chapitre108. 白銀の旅
文字数 5,935文字
白色のパネルが唯一の光源である部屋で、アルシュ・ラ・ロシェルは胸元を抑えて、最後のキーを叩いた。解析完了を告げる文言と共に、ラピス七都の地図が表示される。
99.7パーセント。
左下のウィンドウに示されたその数字を見て、理解したくないという本能が先に働き、アルシュは思わず目を逸らした。そんな彼女の代わりに、扉にもたれて立っていたカノン・スーチェンが、その数字が示すところを言葉にする。
「なるほどね――限りなく
「見たくなかったな」
アルシュは溜息をついて、地図の表示を切り替えた。ラピスを上空から眺める向きだった地図が、横からの断面図に変わる。それに伴って左下のウィンドウの数字も大きく下がり、10パーセントを切った。
「ああ、やっぱりね。地下は無事だ」
「やっぱり、なの? どうして」
「核となる水晶が、地上よりはずっと少ないからね。ハイバネイト・シティの技術は基本的に旧時代のもので、
「ああ、そうか……まだ慣れないな、その考え方」
アルシュは頭を小さく振る。後頭部がずきりと痛んで、思わず顔をしかめた。まだ開頭手術から回復しきっていないのだが、悠長なことを言っている場合ではいよいよなくなってきた。
「カノン君。現状を確認しよう」
「はいはい」
「地上の暦で創都345年1月6日、地下の暦で稼働後149313日。午前8時34分、統一機関の
喉が力んでしまって、声が掠れた。そんなアルシュをちらりと見て、カノンが言葉の続きを引き継ぐ。
「
「……ええ、ありがとう」
「あんたの認識と相違ないかい」
「まったく同じ。残念なことにね」
崩れた髪をバレッタでまとめ直して、アルシュはパネルに向き直り、表示画面を切り替えた。壁面いっぱいに広がったパネルが16分割され、それぞれにカメラの映像が映し出される。しかしながらほとんどの映像は破損しているか、真っ白く濁っているか、そもそも映っていなかった。
無事だった映像を選択して、全画面に広げる。
白い光にまるごと包まれたラ・ロシェルの街は、不透明な雲に覆われているようにも見えた。ラピスで随一の高さを誇る統一機関の塔だけが、白い雲海から頭を出している。遠方から捉えた像を見て、アルシュはふと首を捻った。
「崩れてる。ほら、ここ」
「ああ……本当だ。こいつは開発部の塔だな」
「遷移性の
「まあ発生件数は多くないから、断言はできないけれど――あんた、2年前の事件、覚えてるだろう」
カノンが横目でこちらを見る。
胸の奥がじわりと痛むのを感じながら、アルシュは目を閉じて頷いた。
あの時ティアがやってきたのも、遷移性の
「あのときティアは
「その通り。
腕を組んだカノンの横顔は、いつも通りの平静を保っている。彼がペースを崩さないので、アルシュもどうにか取り乱さずに済んだ。黒く汚れた操作盤をじっと見下ろして、深呼吸をする。
「概ね……現状は分かった」
冷や汗を拭って、パネルに視線を戻す。
「私たちはどうしたら良いのかな。
「実行すれば創都以来の技術が消し飛ぶ」
「分かってる……それに、全部を壊すなんて非現実的だよね」
「そうだな」
カノンが相槌を打って、椅子に腰を下ろす。何の偶然か地下にいる自分たちは、安全圏に逃れることが
「自然に消えることは、あるのかな」
苦し紛れの呟きだったが、意外にもカノンは「あるんじゃないの」と希望的観測を示した。グローブに覆われた両手を、アルシュに見えるように示して、触れる直前まで手のひらを近づける。
「要するに――
「二つの世界が近くにあるってこと?」
「そう。水滴と水滴が境界を越えて混ざり合う、その様子があの白い光で見えているんじゃないかね。混ざり合ってひとつの水滴になれば、
「ちょっと観念的すぎない?」
アルシュは肩をすくめる。
「それよりは……ティアがやってきた時に、核となる水晶を壊したという話は聞いていない。つまり幻像核の破壊は消滅の必要条件ではない、の方が妥当な説明じゃないかな」
「はは、流石は地上ラピスの
「カノン君はもっと、素直にありがとうと言える褒め方を学んで」
相変わらず、どこか掴めない相手だ。やりづらいなと思いつつも、ありがとうと礼を言っておき、アルシュはラ・ロシェルの景色を収めた映像を巻き戻した。地平線まで広がった円盤状の白い光が、ラ・ロシェルの中央地点に収束していく。やはり
「ねえ。
「それなりにある」
ひげに覆われたあごに指で触れて、言いたいことは分かるよ、とカノンは顔を上げた。
「統一機関には今、人はいないはずだ――でしょ」
「そう」
巻き戻されていく映像にじっと目を凝らすと、夜明けの空に汚れのようなものが映り込むのに気がついた。あれ、と呟いて一時停止をかけ、もう一度再生してみる。開発部の塔の最上部で
「解像度が低いけど……んん、何だろう」
アルシュが首を捻ると、カノンが珍しく驚いたように目を見開いて、ぶつかりそうな勢いでパネルに顔を近づけた。
「――シェル君?」
「え、嘘だ」
「いや、分からないけどね……」
範囲を選択して画像解析をかけてみるが、判別が付かないとの結論が返される。しかし、鳥でも建物の破片でもなく、人間なのはどうやら確からしい。そして、現在の状況であの場所に行く理由がある人間となると、かなり限られてくる。
カノンの発想はかなり直感に基づくものだったようだが、かつてシェルたちがあの部屋に幽閉されていたことを思うと、一応リンクは繋がっているように感じられる。
「――じゃあ、あれがシェル君だとして」
塔の窓から宙に舞いつつも、どうにか壁を伝って登っていったシルエットを見つめて、アルシュは胸元を抑えた。彼の隣にはもうひとり、アルシュたちの友人がいたはずだ。シェルと一緒に地上に向かうと、そう言っていた人が。
「ロンガは……どこに、行ったの」
アルシュが絞り出すように問うと、かなり長い間を空けて、カノンが「分からない」と答えた。
*
長い冬が明けて春になると、肌を切り刻む寒さが去ってほっとする一方で、自分の身体の輪郭を曖昧に感じる。冷気と体温が出会う場所に温度差があるからこそ、自分の形のようなものを認識できていた。寒気が緩み、限りなく適温に近づけば近づくほど、身体が空気に溶けてしまうような不安感も強くなる。
もし、この世界に完璧な適温というものがあれば、身体の形も消えてしまうのではないだろうか。
そんな不確かさが、いま周囲に満ちていた。白い光が見えているように思うが、瞬きをしても視界が変わらない。音も聞こえなければ風もない。辛うじて自分の、ロンガという名前は覚えているが、ここがどこなのか分からない。
すると、凪いだ白が小さく揺らぎ始めた。
「やあ。お久しぶり」
オレンジ色の長い髪を靡かせた、ロンガの友人に似た姿形のものが、白い霧の中から渦巻いて生まれた。顔立ちも体型も限りなく本物に似ているが、唯一違うのは、その瞳が揺らめく白銀色に光っていることだった。
「呼ばれたから来てみれば……君じゃないんだね。あの祈り」
「常にお呼びじゃないが」
苦々しく吐き捨てて、まだ声が出ることにロンガは安堵した。そのくらい、自分の身体が今どこにあるのか分からなかったのだ。友人に似た姿のそれは苦笑して、こちらに手を伸ばしてくる。冷たくて固い感触を感じた。
「お前がソルに何かしたのか。ビヨンド」
「僕たちは自分の意志ではほとんど動かない。彼の声が僕を呼んだんだよ。エリザの純白の祈りと違って、地底を這うような常闇の祈りだったけど」
友人の姿を借りたビヨンドは、くるりとその場で縦に回って「もったいないなあ」と呟いた。
「過去に戻って、大切なものを取りに行こうとしたんだ。悪くない案なのに、君が止めちゃったんだねぇ、リュンヌ」
「……止められたんだろうか」
「ラ・ロシェル語圏の
「何だって?」
聞き慣れない単語にロンガは眉をひそめるが、ビヨンドは答えずにこちらに手を伸ばした。目の前まで迫った口元が、不自然な笑顔の形を浮かべて歪む。
「あの子の祈りに免じて、君にもう一度だけチャンスをあげよう」
そう言ったかと思うと、シェルを象った身体は無数の光点に別れて消える。
目を開けていられないほどの風が吹き付けて、思わず目を閉じる。すると身体を引っ張る強大な重力を感じて、ほんの僅かに濃淡のある白のなかを落下していった。刃物で切りつけられるように全身が痛み、顔を庇おうと腕を動かすと、肩から肘に掛けて爆発するような衝撃が襲った。
叫び声と共に落ちていき、頭から何かに突っ込む。何かの毒かと思うほど、頬に触れた瞬間に痛む、その正体は雪だった。足先まで雪の中に埋まったロンガは、理由も思い出せない肩の痛みを堪えながら、上下に反転した身体を立て直し、ようやく上を見た。
そこにあったのは、空のような何かだった。
向こう側に太陽があるなんて信じられないほど、暗く不透明な雲が地平線の向こうまで覆っている。地面らしきものは全て雪の下に埋まり、白とグレーが支配する異様な世界がそこにあった。
どこだ、ここは。
体温で雪が僅かに溶けて服に染み、数秒も経たずにまた凍る。体温が容赦なく奪われていき、身体を丸めたところでほとんど効果はなかった。頭の芯が割れるように痛み、指先の感覚が消え失せる。歯の根がガチガチと鳴り、全身が痙攣しているのが分かった。
「ソル――」
苦しみから逃れるように、友人の名前を呟いた。
そうだ、彼はどこだろう。どうしてこんな吹雪の中にいるんだろうか。彼も近くにいるのだろうか。だとしたら、助けなければ……でも、どうやって。無理だ。何もできない。
そう思いながらも、ロンガは両足をがむしゃらに蹴り、身体を飲み込む雪の層から抜け出した。冷たいと言うより痛いと言った方が正しい、鋭い風が全身を切りつけるが、それでも一歩一歩踏み出して前に進む。吹雪に阻まれた真っ白い世界を見渡すと、遥か遠い場所に、揺らめく黒い影を見つけた。
友人だろうか。
そう思った瞬間に気力が湧いて、太腿まで雪に埋まりながらも、無我夢中に前進した。前に手を伸ばそうとして、また肩に激痛が走る。呻いてうずくまりながらも、身体をまた立て直そうとするが、身体に力が入らずに崩れ落ちる。横向きに倒れたロンガの身体を、またたく間に雪が覆っていった。視界が暗転し、それすらも見えなくなる。
こんな場所で死ぬのか。
そう考えた瞬間に、周囲に複数の気配を感じた。何か力強いものがロンガを担ぎ上げ、身体を重たいものが覆う。小声のざわめきのなかから、ひとつが進み出てきて、すぐ隣にやってきた。
「お疲れさま。間に合って、良かった」
優しい声が降り注ぎ、ロンガの頬に誰かの暖かい手が触れる。思うように開かないまぶたを押し上げ、霞んだ視界でどうにかピントを合わせようとした。その人影は全身を何かで覆っていて、ほとんど顔が見えない。辛うじてゴーグルの向こうに、切りそろえた前髪と瞳が見えた。
忘れられるはずもない色だった。
白銀色の瞳が、穏やかに見下ろしていた。
「……エリザ?」
「初めまして、そして、久しぶり。リュンヌ」
目元しか見えなくても分かる、あの懐かしくて暖かい微笑みが、手を伸ばせば届きそうな距離にあった。その瞬間に、張りつめていたものがふわりと緩み、頬を伝って涙がこぼれ落ちた。泣いちゃダメよ凍っちゃうから、という声と一緒に、顔も覆われて周囲が見えなくなる。急速に遠くなる意識の中で、ロンガは考えていた。
どこだ――じゃない。
今は、いつだ。