chapitre73. 彼女の虚像

文字数 5,136文字

 12月(デサンブル)初旬、バレンシアで火災が発生した数日後のこと。
 ラム・サン・パウロは動乱の渦中にあった。

 半ば突き飛ばすように若者たちを昇降装置に押し込み、上の階層へ、とだけ叫んで扉を閉めさせた。装置が作動して上に向かったことを確認すると、ラムは即座に振り向いて部屋を飛び出し、柱の影にやや小柄な体躯を潜める。鳴り止まない心臓を無理やり鎮めて、近づいてくる足音を聞いた。

 こちらに撒かれたと思ったのだろう、その足取りは完全に油断している。5人ほどの集団だが、銃を持っているのは一人だけだ。ほぼ等速にこちらに向かって動く、60キロ前後のタンパク質の塊と、大切に抱えられた数キロの金属の塊を三次元座標上でイメージした。極限まで抽象化して空間を捉えるのは、余計な感傷を捨て去るためでもある。

 通り過ぎる、その一瞬。

 コンマ1秒すら狂わず、折り曲げた足に溜めた力を解放して地面を蹴る。自分の質量をまっすぐ相手にぶつけ、膝で蹴り込んでタンパク質の塊と金属の塊を切り離す。宙に飛んだ金属の塊は、完全に予想通りの軌道を描いて、駆け出したラムの右手に収まった。

 振り向いて、構えなおし、撃つ。

 そんな訓練を受けていたのは遠い昔のことだが、老い始めたラムの身体は、まだ辛うじて、その流れを覚えていた。

 さほどの抵抗はなく小さな鉄塊が加速されて飛び出し、打ち砕き、水風船のように破裂する。同じ動作をあと何回か繰り返す。自分以外には動いている物体のなくなった廊下で、ああ、と小さく息を吐いた。

 身体と心を分けていた水門を開けてやると、自分が人間の頭を5人分吹き飛ばした、という事実が胸の中に流れ込む。いが栗を無理やり飲み込んだような感覚が心臓を突き刺して、傷口からどす黒い液体を腹の中に垂れ流す。

「思ったよりは苦しいな」

 そう呟き、ラムは視線を持ち上げる。天井のスピーカーがこちらを黙って見下ろしていた。おい、と話しかける。

「さっきの昇降装置はどこのフロアに行った」
『はい。第34層です』
「分かった」

 会話しながら、死んだ男の衣服を漁って銃弾を奪い取る。廊下を戻って昇降装置に乗り込む。

「俺も第34層に向かう」
『はい、分かりました』

 今度は装置の壁から聞こえてくる抑揚のない声にラムは、はは、と乾いた笑いを零した。

「やはり、お前はエリザじゃないな」
『いいえ。私はELIZAです』
「本当にエリザなら、俺が人を殺すところを見て、それでも黙っているはずがないさ」

 そう返すと、スピーカーは沈黙した。今のラムの言葉には返事をする必要がない、という判断が内部で下されたのだろうか。

『ラム。私は――』
「その呼び名も、もう止めてくれ」
『――分かりました』

 まるで人間の躊躇いのようにも感じ取れる、長い演算処理を示す沈黙の末に、ラムがかつて愛した女性の名を冠した管理AIは言った。

『では、代わりに何と?』
「デフォルトに戻してくれ。それでいい」

 ()()がかつて自分たちに呼びかけたときの、『生存者の皆さま』という表現を指してラムは言う。分かりました、と平たい合成音声が答えるのと前後して昇降装置が停止し、ゆっくりと扉がスライドして開いた。

 *

 その、ひと月ほど前のこと。

 初めは、暗い水の底に沈んでいるようだ、と思った。

 ゆっくり目を開けると、暗闇の中にぼんやりと浮かび上がるものがあった。細長い輪郭が次第に鮮明になる。ナイフだった。どこかで見たものだが、思い出せない。
 彼はおそるおそる手を伸ばしてそれを取った。手元に引き寄せて眺めるが、やはり見覚えがあるようで、しかし具体的にどこで見たかと問うと、空を掴むかのように記憶が逃げ出した。

「ラム」
 誰かが呼んでいる。

 自分が呼ばれたのだと気がついて、そこから逆にたどり、自分の名前を思い出した。ラム・サン・パウロはナイフを利き手に持ち替えて、暗い周囲を見渡す。上下左右の存在しない空間を無我夢中に探すが、声の主が見つからない。

 ラム、ともう一度呼ばれた。

 振り向くとそこに、蜂蜜色の長い髪をなびかせた女性が微笑んでいた。彼女は、ラムが見つけられなかっただけで、最初からそこにいたのだろう。

「――エリザ」

 その名前を呼び、手を伸ばして気がつく。視界の中央にある自分の手は、骨ばっているがまだ柔らかい、青年のような手だ。本当の自分はもっと歳をとっていたようにも思うが、なぜかあの頃の姿に――エリザと出会った頃の姿に戻っている。
 少し震えているラムの指先を、エリザが包み込むように握り、柔らかな微熱が伝わる。視線をゆっくりと持ち上げると、白銀に煌めく瞳がこちらを見据えていて、確かに目が合った。

 彼女が微笑んだ。
 その瞬間に世界が始まった。

 植物が成長するように、四方八方に白い枝が伸びて、ひとつひとつの葉が景色を映す。空は青く澄み渡り、柔らかい初夏の風が木の葉を揺らす。鮮やかな緑の草原に、2人は手を取り合いながら立っていた。風にあおられた葉のいくつかが空に舞い、空気のなかを踊りながら目の前に降りてきて、そこに映した景色が世界中に広がる。

 色々な人と出会った。
 色々な話を聞いて、色々なことに巻き込まれた。

 沢山の、本当に沢山の名前に囲まれて生きていた。自分を愛してくれた人も、憎んでいた人も、殺そうとした人も、好きな人も嫌いな人も数えきれないくらいいたのだ。

「そうでしょう?」

 エリザが微笑んだ。でもね、とその唇が動くと、季節が夏から秋に変わった。少し褪せた配色で、先ほどとは違う景色が描き出される。

「見たくないものも、貴方は見ないといけない」

 そう言って彼女は消える。気がつくと自分は、ランタンを持ってどこかの廊下に立っていた。腰に下げたのは銃の重み。ポケットを探ると、さっき手にしたナイフが入っていた。ぶぅん、とモーターの作動音が低く響いている。

 扉があった。
 祈りの間の扉。

 導かれるようにラムはそこに向かう。部屋に入るとモーターの作動音が消えて、中にあった昇降装置の扉が開く。放心したように座り込んでいた少女が、血の気の失せた顔で自分を見上げていた。

『カシェ・ハイデラバードに会ったのか?』
『その……はい。会いました』

 口を開いたつもりはないのに、自分の声が響いた。低くて掠れた声だ。自分の身体が勝手に動いて、彼女の襟元を掴み上げ、叩きつけるように壁に押し付ける。

 やめろ、と叫んだ。
 だが、その声は響かない。

『どこまで聞いた? 正直に言え』

 場面は否応なしに進んでいき、焦燥しきった顔の少女が、それでもどこか希望を残した表情で口を開く。

『貴方を――』

 半狂乱になって、やめろと繰り返し叫んだ。この次にくる場面を自分は知っている。目を閉じて床に崩れ落ち、暗黒のなかで頭を抱えて叫ぶ。さっき拾ったナイフは、この夜、自分が彼女に突きつけてしまったものだった。驚きと恐怖で引きつる彼女の表情。その青い瞳に映り込む、狂気に歪んだ自分の姿。

 見たくない。
 嫌だ。嫌だ嫌だ! 止めてくれ――

「大丈夫よ、ラム」

 凜とした声が、とつぜん聞こえてそう言った。

 肩に暖かいものが触れ、「目を開けてみて」と言う。身体を震わせながら恐る恐る目を開けると、目の前にいた少女は凍りついたように動かず、何かを言いかけた表情のまま止まっていた。その襟を掴んでいたラムがゆっくりと身を引いても、彼女は動かないどころか、呼吸ひとつすらしていないようだった。

 祈りの間の扉が開き、朝陽とともにエリザが入ってくる。ワンピースの裾をひるがえしてラムに歩み寄り、手を握った。ナイフが床に落ちて、カラカラと音を立てる。

「時間なら、もう止めたから。貴方が恐れる未来なら、もう消してあげた」

 温もりの伝わらない冷たい手のひらが、震えているラムの手を握りしめた。光が窓から差し込み、部屋を満たす。エリザが視線を横に動かすので、その視線を追いかけると、先ほどまで生きた人間だったはずの少女が砂の像に変わっていた。
 それは朝陽に溶けるように流れ落ち、人の形を失って消えていく。壁も床も、建物も、街も空も消えて砂に変わる。見渡す限りの砂浜に、自分と彼女だけが手を取り合って立っていた。

「全部なかったことにしましょう。ね」
 懐かしいその微笑み。

「大丈夫だから」
 穏やかな声の響き。

「目覚めたら全て元通りだから」
 なのに、体温を感じない手のひら。

 彼女はいつの間にかその手にナイフを持っていて、柄をこちらに向けてラムに手渡した。受け取ったナイフは氷の塊のように冷たく、ずしりと重たい。

 エリザの身体が、つま先から砂に変わっていく。彼女は片手を緩やかに持ち上げて、彼女自身の左胸を指さした。

「お願い。私の心臓を刺して」

 無理だ、と叫んだ。
 なのにどういうわけか、勝手に手が動き、震える切っ先が彼女に近づいていく。先端がワンピースの生地を突き破り、柔らかい白い皮膚を裂いて赤い血が滴り、黄色い脂肪が覗く。柔らかい微笑みに吸い込まれるように進んでいくナイフの、磨き上げられた金属に反射した景色がふと目に入る。

 そこには自分の顔が映っていた。

 ラムは鏡ごしに自分と見つめ合って、ようやく今の状況を理解した。自分は()()()()()()()()、そう思った。どうすれば良いかも瞬時に閃いた。

 今まさにエリザの心臓をえぐりかけたナイフを引き抜いて、その代わりに自分の腕を切りつける。
 傷口から黒い淀みが溢れ出して、誰かの姿になった。金色の長い髪に青い瞳の女性が、歪みきった顔で自分を見つめている。たしかに友人だったはずの彼女を、悲しく思いながら見つめ返した。

 そしてまた身体を切りつけた。
 焼き付くような痛みに転げ回りながら、いくつもいくつも傷を作り、溢れ出す血で世界を描き出す。燃えるような怒りに染まった赤い瞳で、こちらに銃を向けている少年が現れる。全てが抜け落ちた空虚な表情で立ち尽くす青年が現れる。
 そうやってできあがった世界は赤黒く染まっていて、笑顔を浮かべている人など誰もいない。それでも、いや、それこそがラムが知っている本当の世界だった。

 最後に自分の心臓を突き刺すと、オリーブグリーンの髪を持つ少女が現れた。朝の永遠に訪れない部屋で、内臓のようなおぞましい色をした壁に押し付けられて立っている。恐怖に染まった青い瞳を見開いて、言った。

『貴方を殺せと、そう言われました』

 自分は。
 このとき、本当はどうすべきだったのか?

 心臓にはナイフを突き立てたままだ。口から血の塊を吐く。意識が遠のいて耳鳴りがした。それでもラムはゆっくりと手を伸ばし、自分とどこか似た容姿の、そしてエリザの面影を微かに残した少女の肩に触れた。

 自分が彼女の父親だと知られた、あの日。
 彼女が生まれてから20年という長い月日が経って、初めて、父と娘という立場で話ができたかもしれないのに。

 そうだろう。
 本当は。

 抱きしめてやりたかったんだ。

 ラムが娘の身体を抱き寄せると、その瞬間に世界は暗闇に戻り、どうして、と問う声が聞こえた。傷だらけで倒れているラムの隣に膝を揃えて座り、エリザが悲しそうな瞳でこちらを見ている。

「忘れられるところだったのに」
「知識と真実を愛したエリザなら、忘却が良いことだなんて思うわけがない。お前はエリザじゃない、俺の弱い心が生み出した亡霊だ」
「――そうね」

 さようなら、ラム。

 そう言って彼女は砂になり、消えた。暗闇を横一線に光が切り裂き、世界は真っ白い光に満たされた。
 ラムは起き上がり、周囲を見回す。

 切り刻んだはずの身体には傷ひとつない。そこは見慣れたハイバネイト・シティ居住区域の一室だ。S3-28-5と記された、昨日までと同じ居室。柔らかいマットレスから起き上がり、ラムは天井のスピーカーに呼びかけた。

「おい」
『はい、ラム。ご用ですか?』
「“春を待つ者(ハイバネイターズ)”のトップに伝えろ。俺に記憶操作は効かない、と」

 ラムが強い口調で言うと、天井のスピーカーはしばらく沈黙した。ややあって「集合意志の形成を待ちます。少々お待ちください」と答えた。
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登場人物紹介

リュンヌ・バレンシア(ルナ)……「ラピスの再生論」の主人公。統一機関の研修生。事なかれ主義で厭世的、消極的でごく少数の人間としか関わりを持とうとしないが物語の中で次第に変化していく。本を読むのが好きで、抜群の記憶力がある。長い三つ編みと月を象ったイヤリングが特徴。名前の後につく「バレンシア」は、ラピス七都のひとつであるバレンシアで幼少期を送ったことを意味する。登場時は19歳、身長160cm。chapitre1から登場。

ソレイユ・バレンシア(ソル)……統一機関の研修生。リュンヌ(ルナ)の相方で幼馴染。ルナとは対照的に社交的で、どんな相手とも親しくなることができ、人間関係を大切にする。利他的で、時折、身の危険を顧みない行動を取る。明るいオレンジの髪と太陽を象ったイヤリングが特徴。登場時は19歳、身長160cm。chapitre1から登場。

カノン・スーチェン……統一機関の研修生で軍部所属。与えられた自分の「役割」に忠実であり、向学心も高いが、人に話しかけるときの態度から誤解されがち。登場時は19歳、身長187cm。chapitre1から登場。

アルシュ・ラ・ロシェル……統一機関の研修生で政治部所属。リュンヌの友人で同室のルームメイト。気が弱く様々なことで悩みがちだが、優しい性格と芯の強さを兼ね備えている。登場時は19歳、身長164cm。chapitre3から登場。

ティア・フィラデルフィア……とある朝、突然統一機関のカフェテリアに現れた謎の少年。ラピスの名簿に記録されておらず、人々の話す言葉を理解できない。登場時は10歳前後、身長130cm程度。chapitre1から登場。

サジェス・ヴォルシスキー……かつて統一機関の幹部候補生だったが、今の立場は不明。リュンヌたちの前に現れたときはゼロという名で呼ばれていた。赤いバンダナで首元を隠している。登場時は21歳、身長172cm。chapitre11から登場。

ラム・サン・パウロ……統一機関の研修生を管理する立場。かつて幹部候補生だったが現在は研修生の指導にあたっており、厳格だが褒めるときは褒める指導者。登場時は44歳、身長167cm。chapitre3から登場。

エリザ……かつてラ・ロシェルにいた女性。素性は不明だが「役割のない世界」からやってきたという。リュンヌと話すのを好み、よく図書館で彼女と語らっていた。笑顔が印象的。登場時は32歳、身長155cm。chapitre9から登場。

カシェ・ハイデラバード……統一機関政治部所属の重役幹部。有能で敏腕と噂されるがその姿を知る者は多くない。見る者を威圧する空気をまとっている。ラムとは古い知り合い。登場時は44歳、身長169cm。chapitre12から登場。

リヤン・バレンシア……バレンシア第43宿舎の住人。宿舎の中で最年少。年上に囲まれているためか無邪気な性格。登場時は17歳、身長152cm。chapitre31から登場。

アンクル・バレンシア……バレンシア第43宿舎の宿長。道具の制作や修繕を自分の「役割」に持つ、穏やかな雰囲気の青年。宿舎の平穏な生活を愛する。登場時は21歳、身長168cm。chapitre33から登場。

サテリット・バレンシア……第43宿舎の副宿長。アンクルの相方。バレンシア公立図書館の司書をしている。とある理由により左足が不自由。あまり表に現れないが好奇心旺盛。登場時は21歳、身長155cm。chapitre33から登場。

シャルル・バレンシア……第43宿舎の住人。普段はリヤンと共に農業に従事し、宿舎では毎食の調理を主に担当する料理長。感情豊かな性格であり守るべきもののために奔走する。登場時は21歳、身長176cm。chapitre33から登場。

リゼ・バレンシア……かつて第43宿舎に住んでいた少年。登場時は16歳、身長161cm。chapitre35から登場。

フルル・スーチェン……MDP総責任者の護衛及び身の回りの世話を担当する少女。統一機関の軍部出身。気が強いが優しく、MDP総責任者に強い信頼を寄せている。登場時は17歳、身長165cm。chapitre39から登場。

リジェラ……ラ・ロシェルで発見されたハイバネイターズの一味。登場時は22歳、身長157cm。chapitre54から登場。

アックス・サン・パウロ……コラル・ルミエールの一員。温厚で怒らない性格だが、それゆえ周囲に振り回されがち。登場時は20歳、身長185cm。chapitre54から登場。

ロマン・サン・パウロ……コラル・ルミエールの一員。気難しく直情的だが、自分のことを認めてくれた相手には素直に接する。登場時は15歳、身長165cm。chapitre54から登場。

ルージュ・サン・パウロ……コラル・ルミエールの一員。本音を包み隠す性格。面白そうなことには自分から向かっていく。登場時は16歳、身長149cm。chapitre54から登場。

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