フォアフロントの旅人たち
文字数 9,545文字
ラピスの正式な公用語として、人工言語である「ラピシア語」が制定され、その文法指南書が全ラピス市民に配布された。
これ以降、統合議会を初めとした公的な場での発言は原則としてラピシア語によって行われるよう、初代議長レイファンから直々に求められた。とはいえ、大多数のラピス市民にとっては、第二言語の学習というもの自体がそもそも初めてである。言語はその人の思考や記憶に深く関与しており、明日から新しい言語を使えという命令は、これからは足を使わず逆立ちして歩くようにだとか、肺を使わず呼吸するように――と命じられたようなものだろう。
なので、当然ながら文法指南書を配布しただけで終わらせるわけにも行かない。同月下旬に、ハイバネイト・シティのライブラリから引き継がれた機械翻訳が全市民に配布された。また、年の明けた一月の中旬には、各居住区でラピシア語の市民講座が開かれた。
いずれ、ラピシア語を母語とする世代がラピスの中核となるまでは、数十年にわたって継続的かつ多層的なサポートが必要となるだろう――というのが、ラピシア統合議会・言語制定委員会の見解である。
年が明け、創都三四七年三月。
旧ラピスより南西方向の平野にて、二年近くに及んだ基礎工事がついに終了した。これを持って、都市移転計画の第一段階が完了となる。
続いて、整備された区画のほぼ中央に、ラピシア統合議事庁の建設が開始された。これは、現在は旧ラピスのサン・パウロで活動しているラピシア統合議会の、正式な拠点となる建造物である。同年春、まだ粉雪がちらつくなか建設が開始され、晩秋に竣工した。
完成した議事庁は、全体として荘厳で重厚な雰囲気を備えていた。三階建ての白磁の壁は、大小の柱が織りなす美しい幾何構造で彩られており、ずらりと並んだ窓は繊細なアーチに囲まれている。斜めに傾いた屋根の深いグレイは空を映して藍色に輝き、随所にあしらわれた尖塔が、鋭利ながらも調和の取れた印象をもたらしている。旧ラピス、ラ・ロシェル語圏にて随一の建築力を誇った、ハイデラバード地区の人々による会心の力作である。
竣工のひと月後、聖夜には、議事庁の中央ホールを利用してパーティーが開かれた。
ふたたび年が明けた、創都三四八年一月。
ラピシア統合議事庁を囲うように、ラピスの首都となる都市の建設が開始。
新たなラピスの中央都市は、公用語ラピシアで黎明を意味する「オルダ」から音を引用して、オルドニアと命名された。
また、オルドニアから東西南北にそれぞれ二十キロほど線路が敷設され、人員や物資の大規模な輸送が可能になった。これに続き、オルドニアの四方を囲うように、四つの街の施工が開始した。四つの周辺都市は、それぞれ四季から名前を取り、東の街プリマ、南の街エスマリテ、西の街アウティリア、北の街インヴィルムと名付けられた。各都市には十万人規模の生活基盤を用意し、オルドニアと併せて全ラピス市民を住まわせることを目指している。
創都三四八年現在、書類上で登録されているラピス市民は五十三万と百四名である。
D・フライヤによって七つの並行世界が融合してから、生活基盤の不安定さのため人口は減少し、一時期は五十一万台まで落ち込んだ。だがそこからゆっくりと持ち直し、この春ついにラピス市民は五十三万を越えた。当然、無から人間が生まれてくるわけもなく、ラ・ロシェル語圏MDPが以前に基礎研究を行っていた、不妊の原因を取り除く技術が確立されたゆえの賜物である。
それだけでなく、恋人たちを「公私にわたるパートナー」として公的に呼称し、そこから生まれている子供の保護と教育に重点を置いた。人間の間に生まれる子供を
しかし同年、ひとつの議題が統合議会で挙げられた。
「現在の状況としては――」
フィラデルフィア語圏出身の議員、ジェイドが深刻な表情で言った。
「新世代を担う子供たちへの教育は、その肉親である夫婦が主となって行っている。しかしながら、その教育は結局のところ、父ないし母の第一言語で行われているケースがほとんどだ――このままでは」
彼女自身もまた、他語圏出身の男性と昨年から交際をしており、パートナーとの間に子供を持つことを検討していた。だからこそジェイドは、この問題に思い当たったのである。
「新世代へのラピシア語の普及は、絶望的ではないだろうか」
この提案は、凪いだ湖面に石を投げたように反響をもたらし、瞬く間に周囲の支持を得ていった。もともとラピス市民は、出生管理施設のガラス管のなかで生まれ、幼少期は学舎という「みんなの家」で寝食を共にし、全員一緒に教育を受けるものだった。それをたった二人の両親に預けるのは、あまりに放任すぎではないか――という議会への批判も大きくなり、同年夏、ついにラピシア統合議会でひとつの意見が提出された。
「幼少の子供への教育は、統一機関時代と同様、すべて学舎で行うべきだ」
この提案の裏で、実はもうひとつ、ラピシア統合議会が密かに危惧している事項があった。
それは、いずれ出生管理施設の代替となる技術を託された者が、ふたたびD・フライヤの導きによってラピスに訪れる――という、どこからともなく聞こえてくる噂である。統合議会において、D・フライヤの扱いはなかなかにセンシティブであった。市民を代表した討論の場で、オカルティックな存在の話を堂々とするわけにもいかないが、完全な与太話ではないことはラピスの歴史が証明している。
件の噂も、内容自体はきわめて胡散臭い。
だが無視するわけにも行かず、もしも失われた技術が天から降ってきたと仮定して、統合議会はどういう立場を取るか――という指針は考えておかねばならなかった。
統一機関時代レベルの生命工学技術が、現在のラピスに蘇った場合にどうなるか。
統合議会の意向としては、ラピスの更なる発展――すなわち人口増加を目指す、という方向性でほぼ一致している。一般のラピス市民も概ね似たような思想を持っている。したがって、人間の両親なしに生命を編み出すことが可能であるならば、それは是非とも利用すべきだ――という世論になるだろう。
だが、すると問題が生じる。
同世代の子供たちが、親が存在する子供と、親が存在しない子供に二分されてしまうのである。幼く自我が未成熟な子供にとって、この差異は致命的なものとなりかねない。こうした可能性も鑑みて、子供が十分成熟し、社会の仕組みを理解するまでは、親はいないものとして育てるべきだろう――という意向が示された。
もちろん反対する者もいた。
その典型例が、すでに自他の区別ができ、親を親と認識できる程度に成長した子供を抱えていた夫妻たちである。七語圏が融合して間もない時期の出産を乗り越えた彼らは、そのぶん自身の子供への愛着も強く、親子を引き離す政策に強く反対した。
しかし。
幾多の議論を経て、同年秋ついに、全ての子供の生活基盤を学舎に移す――という判断が下された。ラピシア統合議会が発足して以来もっとも物議を醸した決断とともに、初代議長・レイファンは任期を一年ほど残して退任し、後をヴォルシスキー語圏出身のフォールマが引き継いだ。
***
創都三四八年の秋、九月。
西の街、アウティリアにて。
先月から街の食堂でシェフとして働いているシャルルは、いつも通り夜の九時に、表の入り口を施錠する。同僚とともに食品庫の温度を点検したのち、裏口から細い路地に出る。南に向かって二十分ほど歩き、小さな水路を越えた先に、レンガ積みの三階建ての家がある。
その二階と三階が、今の住処だった。
折り返した階段を登り、木製のドアを開ける。外套をハンガーに掛けてから奥の部屋に向かうと、オレンジ色の灯りの下で本を読んでいたサテリットが顔を上げて「おかえり」と言った。
「お疲れさま」
微笑んでみせる目元は、少し落ちくぼんでいる。サテリットと、彼女のパートナーであるアンクルの娘が学舎に引き取られて、ひと月半ほど経つ。以前に比べれば持ち直した方だが、いつも通りの様子と呼ぶには、まだ娘との別れを振り切れていない印象だった。
そのことには触れないようにして、シャルルは明るい口調で「おう」と応じてから、妙に静かなリビングを見渡した。
「アンはまだ帰ってねぇのか」
「あら、覚えてない?」
サテリットが目を瞬かせた。
「今日はオルドニアで用があるから、遅くなるって言ってたじゃない」
「あ、あぁ……そういや、そうだったな」
「そろそろ、帰ってくるんじゃないかしら。私、お茶でも入れるわね」
そう呟いて、彼女はソファから立ち上がった。
杖はソファに立てかけたまま、少しふらつきながらも歩いてキッチンに向かう。
彼女の左膝には、黒いスラックスの上からベルトが巻き付いていて、それがくるぶしを覆うリングとバネで連結され、怪我の後遺症が残る膝を支えている。大きさや細部の構造は違うが、同じようなものがシャルルの右手首にも付いている。どちらもアンクルが二人のために作ってくれた、失われた身体の機能をサポートするための器具だ。
アンクルが今日オルドニアに赴いているのも、こういった人工外骨格や義体に関する技術交流の場が設けられているためだった。
「俺さぁ――今の指で結構満足してるんだけど」
機械の薬指と小指を曲げ伸ばししながら、シャルルは暗くなった窓を見つめる。
「これ以上、どっか改善するとこあんのかな」
「あら、そう?」
ティーポットの乗ったトレイを片手に戻って来ながら、サテリットが小さく首を傾げる。
「私は結構、直して欲しいところがあるわ。寒くなってくると動きが渋くなるし……ちょっと無茶をするとバネが外れて飛ぶし」
「それはよぉ、お前……相変わらずだよな……無茶すんなって話だろ」
「改善点がない、というわけではない、と言いたいのよ」
彼女はソファに腰を下ろして、ティーポットからハーブティを注いだ。シャルルのぶんも用意してくれたので、礼を言って受け取る。上品な酸味と香りが、穏やかで静かな夜によく似合っていた。
「……それに」
ハーブティの水面を見つめて、サテリットが呟く。
「アンは、何か……新しいことをやりたいんだと思うの」
「ああ……」
納得して、シャルルは頷いた。
「まあ、それは分かるな。俺も」
「ええ」
サテリットが俯く。
肩につかない程度の長さで切りそろえた黒髪が垂れて、その表情を隠した。旧ラピスのバレンシアで暮らしていた頃は腰に掛かるほど長かったが、娘が髪を掴んでくるから――と数年前にばっさり切ったのだ。
あの無秩序な生き物は、もうこの家にいない。
キッチンの道具を荒らされることもないし、夜中に泣き声で叩き起こされることもなければ、トイレに付き合ってやる必要もない。三人で過ごす日々は、バレンシアの宿舎にいたとき以上に穏やかでつつがなく、なのに部屋の広さや静けさが、どうにも胸に染みるのだ。
そのとき、玄関の方で音がした。
それとほぼ同時に、ただいま――と扉の向こうで聞こえる。シャルルは立ち上がって扉を開け、玄関先で荷物を降ろしているアンクルに手を振った。
「おう、お疲れ」
「お帰りなさい」
「うん、ただいま。ごめん、だいぶ遅くなっちゃったね」
廊下の棚に置かれた時計を見て、アンクルが眉を下げる。時刻は十時半になろうとしていた。彼が言うとおり、普段よりはかなり遅い帰宅だ。
「列車が遅れたか?」
アンクルのぶんのハーブティを注ぎながら尋ねる。オルドニアと周縁四都市をつなぐ列車は、線路の支障やらなんやらで数日に一度は止まるのだ。だが、シャルルの問いかけに対し「いや」とアンクルは首を振った。
「まあ……それもあるんだけど。オルドニアの掲示板で、これをね、見つけて。ちょっと話を聞いてきたんだ」
そう言ってアンクルは、折りたたんだ紙を背後から取り出し、サテリットに渡した。
「これ、知ってる? 僕は、アウティリアでは見たことないんだけど」
「……いえ」
目を僅かに見開いて、サテリットが首を振る。
「初めて見たわ」
シャルルも彼女の背後に回って、書かれている内容を見る。内容はラピシア語で記されているが、この一年で最低限の語彙と文法は学んだので、どうにか読むことができた。
その紙は何かの募集要項だった。募集人数は十名ほど。その下に、この手の募集ではお決まりである、衣食住を保障する趣旨の文章。もっとも――どの程度のレベルで
その下に、職務内容。
「えぇと……外縁、探査隊?」
見慣れない単語に、シャルルは顔をしかめる。
「何だそりゃあ」
「うん、僕も気になって、だからそれを聞いてきたんだけど……今ってさ、旧ラピスの他に五つ、街があるじゃない? オルドニアを中心に、プリマ・エスマリテ・インヴィルムと、それにアウティリア」
「おう」
「そうね」
「だけど、その更に外側に何があるかを知っておくべきだろう、っていう話になったんだって。けっこう前から議会ではそういう話があって、実は、もう第三次探査隊まで出てるらしいんだよ」
そこまで話してから、アンクルはサテリットの前に膝を付いた。
「こういうの、興味あるかな――と思って」
「え、えぇ……あるわ、とても」
僅かに紅潮した頬を抑えて、サテリットが頷く。
その様子を見て、シャルルも思い出す。以前から彼女は「ラピスの外側」に行ってみたいと零していたのだ。この外縁探査隊とやらは、まさに彼女の夢を具体化するような職務ではないだろうか。
「……でも」
サテリットが書面に目を落とす。
「そういう仕事って、私みたいな非力な人間は選ばれないんじゃないかしら」
「第三次まではね、たしかにそうだったと思う」
アンクルが頷いてから「でもね」と言って、用紙の下半分にある一段落をぐるりと指でなぞった。
「ほら、ここ見て」
そこに書いてあるのは、募集内容の詳細だった。新たに募集のある業務内容は主に、観測機器の読み取りとデータ整理。応募者に求めるスキルは情報処理とラピシア語の読み書き。また、仮設観測所とオルドニアを頻繁に行き来する必要があるため、
「すげぇな」
そこまで読んで、シャルルは思わずそう呟いていた。サテリットはかつて、バレンシアの図書館で文献の整理をしており、情報端末の操作にも長けている。ラピシア語の読み書きも、日常レベルならそこまで支障はない。さらに都合の良いことに、彼女は今年の春、
「良かったな」
そう言って、シャルルはサテリットの伏せた顔を覗きこんだ。
「お前のためにあるような仕事だろ」
「……そうね」
だがサテリットは、嬉しそうに口の端を歪めつつも、どこか引っかかったような表情をしていた。彼女は折り目の付いた紙をぎゅっと掴み直して、ソファの前で膝をついている恋人の顔を見上げる。
「その……良いの?」
「え? えっと……何が」
「いえ」
彼女は短く首を振り、薄っぺらい紙を大切そうに抱えて、ソファから立ち上がった。肘掛けに掛けていた私物のブランケットを拾い、廊下に向かう。
「どうもありがとう、アン」
振り返った表情は淀みのない笑顔で、一瞬だけよぎった影のようなものは、頬のどこにも残っていなかった。
「次の休みにオルドニアに行って、話を聞いてみることにするわ」
そう言って、彼女は私室に戻った。
宣言通り、三日後に彼女は
***
十月下旬のその日、ラピスに初雪が降った。
シャルルが働いている食堂の窓ガラスは、外の寒さのために結露している。掃除の手を止めて、ぼんやりと霞んだ街の景色を眺めていると、こちらに向かって歩いてくるアンクルを見つける。街工房の昼休みに、食事を食べに来たのだろう。シャルルは一度食堂の奥に引っ込んでから、水を注いだグラスを持って彼を出迎えた。
「よう、お疲れ」
「あ、ありがとう」
窓際の席に腰を下ろしながら、アンクルが礼を言う。その日は雪のためか食堂の利用者は少なく、がらんとしていて暇だったので、シャルルは裏で働いている同僚たちに一言断って、アンクルに食事を持って行くついでに自分の昼食も済ましてしまうことにした。
「前から気になってたことがあってさ」
固めに焼かれたパンをちぎりながら、ふとアンクルが薄灰色の空を見上げた。
「今日みたいな雪の日って、
「え? 飛ばせねぇ理由あんのか」
「だってアレって、プロペラの回転で揚力作ってるんでしょ。何かこう、雪が空気中にパラパラ降ってたらさ、それが羽根にくっついて重くなって、回りにくくなりそうじゃない?」
「いや、知らねぇけど」
「それに視界も悪くなるよね……」
いつの間にかパンを食べる手をすっかり休めて、アンクルは彼自身に何のゆかりもないであろう、雪の日の
「――ああ。そうか」
だが、ふと彼の意図に気がついて顔を上げた。
「ははぁ……要するに、お前、あいつの心配してんのか。
「――そういうわけじゃ」
「いや、
彼らが恋人関係になるより前から、シャルルは彼らとともに暮らしてきた。友達だったはずのサテリットを好きになってしまった、どうしよう――と相談を持ちかけられたのは、もう十年近く前の話になる。アンクルが恋人に対して過度なほど心配性なのはシャルルもよく知るところで、なのに、包み隠すような態度を取られるのはどうにも違和感があった。
「今更そこ否定すんなって」
「……そりゃ心配だよ」
シャルルが苦笑してみせると、アンクルは拗ねたような表情をして、わずかに赤くなった鼻を擦った。
「住環境も行ってみないと分からないし、アウティリアと違って、頼れる人も少ないだろうし。歩行補助具が壊れてもすぐには直せないしさ……」
「まあ分かるけど……そんなに心配するなら、いっそ本人に言えよ」
「いや、言えないよ」
彼はきっぱりと首を振った。
「僕が何か余計なことを言って、千載一遇のチャンスを逃させるわけにいかないもの。シャルル、悪いけど僕が心配してることは、彼女に伝えないでもらえるかな」
「……まあ」
何か煮え切らないものを感じつつ、シャルルは空き皿を重ねて立ち上がった。陶器の皿が擦れ合って、カチャカチャと耳障りな音を立てる。
「お前がそれで良いなら」
「うん、ありがとう」
彼はそれ以上は何も語ろうとせず、ただ外を見つめながら昼食を食べて、街工房に戻っていった。
そして、その半月後。
軒先にうっすらと雪が積もっていた朝、オルドニアから手紙が届いた。第四次外縁探査隊の一員として、知力と技能を見込み、正式にサテリットを任命するという通告だった。
***
年の暮れも近づいた、十一月中旬。
オルドニアに旅立つサテリットを見送るため、シャルルはアウティリアの中央駅まで赴いた。駅前のベンチに腰掛けていたサテリットがこちらに気がついて、小さく手を振ってみせる。傍らに置かれたトランクには、彼女がいつも使っている杖が括りつけられていた。
「……あら」
「悪ぃな」
ひとりで現れたシャルルを見て、彼女は僅かに目を見開いた。彼女が何か言う前に、シャルルは先んじて謝っておく。
「工房、今日やたら忙しいらしくて。なんか、でかい仕事が入ったとかで……俺も交渉したんだけど、あいつ引っ張り出せなかった」
「そう……いえ、別に良いわ。来月には、また帰ってくるし」
どこか、強がった口調で言う。
「でも気に病みそうだから、気にしないでってアンに伝えておいて。冬支度で忙しいってことでしょう、きっと」
「おう。分かった」
ひとつ頷いて、シャルルは駅前にある時計を見た。時刻は十二時二十分過ぎを指しており、十二時半の便が出るまで、あと十分もなかった。
「ってか、お前……駅舎に入んなくて良いのか。そろそろ時間だろ」
「ええ、そのはずなのだけど」
白く濁った息を吐きながら、サテリットが駅舎のほうを見遣る。
「まだ車両が入ってないのよね」
「あぁ……本当だな」
「なにかトラブルがあったのかしら」
「ちょっと聞いてくるか」
シャルルは駅舎に向かい、駐在所の窓をノックする。十二時半発の列車について尋ねると、オルドニアからこちらに向かっていた列車のブレーキに支障が認められたので、発車が遅れる――と伝えられた。
「遅れるって、どのくらい」
「代替の車両が来るんですけど、エスマリテからなんで、まぁ二時間くらいですかね……いやぁ、どうもすみません」
申し訳なさそうに駐在員が頭を下げた。
シャルルはベンチに戻って、列車の遅延についてサテリットに伝える。
「でも、ちょうど良かったな。俺さ、いったん街に戻って、アンに声掛けてくるよ」
期せずして二時間の猶予ができた。もしかしたら工房の様子も落ち着いているかもしれない。シャルルはそう思ってベンチを立ち上がったのだが、サテリットは小さく首を振ってみせた。
「……いえ。良いわ、呼びに行かなくて」
「は?」
「いまアンと会ったら私、喧嘩しちゃう気がする」
「なんで喧嘩するんだよ」
「だって――」
そこで彼女は黙り込んだ。
寒さで赤くなった鼻先をマフラーに埋めて、だって、と繰り返してから目を伏せる。
「なんだか、最近そっけないんだもの。こんなの、貴方に言っても仕方ないけれど……寂しいとか、心配だとか、そのくらい言ってくれても良いと思わない?」
「はぁ……?」
目眩がした。
思わずシャルルは額を抑える。なんと馬鹿馬鹿しい話か。サテリットは外縁探査隊の選抜に通るくらい賢いくせに、どうして恋人のことに限って、ネジが飛んだように知能が落ちるのだろう。
「分かった」
大きく溜息を吐いて、シャルルはベンチに深く座り直す。
「呼びには行かねぇよ」
「ええ、ありがと――」
「その代わり」
ほっとしたように頬を緩めたサテリットの背中を押して、立ち上がるよう促す。
「荷物は俺が見といてやるから、お前、街に戻って会いに行け。二時間あれば戻れるだろ?」
「――ちょっと」
抗議の目がこちらを睨む。
「なんで、そうなるの」
「良いから、今俺に言ったこと全部、そのままアイツに言えって。まあ、たぶん喧嘩にはなんねぇよ」
そう言って無理やりサテリットを街に向かわせ、シャルルは静かになった駅前で、ぼんやりと灰色の空を見上げた。アンクルが恋人に対して心配性でなかった期間は、この十年間でおそらく一秒たりともない。どうして一番近くにいて、誰よりも言葉を交わしているはずの相手に対して、そんな根本的な思い違いができるのか。
「理解できねぇな」
呟いて見上げた空から、粉雪が落ちてくる。
また、冬がやってこようとしていた。
***
同年冬。
内陸方向の詳細な探査を目的として、総勢二十三名からなる第四次外縁探査隊がオルドニアを出発した。