超越者
文字数 8,452文字
「……これは」
以前にもこんな夢を見た、と思い出す。天井も壁も床も存在しない、六方面すべてが真っ白に染まった世界。エリザが前方を見つめていると、白い靄にわずかな濃淡のコントラストが生まれ、それは寄り集まって無数の腕になった。
「やあやあ、久しぶり」
怪物めいた姿から、馴れ馴れしい台詞が発せられる。
「きみから見たら、えっと……二年ぶりくらいになるかな。いやぁ……久しぶりに見つけられたよ。もうちょっと頻繁に祈ってもらわないと、本格的に、きみがいる場所を見失っちゃいそうだ」
「あ……貴方、は」
緊張と驚きで、喉がからからに渇いていた。
エリザは自分の身体を抱きしめながら、掠れる声を絞り出す。
「誰、なんですか」
「うん、まあ……そろそろ、教えても良いのかな。って言っても、ぼくらには名前はないんだけど……D・フライヤとか呼ばれてることが多いね」
「ディメンション……次元、飛翔体?」
「そうそう」
「って、何……ですか」
エリザが震えながら問いかけると「そうだね」と彼は頷いた。
「五次元宇宙……きみたちの知覚する四つの次元に、分岐する世界の軸を足して五次元。過去や未来、あるいはここではない、可能性によって存在しうる別世界……それら全てを、あまねく監視している目、形を持たない知性――そんなところかな」
「別の世界って」
「たとえば……きみは、世界を変えてしまうほどの決断をしたことはあるかい?」
腕のひとつが、ぴしりとエリザを指さした。
「きみたち人間はときどき、世界のあり方さえ変えてしまうような、きわめて大きな決断をすることがある。その決断によって未来が分かれ、分岐した世界は、五次元宇宙空間においては何れも存在しているのさ。
「大きな決断、って」
「きみたちの場合の
「言語?」
「そう。
「同じこと……公用語が決まるってこと、ですか」
「そう。七人の『祖』たちは、それぞれ、自分のネイティブ・ランゲージを新世界の公用語にしたかった。だから喧嘩したんだ」
「喧嘩……」
エリザはぼんやりと呟く。
公用語の選択、という重大そうなテーマに反して、やけに牧歌的な表現だった。D・フライヤと名乗った腕たちは「まあ、そんなわけで」と暢気に腕を組む。
「世界は複数存在する。まずはそれを理解して欲しい」
「え、えっと――」
「そう言われても、実感がないと分からないよね」
D・フライヤは手を広げて「だからさ」と言った。
腕のひとつがこちらに伸びてきて、エリザの手首を掴む。
「今からきみを、少しだけ別の世界に招待しよう。きみがいる分枝世界は、きみから見て大体十年くらい前に本流と分岐している。きみではないエリザが生きている世界のひとつを、今から見せてあげるよ。そうすれば、分枝世界がどんなものか、きみにも分かるはずだ」
そう言って、D・フライヤは消えた。
再び、エリザは白い靄のみが存在する世界にひとり取り残された。どこに行けばいいのか分からず、困りながら周囲を見回していると、はるか遠くから、目覚まし時計のベルの音が聞こえてきた。そちらに手を伸ばそうとして、エリザは自分が目を閉じていることに気がつく。
瞼を押し上げる。
すると、見慣れたハイバネイト・シティの天井があった。続いて視界がぐるりと回転し、部屋の壁が見えたので、どうやら起き上がったようだと分かる。身体は勝手にコントロールされており、エリザはただ、移りかわる景色を眺めていた。
服を着替え、居室を出て、洗面所で顔を洗う。柔らかいタオルで顔を拭くと、壁に掛けられた鏡に、その姿が映し出された。
蜂蜜色の長い髪、変わった色の瞳。
エリザ自身だ。
これがD・フライヤが言っていた、別世界のエリザということらしい。今のエリザは、別世界のエリザに意識だけが取り憑いていて、彼女が見ているものを一緒に眺めている――ということのようだ。
鏡のなかのエリザは、今より少し幼く見えるが、顔立ちはほぼ同じだった。
だけど、髪の艶がぜんぜん違う。ヘアオイルの類いを使っているのだろうか。蜂蜜色のロングヘアには丁寧に櫛を通され、毛先は綺麗に切り揃えられている。膝丈のワンピースにはしわがなくて、頬には明るい血色が差している。
何より。
瞳の色がぜんぜん違った。
ほとんど灰色に染まってしまったエリザの瞳とは似ても似つかない。虹のスペクトルを原色のまま閉じ込めたような、そんな色。双眸から虹色の煌めきを散らして、エリザに瓜ふたつの少女は、ハイバネイト・シティの廊下を駆けていく。
「おはようございます!」
元気に言って、彼女は食堂の扉を開ける。
向こうには六人のプロジェクトメンバーがいた。ユーウェン以外の六人だ。部屋の片隅に、いつもアマンダが料理の準備に使っているワゴンが置かれている。ワゴンに並べられた朝食をテーブルに移動させていた六人は、遅れて入ってきたエリザを咎めるでもなく、ある者は片手を上げ、ある者は笑顔を浮かべて「おはよう」と応じた。
「エリザ」
声を掛けてきたのはサティだった。
「午後、交渉に行くぞ。この間も行った庁舎の……覚えてるな?」
「あ、えぇと……」
エリザは言い淀んでいる。
当然だろう――と、それを眺めているエリザは思う。サティに連れられて交渉に行くということは、帰り道にあの廃屋に連れ込まれることを意味するからだ。小さく首をかしげたエリザは「覚えてはいるんですけど」と困ったように言った。
「今日、ジゼルさんに呼ばれてて……」
「そうだな。木曜午後はラボに来てもらう日だ」
「あれっ。そりゃあすみません」
そう言ってサティが振り返り、ポットからホットティーを注いでいるジゼルに小さく頭を下げる。ジゼルはカチャリと音を立ててコップを置き、それから顔を上げて、エリザに「サティの方に同行しろ」と言った。
「私の予定はずらせる。サティ、交渉からいつ帰る」
「えっと……」
くるりと目を回して、サティが「五時くらいですね」と言う。
「ブラウン区画長の機嫌次第ですけど。まあ、それまでには戻れます」
「承知した。じゃあ……そうだな。悪いがエリザ、夕食後にラボに来てくれ。見てもらいたいものがあるんだ」
「はいっ、分かりました」
溌剌と返事をして、エリザはワゴンの方に向かう。
エプロンをしたアマンダが振り返って「これ、貴女の」と皿を渡してくれた。パンと人工肉のパテ、サラダ、足りない栄養を補うための錠剤というメニューは見慣れたものだが、皿の片隅に、プラスチックの袋に包まれた焼き菓子が二つ乗っている。
「これは?」
「マカロンって言うんだって」
アマンダが答える。
「ルーカスさんが取引先からもらってきたんだよ」
「そうそう、僕がね」
備え付けの水道で布巾を洗っていたルーカスが、片手を振る。
「プロジェクトメンバーに女の子がいるって聞いた先方が、じゃあ甘いお菓子でも、って言ってさ、それをくれたんだよ」
「女の子なら甘いものが好きなんて、短絡的よね!」
マリアが振り返って、腰に手を当ててみせる。彼女は、使い終えたティーポットをワゴンに戻したところだった。うっすら香水の匂いを身にまとわせた彼女は、エリザが料理を運ぶのを手伝ってくれる。左手の薬指に、銀色のリングが輝いているのが見えた。
「サティから聞いてるわよ。ランチに寄るとき、結構スパイシーな料理とか注文してるって。ねぇルーカス! 次があったら、もっとエリザの要望も聞いてあげて」
「あくまで向こうの厚意だからなぁ……」
ルーカスが手を拭きながら苦笑する。
その左手にも、同じく銀色のリングが嵌められていた。
「でも、エリザの好みを聞いておくのは大事かな。君のとこのエリザちゃんは何が好きなのって聞かれたときに、分かりません、何でも良いです、じゃ先方も困っちゃうしね」
「あはは……でも、甘いものも好きです。ぜんぶ好きだと思います」
エリザがそう答えると、周囲が暖かい笑いに沸いた。
その中で、ひとつ咳払いをした者がいる。エリザが気がついて振り返ると、それまで黙っていたプロジェクトリーダーのニコライが、やや険しい顔で「サティ」と呼びかけた。
「外食はなるべく控えるように言っているな?」
「あっ、やべ……スミマセン」
サティが気まずそうに頭をかく。マリアが「あっ」と呟いて口元を押さえ、サティに向けて両手を合わせ「ごめんなさい」のジェスチャをしてみせた。静まりかえった食堂をぐるりと見回して、ニコライはわずかに眉を下げた。
「まあ……少しは見逃すがね。とくにエリザには、無理を言ってハイバネイト・プロジェクトに関わってもらっているわけだから……たまの贅沢くらい許そう。ただしサティ、君は正式なメンバーなんだから、素行には気をつけてくれ。君たちは、閉鎖環境で生活が問題なく営めるかどうかの実験台でもあるんだ。分かっているだろう?」
「分かってますけど……じゃあ、彼女をランチに連れてって、俺はお冷やだけ?」
「理想はそうだな。厳密には水もダメだ」
「マジっすか。お店に怒られますよ……」
「だから、少しは見逃すと言ったんだろう」
そう言って、ニコライは苦笑する。
「息抜きは必要だ。サティ、君にもな。ただ、栄養の収支が不明になるのは困る。だから外で食事をしたら、メニューと食事時刻をジゼルに伝えるようにしてくれ」
「はい。了解です」
サティが頷く。
一同は食堂の椅子に腰を下ろし、和気藹々と食事を始めた。ニコライが「そう言えば」と会話を切り出して、ユーウェンが追加メンバーとしてプロジェクトに関わることを一同に説明しはじめる。楽しげに会話に加わっているエリザを見ながら、意識だけをそこに宿らせているエリザは、頭のなかで叫んだ。
――もう、止めて。
見ていれば、嫌でも分かる。このエリザは、やはり未来視の目を買われた立場ではあるが、プロジェクトメンバーに大切にされている。この世界のサティは、少女にセックスを強要しようだなんて考えたこともないだろう。他のメンバーも、エリザが知っている人たちと同一人物に見えるが、性格はまったく違うようだ。
「別世界、の意味が分かった?」
ふと近くでD・フライヤの声が聞こえて、そう言った。
白い腕がどこかから生えてきて、ぱちんと指を鳴らした。その音と同時に、賑やかな朝食の一幕は停止して、砂の像が崩れるようにさらさらと消えていく。唯一、消えずに残ったエリザとD・フライヤは、ふたたび真っ白い世界で向かい合った。
「どう、エリザ」
「どうって――」
エリザは白い腕たちを睨みつけた。
「どういうつもりですか。なんで私に、あんなものを見せるの……!」
「なんでって? 分枝世界というものを、端的に説明したつもりなんだけど」
「……それは、分かりました」
エリザは深く息を吐く。
「嫌と言うほど」
「それは良かった」
皮肉めいた口調は、D・フライヤにさらりと受け流される。
「さて……話を続けよう。さっきのエリザは、やがてぼくの力で、だいたい三世紀後の未来に飛ばされる。七つの語圏……公用語が異なる七つの世界に、それぞれひとりずつ存在するようになる」
「未来に……なぜ、そんなことを」
「エリザに色々な経験をさせたいからさ。ぼくはきみが好きだからね」
D・フライヤは事もなげに言った。
「ハイバネイト・プロジェクトは先駆的な事業ではあるけど、やっぱり狭い場所に閉じこもっていると、できる経験は限られる。だから未来の世界に移動させたんだよ。きみも見たことがあるんじゃないかな。たとえばラ・ロシェル語圏のエリザ……カシェという名の、背が高い金髪の女と……ラムという男がいて、エリザと親しげに話している景色――」
「あ……!」
脳に電流が走ったような感覚がして、エリザは弾かれたように顔を上げた。
「し、知ってます! それ、昔、夢で見て!」
「ああ、やっぱりそうでしょ。それは夢じゃなくて、きみの未来視だよ」
「えっ、あのっ……でも、私」
混乱しながらも、エリザは小さく首を振った。
「人間の未来は見えないって言われました。えっと……不確定性がどうとか、って。人間が何を考えて、次にどうするかっていうのは、私の目じゃ見えないはずだって……」
「うん。そうだよ」
D・フライヤはあっさりと頷いた。
「だからこそぼくは、計り知れないきみたちに興味があるのさ。そう、エリザ、きみには人間の未来は見えない。そして、その能力はぼくがあげたものだから、ぼくにも未来は見えない。ただ、今ある条件から類推して、蓋然性がもっとも高いものを見つけることはできる。きみが未来視と呼ぶものは、いわば予測に過ぎないのさ」
「じゃあ、なんで――」
「どうして、はるか未来の人類文明が見えるのか、と問いたいんだね?」
「そう、です」
エリザは頷く。
D・フライヤの話は難解だが、意外なほど丁寧に質問に答えてくれるので、エリザは順調に彼から情報を引き出せていた。だからこそ矛盾に気がついた。ラムやカシェと出会ったあの夢が未来視だと言うのなら、その主張は、エリザには人間の未来が見えないという仮説と、真っ向から対立する。
「ラムとカシェ……あの二人は未来に生まれる人間ってことでしょう。その人たちの行動が、あんなにハッキリ見えるって言うのは、私の未来視じゃ説明できないはずです」
「うんうん」
D・フライヤは楽しそうに相槌を打つ。
「やっぱりきみは、鈍いフリをしてみても、本当は勘が鋭いよね。そう、きみの言うとおり。予測不能性に満ちている『人間』の『未来』は見えないはずなのに、現にきみは、人間であるあの二人の姿を見た――なら、この矛盾を解決するにはひとつしかないよね」
人さし指を一本立てて、D・フライヤが淡々と告げる。
「あれは未来じゃなくて、過去なんだよ」
その声は、白い空間にしんと響く。
エリザはとっさの返事ができなかった。D・フライヤの言い分は、たしかに理屈自体は通っている。人間の未来は見えない――という文章を構成する要素は二つだ。人間で、かつ、未来に存在する者の姿は見えない。だけど、ラムやカシェが人間なのは明らかだ。ならば「彼らが未来に存在する」という方を否定してしまえば、矛盾が生じない。
それは分かるけれど。
「でも、だって……未来なんでしょう、あれは。貴方だって、そう言った。あれは遠い未来で再建された人類文明だって、自分で言いましたよね?」
「うん、そうだね。だけどあれは、すでに決定した歴史の一部でもあるんだよ。いま、時間軸の最先端――フォアフロントは、きみから見ておよそ四世紀後に存在する……そうだね、もうすこし分かりやすく言ってあげようか」
渦巻く白い空間で、D・フライヤは静かに言う。
「四世紀後まで、七つの世界における歴史は決定している」
「歴史……」
「一厘の猶予もなく完璧に決定しているんだ。だからこそ、きみは未来を見ることができた。きみから見たあれは、時間軸のうえでは未来だけど、因果を刻み終えているかどうかという点で見れば過去なのさ。映画を見ているようなものだね……って、あれ」
エリザはその場に膝を突いた。
与えられた情報が衝撃的すぎて、とても処理できない。全力で走った後のように呼吸が荒くなり、視界が涙でにじんだ。白い腕たちがエリザの周囲を取り囲んで、不安げに「大丈夫?」と尋ねてくる。
「ビックリさせすぎたかな」
「……っ、じっ――じゃあ、私、は」
荒い呼吸のはざまで、どうにかエリザは言葉を紡ぐ。
「私の未来も……実は、もう、最後まで決まってるんですか」
「ううん、それは違うよ」
腰を付いたままのエリザの前に、二本の手がやってくる。片方は手のひらを大きく広げて、もう片方は親指と小指だけを折り畳み、残りの指をぴんと伸ばしてみせた。
「きみは、八人目のエリザなんだ。四世紀後まで因果を刻み終えた七つの世界と違って、きみのいる第八の分枝世界は、まだ、コモン・エラが終焉するすこし前……つまり、きみにとっての『今』までしか、歴史が決定されていない」
D・フライヤはそう言ってから「とはいっても」と腕を組んだ。
「ほか七つの世界から見て、ここは絶対的に過去だから、どうしても他の世界に影響されるけどね。不自由で歪んだ世界なんだ、ここは。その点は、きみには申し訳ないけど」
「ゆ、歪んだって……どうして」
「歪めないと作り直せないんだよ。同じような世界を作り直すと、既存の分枝世界に合流してしまうんだ。だから細かいところを変える必要があった。とくにプロジェクトメンバーの性格は、かなり作り替えたかな」
メンバーの性格を作り変えた。
その言葉は、第八の分枝世界――とD・フライヤが呼ぶ場所で生きているエリザにとって、衝撃的すぎた。見開いた両目から、冷たい涙が頬を伝って落ちていく。同時に、今までは受け入れる他になかったいくつもの嫌なことが、頭のなかに次々と浮かび上がった。彼らが揃いも揃って酷い人ばかりなのは、じゃあ、全部――
「……あなたが」
「うん?」
「貴方が、本当は優しかった人たちを、今みたいにしたんですか……?」
「そうだよ」
冷たい指が、エリザの頬に伝った涙を掬う。
「ここはね……ぼくが書き直した物語のなかなんだ。既存の歴史から世界の姿をコピーして、それが既存の七つの世界と混ざらないよう、色々と手を加えた。きみを中心にして作り直した世界だから、きみの周りほど歪んでいる」
「なんでっ……」
ぼろぼろと泣きながら、エリザは目を見開いた。
「なんで、そんな酷いことするんですか。こんな苦痛ばかりの世界、どうして……こんなっ、こんなの、作り直したって、良いことなんて、何もなかったじゃないですか……わたしっ……の、望んでなんて、ない……!」
「そうだね。きみは望んでないかもしれない」
嗚咽するエリザに、D・フライヤは静かに告げた。
無数の白い腕から構成された姿が揺らぎ、変化していく。その姿は、いつかも見たオリーブブラウンの髪を持つ女性の姿になり、彼女は泣いているエリザの目の前に座った。体温を感じない両手が、エリザの手を包むように握る。
「きみの娘……リュンヌが、いずれ、この分枝世界にやってくる」
伏し目がちな目元を持つ女性が、じっとこちらを見ていた。
青色の瞳が、ひどく恐ろしいものに見えて、エリザは小さく悲鳴を上げる。
「そのための『箱』が必要だったんだよ」
「や……やだっ、嫌……」
エリザの娘であるという女性の姿を借りたD・フライヤは、震えているエリザの肩に手を伸ばす。そのまま抱きしめられたエリザの耳元で、何重にも重なり合った小さな声が「仕方ないんだよ」とささやいた。
「起きてしまった結果は変えられない」
「嫌ですっ……」
「そして、リュンヌがこの世界に来るのには、ちゃんと意義がある。だから、この世界を消すつもりもない」
「そんなの、関係ない。知らないです……」
「……それに」
D・フライヤの、あるいはエリザの娘の指が、エリザの髪を撫でた。やけにゆっくりとした動きが、髪の毛の一本一本を梳いていく。エリザを抱きしめた腕にひときわ力が込められて、ほとんど風音のような声が呟いた。
「今度こそ、八人目のきみこそは……ぼくのことを――」
「……え?」
「あぁ……いや」
はっと気がついたように、D・フライヤは抱きしめていた身体を離す。
「なんでもないよ」
その言葉とともに、彼はいなくなった。
同時に真っ白い世界も消えて、エリザはハイバネイト・シティの居室で目を覚ます。寝台に中途半端にもたれかかったまま眠っていたせいで、腰が痛い。凝り固まった身体を伸ばしながら起き上がって、時計を見ると、居室に戻ってから一時間も経っていなかった。ずいぶん長い夢に思われたのに、眠っていた時間はさほど長くないようだ。
「ただの夢……じゃ、ないよね……」
エリザは呟く。
あの白い世界で出会ったD・フライヤと名乗る存在のことや、彼と交わした会話の内容は、いずれも鮮明に覚えていた。一連のやり取りは辻褄が合っており、また、今までに見聞きしてきた幾つかの記憶とも合致する。それらの全てが、エリザの脳が作り出した幻覚だと考えるよりは、夢のなかでD・フライヤが語った内容をそのまま事実として受け止めた方が、明らかに理に適っていた。
自分は何者なのか。
なぜ、未来視の力があるのか――その問いに対する答えは、得られた。
「……知らない方が良かった」
寝台にうつ伏せに倒れ込んで、エリザはそう呟いた。