転げ落ちる
文字数 7,333文字
だが、それをプロジェクトメンバーから咎められることはなかった。唯一、代わりに仕事を押し付けられたらしいアマンダだけ、凄まじい形相でこちらを睨んだが、表立って何か言ってくることはなかった。
「
居室で寝転がっていると、ルーカスが訪ねてきてそう言った。
「体調が悪いんだってね。食事の支度は僕たちでやるから、君はゆっくり休んでいなよ」
エリザは返事をせず、ブランケットを被りなおした。
誰にも文句を言われなかったのは、おそらくルーカスが根回しをしたのだろう、とエリザは考えた。根回しといっても、アマンダにすべての仕事を押し付けただけだろうけど。他のプロジェクトメンバーは、誰が食事の支度をしているかなどは、興味の対象としていない。とにかく、ルーカスが手を打ったおかげで、エリザは叱責されずに済んだようだ。
もちろんルーカスのそれは、優しさではないけど。
「……ルーカスさん」
うつ伏せに倒れたまま、エリザは言った。
「明日からも、食事の支度をしないことって、できますか」
ルーカスは一秒だけ間を挟んでから「いいよ」と、にこやかに答えた。
利用できるものは利用してやろう、とエリザは思った。本物の善――そんなものがあるのか分からないけど――と、偽善――こちらは世界中にありふれているものだ――は、見分けがつかない。なら、偽善と分かりきっているものだろうが、頼ってしまえば良い。
マットレスが軽く弾む。
寝転がっているエリザの隣に、ルーカスが腰を下ろしたようだ。声のトーンを少し落ち着かせて「任せて」と言う。こちらを籠絡しに来たようだ、とエリザは思った。彼の、穏やかで密度の高い声は、どうも同年代の異性には――マリアのような女性には、たまらなく魅力的に感じられるらしいから。
「そうしたら時間の余裕ができるね、エリザ。この間は邪魔が入っちゃったけどさ、あの店、今度もう一度どう?」
「……良いですよ。市内に出た帰りなら」
「本当に? ふふ、嬉しいなぁ」
「私も嬉しいです」
心なんて微塵も込めないまま、エリザはそう答えた。
ルーカスの指先が頭皮に触れて、寝癖でぐちゃぐちゃになった髪の毛を掬い上げる。指と指の隙間に髪の毛を通して、手触りを楽しむように弄んでいる。断りも入れず、勝手に触られているわけだが、もう文句を付ける気もしなかった。昨日は暴力的なほどの気持ち悪さを感じたエリザだが、今は何だか、すべてどうでも良いように思われた。
その日から、エリザのスケジュールは変わった。
もともと、ハイバネイト・プロジェクトにおいてエリザが満たしている役割は少ない。ジゼルに対する研究協力がほとんどで、あとは、以前サティとブラウン区画長のもとを訪れたときのように、秘密裏の交渉に同行するくらいだ。未来視の目など、一般市民から見ればオカルト以外の何ものでもないので、エリザが公の場に出ていくことは少ない。
一日の大半を埋めていたのは、プロジェクトメンバーの身辺の世話だった。
だが、食事の支度を免除されたことで、負担は大きく減った。自分の服の洗濯と、自分の部屋の掃除くらいはやっているが、それだけだ。アマンダから仕返しのように食事の量を減らされているが、どうせ美味しくもない食事、多くても少なくても同じだった。
することがないと、時間は余る。
一日がどれだけ長いのかということを、エリザは、もしかしたら生まれて初めて体感した。朝食を食べてから寝台に寝転がって、どうにかこうにか寝付けても、やり過ごせる時間はせいぜい二時間だ。夜にも睡眠を取っているんだから眠れないのは当たり前だが、まだ正午にすら達していない時計の針を見て、エリザは大きく溜息を吐いた。
少し、喉が渇いていると気がつく。
のろのろと膝を引き寄せて、寝台から降りる。立ち上がると、血液が身体のなかで偏っていたのか、ぐらりと眩暈がした。ふらつきながらもスリッパを履き、エリザは居室を出て調理室に向かう。キッチンに備え付けの水道で水を汲んでいると、カラカラというワゴンの音がこちらに近づいてきた。
調理室に顔を出したのはアマンダだった。
彼女はエリザを見て、まるで害虫でも見つけたときのように顔を歪めたが、エリザは素知らぬ顔でコップに口を付ける。わずかにミネラルの味がする水が喉を通り抜けて、身体の奥底に落ちていった。使い終えたコップを洗っていると、その横にアマンダが立つ。二の腕どうしがぶつかって、エリザは小さくよろめく。アマンダは、わざとこちらに腕をぶつけながら、昼食の支度をしているようだった。
「……気持ち悪い」
ぼそり、と呟く声が聞こえる。
「そんな年で、もう男に取り入るんだ。あなたって」
ルーカスのことだろうか。
男に取り入る、というやや迂遠な言い回しの意味をエリザは掴みかねたが、要するにエリザがルーカスに色目を使って――より直接的に言うならば、女性である自分を対価にして、要求を押し通していると言いたいらしい。
なるほど、と納得する。あながち間違ってもいない。
エリザは無表情のままアマンダの言葉を聞き流し、洗い終えたコップを逆さまにして、水切り用のラックに置いた。ふん、と馬鹿にしたようにアマンダが鼻を鳴らして、保存庫の扉を開けた。見るからに嫌そうな顔をしておきながら、粛々と食事の支度をしている彼女は、エリザの目に、どこか滑稽に映った。
くす、と思わず小さく吹き出してしまう。
「何、見てるの」
エリザの視線に気がついたアマンダが、これでもかと眉を寄せて睨んでくる。
「早く行って。気持ち悪い」
「――か」
「あぁ?」
「断ったら良いじゃないですか」
はっきりとした口調で、エリザはアマンダにそう言った。虚を突かれたように目を見開いたアマンダの表情が、次第に非対称に歪んでいく。彼女はすぐ目の前にいるのに、まるで映画のスクリーンに語りかけているように、現実味がなかった。
「食事の支度を押し付けられて、嫌なんでしょう」
ぼやけた意識のまま、エリザは言う。
「なんで従うんですか。ボイコットしたら良いじゃないですか。嫌だって思いながら、それでも従うんですね。私のことは、そうやって睨めるくせに、他のメンバーに何も言わないのは、なんでですか――」
ぱん、という音が響く。
言葉の続きは吹き飛ばされて、音にならなかった。平手を叩きつけられた左の頬が、最初は冷たいように感じられて、それからじんじんと熱を持って痛み始める。頬を押さえたエリザがゆっくりと顔を上げると、アマンダは鬼の形相でこちらを睨みつけていた。
「……生意気な子!」
「どういう意味ですか?」
「チッ……あなたみたいな子をね、生意気って言うんだよ」
「ホントのことしか言わないのが? ホントのことをなにも言えないより、ずっと良いじゃないですか。そうやって我慢してばっかりいるより……ああ」
逆らえる相手にしか逆らわないのは、自分も同じだ。
そう気がついたとたん、妙に滑稽な気持ちになり、顔が勝手に笑顔の形になる。エリザは片手で口元を押さえ、声を上げて笑った。何が面白いのか分からないのに、お腹がよじれて仕方がない。
「あはははっ、同じですね、同じじゃないですか、私たち――」
「……本当に気味が悪い子だね」
アマンダが吐き捨てるように言った。
「同じだって。馬鹿なこと言わないでよ。私はあなたより、ずっと分かってる。あの男に取り入ろうだなんて、愚かなこと考えない。適当に言うことを聞いて、やり過ごしたほうがずっとマシだって知ってるんだよ。自分の立場も知らずに、あなた……本当、愚かなんだね」
「あはっ、あはは、はぁ……立場?」
笑いすぎて濡れた目元を拭いながら、エリザはまた小さく笑った。
「分かってますよ、そんなの。嫌と言うほど」
「……ふん」
アマンダは鼻で笑ったようだった。
「つくづく愚か。あいつの目的も知らずに」
「目的? 知ってますよ。子どもとセックスがしたいんでしょう。騙して、絆して、自分のものにしたいんでしょう」
「ふっ……」
アマンダは再度鼻を鳴らして、それから少し声を抑えて言った。
「それで済んだら幸運だね」
「……え?」
エリザが少しだけ肩を跳ねさせた、その時だった。
「やあ、二人で仲良く何の話?」
丈の短いカーテンをかき分けて、まさに話題の中心だったルーカスが調理場に顔を出した。彼の顔を見たアマンダが、面白いほど動揺をにじませる。
「話なんてっ、な、何も――」
アマンダはどもった声で言い訳をする。ルーカスは会話を聞いていたのかいないのか、曖昧な表情で「ふぅん」と首を傾げた。ウェーブした髪が肩から滑り落ちて、ちょうどエリザの目の高さ辺りで揺れる。
「……あれ?」
それから彼はエリザを見て、さらに首の角度を深くした。
「そのほっぺた、どうしたの」
言いながら、ルーカスの人差し指がエリザの頬をたどった。視界の片隅で、こそこそと肩を丸めていたアマンダが、面白いほど分かりやすく蒼白な顔になる。
「何だか腫れてるね?」
「あ、これは――」
一秒にも満たない間だけ、エリザは返事をためらった。
その間、想像した。
もしも、頬の腫れはアマンダに叩かれたせいだと言ったら、ルーカスは何をするのだろう。彼はアマンダに怒るのか、軽蔑するのか、あるいは何もしないのだろうか。こちらを横目で窺っているアマンダの表情には、今にも叫び出しそうなほどの恐怖が満ちていた。指先は小さく震え、唇からは血の気が完全に失せて、呼吸のリズムは不規則に乱れている。
それを見られただけで、薄暗い満足が胸を満たしたので、エリザは「ちょっと、ぶつけちゃっただけです」と答えた。アマンダの全身が安堵で弛緩したのが、傍目から見ても分かった。ルーカスは「ふぅん」と、またもや微妙なトーンの相槌を打ってから、エリザの肩に手を回して「じゃあ」と微笑みかけた。
「食堂に行こうよ、エリザ」
「そうですね」
肩に回された手を気持ち悪く思いながらも、エリザは頷いた。
今はまだワンピースの上から触っている手のひらが、やがて、服の内側を暴いていくようになるのだろう。キャミソールを脱がして、下着を脱がして、その下にある素肌を触る。勝手に触る。そして彼も服を脱ぎ、ぬるりとした悍ましい塊が粘膜を割って入る。エリザが凄まじい痛みと苦痛に襲われる一方で、彼は性欲と支配欲を満たし、体液を吐き出す。
最悪の展開だ。
だけど、それがどん底だろう。
それ以上の最悪なんて、あるはずもない。そしてエリザは既に、その「最悪」に何度となく晒されている。同じものが何度やってきたところで、傷つく度合いは少ない。ああまたか、と辟易とするだけ。
だから、使えるものは使うべきなのだ。
対価を求められたのなら、大人しく払えば良いだけ。
***
誰かが呼んでいる。
深い眠りのなかに漂っていたエリザは、はるか遠くに声を聞いた。音のような、あるいは微動のようなそれが、鼓膜をほんの僅かに震わせる。絹糸よりも細いものを辿り、エリザは眠りのなかで覚醒の欠片を見つけた。
白い光のようなそれに、手を伸ばす。
すると視界が大きく開けた。ライトの光量を百パーセントにしたときよりも、さらに明るい真っ白な光が広がり、網膜を焼き尽くそうとする。痛みすら覚える眩しさに、エリザはたまらず目を細めたが、目を閉じたはずなのに視界が変わらない。普段、見たくないものからエリザを切り離してくれる瞼が、今はどこにもないようだった。
「――エリザ」
声が呼ぶ。
「やあやあ、エリザ。会いに来たよ」
振り返ると、そこに若い女性がいた。
白い空間にふわりと浮いている彼女の年齢は、二十代だろうか。あごの高さで切り揃えられた髪は癖っ毛で、色はくすんだブラウン。どこか枯れ草のような風合いだった。白いシャツに黒いスラックスというユニセックスな装いの彼女だが、その声も、女性にしては低い。やや高めの男性の声、と言っても通じるのではないか。
「ええと……
彼女――なのか、彼なのか分からないが、便宜上エリザは「それ」が女性だということにした――は、そう言って首を三十度ほど傾ける。彼女の所作はやけに硬質で、設計した通りに動いているだけの無機物に見えた。その不気味さに、そして常識の範疇を大きく外れたできごとに、エリザは「ひっ」と喉の奥で小さな悲鳴を上げた。
「あ、あなた……だれ、ですか」
震える指先で女性の姿を指さすと、彼女は「ああ、この姿?」と言って、人差し指を自分の胸に向けた。
「これはね――きみの未来の娘の姿」
「……えっ!?」
「って言っても、きみ自身の娘じゃないけどねえ。まあ、遺伝情報は繋がってるわけだから、きみの娘だってことにしても、便宜上は問題ないかな」
「は、はい……?」
娘というだけでも心臓が止まりそうなほど驚いたのに、そこに追加情報を足されて、エリザは目を白黒させた。そもそも
「うん。別に分からなくても良いよ。ぼくも彼女にはそこまで興味はなくってね。まあ、きみが
言った直後、彼女の姿は白い世界に溶けはじめる。
身体は無数の靄に分解されたかと思うと、白い靄が竜巻のように渦を巻いた。不透明な風はエリザの周囲をぐるぐると回って、やがて少しずつ形を為していく。細長い欠片のようなものが無数にできて、それらは五本ずつ組になって集まっていく。数秒のうちに彼女は無数の腕に姿を変えて、エリザを抱擁した。
「ぼくが興味あるのは、きみだけ」
体温を感じない抱擁。
異形めいた腕たちに抱かれて、エリザは恐怖と驚愕のあまり、ただ身を竦めることしかできなかった。何かを考えられるほど余裕はなかった。ただ、それらの腕が、妙にぴったりとエリザの身体に沿っているのが気になった。ほんの一ミクロンの隙間さえも惜しんでいるような、そんな密着だった。
「まだ、会いに行くには時期尚早かなぁと思ったんだけど――」
そう言って、白い指の一つがエリザの髪を掬い上げた。
「ちょっと、心配でさ」
さらさらと髪を撫でながら、
「エリザ、絶望するのは良いんだ。絶望に次ぐ絶望こそ、きみの糧であり、美しい祈りの源泉だからね――だけど、諦めてしまうのは良くない。そうやって心を閉ざしてしまうのは、良くないなあ。祈りを発してくれないと、きみの姿が見つけられないんだよ」
「な、何の話、ですかっ……」
エリザは小さく震えながら、やっとの思いで声を絞り出した。
「知らない、私、知らないっ。帰して下さい……!」
「うーん、困ったなぁ」
「まあね。分かるよ、エリザ」
苦笑する気配とともに、
「この世界は、他のどのエリザが生きた幼少期より、ずっと過酷みたいだ。八番目ともなるとだいぶ歪んじゃうんだねぇ……歪めないと分枝世界を作り直せないぼくの方にも、責任はあるんだけどさぁ」
「
「そうだよ。きみが今いる、その世界のことさ」
「……っ! や、やめ――」
白い腕のひとつが顔の方に近づいてきて、エリザはまた悲鳴をこぼした。氷柱のように冷たい指先が頬を伝うたび、エリザはそこから体温が凍りついていく錯覚を覚える。呼吸がどんどん速く乱れていき、息苦しくなる。思考の芯がじんと痺れていって、やがてエリザは、何も見えなくなった。
暗闇のなかに落ちていく。
そして、永久のような時間が過ぎてから、エリザはようやく目を開けた。しっかりと暗幕としての役目を果たしていた瞼の向こうにあるのは、見慣れた天井。五センチのマットレスが敷かれた、いつもの寝台の上だ。エリザはブランケットを握りしめて、まだ激しく鳴っている胸を押さえながらうずくまる。一刻も早く、あの不気味な夢のことを忘れたかった。
それでも、記憶は勝手にリフレインする。
最初は若い女性の姿を借りていて、それから無数の腕に変化した、あの謎めいた声。初めまして、と挨拶をしながら、妙に馴れ馴れしいトーンで話しかけてきたあの声。あれが語った言葉の意味はほとんど分からなかったが、いくつもの腕にぴったりと抱きしめられていたときの感覚は、忘れようにも忘れられなかった。肌と肌をこれでもかと密着させて、触れあっていない箇所があるのが惜しいと言わんばかりの抱きしめ方だった。
それは、ひどく恐ろしい夢なのに。
エリザは心のどこかで、あの腕たちの圧力を愛おしく思っていた。エリザのことを、あんな風に大切そうに抱きしめてくれた相手は、今までひとりもいなかったからだ。
***
「あれ――」
白い世界で、超越者は呟いた。
「行っちゃった……の、かな?」
少し前までそこにいたはずの少女が、見当たらない。超越者が五次元宇宙でもっとも愛した存在であるエリザのうち、彼女は八番目だった。上の姉にあたる七人のエリザと、彼女らが所属する
末妹であるエリザは、しかし、超越者が彼女を愛した根拠である美しい祈りを、あまり発さなくなっていた。どうも、度重なる苦しみに耐えかねて、何かを感じるということを止めてしまいつつあるらしい。しかし、彼女が祈ってくれないと、超越者は五次元宇宙のなかから彼女を見つけることができないのである。
「……困ったなぁ」
人間であれば溜息を吐くような調子で、超越者はそんなことを思う。