厳冬
文字数 10,461文字
「先日、宿舎の女の子が怪我をしたでしょう」
「はぁ。そうっすけど?」
シャルルがぶっきらぼうな口調で応じると、彼女は白く濁った溜息を吐いて、背後からなにかを取り出す。皮の手袋をはめた手の中に、小さなデータチップが握られていた。
「統一機関の方がね、自分たちが騒がせてしまったせいだと、気にされていてね――お詫びに、これをどうぞって」
「お詫び? なんですか、コレ」
「薬の作り方――とだけ聞いている。あとは、自分で確認しなさい」
「薬って、何の薬ですか」
「自分で確認しなさい。じゃあ、私はこれで」
「――待って下さいよ!」
シャルルは思わず手を伸ばして、背を向けた彼女の腕をコート越しに掴んだ。彼女が全身に
「私、忙しいのだけど」
「おかしいだろ……こんな、よく分からんモノ押し付けて、それで詫びって、謝ったことにするつもりなんですか、統一機関は!」
「あのねぇ――」
ふぅと溜息を吐いて、彼女は髪をかき上げた。
「そもそもね、悪いのはリゼ君の方なの」
「そりゃあ、いきなり殴ったのはアイツが悪いですよ……リゼらしくもない短気な――けどっ、でも、状況を考えたら仕方ないじゃないですか!」
「状況?」
「あいつはリゼに酷いことを言ったんだ」
爪が食い込むほど強く拳を握って、シャルルは涙のにじんだ目を細めた。
「ただ生まれた場所が違うだけで、人間じゃない、みたいなこと言ったんだろ! それどころか、都合が悪くなったら、その記憶を消そうとまでして――」
「言葉には気をつけなさい」
口元を物理的に抑えられて、言葉が途切れる。グローブを嵌めた手を力任せに払うと、防雪ゴーグルの向こうで、冷たいまなざしがさらに研ぎ澄まされた。
「よく聞きなさい、それは、なかったことになったのよ。リゼ君が勝手に暴れて、無関係のお客様を傷つけた。あの子が
「へぇ……よーするに、収穫祭実行委員が用意した事実ってことですか?」
精一杯の嘲りを込めて言ってみるが、彼女の表情はほんの少しも揺らがなかった。
「これが事実なのよ。リゼ君はみんなの前で、自分の非を認めて謝った。である以上、統一機関の方は、貴方がたにこれ以上、なにかしてあげる義理なんてないのよ」
「あっ、そう……じゃあなんで、こんなこと、今さらするんだよ」
受け取ったデータチップを握りしめて、シャルルは歯を食いしばった。呼び出した彼女はコートを翻して出て行き、ひとり残されたシャルルは、行き場のない怒りで積もった雪を蹴り飛ばした。目の高さまで巻き上がった粉雪が、ぱらぱらと地面に落ちる。
「
腹立ちまぎれに呟く。
ラピスの中心都市であるラ・ロシェルや、そこにあるという統一機関のことはよく知らないが、辺境の街で開かれるイベントに顔を出す程度の役回りが、そんなに高い階級の人間に回ってくるとも思えない。
だけど、そんな中途半端な立場の男に、宿舎の生活は何もかもかき乱されてしまった。つまり、自分も第43宿舎も、その程度の存在だったのだ。ちょっと身体が大きくて、力が強いからって、年下の少女ひとり守れない。
舌打ちをしながら坂を駆け下りる。枯れ木立の向こうに宿舎の屋根が見えてきて、自然と足取りが慎重になった。最近は雪が深くなり、人々が家を出る機会が減ったためか、家の周りにおかしな仕掛けをされることは少なくなったが、用心するに越したことはない。
シャルルは一歩一歩を慎重に踏み出して、ようやく勝手口に辿りつく。安堵で緩んだ息を吐き、外套に付いた雪を払った。
住人たちは出払っていて、宿舎は無人だった。リヤンは学舎に行き、リゼは厩舎の仕事の日で、サテリットは療養所に泊まっている。アンクルは休みだったはずだが、最近は休日でも工房に行っていることが多かった。
「あ……そうだ」
誰もいないうちに、一応データチップの中身を確認しておこうと思い立つ。
「――ふざけてやがる」
薬の作り方、と収穫祭実行委員の彼女は言った。何の薬かは聞かされていなかったが、蓋を開けてみれば、人を馬鹿にしているとしか思えないものだった。シャルルは大きく舌打ちをして、椅子の背もたれを思いっきり倒す。
記憶を封じる薬。
いくつかの薬草と溶媒が手に入れば、宿舎のキッチン程度の設備でも作れるらしい。そのレシピと注意点に用法、ご丁寧に薬草の入手方法までが記載されている。データファイルの片隅には統一機関の署名が入っており、思わず乾いた笑いが出た。
「都じゃこんなモンが横行してんのかよ」
照明を落とした天井を睨んで、シャルルは深々と溜息を吐く。
シャルルが玄関に出て行くと、アンクルが外套の雪を払っていた。
「あ、帰ってたんだね」
「おう――あ?」
彼の傍らに見慣れないものがあって、シャルルは目を眇める。
「なんだそれ……杖か?」
「あ、えっと、うん――試作品なんだけど」
「……あいつのためか」
療養所の方角を指さして尋ねると、アンクルが小さく頷く。ここ数日、やけに工房に入り浸っていると思ったのは、どうやらそのためらしい。
「サテリットね、歩けなくなるわけじゃ、ないらしいんだけど……膝に、力を掛けるのが難しくなるかもって言われて。そうしたら、杖が要るかなって」
「あぁ、良いな。あいつも喜ぶだろ」
「喜びはしないと思うけど……あ、お茶、ありがとう」
「おう」
テーブルにマグカップを置いて、シャルルは試作品であるという杖を持ち上げる。木材を組み合わせた簡素な作りだが、見習いとはいえ工房の職人が作っただけあって、強度はかなりのものだった。
「流石にちゃんとしてんな」
「ありがとう、でも……サテリットの背丈には合わないかもって、作ってから気がついた」
「ああ――ま、たしかに、ちょっと持て余す長さかもな」
シャルルが率直な感想を述べると、やっぱりそうだよね、とアンクルが俯く。よほど力を注いでいるのか、彼の手のひらには絆創膏とまめがいくつも見えた。彼の意気消沈した様子が心苦しくて、シャルルは努めて明るい声で話しかける。
「ちょっと削れば、使えるんじゃねぇの?」
「うーん、でもね、そうすると、この……ちょっと細くなってるとこに、力が掛かっちゃうと思うんだ」
ゆるやかな曲線を描いた杖を示して、アンクルが口元を曲げてみせる。
「体重を預けるものだから、強度はいちばん大事にしないと、かえって危ないし……うん、やっぱり、作り直しかな」
「そっか……まあ、頑張れよ」
「うん」
「ついでに告白しちまえよ」
「――っ、あ、あのさ、その話は……」
ハーブティが変なところに入ったのか、アンクルがげほげほと噎せる。想定以上の反応に思わずシャルルが吹き出すと、彼は口元を拭い、涙目でこちらを睨んだ。
「からかわないでよ」
「はは、悪かったって、でもさ――そういう、誰も傷つかない楽しいイベントがさ、今の俺たちには必要っていうか、すげぇキラキラして見えんだよ」
「あのさ……フラれたらめちゃくちゃ傷つくと思うんだけど、僕が」
「そういうもんか?」
「シャルルには分かんないよ」
はぁ、と重苦しい溜息を吐いて、アンクルがテーブルに突っ伏す。指先でマグカップをこつこつと叩きながら、じとっとした目がシャルルを見上げた。
「言えないよ。あんな弱ってるところに、自分の都合を押し付けるようなこと……」
「お前の都合?」
彼の言っている意味がよく分からず、シャルルは首を捻る。
「あいつのために色々、休日返上で頑張ってるののどこが、アンの都合なんだよ。むしろあいつに合わせてるじゃねぇか」
「そうだけど、そういう意味じゃなくて……好きですって言ったら、その返事を考えないといけないじゃない。優しいから、どうやって断るか、きっとすごく悩むと思うし……」
「なんで断られる前提なんだよ」
苦笑を吐き出すが、アンクルの表情は至って真剣だった。それでシャルルも笑いを引っ込めて、自分だったらどうすべきか考えてみたが、そもそも他人の恋愛事情に口を出せるほど恋愛に興味を持ったこともなく、曖昧な考えはやがて霧散して消えていった。
***
視界も覆われるほどの吹雪のなか、アンクルは療養所へ向かう。病室の扉をノックして開けると、ちょうど昼食を食べていたらしいサテリットが、少し驚いた様子で目を瞬かせた。
「今日、来ると思ってなかった。だってこんな天気なのに……他に誰も、お見舞いなんて来てないんじゃなくて?」
「うん、受付で驚かれちゃったけど、せっかく杖を作り直したから、早いうちにって思って」
「そう……わざわざ、ありがとう」
彼女が昼食を食べ終わるまで手持ち無沙汰になり、アンクルはぼうっと窓の外を眺めた。葉の落ちた木立は白く煙り、視界は数十メートルもない。地上にあるもの全てを覆い隠す雪が、物体の輪郭を曖昧にしていた。
「寒い日は、膝が痛くなるのよね」
湯気の立ったスープを啜って、窓ガラスに映ったサテリットが小さく息を吐く。
「でも、誰もいないから……怖い思いをしなくて済むのは、良いことだわ」
「そうだね……みんな、家に篭もるからね」
「ええ。春が来るのが、少し怖い」
空になった皿を片付けながら、ううん、と彼女は小さく首を振る。
「少しじゃないわね。とても、怖い……去年までは、早く冬が開けないかなって、そればかり考えていたのだけど」
「そう、だね……」
今の季節は、深い雪がシェルターの役割を果たしてくれて、外に出かけづらい代わりに、悪意を持った誰かに出会うことも少ない。だけど寒さが緩んで春がやってきてしまえば、また、逃げ場のない悪意に晒されるかもしれない。誰かが傷つくのは、もうたくさんだった。
「春までに、みんなが僕らのことを、忘れてくれたら良いよね」
「そうね……杖、見せてもらっても良い?」
アンクルは頷いて、壁ぎわに立てかけていた手製の杖をサテリットに渡す。彼女の肩を支えて、寝台から立ち上がるのを手伝った。しばらく療養所にいるうちに、彼女はかなり痩せたように見える。怪我をした右足だけでなく、肩も手首も、骨の形が浮いて見えるほど細い。
「うん、高さは、ちょうど合ってる……」
杖を使って、サテリットが部屋の端から端まで歩いてから振り返る。祈るような思いでそれを眺めていたアンクルは、ほっと息を吐いて彼女に歩み寄った。
「グラグラしたりしないかな」
「ええ、平気だと思う――あ、でも」
「何かあった?」
「えっと……些細なことなんだけど、ちょっとグリップが太いかなって」
「あ、本当?」
寝台に腰掛けたサテリットの隣に膝をつき、実際にグリップを握ってもらうと、指がぎりぎり回るかどうかというところだった。
「ああ……これじゃ、握りづらいよね。ごめん、気付けてなかった」
「直せるかしら?」
「うーん、削るよりは、材質から変えた方が良いかも……ちょっと、こうやって――指で輪っか作ってくれる」
鞄からノートと巻き尺を出してきて、採寸した数字を書き付ける。想像していた以上に小さい手のひらと細い指に戸惑いながら、グリップ部分のデザインをどう変更すべきか考えた。
「本当は、実際に握ってもらいながら削るのが良いのかもしれないけど――ここで削ったら、流石に怒られるよね。粉が散るから」
「ふふ……そうね」
サテリットが笑ってくれたので、少しだけ報われた気分になる。
「じゃあ、工房に戻って試してみるよ」
杖を受け取って立ち上がると、えっ、とサテリットが目を見開いた。
「今、戻るの? もう少し、吹雪が収まるまで待ったらどうかしら」
「うーん……でも」
壁掛けの時計をちらりと見る。
吹雪のせいで外は暗く、時刻が分かりづらいが、まだ午後一時だった。今すぐ工房まで戻ってすぐに作業を始めれば、今日中にグリップ部分くらいなら作れるかもしれない。
「退院、来週だったよね。それまでに、安心して歩ける杖、作りたいから」
「ねえ……そこまでしなくて良いのよ」
澄んだ緑の目が、アンクルをじっと見つめた。
「いくら貴方が副宿長だからって――そこまでの義務はないわ」
「義務とかじゃないよ」
アンクルは視線を逸らして、ハンガーに掛けていた外套を羽織り直す。
「僕が、やりたいからやってるだけなんだ」
「それは嬉しいけど」
「……駄目かな」
「できれば――私より、リゼやリヤンのことを気に掛けてあげて欲しい。私は、怪我して気の毒にねって言ってもらえるけど、あの二人は違うでしょう? どんな目に遭ったって、可哀想なんて思ってもらえないでしょう」
「だけど、でもリゼたちは――」
「目に見える怪我をしてるかどうかとは別よ」
言おうとしたことを先回りで否定されて、アンクルはぐっと唇を噛む。
「もっと、心の問題で……リゼたちの味方は、もしかしたら――この街で、私たち三人しかいないのよ。分かってるでしょう?」
「……そうだけど!」
「だけど、何?」
反論があるなら言ってみなさいと言わんばかりの強気な表情で、サテリットがこちらを見つめている。
もう後には引けない――と腹を括って、アンクルは彼女にまっすぐ視線を返した。
「……それでも君が特別なんだよ」
「え?」
「リゼもリヤンも、もちろん大切な友達で、仲間で……いま二人が辛いのだって、分かってるけど、やっぱり僕は、サテリットのことが一番――」
「ま――待ってよ」
血相を変えて立ち上がろうとしたサテリットが、膝に力を掛けてしまったのか、バランスを崩して壁に手を付く。アンクルが慌てて駆け寄ると、差し出した手をはねのけて、至近距離でじっと睨まれた。
「変な意味じゃないわよね?」
「……女性として好きだよ」
「冗談だったら、すぐ撤回して」
「本気じゃなかったら言えないよ」
一切ごまかしようがないほど、はっきりと言い切る。
サテリットはしばらく唇を震わせながら、蒼白な顔でこちらを睨んでいたが、やがて「信じられない」と呟いて寝台に腰を下ろした。
「バカじゃないの。その意味分かってるの? リゼたちが今まさに苦しんでる、その遠因を、貴方……再生産しようとしてるのよ」
「僕もそう思って、だから、忘れようって思ったよ……だけど、リゼが応援してくれて」
「リゼに話したの!?」
「うん、相談した。収穫祭の前だけど」
嘘でしょう――と呟いて、サテリットが額を抑える。彼女がそのまま寝台に倒れ込むのを見ながら、アンクルは鞄を背負い直して、目を閉じたままのサテリットに話しかけた。
「僕は、君に何かしてほしい訳じゃない。ただ、僕の行動する理由を話しただけで、サテリットがそれに何を感じても、僕の心は変わったりしない」
「私は……最悪の気分よ」
「で……でも、リゼたちのことをもっと気に掛けるべきっていうのは、サテリットの言うとおりだから」
涙がにじんできたのを堪えて、平静を保つ。
「今日はこのまま帰って、みんなと一緒にいる。明日、天気が良かったら、グリップを作り直して持ってきても良い?」
「そう……分かったわ」
「うん」
「……ありがとう、とだけ言わせて。アンが私のために頑張ってくれてるのは、本当だから」
「うん、じゃあ、またね」
見えていないと分かりつつも手を振って、アンクルは彼女の病室を出る。歩行に不自由しないのに杖を持っているアンクルを、療養所の職員が不審そうな顔で見送る。
「うっ、あ、あぁぁあ――……」
噴き出した叫びは吹雪に絡め取られて、白い煙へ消えていく。誰も聞いていないのを良いことに、後から後から溢れてくる嗚咽をそのまま吐き出しながら、吹き付ける風に逆らって、一歩ずつ坂を登っていった。
積雪を踏みしめて宿舎に戻ったころには、声も涙も涸れていて、アンクルは冷え切った拳でぐちゃぐちゃの顔を拭った。扉の目線の高さに、
「リゼ?」
ノックすると返事があったので、サテリットと約束したこともあり、アンクルは彼の部屋に入った。椅子に腰掛けていたリゼは、いつも通りの笑顔をこちらに向けて、それからぎょっと目を見開く。
「え、何かあったの? アン」
「あっ、えっと……」
聞き慣れたリゼの声が、やけに胸に響いて、もう流しきったはずの涙がまたこぼれ落ちた。喉が詰まって、うまく言葉が紡げないでいると、慌てた形相でリゼが駆け寄ってきて、アンクルの手を引く。
「まあ、とにかく座ってよ」
「――ありがとう」
彼が座っていた椅子に、そのまま座らされる。しゃくり上げながらお礼を言うと、リゼが困ったようにアンクルの肩に手を置いて笑ってみせる。
「アン、なにか飲む? 僕も、喉渇いてたから、紅茶でも淹れようかな」
アンクルが無言で頷くと、彼はキッチンに立ち、数分後にマグカップを両手に持って戻ってきた。紅茶の慣れ親しんだ香りに導かれるように、詰まったはずの喉から言葉が溢れ出して、アンクルは療養所でのできごとをありのまま語った。
「そっかぁ……」
すべて話し終わると、リゼは少しだけ眉を下げてみせた。
「怒らせちゃったか」
「……うん。思ったより、容赦なく怒られた」
「そっか、でも頑張ったね、アン」
暖かい紅茶のせいか、薄いピンク色になったリゼの頬に、ふわりと優しい笑顔が浮かぶ。
「あのね、サテリットが複雑に思うのは、僕も理解できるけど……それでもアンを見てて、君の
「源泉? 優しい……?」
「そうだよ」
泣き腫らした目を拭ったアンクルに、リゼはどこか自慢げに微笑んで見せた。
「僕たち
「そんなに……素敵なものかな」
「素敵だよ。自信持って」
リゼはアンクルの肩を励ますように叩いて、それから天井の方を見て目を細めた。
「僕もいつか、アンみたいに、誰かを好きになるかなぁ」
「もし、その時が来たら――教えて」
「うん」
リゼは微笑んで、白い雪がぶつかり続ける窓ガラスに目を向ける。
「明日は晴れたら良いね」
独り言のような呟きに、アンクルは頷いた。もしも明日の天気が良ければ、杖のグリップを工房で作り直して、それからサテリットに見せに行ける。雪の日のほうが安全だとは分かっていて、それでも好天を期待してみたのだが、残念なことに翌日も吹雪だった。
***
夕方の鐘が鳴り、リヤンは学舎を出る。
真冬の、いちばん陽が短い時期が過ぎて、少しずつ春が近づいてきた。それでもまだ雪に覆われた坂道を、リゼに注意されたとおり、一歩一歩慎重に登っていく。目に見える嫌がらせをされたり、
その代わり、周りから人がいなくなった。
学舎からの帰り道で、お喋りに付き合ってくれる友達はいない。雪玉を投げ合って遊んでくれる相手もいない――リヤンが一方的に投げられることはあるけれど。リヤンの周りに見えない壁でもあるように、誰もが遠巻きにこちらを見て、嫌な表情でリヤンを指さし、ひそひそと内緒話をしていた。
彼らに聞かせるように呟く。
「あたしは何もしてない」
誰かに怒られるような悪いことは、ただのひとつもしていない。いや、ちょっと大人に叱られる程度のことなら沢山したけど、遠くから悪口を言われる理由はない。そんな酷いこと、されて良い人なんていないのに。
マフラーをきつく結び直して、大股で宿舎へ続く道を登っていく。すると、分かれ道の向こうに、見慣れた人影が立っているのを見つけて、思わずリヤンは駆け出した。
「リゼ!」
走ってきた勢いのまま、彼の胸に飛び込むと、足下が凍っていたのか、そのままリゼはバランスを崩して倒れた。雪の中に顔をつっこんでしまい、頬を刺すような冷たさに思わず声を上げる。
「ひゃぁ、冷たっ」
「リヤン……大丈夫?」
「あっ、リゼ……うん、あたしは平気。どこも怪我してないよ」
「なら良かった」
地面に腰をついたまま、リゼが頭を撫でてくれる。手袋越しなのに暖かい手に、リヤンは頬を緩めて、それからふと、彼の表情が少しだけ陰っていることに気がついた。
「リゼ、いまの、そんなに痛かった? ごめんなさい」
「え? ううん、全然……」
「そうなの?」
リヤンは首を傾げて、だって――とリゼの頬に両手を伸ばした。驚いたように目を見開く、その目元に、薄い隈ができている。
「だって――なんか、すごく悲しそう」
「そんなことは……」
笑おうとしたリゼの表情が、途中で強ばる。彼はひとつ瞬きをして、リヤンの頭を抱き寄せた。マフラー越しにリゼの体温を感じて、柔らかい熱にリヤンは目を細める。
耳元で、小さな声が呟いた。
「なんでかな。リヤンには……バレちゃうんだね」
「リゼ?」
「大丈夫、僕らは、誰かに否定されるようなことは、何も、何もしてないから……」
「リゼ……泣いてる?」
小さく揺れている彼の頭に、リヤンが戸惑いながら片手で触れたとき、ふと、遠くから近づいてくる足音が聞こえた。ひとつではない、数十は下らない足音が、雪を踏みしめてこちらにやってくる。
しまった、と呟いてリゼが立ち上がった。
「リヤン、宿舎に帰ろう」
「えっ――う、うん」
「待て」
冷たく鋭い声が、背後から槍のように飛んできて、リヤンは立ち竦む。リゼが、外套の裾でリヤンを庇いながら、声の方角に向き直る。リヤンも恐る恐るそちらに目をやると、ずらりと壁のように並んだ大人たちが、恐ろしい形相でこちらを睨んでいた。
「まだ、何かお話ですか」
「厩舎から出て行け、と再三警告したはずだ」
「だけど、後付けの役割だろうが、それが僕の仕事です」
穏やかな声で断りながら、リゼがじりじりと背後に下がる。彼の外套の裾をつかんで、リヤンが大人たちを睨み返すと、人垣がざわめいた。先頭に立った男が心底嫌そうに舌打ちをして、リヤンを指さす。
「妹のほうまでいるとは」
「何か、問題でもありますか」
「大有りだろう。ラピスの筋書きには書かれていない非正規児の分際で、教育を受ける権利があるとでも思うのか」
「あるでしょう。僕らをこの世界に生み出した人がいるんですから。僕らは、少なくとも僕らの両親に、望まれて生まれてきたんです」
リゼが毅然と言い返すと、男は憤怒で顔を赤くして詰め寄ってきた。リゼが一歩後ろに下がり、リヤンも彼に押されて下がる。人垣がじりじりと寄ってきて、彼らは口々にリゼに汚い言葉を浴びせる。
リヤンはリゼの背中に抱きつき、顔を押し付けて、耳を苛む言葉の嵐に耐えていた。もう何を言われているのか、自分がどこにいるのか、何も分からない。ただ、リゼが自分を守ってくれている、それだけを信じて耐えていた。
「――違う!」
わめきたてる雑音のなか、遠くでリゼの声が聞こえる。
「僕らは人間だ! 貴方たちと同じだ、何も違わない!
「リゼ!」
彼の体温をぎゅっと抱きしめた、そのとき。
「ひゃっ――」
ふわりと足が宙に浮く。
ずっと閉じていた目を見開くと、夕焼けから夜に変わるグラデーションの空が、一瞬だけ見えた。それから世界がひっくり返って、リヤンを繋ぎとめるものが何もなくなって、ただ風がびゅぅと耳元で音を立てて――
「リヤン!」
大好きな声が追いかけてきて、慣れ親しんだ匂いに包み込まれ、暖かい体温がリヤンを抱きしめた。逆さまの世界で、リゼと一瞬だけ目が合う。その表情は分からなかった。そのまま何も見えなくなって、暗い世界の向こうで、リヤンは何かが弾ける音を聞いた。
ぐしゃり、と。
***
むき出しの肘に、雪が触れる。
寒い。
僅かに藍色の空と、遠くに月の明かり。
暗い。
身体中を地面に抑えつける、岩みたいななにか。
重たい。
「リゼ……?」
そうだ、そこに彼がいたはずだ、とリヤンは手を動かす。雪と土と草がぐちゃぐちゃに混ざり合った場所で、僅かに暖かいものを見つけて抱きつく。良く知っているはずの匂いは、まだ残っているのに、その体温はどんどん、夜の中に消えていった。
「リゼ、寒い」
「リゼ、重たいよ」
「リゼ、返事して」
「ねぇ――」
「リゼ」