chapitre136. 空と地と人々
文字数 4,124文字
――新都ラピス MDPヴォルシスキー支部
少し立て付けの悪い扉を開けると、外階段に出る。寒気を湛えてこちらをじっと見下ろすのは、澄み切った冬の青空だ。息を吐き出すと、それは瞬く間に白く濁って、天の方角に昇っていった。
ところどころ段を飛ばしながら、リヤンは階段を駆け下りて建物の裏手に回る。顔見知りのMDP構成員がこちらに気づいて、あら、と首を傾げた。
「ごめんね、今日の分はもう洗っちゃった」
「あ――遅かったですか。ごめんなさい」
洗濯を手伝うつもりで、裏の手洗い場までやってきたのだった。シーツを両手で抱えたまま頭を下げると、彼女は大げさな素振りで首を振ってみせる。
「いいのいいの、ただでさえ協力してもらってるのに、そこまでしてもらっちゃ悪いよ。それにリヤンちゃん、今日でスーチェンに帰るんでしょ?」
「はい。そう聞いてますけど」
「だったら尚更、気にしなくていいよ」
「で、でも……あたしが使ったものですから」
リヤンがかつて暮らしていた宿舎では、料理も洗濯も掃除も、みんなでするものだった。得手不得手で分担されることはあっても、家事をしない人はいなかったのだ。それを思い出してリヤンが眉を下げると、洗濯かごを抱えた彼女は苦笑した。
「宿舎……だっけ? 貴女が前に住んでたの」
「はい。バレンシアの」
「そう、貴女を見てると……良い人に囲まれて育ったんだなぁって思うよ」
「――そうでしょうか」
目を瞬かせたリヤンに、ほら、と言って彼女は洗濯かごを持たせる。それと入れ違いに、腕に抱えていたシーツを受け取った。
「そしたら、良かったら、私の代わりに干してきてくれる? 貴女が来るのが遅かったってことは、他にも後から来る奴がいるだろうしさ。後で、もう一回まとめて洗うよ」
「あ――はい!」
ありがとうございます、と頭を下げて、リヤンは今度は外階段を駆け上がった。途中で折り返しのある階段を昇っていくと、別棟に続く渡り廊下に、顔見知りの少年を見つけた。洗濯かごを足下に置いて、おおい、と手を振ってみせる。
「ティア君!」
「あ――リヤンさん」
彼はすぐこちらに気がついて、笑顔を返してくれる。まだ包帯やガーゼが身体のそこかしこを覆っているが、最近は少し歩く程度なら問題ない程度には回復したようで、リヤンはそれが自分のことのように嬉しかった。
「洗濯ですか」
片足を引きずりながら、彼はこちらに歩いてくる。
「僕も手伝えること、ありますか」
「えっ、大丈夫なの?」
包帯に覆われたままの手を見て訊ねると、ティアは頷いて、軽く肩を回して見せた。
「筋肉が落ちないように……ちょっとずつなら、むしろ動かした方が良いって言われてるんです」
ならば、彼の申し出を断る理由は何もなかった。ティアの後をついて外階段を昇り、屋上に向かう。空きスペースを横断するように渡されたロープが、物干し竿の代わりだ。大小のタオルやシーツ、衣服をひとつひとつ手で伸ばしてから干していく。
「そういえば」
背伸びをしてハンドタオルを干しながら、ティアがふと思い出したように呟いた。
「リヤンさんは……いつの間にか、MDPの組織に入ってたんですね」
「うん。正式な構成員じゃないけどね」
MDPの正式な構成員ならば、その証として金属製の笛を首から提げている。本来の業務である、
「去年の暮れに、フルルと一緒にスーチェン支部に行って。それからずっと、MDPのお手伝いをしてるんだ」
「あれ……じゃあ、正式な所属はあちらってことですか?」
ティアが不思議そうに首を捻る。
「こっちの支部には何をしに?」
「えっと――」
心臓がぎゅっと掴まれたように痛くなって、リヤンは慌てて後ろを向いた。大きなタオルを干している振りをして、笑顔を作り直すまでの時間を稼ぐ。
「ちょっと、調べごとを――ね」
嘘ではない。
「そうでしたか」
ティアは笑って、次の洗濯物に手を伸ばす。
調査をしているのは本当だ。
ただしリヤンは、調べる側ではなく調べられる側だ。一般に生殖機能が抑えられていると言われるラピス市民と比べて、出生管理施設以外で生まれた人間――いわゆる
小柄なティアの後ろ姿をちらりと見た。
自分が彼の年頃だったときと比べれば、ずっと大人びていて賢いとはいえ、まだ10歳かそこらの子どもに話したいことではない。ティアがそれ以上は追求してこなかったことに安堵しつつ、最後の洗濯物を手に取った。
「――あれ」
シーツを固定するために爪先立ちになると、視界の隅、茶色く枯れた草むらに人影を見つけた。リヤンは大きく手を振って、見知った仲であるふたりの名前を呼ぶ。
「フルル、レゾン君!」
すぐに彼らも気がついて、こちらに手を振り返す。半月ほど会えていなかった友人たちの姿を見て、心臓の痛みはどこかに飛んでいった。干したシーツを整えてから外階段を駆け下りようとして、すんでのところで置きっぱなしの洗濯かごに気がつき、引き返す。
ステップでも踏むように慌ただしく跳ね回ったリヤンを見て、ティアが屈託ない表情で笑う。
「かごなら、僕、戻しておきますよ」
「わぁ、ごめん。ありがとう!」
彼の好意に素直に甘えてから、今度こそ階段を駆け下りた。下で待っていてくれた友人たちが出迎えてくれる。同い年の友人であるフルルが片手を上げて、ひとつ年下の少年、レゾンは小さく頭を下げた。
「や。元気?」
「お久しぶりです」
「久しぶり、うん、元気、かな――えっとぉ、迎えに来てくれたの?」
以前にスーチェンからこちらに来たとき、フルルが付き添ってくれたことを思い出して、リヤンは首を傾げた。ふたりが答える前に気がついて、ううん、と今度は首を振る。
「違うか。それなら、わざわざふたりで来ないよね」
「うん、えっと――こちらが人手が足りなくなるから、来るように言われて。リヤンも、もしかしたらまだ、残ってもらうかも」
「足りなくなる……?」
リヤンが首を傾げると、レゾンが頷いた。
「今朝付けで、そう伝えられて」
「なんで?」
「いや、俺たちもまだ、詳しいところは聞かされてないんですけど。それで、まぁその――ちょうどリヤンさんの検査が終わる日でもあるってことで、来ました」
「ふぅん……」
よく分からないな、と首を捻ると「とりあえずさ」とフルルが眉を下げた笑顔を浮かべた。
「水場に案内してもらっても良いかな。ふたりとも足がドロドロでさ」
「わ――ホントだ」
彼らはふたりとも膝下まである革靴を履いていたが、その履き口を越えて、太腿くらいまでが泥まみれになっていた。
「一体どうしたの?」
裏の手洗い場に案内しながら、振り返って訊ねると、ふたりは一様に苦い表情を浮かべた。一瞬だけ目を見合わせてから「実は」と沈んだ声が切り出す。
「……川がかなり増水してて」
「え、それって――」
「はい、“
「そっか……」
靴を洗っているふたりを眺めながら呟くと、自分が思った以上に沈んだ声が出てしまった。案の定というべきか、フルルがこちらを見上げて「ごめん」と眉を下げた。
「あんまり聞きたくないよね」
「ううん。あたしにも関係あることだから、ちゃんと聞くよ。でも、
屋根の向こうを見上げて呟く。
「一体、どうしたら良いんだろう」
「まあ――MDPがひとつ考えてるのは、ハイデラバードと交渉して、より標高の高い地域に街の機能を移すってことですね」
「……なんでハイデラバード?」
あまり、いい思い出はない場所だった。リヤンが思わず顔をしかめると、レゾンが苦笑いで応じてみせる。
「ほら、あれだけの街を作れるってことは、建築技術がかなり発達してるってことじゃないですか。うまいこと協力してもらえるように、なんか……俺たちの件を盾に、交渉してるらしいですよ」
「……え、えぇ?」
半月ほど前、地下へと続く洞窟にいたリヤンたちは、水晶の盗掘だと勘違いされて、ハイデラバードの人々に捕らえられた。その誤解は解けたのだが、リヤンが
あのときは必死の思いで逃げ出したのに、今度はそれを交渉材料として利用されているらしい。
「なんか、
「まあ……使えるものは使うべきだし、仕方ないよ。リヤンは良い顔しないだろうけど」
洗った靴を履き直して、フルルが立ち上がる。
「それに、少なくとも、もうひとつの……地下に移住するって選択肢よりは、全然マシだと思う」
「あぁ……フルル、地下に行くの嫌がってたもんね」
かつて地上を攻撃した“
「ラピスが水没して、その地下で暮らすってことは――」
フルルが空を見上げたので、リヤンは彼女の視線を追いかける。
「この空の代わりにさ、頭の上に濁った水溜まりがあるってこと……だよね。もし天井にひびひとつでも入れば、私たちは為す術もなく、溺れて死ぬ」
「そっか――そうだね」
そう考えると、堅牢な要塞に思えていたハイバネイト・シティも、とたんに頼りないものに見えてくる。地上で暮らし続けるにしても、地下への移住を選択するにしても、どれも一筋縄ではいかないようだ。
「あたしたちは……どこに行くんだろう」
晴れ渡った青空に、途方もない問いかけが吸い込まれていった。