地下/見えぬ光輝
文字数 8,597文字
知らないというのは恐ろしく――しかしながら、無知のなかを彷徨い歩く当人にとっては、それは一種の救いなのだ。ゆえに情報は時として劇物である。投与することで拒絶反応や中毒症状を引き起こし、そして必ずや後遺症を置いて去って行く。すなわち、知らなかった頃には戻れないという、不可逆の変化をもたらす。
――だが。
知ることによって苦悩するような情報であれば、それは、知らなかった今までの方が間違いだったのだ。実体を持たない手によって瞳を覆いかくされ、良きも悪しきも遮断されている状況は、本人にとっては安寧であるだろう。茫漠とした平穏に影を潜ませて、彼らをじわじわと削って貪る、捕食者のことさえ知らずにいられれば――の話だが。
ハイバネイト・シティは、甘い耄碌の闇に沈んでいる。
そしてサジェスは、地底を覆う闇をすべて取り払うつもりでいた。あたかも、地平から上る太陽が、街を鮮やかに描き直すように。曖昧に輪郭を溶かしているものの全てを明らめ、明瞭な論理でもって問い直す。だが、地上に満ちている光を地下の深層まで導くことは、いくらサジェスが総権を保持していても難しい。
あるのは――言葉、ただそれだけだった。
***
ある日、リジェラは、いつもとは違う案内に導かれて通路を歩いていた。
それがいつだったのか、彼女には判然としない。というのも「ある日」という表現は慣習的に存在しているが、実際のところ地底の民たちは、太陽を基準にして時間を区切ることがないのである。日付もなければ季節もない、ただ「眠る時間」と「働く時間」が不規則に入れ替わるだけ。ゆえに時間の流れる速度すら曖昧で、乱雑に切り揃えた髪が伸びてくることで、ようやく時間の経過を少しだけ感じるのだ。
地上の暦では、十二月半ばの夕刻だった、その日。
案内に沿って辿りついたのは、円形の大きな部屋だった。すでに十数名が集まり、所在なさげに立ったり、足を伸ばして床に座ったりしている。なだらかに歪曲した壁にいくつもの扉が並んでいて、数秒に一度それが開いては誰かが出てきた。
「――リジェラ」
名前を呼ばれて彼女は振り返る。見ると、何人かの顔見知りが壁ぎわに集まって、こちらに手招きをしていた。リジェラは踵を返し、薄暗い部屋を横切ってそちらに向かいながら、彼らの名前を頭で反復した。手前に立っているのはグライン。その奥で膝を抱えて座っているのはプルーネ。壁にもたれて腕を組んでいるのはヴィルダ。いずれも、以前から休憩室などですれ違う顔見知りだったが、最近になって、リジェラは彼らへの認識に変化を感じていた。
顔が、よく見えるのだ。
グラインは切れ長の目をしていて、目尻側の切れ込みが深い。プルーネはいつも唇をつんと尖らせている。ヴィルダはまっすぐ引かれた釣り眉で、外側だけ僅かに弧を描いている。以前から顔立ちは変わりないはずなのに、どれも最近になって気がついたことだった。
顔だけではなく、性格も、各々の差異がよく分かるようになった。
陽気だがどこか偏屈なグライン、内気でこだわりが強いプルーネ、いつも物静かで考え込む気質のヴィルダ。別々の人間ゆえに、顔も性格も全く異なるのだ――という、考えてみれば当然にも思える事実に、リジェラは初めて気がついたのだ。
「みんな集まるなんて珍しい」
リジェラが彼らのもとに歩み寄って言うと「ね」とプルーネが同意を示す。
「なんか変なんだ。ずいぶん前に来たのに、何の指示もされなくて」
「前って……どのくらい?」
「さあ。でも、だいぶお腹が空いてきた」
不満げに言って、彼女は抱えた膝をさらに引き寄せた。飢餓感の度合いにしか時間の尺度を持たないのは、プルーネが地底の民であるからだが、しかし、かなり長いあいだ待たされているのは確かなようだ。
「どうしたんだろう」
「かなり大勢集めるみたいね。だからじゃない?」
首を傾げたリジェラに、ヴィルダがちらりと視線を投げて応じた。彼女の、眉と同様にきりりと吊り上がった眼差しが、円形の部屋をゆっくりと一望する。リジェラも追随して部屋の様子を眺めた。たしかに部屋に集まった人数は多い。お互いに少しずつ譲らなければ居場所がないほどだ。ざっと数えて百人といったところだろうか。
「こんなに集めて何をするんだろう」
「私には『声』の考えてることは分からないわ。前に貯水槽の補修をしたときは、このくらい大勢だった気がするけど――」
ヴィルダが壁に深くもたれた時だった。
ばち、と上から音がした。
配管を溶接するときに火花が飛ぶが、それに似た音だった。つられて視線を上げると、天井に手のひら大のパネルが張り付けられている。パネルの片隅がチカチカと赤く点灯していて、音を発したのもこれのようだ。見慣れない形状だが、いつも「声」が発せられる機器に似ていたので、やっと指示が出るのかな――とリジェラは天を仰いだ。
だが。
「――地底の諸君」
発せられたのは、掠れた男の声だった。
男の声は抑制こそされているが、とても澄明とは言えなかった。いつもの「声」とは比べるべくもない、ざらついて不均質、そのうえノイズ混じりの声。ほとんど濁声に等しい声を耳にして、リジェラは軽く目を見開いた。
――この、声。
「さて」
塵ひとつさえ凍りついたように動かない静謐なコアルームで、サジェスは地底の民に向け、ゆっくりと息を吸った。彼らを呼び集めた円形の部屋まで、隔てることおよそ十階層。壁に取り付けられたカメラ越しに、不安げな顔ぶれを見回して口を開く。
「集まってもらったところ申し訳ないが、私は貴方がたに仕事を頼む気はない。今日、こうして貴方がたを招いたのは、他でもない。貴方がたに、今まで働いていた時間を使い、考えて欲しいことがあるからだ」
「考えて欲しい、こと……?」
我知らずごくりと唾を呑んだリジェラの緊張を知ってか知らずか、サジェスは僅かに柔和な笑みを浮かべて――そして、次の瞬間。
冷え切った水が突いた瞬間凍るように、サジェスの気配は凍てついた。コアルームの片隅で彼の演説を見守っていたティアは、一瞬で塗り変わり零下と化した空気に、思わず腕の皮膚を粟立たせる。ひやり、と冷たいものが背筋を落ちた。
この頃、ティアにとってサジェスは、尊敬できる大人であり、同時に頼れる保護者だった。サジェスの意志の強さ、思考の淀みなさには敬服している。一方、孤独な異邦人であるティアにとって、自分と同じ言葉を喋ることのできるサジェスは、気を張らずにいられる唯一の相手でもあった。年の離れた兄のようだ――と、もしもティアが家族という絆の形態を知っていたのなら、きっとそう感じたのだろう。
――だが。
この瞬間、サジェスの人間的と呼べる部分、あるいは脆さや柔らかさ、それらの全てが遮断された――ように、ティアには感じられた。得体の知れない暗さが、透明なヴェールとなって彼を包んだのを感じた。決して黒一色ではない、むしろ色鮮やかで、しかしながら底の見えない闇が渦巻いていた。
どうしたんですか、と聞きたくてたまらなかった。
だが、地底の民に向けて話している間は決して声を発さぬように――と、ティアは事前に言い含められていた。ゆえに話しかけることも叶わず、ただティアは、どうしようもない居心地の悪さのなかで黙って座っているしかなかった。
サジェスは問う。
「貴方がたは、何故、ここに集まった?」
数秒の静寂。
コアルームも、そして上層に集まったリジェラたちも、完全に静まりかえった。暗い天井を見上げて、リジェラは口を噤んだまま、ひとつ瞬きをした。掠れた男の声はこちらに語りかけているのに、自分とは違う人に向けて喋っているように現実味がなかった。それほど、彼の問いかけは、リジェラにとって意味不明だったのだ。
そして、
「――そんなことを問われても困る、と思っただろう」
リジェラの思惑を見透かしたような言葉、そして僅かな笑い。
「何故なら、貴方がたを招いたのは、他でもない私なのだから。貴方がたは命じられた通りに動いただけだ。しかし、では、改めて問いたい。――なぜ、貴方がたは命令に従わねばならないのか、考えたことはあるか?」
「……えっと……?」
「何の話なの、これ……」
リジェラが困惑の声をこぼすのに続いて、ヴィルダも眉間にしわを寄せた。命じられて呼び出されたのだから、当然、仕事の命令が下ると思っていた。たとえば「二層下の倉庫に行って荷物を運べ」であるとか「配水管に損傷があるから取り替えろ」だとか。どこに行って何をしたら良いか、それを教えてくれるのが「声」の役割だ。目的不明の問いかけを出して、それについて考えてみろ――という命令など、今までに聞いたこともない。
「……理由なんて、決まってる」
ぽつりと呟きが聞こえたので、リジェラはそちらに目を向ける。壁ぎわに座り込んだプルーネが、半分閉じた目を不満げに潤ませていた。
「仕事をしないとゴハンが食べられないからだよ。休憩室に行かないと、ゴハンがない。仕事を終わらせないと休憩室に行けない。だからじゃん。だから、私は、いつも急いで指示を終えるの……」
ぐす、と鼻を啜るプルーネの声には覇気がない。赤く腫れた目のふちからは、今にも涙が落ちそうだ。彼女がずっと蹲っているのは空腹のゆえなのか、と、リジェラは今更のように気がついた。
「だから……早く指示を頂戴よ。私、ずっと待ってるのに……」
「――そうか。それは、悪いことをした」
すると、意外なことに「声」は返事をよこした。
いや――会話の応酬をしているのだから返事があるのは当然なのだが、これに違和感を持つ程度には、リジェラたちは一方的に投げられる指示に慣れきっていた。
「話が終わればすぐに休憩室に案内するから、少しだけ待って欲しい。それで――話を続けるが、つまり食の乏しさが、プルーネ、貴女にとっての強制力になっているんだな。他はどうだろう。自分が、どうして指示に従っているのか、表現できる者はいるか?」
「……いい加減にしてよ」
今度はヴィルダが低い声で言った。
「従えって言うのはそっちじゃない。それ以外に理由なんてないでしょ!? だいたい『考えてみろ』って命令しておいて、よく、そんなことが言える」
「――そうだな」
サジェスは少し譲歩して頷いた。
「考えろ、と言い切ればそれは命令になる。ゆえに私は『考えて欲しい』と言っている。もしも貴方がたがこれを疎んじ、拒絶するのなら、私は引き止めない。何故ならば、これは強制力あるものではなく、単なるお願いだからだ」
「同じでしょうよ」
回線の向こうで、吐き捨てるように声が言う。
「こうやって逃げられない場所に集めて、上から話して。これが命令じゃなかったら何?」
「そうか――高圧的に聞こえたのであれば、それは私の責だな」
サジェスはいったん受け止めて「しかし」と翻す。
「命じられたから従う、というのは、理由になっていない。命じるのは他者であって貴女ではない。だが――ヴィルダ、貴女が動く理由は、常に貴女のなかにあるはずだ」
「……っ」
ヴィルダが息を呑んだのは、名前を呼ばれたからなのか、あるいはどこか挑発的な反論を受けたためだろうか。壁にもたれていたヴィルダは気色ばんで身体を起こしたが、後に言葉が続かない。ただ、何かを言いたげに視線を彷徨わせるのみ。
「ヴィルダ」
対する声はきわめて静かだった。
「貴女が、命じられれば従わなければならないと思っているのは何故か。これを改めて問うことが、貴女の利になると私は信じている。だからこそ、是非考えてみて欲しいんだ。無論――他の方にも、同様に」
それは、背筋ごと貫くような声だった。
丁寧さを保ちながら熱を含んだ口調に、リジェラはごくりと喉を動かす。同時に、どれくらい前なのか数えられない過去のこと、声の主と対面した時のことを思い出した。
彼は不思議な色の瞳を持っていた。
携行食の焦げ茶色に似ていて、だけどもっと明るい。彼はリジェラの髪が「麦色」だと教えてくれたが、それよりもっと鮮やかで。まるで内側から光っているようだった。一番似ているのは、通路の天井に揺れている裸電球だけど――あんなか細い光とは比にならないほど、目映くて堂々とした光。
「考えてみて欲しいんだ」
声を聞き、リジェラは思わず震えた。
あの光を、いま、回線の向こうに感じる。眩しすぎて直視に耐えない、浴びた者を灼き潰す光が、無数の光芒を伴ってありありと輝いている――そんな風に、リジェラには感じられた。何が光っているのかと問われれば答えるのは難しく、しかし、あまりにも直線的な何かが向けられている。これほど絶対的なものを、リジェラは光以外に知らなかった。
「あのっ――」
気がつけば、前に一歩踏み出している。
リジェラは痩せた胸もとに手を当て、まっすぐ顔を上げた。
「わたしっ……私、考えてみる。どうしてなのか」
「――そうか。ありがとう」
声はかすかに笑った。
そして「では」と声の調子を作り替え、
「私から話したいことは以上だ。また、待たせた方については改めて謝罪する――申し訳ないことをした。これからすぐ休憩室に案内するので、存分に食事を摂り、そして、ゆっくり休んで欲しい。では――また」
再会を匂わせる言葉とともに、放送が切れる。
あまりにも呆気ない幕切れだったので、まだ何か続きがあるのでは、という疑念に駆られたリジェラたちはしばらく様子を伺っていたが、本当にそれきりだった。ややあって部屋の片隅にランプが点灯し、スピーカーからは合成音声が流れ出して、休憩室への案内を始める。
「終わった……の?」
「本当、なんだったの、今の」
ヴィルダが腹立たしげに舌打ちをした。
「言いたいだけ言って、それっきりって。イライラする」
「なんでも良いよぅ、もう……」
言いながら、蹲っていたプルーネが壁に手を付いて立ち上がった。
「休憩室、行こう。今よりお腹空いたらもう動けなくなっちゃう」
「――そうね。大丈夫、プルーネ? 肩、貸そうか」
リジェラが申し出ると、プルーネは力なく頷いた。彼女の体重を支えながらリジェラは振り返り、グライン、と呼びかける。リジェラがこの部屋に来て以降、ずっとぼうっとしていた彼は、眠りから覚めたような顔で「え」と声を上げた。
きょろきょろとグラインが周りを見回す。
「あ、えっと? 何」
「何って、休憩室行こうよ」
ほら――と言って、リジェラは部屋の隅に灯るランプを指さす。円形の部屋に集まった人々は、戸惑う顔を浮かべつつも、ランプの方に向かって動き始めていた。
「もう、みんな向かい始めてる。私たちも早く行かないと」
「あ……うん。そうだな。行こう」
「なんか、今日、グライン……変だね。どうかしたの?」
「いや、俺、最近なぁ……なんか眩暈がするんだよ」
額を抑えて、グラインは顔をしかめた。
「歩いてるとグラって来るときがあって、寝ても治んねぇの。だから、よく分かんないけど、作業が休みになって良かったかも」
「眩暈か……」
リジェラは呟く。
地底の民は、たとえ体調を崩しても、よほど酷いものでない限り休みは与えられない。あるいは周囲に感染させてしまう類いの病気なら、居室に待機を命じられることもあったが。眩暈程度の軽い不調であれば、リジェラだって何度となく我慢してきた。
「それって休むほどのものかな」
思わず言うと「いや、でも」とグラインは口元を波打たせる。
「前に保管庫の補修したときにさぁ……フラフラってなって、通路から落ちかけたことあるんだよな。そん時は、何とか柵に掴まったけど、もし高い場所で作業してたら、今回こそ落ちてたかも」
「ああ、それは……たしかに危ないね」
「だろ?」
眉を吊り上げて協調してから、ふとグラインは目を細めた。
「……なんで俺たちは、落ちるかもって怯えながら、作業しないといけないんだろう?」
「グライン、貴方まで」
ヴィルダが刺々しい声を上げた。貫くような視線は、グラインだけでなく、先ほど「考えてみます」と宣言したリジェラにも向けられている。どうやら彼女は、先の一件に相当苛立っているようだった。
「あんなのの言うこと聞く必要ないわよ。命令に従わなくて良いって言うなら、考えろって命令だって聞いてやらない」
「命令じゃなくてお願いだって、言ってなかった?」
「何が違うのって話よ。あんなの屁理屈」
ふんと鼻を鳴らしてヴィルダは顔を逸らした。そしてリジェラの裏を回り込み、よろめいているプルーネを反対側からも支える。
「さっさと行きましょ。プルーネが泣き出す前に」
「――そうだね」
リジェラは頷いた。
お腹が空いたから食事を食べたい、というプルーネの主張は、この場にいる誰のものよりも理に適っていて常識的だった。飢えるのは辛い、という事実の他にも、無条件に受け入れられる主張はいくつかある。たとえば眠らないことは苦痛だ。排泄ができないことも、体調を崩して熱が出ることも同様に苦痛だ。
一方。飢えるから食事を食べなければならない、というプルーネの理屈に対して、命令だから従わなければならない――というヴィルダの主張は、考えてみればとても薄っぺらく感じられた。湯気が出そうなほど怒っている今のヴィルダには、とても言えないが。
「……ヴィルダ」
代わりにリジェラは、そっと言葉を投げかけた。
「あのね、私……あの声の人、会ったことある」
「え――えっと、スピーカー越しじゃなく実際に、ってこと?」
「うん、そうなの。それでね、私たち一人ひとりに名前があったら良いって教えてくれたの、あの人なんだ。名前があるの気に入ったって言ってたでしょ。だから、あんまり悪いように思わないであげて欲しいな……」
「……そう……」
ヴィルダは張りつめていた表情を数ミリだけ緩めた。彼女は数秒間、口のなかで何か言葉を転がしてから、先ほどまでよりわずかに柔らかい口調で「でもやっぱり屁理屈よ」と唇を尖らせた。
***
コアルームで、サジェスは銀色の細いバーを弾く。
スイッチが切り替えられて電流が遮断され、上層との通信が終了した。音声が途切れたことを確認してから、サジェスは振り返り、そこで石のように固まっていたティアに「もう喋って良いぞ」と笑いかけた。
手応えは、と少年に聞かれて、彼は苦笑する。
「大成功とは言わないが、まあ、最初はこんなものだろう。さっきのは結局、何人が聞いていたんだ?」
「えっと――」
ティアはパネルに視線を滑らせる。
「百三十六です。途中から部屋に来た人も含めて、ですけど」
「そうか……ひとり、同意を示してくれた者がいたな」
たしかリジェラという名だった、とサジェスは思い返す。地底の民が思い思いに与え合った名前は、ティアが抽出してデータ化してくれているが、リジェラはサジェスが直に名前を付けた相手でもあったので、データベースを参照するまでもなく覚えていた。
「たった一人だが、一パーセントに伝わったと考えれば上出来だ。ただ、まあ……なかなか手厳しいことも言われたな」
「手厳しいこと?」
「そうだ」
ティアの問いに頷いて、サジェスは目を細める。
「彼女……ヴィルダの言うとおり、俺は、命令に従うなと命じている。明らかに矛盾だ。既存の指示体系には従って欲しくないが、俺の理想には願わくば共鳴してほしいから、こんな矛盾が生まれるわけだ。そう――俺は、結局のところ、あの『声』から支配者の立場を簒奪しようとしているだけなのだな」
はは、とサジェスは自嘲めいた笑いをこぼす。
「既存のものを奪うのは簡単だ。そうではなく新しいものを作れたら良いのだが、これは非常に困難だな。せめて道を踏み誤らないよう、斃した相手と同じ道を辿らないよう、注意しておくくらいしかできない」
「でも……」
小さい拳をぐっと握って、ティアが呟く。
「サジェスさんは、地底の人たちのことを心配して動いてるじゃないですか。それって、地底の人たちを労働力としか思ってないのとは、まったく別のことです」
「果たしてそうだろうか?」
消灯したパネルの闇を見つめて、サジェスは問う。
「俺は、常々疑問に思う。労働の源として搾取することと、相手が不見識と決めつけて導こうとするのは、実は表裏一体ではないか、と。そもそも何かを教えるということ自体が、非常に傲慢かつ暴力的なものだろう、とも」
「じゃっ、じゃあ……あのっ」
「うん?」
「後悔してたりしますか。やっぱり止めておこう、とか、思ってたりするんですか……?」
「まさか。始めておいて放り投げるほど不義理なものもないだろう」
心配されていたのか、とサジェスは苦笑した。
事態の危うさを理解しておくのは、あくまでも戒めだ。サジェスは今、大きな岩に手を掛けてぐっと押し込もうとしているところ。巨大な岩ゆえに簡単には動かないが、他方、ひとたび転がり始めてしまえば簡単には止まらない。だからこそ、力を掛ける方角をしっかり見定めておく必要があった。
「絶対に止めはしない。俺は人生を賭けてもこの試みを完遂する」
「そう、ですか」
ティアがほとんど意味のない相槌を打つ。安堵したような、落胆したような、どちらとも取れる声だった。