chapitre96. この時のために
文字数 6,099文字
青ざめた顔のアンクルが、掠れた声で呟いた。彼が事態を飲み込めているとは思えないが、今のうちに伝えられることを伝えておくべきだろう、と考えてロンガは話を進める。
「そうだ。それ自体も大問題なんだが、サテリットのように自然に妊娠した人間が、今までとは逆のベクトルで――どんな目で見られるか分からなくなった」
「逆の、って」
「最悪……生殖機能が抑えられていると言われるラピスで、妊娠できた
「そんなの!」
思わず声が大きくなりかけたアンクルを、ロンガは慌てて制止する。記憶を失って、ただでさえ不安だろうサテリットには、聞かせたくない話だった。彼は口の前に手を置きながら、そんなの、と眉をひそめて繰り返した。
「許されることじゃない。冒涜だよ」
「そうだ、だからアンが守ってあげてほしい。もちろんアンだけじゃなくて、シャルルにも。私もリヤンも、協力するから」
「……分かった。今は何も分からないけど、でも、約束する」
「ありがとう」
ロンガが頷くと、アンクルは小さく首を左右に振って額を抑えた。そのまま彼はしばらく黙っていたが、何かに気がついたように顔を上げて「リヤンも?」と問い返した。アンクルたちへの抱えきれない怒りと共に、家出同然で宿舎を飛び出した少女の名前を、まるで救いを求めるように呟く。
「そういえば……リヤンと一緒じゃないんだね、ロンガ」
「彼女はスーチェンに向かった。地上でMDPの手伝いをしたいと言って」
「自分でそう決めて、行ったってこと? なんだか大人びたなあ」
「だってもう17歳だもん、だそうだ」
リヤンの口調を真似て言ってみると、アンクルは小さく吹き出した。笑いながら、そっか、と感慨深そうに呟く。
「まだ数ヶ月しか経ってないのに、ずいぶん頼もしくなったんだね。いや、もしかして――それすら僕たちが、抑えつけてしまったのかな」
「それは分からないけど……」
ロンガは断言を避けながらも、リヤンがスーチェンに出発したときの言葉を思い返していた。彼女は赤くなった目で微笑んで、ロンガの手をしっかりと握って、こう言った。
「いつかまた、宿舎のみんなで一緒に夕ご飯を食べよう――」
「ん、どうしたの?」
「って、この間な、リヤンと別れたときに彼女が言ってたんだ。次にいつ会えるか分からないけど、アンにも伝えておくよ」
「そっか……そう言ってくれたんだ、リヤン」
アンクルの目尻にじわりと涙が浮かんだので、あまりじろじろ眺めるのも失礼に思えて、ロンガは目を逸らした。
たしかにアンクルたちは、リヤンからいくつかの大切なものを奪っていたと思う。
だけど、それ以上に与えたものが多かった。宿舎で過ごした時間の暖かさは、きっとリヤンにとって本物で、故郷バレンシアを離れてもリヤンの胸中を照らし続けた。アンクルはリヤンのことを太陽みたいだと言ったけれど、その明るさはきっと、宿舎のみんなが育んできたものなのだ。
胸元を強く抑えて、アンクルが浸水した床に視線を落とした。
「どうやったらリヤンへの贖罪が果たせるのか、ずっと考えてた。僕は謝りたい。あの穏やかだった日々に戻りたい。けれど、彼女の前に出て行くことすら、許されないような気もして……怖くて」
「前みたいに一緒に暮らすことは、多分できないけど――リヤンも、みんなに会いたいんだと思う」
「教えてくれてありがとう。いつか必ず、5人で食卓を囲もう。受け入れられるか分からないけど、リヤンに謝るよ」
「うん、その機会を作れるよう、私も努力する。謝れるときに謝るのは、大事だから」
そう口に出してから、本当にそうだよな、と改めて感じた。相手に言葉が伝わるうちに伝えることの大切さを、ここ最近は輪をかけて強く感じる。感謝を伝えたかった相手が、手の届かない場所で消えてしまったことも、その一因かも知れない。会えなかった彼の金色の瞳を思い出してロンガが唇を噛むと、アンクルがふと神妙な顔になってこちらを向いた。
「あのさ――えっと、ロンガの関係で、ちょっと気にしてることがあるんだけど、ごめん。言って良いのか分からない」
「私に関係するのに、私に言えないのか?」
当惑して問い返すと、アンクルは眉をひそめて首を振った。
「僕にはその判断が付けられない」
「そう言われると困ってしまうな」
ロンガは苦笑を浮かべた。
話して良いのか分からないと言われても、肝心の話の内容を知らないのだから、ロンガにだって判断はできない。どうしろと言うんだ、と首を捻ると、アンクルが顔を上げて部屋の向こうに呼びかけた。
「ごめん、シェル。ちょっと君に相談したいことがあるんだけど、来てもらえるかな」
「ぼく? 分かった」
サテリットと話していたシェルが、覗いていた
耳を貸したシェルが、ぴくりと動いて目を見開いた。アンクルから離れて、そう、と乾いた声で呟いた。彼はしばらく足元を見つめていたが、ややあって視線をアンクルに戻した。
「それは――ぼくは、良いことだと思う」
「そうか。シェルがそう言ってくれるなら、やっぱり連れて行くべきかな」
「うん。ルナ、聞いてくれる」
そう言ってこちらを向いたシェルの視線は射貫くように鋭くて、ロンガは思わず肩を強ばらせた。水没した部屋を、水しぶきを立てながらこちらに歩いてくる。
「今から、君は父親に会うんだ」
「――は?」
「ムシュ・ラムが、今から向かう先にいる。
「待って、ソル。話している意味が――」
「謝れるうちに謝るべきだ、と君は言った。ルナ」
シェルはロンガの手を両手で握って、こちらにまっすぐ眼差しを向ける。落ちくぼんで隈ができたことで、かえって印象の強くなった目が、ともすれば凶暴と言えるほどの暗い光を湛えてこちらに向いている。
「ぼくも、ルナの言うとおりだと思うよ」
「ソル? どうした」
燃え尽きた炭のような、暗い赤の眼光。
ずっと隣にいたはずの彼を、ロンガは生まれて初めて怖いと思った。
「だから今度は、君が、謝罪を聞き入れる番だ」
「待って――」
「待たないよ。時間がないからだ」
「手が痛い。ソル、落ち着いて」
「
「痛いって!」
手のひらに込められた力がどんどん強くなり、骨がぎしりと軋む音がしたところで痛みに耐えられなくなって、ロンガは強引に手を振り払った。
シェルがよろめき、後ろに数歩下がったところで、事態の異様さを悟ったらしいアンクルに背を支えられる。サテリットが杖の音を立てながらこちらにやってきて、シェルの肩に手を置いた。
「ねえ、さっきまでと全然違うわ、貴方。どうしたの」
「落ち着いて、シェル。ロンガも大丈夫?」
「――うん」
荒くなっていた呼吸を整えながら、ロンガは頷いた。手も痛いが、身体中の筋肉が強ばったように痛い。俯いたシェルの顔は影になってしまって、表情が見えないが、明らかにいつもの――正確には2年前の彼ではなかった。
知っている友人の姿ではない。
いや、それは再会したときからずっとそうだった。でも時間が経てばいつか、また元の彼に戻ると思っていたのに。いつも笑っていて余裕があって、ロンガを広い世界に連れ出してくれた彼は、もしかして――もうどこにもいないのだろうか。
「ソル、なんだよな?」
見慣れたはずの小柄な少年が、形だけ似せた別人に見えて、ロンガも一歩後ろに下がる。水の中で空気を求めるように、荒い呼吸をしている口元が見えた。しばらく沈黙が続いた末に、ロンガは「なあ」と控えめに切り出した。
「どうしてソルの様子がおかしいのか分からないけど、でも事情は分かった。ムシュ・ラムが……近くにいるんだな?」
「そう。多分シャルルと一緒にいる」
シェルの代わりに、彼の腕を押さえたアンクルが答える。
「僕らにとっては、何度も守ってくれた恩人なんだ。でもロンガ、君にとってそうじゃないのはラムから聞いた。その上で彼は、君に謝罪したがっている」
「なぜ……アンたちのところに、あの人が」
ふっと気が遠くなり、ロンガは壁にもたれかかった。足に力が入らない。身体がいつもの何倍も重たく感じられた。サテリットが
アンクルが穏やかな顔立ちに深い陰影を刻んで、多分、と抑えた声で言う。
「僕の口から言って良いのか迷うけど、それがラムなりの贖罪なんだと思う。彼がいなければ僕たち全員、とっくに死んでた」
「そんな――そんなことできる人じゃない」
ロンガはずきずきと痛む頭を抑えた。仮にも血縁の娘に、ナイフを向けて本気で殺そうとした相手の記憶と、アンクルが話している人間の像が重なり合わない。
「だけど嘘じゃないよ。ロンガ、できれば、僕からもお願いしたいんだ。もちろん無理にとは言えないけれど」
「絶対に嫌だ。無理だ」
自分でも子供じみていると思いながら、ロンガは激しく首を振った。隣でサテリットが当惑したように見つめている。アンクルが悲しげに眉をひそめている。シェルは――前髪が顔を覆ってしまって、その指先はだらりと垂れ下がっていた。無言で何かを訴えかける雰囲気に、ロンガは唇を噛む。
「……私が間違ってるのか?」
「落ち着いて、ロンガ――」
「自分を殺しかけた相手に会いたくないって言うのが、そんなに変か!」
その瞬間、何か硬質なものが扉にぶつかる大きな音がして、一同は身を強ばらせる。同時に、天井のスピーカーからバチッと音がした。
『聞こえるかな。ダミーの荷物、入れてあげてって言ったよね?』
場違いなほど冷静なアルシュの声が降ってきて、冷たい水面に跳ね返った。
*
アンクルが
辻褄は合うけれど、納得はできない。
保身のためにロンガを塔の上に閉じ込めて、彼の宿敵であるカシェとロンガが接触したことを悟った瞬間、本気でこちらに殺意を向けたラムが、今度はロンガへの贖罪と称して誰かを守っている。
「……そんなまさか」
口の端を曲げて笑うロンガを、シェルが暗い目でじっと見ていた。
天井から降りてきたロボットアームがダミーの荷物を室内に運び入れ、奥のスロープまで運び込む。ぶぅんと重たいモータ音が部屋中を揺らし、スロープを覗き込んでいたアンクルが振り返って「動き出したよ」と報告した。
まずサテリットがスロープに乗り込むのを手助けして、それから彼はロンガたちに向き直った。
「とりあえず上に行こう。それから考えよう、ね、2人とも」
「……そうだね」
シェルがぼそりと答えて、立ち尽くしたロンガの手首を掴む。俯いた顔から、黒目だけをじろりと上に動かしてロンガをじっと見た。
「行こう、ルナ」
「……なぜそこまで急く」
睨み返したロンガの背を、アンクルが「悪いけど」と少し厳しい口調で言って押した。半ば強引に、スロープの入り口まで連れて行かれる。
「あとは中で話して。僕は一刻も早くサテリットを追いかけたいんだ」
2人の身体をスロープに詰め込むと、彼はサテリットを追いかけると宣言した通りに急勾配のベルトコンベアを登っていって、後にはシェルとロンガが残された。広いとは言えないスロープ内部で膝を抱きかかえて、ロンガは友人の顔を見ないまま「なぜ」と問いかけた。
「そんなに必死になって、彼に会わせようとするんだ」
「……ルナにとって必要だと思うからだよ」
「それは違う。要らない」
「むかつくけど、あんな男だってルナの父親だ。君のルーツの片割れなんだ」
「だから何だって言うんだ。無関係だ、そんなの」
ロンガが言い返すと、シェルは溜め息を吐いた。
「じゃあ聞き方を変える。今後の人生で、一切あの人に会えなくてもルナが後悔しないなら、ぼくはこのまま地上に向かってもいい。でも、少しでも会いたいと思うなら、今行こう」
「どうして、そう極端なことを――」
「ルナ」
彼は無表情のまま、リュックサックから拳銃を取り出した。黒い銃身が、スロープ内部の弱い灯りを受けて鈍く光る。2年前のあの朝、ロンガを庇うように立ちはだかってラムに拳銃を向けた彼の姿を、嫌でも思い出した。
「万が一、ムシュ・ラムが君をまた殺そうとしたら、ぼくは今度こそ彼を殺せる。ここでルナへ謝罪させるためだけに、彼と共存してきたと言っても良い」
「共存? 聞いてないが――」
「危険な目には遭わせない、絶対に。その上で決めて。仮に今が人生で最後の機会だとして、あの人に会わなくても、後悔しないかどうか」
「最後だと仮定して、か……」
いつになく
ただ――ラムに聞くべきことが全くないかというと、そうでもない。
特に、ロンガが母親のエリザから引き継いだと思われる、未来を見通す白銀色の瞳については聞いておいてもいいだろう。エリザ本人ほどではないが、仮にもロンガが産まれる程度にはエリザと親しかったのだから、ラムも多少は知っているはずだ。
ロンガは溜息をついて、分かった、と頷いた。
「彼に聞きたいことがある。行こう」
「――ありがとう」
彼は拳銃を服の中に隠して、冷えた両手でロンガの手を包む。数分前にシェルに掴まれた手のひらは少し赤くなって、まだ痛みが残っていた。シェルの、光のない目元に、じわりと涙がにじむ。
「……さっきは、ごめん。痛かったでしょう」
「まあ少しは。でも痛みなんかより、ソルの様子がおかしくて驚いた」
「そんなに変だった?」
彼は目元を擦り、ああ、と呟いた。ごめんね、とだけ囁くように言って、抱えた膝に顔を埋めてしまった。