した。冷え切った心臓がまだ脈を刻んでいるのが邪魔だった。いっそ塔の窓から地面に向けて飛んでしまおうか、と身体をずるずる引きずって、彼女が眠っていた部屋に向かう。
窓の縁に腰掛けて下を見下ろすと、不自然なものを見た。ラ・ロシェルの街並みにしては何だか変だった。霞んだ目をこすると、街だったはずの場所が全部、白い光に包まれているのが分かった。
何だろう、あれ、と呟く。
ラ・ロシェル全域が
「あんな広がり方、するんだっけ……」
シェルが首を捻ると、窓の桟がぐらりと傾いた。落ちても良いつもりだったのに、反射的に窓に捕まってしまう。バランスを崩して部屋の中に倒れると、塔の全体が傾き始めているのが分かった。
生きないと。
死にたいと思っていたくせに、何の脈絡もなく、そう直感した。シェルはリュックサックを引っ掴み、傾いた床を滑り落ちそうになりながら、中央の部屋へ向かっていった。
Ⅷ 未来は塵となって 了