chapitre62. 二人の重力
文字数 7,235文字
公立図書館での仕事が午後5時に終わり、杖をつきながら坂道を登る。夕方と呼ぶには暗くなりすぎた、黄昏のなかで溶けていく木立を眺めて、ふうと溜息をつく。少し歩いただけなのに酷く疲れてしまった。まっすぐ立っているのが辛くなり、手頃な木の幹を見つけて寄りかかる。
リヤンたちがいなくなって半月が過ぎた。
同時に“地底の民”と名乗る面々が地上ラピスの敵として明確にその姿を現し、バレンシアの危機に伴って開かれる色々な会合に呼ばれて家にいられる時間は短くなった。
とても静かになった宿舎の沈黙は、それでも暖かい。愛する人であるアンクルと、大切な友人のシャルルと一緒に、慎ましくも楽しい、貧しくとも豊かな暮らしを送る。
――アンとシャルルはそれを望んでいるはず。
そう知っているからこそ、今までサテリットは我慢していた。遠い地を、まだ見ぬ街をこの目で見たい、という胸の奥で燃え続ける熱望を。長いとも言えない80年の人生は、すでに4分の1以上が過ぎていった。生まれてから死ぬまで、ずっとずっとこの狭い街で、代わり映えのしない宿舎で過ごすなんて、本当は嫌だった。
だからロンガが羨ましかった。
自分と同じようにバレンシアで生まれたのに、ラピスの中心都市ラ・ロシェルで育ち、数奇な旅を経て再びバレンシアに帰ってきたかと思えば、大組織を率いる友達に誘われてまたラ・ロシェルに戻るなんて。左耳に吊るしている月のイヤリングを思い出しながら、なんて自由で広い人生だろう、と彼女の軌跡に憧れた。
大空を飛ぶ鳥のように、何ものにも縛られず世界を旅することができたら、どんなに良いだろう。サテリットは閉じたまぶたの裏に、抜けるような青空と、遥か下に広がる街並みを思い描いてみた。
人間の身体なんか抜け出して、心と生命だけを連れて、広い世界を自由に駆け抜けられたなら、それだけで一生分の喜びを感じられる気がした。
でも、現実はそう上手くいかない。
それどころか、自分を縛るものばかり増えていく。あまり力が掛けられず自由に動かない左脚、バレンシア公立図書館の司書という「役割」、置いていけない大切な人たち――それに。
サテリットは溜息とともに目を開け、腰布に覆われた腹部に手を当てる。最近、何となく違和感は感じていた。体力が落ちたし、貧血気味になり、眠たいと思うことが多くなった。そして、ふと気がつけば、何ヶ月も生理が来ていなかった。
「……アン」
締め付けるような不安に襲われて、思わず彼の名前を呟く。確信したのは数日前だが、まだアンクルには言えていなかった。もちろんシャルルにも黙ったままだ。同性のリヤンやロンガがいてくれれば、まだ話は違ったかもしれないが――
「それも……だめ」
サテリットはすぐに思考を打ち消した。リヤンとロンガはどちらも、自然な妊娠によって生まれた非正規の子供、いわゆる
自分をこの世に産み落とした、親という存在をリヤンたちが呪っているかというと、そういう話は別に聞いたことがなかった。彼女らが生きているのは、たとえ禁忌だろうがリヤンたちを産んだ両親がいるからだ。新しい生命の創造、それが悪であるわけがないとサテリットは思うし、当事者であるソヴァージュの2人も同様に考えているらしかった。
それでも。
ソヴァージュという呪いを自分たちが再生産してしまった、という苦痛は日に日に強さを増してサテリットを苛んだ。
カタ、と音がした。
驚いて視線を下にやると、木の幹に立てかけてあった杖が倒れていった。それは裏手の斜面を転がり落ち、かなり落ちたところで止まった。
息を呑んで、嘘、と呟く。
慌てて姿勢を正すと、うっかり左脚に体重をかけてしまい、バランスを崩した。落ち葉の積層した地面に胴の側面から倒れ込む。ほぼ無意識のうちに腹部を
そのまま勢いは止まらず、高さにして5メートルほどの急坂を転がり落ちた。
地面におかしな角度で叩きつけた手首が傷んだ。ヘアバンドが外れ、纏めていた髪が広がる。日陰になっていて周囲がよく見えない。片足を引きずって杖を探し、ようやく見つけて立ち上がると、見たことのない景色が広がっていた。
綺麗、と思わず口をついて出る。
夕陽の沈むのとは反対側の東の空が見えた。まだ青さの残る空と、影に沈んだ山稜の間に、深い緑色のグラデーションが広がっていた。サテリット自身の瞳と少し似た色の移り変わりに、夕焼け空とはまた違う美しさが現れていた。夕方の風にほどけた髪を揺らして、しばらくサテリットはその景観に見入った。
たった数メートルいつもの道を外れただけで、こんな景色に出会えるなんて、やっぱりこの世界はすごい。同じことを繰り返すばかりの毎日では味気ないのに、愛する人たちはそんな日々を望んでいて、だからサテリットもそれに応えてきた。
でも、本当は。
「……飛び出したい」
小声で呟くと、不意に目元がじわりと暑くなった。ああ、飛び出したい、そう叫ぶ自分自身の声が頭の中で痛いほどに響き渡った。地面に膝をつき、暗がりの中でうずくまる。腹部が変につっかえて、中途半端に体を丸めた姿勢のまま、地面にぼたぼたと涙を落とした。
「どうして? どうして、どうしてこんなに! 私を縛るものばかり増えるの!」
空を飛ぶなんて言わなくても、もっと自由に地面を駆けられたら。名前なんて捨ててひとりで歩き出せたらいいのに。守らなければならない大切なものなんて、初めからなければ良かったのに!
誰にも伝わらない、伝えてはいけない
サテリットは暗い目のまま、杖に体重をかけて立ち上がった。
逃げ出したいと思う時があったって、ままならない現実のなかで生きている。そのサイクルは時に心地良く、一度手に入れた大切なものを、今更手放せるほど日常を憂いているわけでもなく。今日もいつも通り宿舎に帰るのだ。シャルルの暖かい食事を食べて、アンクルの優しい腕に抱きしめてもらって、全て忘れて眠ろう。自分の身体のことは今夜こそ伝えないといけない。早ければ早いほど、何とかなる可能性は高くできる。
胸の奥で
そのとき。
視界の端、斜面の影にひっそりと、口を開けた洞穴がこちらを見ているのに気がついた。表からは絶対に見えない位置に、人が立ち入れる程度の穴が空いている。サテリットが近づくと、中には緩い下りの斜面が続いていた。地面は均されていてサテリットの足でも歩けそうだ。奥にはぼんやりと明かりが見える。
何だろう、と考えてふと、数日前にあったことを思い出した。“地底の民”は、たしか地上のラピス市民に地下に向かうよう促していた。その道はすでに開かれているとも。そこまで思い出して、この洞穴は彼らの居場所に続いているのではないか、と直感する。
そうであれば、一刻も早くバレンシアの仲間たちに伝えなければならなかった。彼らの本拠地を突き止めて倒し、地上の配電系統を回復させる。ここ最近の度重なる会合は、すべてそのために開かれていると行っても過言ではない。
今すぐ伝えなければならないと分かっていた。分かっているのに、足がふらふらと洞穴のなかに向かう。降って湧いた未知に、サテリットの心臓は高鳴っていた。道が平らだから、ここならまだ引き返せる、と自分に言い訳してどんどん奥に向かう。遠くに見えていた明かりが近づいて、サテリットはついに突き当たりの扉に辿りついた。暖色のぼんやりした明かりが照らす扉を、ゆっくりと押し開ける。
向こうには人工的な空間が広がっていた。毛足の長い絨毯が敷かれた長い廊下が、等間隔の照明に照らされている。見覚えのない様式の建築にサテリットが息を止めると、天井でバチッと音がした。
『パターン学習により、FL1.8.11でご案内します』
「誰!?」
突然、平坦な女性の声が流れ出す。驚いて声を上げるが、人ではないとすぐに気づいた。天井のスピーカーが喋っているようだ。しかし、サテリットが幻像発生時にいつも使っている有線放送より、かなり音質がいいようだ。
『こちらは、包括型社会維持施設、ハイバネイト・シティ。本日は稼働より149241日、負荷率12.7パーセント、システム異常なし。ようこそ、生存者の皆さま』
「……あなたは誰?」
『私は、ハイバネイト・シティの総権を預かる人工知能です。
「エリザ……?」
それと同じ名前を、たしかロンガが言っていた。偶然の一致だろうか、と首をひねる。
「私はサテリット。貴方は人間なの? ELIZA」
『いいえ、人工知能です。あるいはプログラムです。はい、サテリット、貴女の名前を記憶しました。お連れの方のお名前は?』
「連れ……?」
サテリットは訝しく思って周囲を見渡した。だが周囲には、サテリット以外誰の姿も見えない。この人工知能という声は何を言っているんだろう、と不思議に思った。司書という仕事柄、情報処理の知識がないわけではないが、これだけ自然に会話応答ができるプログラムは、サテリットが知っているものとは大きくかけ離れている。
「私は誰かと一緒に来たわけじゃない。一人よ」
『はい。理解しました。生命反応判定センサが誤作動したようです、お詫びして訂正します』
「生命反応……ちょっと待って。もしかしてお腹の?」
『はい。受精120日前後の胎児と思われます』
ああ、とサテリットは溜息をついた。
やはり自分は妊娠しているらしい。こんな場所で、人間ですらない声によって確定させられるとは思わなかった。
「それなら間違いじゃない。でも、名前はないわ」
『はい。承知しました』
「驚かないし怒らないし、気持ち悪がりもしないのね貴女……ああ、プログラムだから当然なのかしら」
『はい。ハイバネイト・シティは新たな生命の誕生を祝福致します』
機械だから当然だが、1秒も空かない応答にサテリットは少し驚いた。少なくともELIZAというこの人工知能は、ソヴァージュの子供を禁忌だとは思っていないらしい。それどころか祝福するとまで言ってくれた。
もしかして、という期待を込めて聞いてみる。
「出産に備えた設備、ここにはある……?」
『はい』
淀みない回答に、ぱっと目の前が明るくなった気がした。
*
第43宿舎からロンガとリヤンがいなくなり、料理を作るべき量は減ったものの、使える人手も減ったので全体としては仕事量が増えた。かといって文句はなく、自分が直接手をつけられるプロセスが増えたことで、より自分らしい料理を作ることができた。
シャルルがキッチンで火の様子を見ながら、今日も忙しく夕食の支度をしていると、不安そうな顔をしたアンクルが扉を開けて入ってきた。首元をマフラーで覆っているので、いつも付けている大振りなピアスとぶつかってカチャカチャと金属音が鳴る。
「いつもの待ち合わせで、サテリットと会えなかった」
「おかえり。仕事が伸びてんだろ」
「図書館には居なかったんだよ」
「へえ。なんかお前、奴の気に触ることでも言ったんじゃねえの?」
シャルルは適当に受け流して、焦げ付きやすい鍋をかき混ぜたが、アンクルは真剣な顔を崩さなかった。サテリットのことになると分かりやすいほど心配性になる友人の肩を、励ますように叩いてやる。
シャルルにとっての第43宿舎は、3人しかいない住人のうち、自分を除く2人が恋人関係にあるというかなり特殊な状況だ。しかし、ロンガたちが宿舎を出ていく時には愚痴を言ってみたが、実のところシャルルはそこまで気にかけていなかった。俺が面倒だから喧嘩すんなよ、くらいの気分で適当に相談に乗ってやっている。
だから今日もその延長戦だと思ったのだが、1時間ほど待って帰ってこないのは流石に変だった。
すっかり暗くなって冷え込んだ月のない夜に、外套を着込んで踏み出す。ランタンの心細い光だけを頼りに、いつもアンクルとサテリットが帰りに歩いているらしい散歩道を、アンクルの案内で逆向きに進んで行く。しかし、明かりの消えた図書館まで辿りついても、サテリットと出会うことはなかった。
「これは変だな」
「やっぱおかしいよね、どうしよう……」
「お前が慌ててどうすんだよ、宿長だろ。自警団に連絡しよう」
組んだ手を落ち着かないようにこするアンクルの背中を押す。自警団の詰所に向かうため、2人は来た道を再び戻った。やや傾斜のついた坂を登っていく。
「どこかで倒れたのかも」
血の気の失せた顔でアンクルが呟いた。
「なんか最近、体調が悪そうにしてることが多くて。やけに眠そうだし、体力落ちたって言うし」
「へえ? たしかに食事もあんまり食べねぇな。奴らがいなくなってヘコんだのかと思ったけど」
「それだけならまあ、良いんだけどさ。実は、シャルルには黙ってたけど、食事の後に気分が悪くなって吐いてしまったことがあった」
「おぅ、初耳だな」
「うん、ごめんね。あのね、シャルルの食事が悪いとかじゃないと思うんだけど……」
「ああ、別に気にしないさ。けど」
ふと連想したものがあって、シャルルは黙り込んだ。今までにない体調不良に食欲不振、嘔吐。農業仲間が噂していた話のなかで、似たようなものがあった。リヤンには聞かせないようにしていた話だ。
「――もしかしてお前さぁ」
「何?」
「いや、何でもない」
喉元まで出かけた言葉を打ち消した。もし、この類推が間違っていたら失礼なんてものじゃない。いくら長年同じ宿舎で暮らしている友人だろうが、超えてはならない一線は必ずある。軽々しく聞くにはあまりにも重たいことだ――サテリットが妊娠しているのではないか、お前が妊娠させたのではないか、だなんて。
頭の中でぐるぐる考えるシャルルの傍ら、アンクルが「あれ」と呟いて立ち止まった。道の端に駆け寄って、木立の向こうの斜面を見下ろす。
「どうした」
「あ、あれ……サテリットのヘアバンドだ」
言うが早いかアンクルは斜面を滑り降りた。シャルルはランタンを持って慌てて後を追う。落ち葉に覆われた地面を、滑らないよう気をつけて降りていくと、葉の落ちた低木に引っかかってヘアバンドが残されていた。暗いので色は不明瞭だが、首の後ろで結んだデザインはたしかに彼女のものだ。
「ここに落ちたんだ」
アンクルが唾を飲み込むのが分かった。拾い上げたヘアバンドを胸元で強く握りしめている。
「崖が登れなかったのかもな。でも、じゃあこの辺りにいるはずだ。探そう」
「そ、そうだね」
手分けをして探すと、いくらも経たずに倒れているサテリットを発見した。アンクルが駆け寄り、サテリットに声をかけている横で、シャルルは彼女が倒れていた場所を照らして観察した。岩盤のなかに開いた洞穴のようだが、壁が崩れていて奥行きはほとんどない。
「……アン? シャルルも」
上半身を抱えられたサテリットが目を覚ましたらしく、焦点の定まらない目で2人を交互に見る。ほどけた黒髪は土埃に塗れていて、服も汚れていた。シャルルが彼女の隣に膝をつくと、サテリットは唇を歪めて額に手をやった。
「大丈夫。どこか痛くない?」
「うん、平気。何でこんなとこにいるんだろ」
「崖から落ちたんじゃねぇのか」
「分からないの」
小さく首を左右に振る。その動きに従って長い髪が左右に揺れたとき、髪束のすき間に覗いた首筋に、何かおかしなものが見えた。見覚えのある傷痕に思わず呼吸が止まる。
「サテリット、杖は?」
「……あれ。持ってない、失くしたのかも。ごめんなさい」
「ああ、じゃあ作り直そう」
「ちょ、ちょっと待て2人とも。サテリット、首の裏を見せろ」
シャルルが割り込むと、2人は怪訝な顔になったが、構わず彼女の髪を左右に分けた。そこにあった、芥子粒ほどの小さい刺し傷をアンクルにも見せる。
「どう思う」
「これ注射痕だね。もしかして」
シャルルと同じ発想に、アンクルも辿りついたようだった。不安そうな顔で振り向いたサテリットに、慎重に切り出す。
「サテリット、君は記憶処理を受けたかもしれない」
「……リヤンみたいに?」
「そう。首の後ろに注射痕らしき傷がある。打った場所もよく似ている。ここにいる理由が不明瞭なのは、誰かがサテリットの記憶を封じたからじゃないかな」
「誰かって……誰?」
信じられない、という顔でサテリットが呟いたが、記憶処理を受けた可能性は、少なくとも偶然この場所に倒れている確率よりはずっと高いように思えた。
しかし、経緯が全く分からない。誰がどんな意思に基づいてサテリットの記憶に手を下したのか、それが心の奥に引っかかったまま数日が過ぎた。