chapitre136. 空と地と人々

文字数 4,124文字

 ――創都345年1月27日 午後1時02分
 ――新都ラピス MDPヴォルシスキー支部

 少し立て付けの悪い扉を開けると、外階段に出る。寒気を湛えてこちらをじっと見下ろすのは、澄み切った冬の青空だ。息を吐き出すと、それは瞬く間に白く濁って、天の方角に昇っていった。

 ところどころ段を飛ばしながら、リヤンは階段を駆け下りて建物の裏手に回る。顔見知りのMDP構成員がこちらに気づいて、あら、と首を傾げた。

「ごめんね、今日の分はもう洗っちゃった」
「あ――遅かったですか。ごめんなさい」

 洗濯を手伝うつもりで、裏の手洗い場までやってきたのだった。シーツを両手で抱えたまま頭を下げると、彼女は大げさな素振りで首を振ってみせる。

「いいのいいの、ただでさえ協力してもらってるのに、そこまでしてもらっちゃ悪いよ。それにリヤンちゃん、今日でスーチェンに帰るんでしょ?」
「はい。そう聞いてますけど」
「だったら尚更、気にしなくていいよ」
「で、でも……あたしが使ったものですから」

 リヤンがかつて暮らしていた宿舎では、料理も洗濯も掃除も、みんなでするものだった。得手不得手で分担されることはあっても、家事をしない人はいなかったのだ。それを思い出してリヤンが眉を下げると、洗濯かごを抱えた彼女は苦笑した。

「宿舎……だっけ? 貴女が前に住んでたの」
「はい。バレンシアの」
「そう、貴女を見てると……良い人に囲まれて育ったんだなぁって思うよ」
「――そうでしょうか」

 目を瞬かせたリヤンに、ほら、と言って彼女は洗濯かごを持たせる。それと入れ違いに、腕に抱えていたシーツを受け取った。

「そしたら、良かったら、私の代わりに干してきてくれる? 貴女が来るのが遅かったってことは、他にも後から来る奴がいるだろうしさ。後で、もう一回まとめて洗うよ」
「あ――はい!」

 ありがとうございます、と頭を下げて、リヤンは今度は外階段を駆け上がった。途中で折り返しのある階段を昇っていくと、別棟に続く渡り廊下に、顔見知りの少年を見つけた。洗濯かごを足下に置いて、おおい、と手を振ってみせる。

「ティア君!」
「あ――リヤンさん」

 彼はすぐこちらに気がついて、笑顔を返してくれる。まだ包帯やガーゼが身体のそこかしこを覆っているが、最近は少し歩く程度なら問題ない程度には回復したようで、リヤンはそれが自分のことのように嬉しかった。

「洗濯ですか」

 片足を引きずりながら、彼はこちらに歩いてくる。

「僕も手伝えること、ありますか」
「えっ、大丈夫なの?」

 包帯に覆われたままの手を見て訊ねると、ティアは頷いて、軽く肩を回して見せた。

「筋肉が落ちないように……ちょっとずつなら、むしろ動かした方が良いって言われてるんです」

 ならば、彼の申し出を断る理由は何もなかった。ティアの後をついて外階段を昇り、屋上に向かう。空きスペースを横断するように渡されたロープが、物干し竿の代わりだ。大小のタオルやシーツ、衣服をひとつひとつ手で伸ばしてから干していく。

「そういえば」

 背伸びをしてハンドタオルを干しながら、ティアがふと思い出したように呟いた。

「リヤンさんは……いつの間にか、MDPの組織に入ってたんですね」
「うん。正式な構成員じゃないけどね」

 MDPの正式な構成員ならば、その証として金属製の笛を首から提げている。本来の業務である、伝令鳥(ポルティ)を呼び集めるために使う笛だが、臨時構成員であるリヤンには配布されていない。配電系統の回復に伴って、MDPの本業である、伝令鳥(ポルティ)を用いた原始的な情報交換をする必要がなくなったのだ。本来なら鳥たちを集めるときに使う止まり木が、今となっては物干しロープの支柱代わりに使われているほどだ。

「去年の暮れに、フルルと一緒にスーチェン支部に行って。それからずっと、MDPのお手伝いをしてるんだ」
「あれ……じゃあ、正式な所属はあちらってことですか?」

 ティアが不思議そうに首を捻る。

「こっちの支部には何をしに?」
「えっと――」

 心臓がぎゅっと掴まれたように痛くなって、リヤンは慌てて後ろを向いた。大きなタオルを干している振りをして、笑顔を作り直すまでの時間を稼ぐ。

「ちょっと、調べごとを――ね」

 嘘ではない。

「そうでしたか」

 ティアは笑って、次の洗濯物に手を伸ばす。

 調査をしているのは本当だ。

 ただしリヤンは、調べる側ではなく調べられる側だ。一般に生殖機能が抑えられていると言われるラピス市民と比べて、出生管理施設以外で生まれた人間――いわゆる野生(ソヴァージュ)である自分は、どこがどう違っているのか。もっと直接的に言うならば、なぜ妊娠できる身体なのか、それを調べられている。

 小柄なティアの後ろ姿をちらりと見た。

 自分が彼の年頃だったときと比べれば、ずっと大人びていて賢いとはいえ、まだ10歳かそこらの子どもに話したいことではない。ティアがそれ以上は追求してこなかったことに安堵しつつ、最後の洗濯物を手に取った。

「――あれ」

 シーツを固定するために爪先立ちになると、視界の隅、茶色く枯れた草むらに人影を見つけた。リヤンは大きく手を振って、見知った仲であるふたりの名前を呼ぶ。

「フルル、レゾン君!」

 すぐに彼らも気がついて、こちらに手を振り返す。半月ほど会えていなかった友人たちの姿を見て、心臓の痛みはどこかに飛んでいった。干したシーツを整えてから外階段を駆け下りようとして、すんでのところで置きっぱなしの洗濯かごに気がつき、引き返す。

 ステップでも踏むように慌ただしく跳ね回ったリヤンを見て、ティアが屈託ない表情で笑う。

「かごなら、僕、戻しておきますよ」
「わぁ、ごめん。ありがとう!」

 彼の好意に素直に甘えてから、今度こそ階段を駆け下りた。下で待っていてくれた友人たちが出迎えてくれる。同い年の友人であるフルルが片手を上げて、ひとつ年下の少年、レゾンは小さく頭を下げた。

「や。元気?」
「お久しぶりです」
「久しぶり、うん、元気、かな――えっとぉ、迎えに来てくれたの?」

 以前にスーチェンからこちらに来たとき、フルルが付き添ってくれたことを思い出して、リヤンは首を傾げた。ふたりが答える前に気がついて、ううん、と今度は首を振る。

「違うか。それなら、わざわざふたりで来ないよね」
「うん、えっと――こちらが人手が足りなくなるから、来るように言われて。リヤンも、もしかしたらまだ、残ってもらうかも」
「足りなくなる……?」

 リヤンが首を傾げると、レゾンが頷いた。

「今朝付けで、そう伝えられて」
「なんで?」
「いや、俺たちもまだ、詳しいところは聞かされてないんですけど。それで、まぁその――ちょうどリヤンさんの検査が終わる日でもあるってことで、来ました」
「ふぅん……」

 よく分からないな、と首を捻ると「とりあえずさ」とフルルが眉を下げた笑顔を浮かべた。

「水場に案内してもらっても良いかな。ふたりとも足がドロドロでさ」
「わ――ホントだ」

 彼らはふたりとも膝下まである革靴を履いていたが、その履き口を越えて、太腿くらいまでが泥まみれになっていた。

「一体どうしたの?」

 裏の手洗い場に案内しながら、振り返って訊ねると、ふたりは一様に苦い表情を浮かべた。一瞬だけ目を見合わせてから「実は」と沈んだ声が切り出す。

「……川がかなり増水してて」
「え、それって――」
「はい、“春を待つ者(ハイバネイターズ)”たちが言ってきた通り、水没の前兆……だと思います。この分だと、本当に、春にはここに住めなくなるかもしれません」
「そっか……」

 靴を洗っているふたりを眺めながら呟くと、自分が思った以上に沈んだ声が出てしまった。案の定というべきか、フルルがこちらを見上げて「ごめん」と眉を下げた。

「あんまり聞きたくないよね」
「ううん。あたしにも関係あることだから、ちゃんと聞くよ。でも、()()に住めないなら――」

 屋根の向こうを見上げて呟く。

「一体、どうしたら良いんだろう」
「まあ――MDPがひとつ考えてるのは、ハイデラバードと交渉して、より標高の高い地域に街の機能を移すってことですね」
「……なんでハイデラバード?」

 あまり、いい思い出はない場所だった。リヤンが思わず顔をしかめると、レゾンが苦笑いで応じてみせる。

「ほら、あれだけの街を作れるってことは、建築技術がかなり発達してるってことじゃないですか。うまいこと協力してもらえるように、なんか……俺たちの件を盾に、交渉してるらしいですよ」
「……え、えぇ?」

 半月ほど前、地下へと続く洞窟にいたリヤンたちは、水晶の盗掘だと勘違いされて、ハイデラバードの人々に捕らえられた。その誤解は解けたのだが、リヤンが野生(ソヴァージュ)であることを口走ったばかりに、そのまま拉致されかけたのだ。

 あのときは必死の思いで逃げ出したのに、今度はそれを交渉材料として利用されているらしい。

「なんか、非道(ひど)いなぁ」
「まあ……使えるものは使うべきだし、仕方ないよ。リヤンは良い顔しないだろうけど」

 洗った靴を履き直して、フルルが立ち上がる。

「それに、少なくとも、もうひとつの……地下に移住するって選択肢よりは、全然マシだと思う」
「あぁ……フルル、地下に行くの嫌がってたもんね」

 かつて地上を攻撃した“春を待つ者(ハイバネイターズ)”の根城であり、管理AIという得体の知れない存在に支配されたハイバネイト・シティを、フルルはかなり怖がっている様子だった。そのことを思い起こしながら答えると「それもそうなんだけど」と彼女は唇を横に引いた。

「ラピスが水没して、その地下で暮らすってことは――」

 フルルが空を見上げたので、リヤンは彼女の視線を追いかける。

「この空の代わりにさ、頭の上に濁った水溜まりがあるってこと……だよね。もし天井にひびひとつでも入れば、私たちは為す術もなく、溺れて死ぬ」
「そっか――そうだね」

 そう考えると、堅牢な要塞に思えていたハイバネイト・シティも、とたんに頼りないものに見えてくる。地上で暮らし続けるにしても、地下への移住を選択するにしても、どれも一筋縄ではいかないようだ。 

「あたしたちは……どこに行くんだろう」

 晴れ渡った青空に、途方もない問いかけが吸い込まれていった。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

リュンヌ・バレンシア(ルナ)……「ラピスの再生論」の主人公。統一機関の研修生。事なかれ主義で厭世的、消極的でごく少数の人間としか関わりを持とうとしないが物語の中で次第に変化していく。本を読むのが好きで、抜群の記憶力がある。長い三つ編みと月を象ったイヤリングが特徴。名前の後につく「バレンシア」は、ラピス七都のひとつであるバレンシアで幼少期を送ったことを意味する。登場時は19歳、身長160cm。chapitre1から登場。

ソレイユ・バレンシア(ソル)……統一機関の研修生。リュンヌ(ルナ)の相方で幼馴染。ルナとは対照的に社交的で、どんな相手とも親しくなることができ、人間関係を大切にする。利他的で、時折、身の危険を顧みない行動を取る。明るいオレンジの髪と太陽を象ったイヤリングが特徴。登場時は19歳、身長160cm。chapitre1から登場。

カノン・スーチェン……統一機関の研修生で軍部所属。与えられた自分の「役割」に忠実であり、向学心も高いが、人に話しかけるときの態度から誤解されがち。登場時は19歳、身長187cm。chapitre1から登場。

アルシュ・ラ・ロシェル……統一機関の研修生で政治部所属。リュンヌの友人で同室のルームメイト。気が弱く様々なことで悩みがちだが、優しい性格と芯の強さを兼ね備えている。登場時は19歳、身長164cm。chapitre3から登場。

ティア・フィラデルフィア……とある朝、突然統一機関のカフェテリアに現れた謎の少年。ラピスの名簿に記録されておらず、人々の話す言葉を理解できない。登場時は10歳前後、身長130cm程度。chapitre1から登場。

サジェス・ヴォルシスキー……かつて統一機関の幹部候補生だったが、今の立場は不明。リュンヌたちの前に現れたときはゼロという名で呼ばれていた。赤いバンダナで首元を隠している。登場時は21歳、身長172cm。chapitre11から登場。

ラム・サン・パウロ……統一機関の研修生を管理する立場。かつて幹部候補生だったが現在は研修生の指導にあたっており、厳格だが褒めるときは褒める指導者。登場時は44歳、身長167cm。chapitre3から登場。

エリザ……かつてラ・ロシェルにいた女性。素性は不明だが「役割のない世界」からやってきたという。リュンヌと話すのを好み、よく図書館で彼女と語らっていた。笑顔が印象的。登場時は32歳、身長155cm。chapitre9から登場。

カシェ・ハイデラバード……統一機関政治部所属の重役幹部。有能で敏腕と噂されるがその姿を知る者は多くない。見る者を威圧する空気をまとっている。ラムとは古い知り合い。登場時は44歳、身長169cm。chapitre12から登場。

リヤン・バレンシア……バレンシア第43宿舎の住人。宿舎の中で最年少。年上に囲まれているためか無邪気な性格。登場時は17歳、身長152cm。chapitre31から登場。

アンクル・バレンシア……バレンシア第43宿舎の宿長。道具の制作や修繕を自分の「役割」に持つ、穏やかな雰囲気の青年。宿舎の平穏な生活を愛する。登場時は21歳、身長168cm。chapitre33から登場。

サテリット・バレンシア……第43宿舎の副宿長。アンクルの相方。バレンシア公立図書館の司書をしている。とある理由により左足が不自由。あまり表に現れないが好奇心旺盛。登場時は21歳、身長155cm。chapitre33から登場。

シャルル・バレンシア……第43宿舎の住人。普段はリヤンと共に農業に従事し、宿舎では毎食の調理を主に担当する料理長。感情豊かな性格であり守るべきもののために奔走する。登場時は21歳、身長176cm。chapitre33から登場。

リゼ・バレンシア……かつて第43宿舎に住んでいた少年。登場時は16歳、身長161cm。chapitre35から登場。

フルル・スーチェン……MDP総責任者の護衛及び身の回りの世話を担当する少女。統一機関の軍部出身。気が強いが優しく、MDP総責任者に強い信頼を寄せている。登場時は17歳、身長165cm。chapitre39から登場。

リジェラ……ラ・ロシェルで発見されたハイバネイターズの一味。登場時は22歳、身長157cm。chapitre54から登場。

アックス・サン・パウロ……コラル・ルミエールの一員。温厚で怒らない性格だが、それゆえ周囲に振り回されがち。登場時は20歳、身長185cm。chapitre54から登場。

ロマン・サン・パウロ……コラル・ルミエールの一員。気難しく直情的だが、自分のことを認めてくれた相手には素直に接する。登場時は15歳、身長165cm。chapitre54から登場。

ルージュ・サン・パウロ……コラル・ルミエールの一員。本音を包み隠す性格。面白そうなことには自分から向かっていく。登場時は16歳、身長149cm。chapitre54から登場。

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み