chapitre161. 憧れ
文字数 6,954文字
――新都ラピス ハイバネイト・シティ第24層
「はい――全員無事です。コアルームから来た、皆さんと合流して、今は避難補助を、ええ――今いる場所ですか? えっと」
ヘッドセットを付けたレゾンから、視線で「どこでしたっけ」と尋ねられて、リヤンは慌てて周囲を見渡した。少し離れた壁に埋め込まれた金属プレートを見つけて駆け寄り、刻印された現在地を読み上げる。
「S2-24-368って書いてある」
「えっと――だから、バレンシア地下の第24層です。はい、無事です――え? あ、そうですか、じゃあ伝えておきます。はい、本当、心配をお掛けしてすみません――はい、ではまた」
ふぅ、とひとつ息を吐いて、レゾンがヘッドセットを取り外す。MDPヴォルシスキー支部から連絡が入り、所在地と状況を尋ねられたところだった。
「えっと……何か、言われた?」
おそるおそる尋ねると、レゾンは「そうですね」と相槌を打って、数秒の間考える素振りを見せてから振り向いた。
「ティアさんなんですけど、MDPと合流できたそうです」
「え! 良かった」
安堵で、大きく息を吐き出した。
リヤンと、友人であるフルルとレゾンは、MDPヴォルシスキー支部からとつぜん消えたティアを追いかけて地下にやってきた。後を追いかけようとしたものの、ティアの辿った道程は複雑を極め、途中で彼の痕跡を見失ってしまった。かといって引き返す道も分からず、一行はそのまま無人区域の居室を借りて一晩を明かした。
地下世界で、とんでもない事態が発生していると知ったのは翌朝のことだった。
そして、間もなくしてラピシア緊急集会が開かれ、50万を数える地下居住者たちを避難させる、というかつてない大規模な計画が始動した。リヤンたち、地下にいるMDP構成員たちは有無を言わせず避難補助に駆り出され、ハイバネイト・シティの管理AIが制作したという避難計画に沿って、複雑怪奇な地下世界を駆け回った。
「本当、ほっとした……」
壁にもたれたまま、ずるずると床に座り込む。上着が肩からずれるのも構わず、リヤンは大きく息を吐いた。
「あたしたちの足が遅くて見失っちゃったし、それどころじゃないくらい緊急事態になっちゃったし、もう本当、良いニュースが聞けて、良かったぁ……」
「そうですね、まあ――でも」
ヘッドセットと
「怒られる覚悟はしておいてください」
「う……そうだよね」
自分の立場を思い出して、リヤンは肩を縮めた。
突然いなくなったティアを追いかける――という明確な目的があったとはいえ、リヤンたちが支部の人々に何も言わず飛び出してきたのは事実だ。傍目から見れば、連絡もなくいなくなったという意味で、ティアもリヤンたちも大差ない。
――そういえば。
ふと懐かしい匂いを思い出して、リヤンは故郷バレンシアの光景を脳裏に思い描いた。自然そのままの森に、飛び石のように建物があり、細い山道がそれらを繋いでいた素朴な景色。
まだ自分が何も知らない宿舎の子供だったころ、道に咲く花や、登りやすそうな形の樹を見つけては、よく時間を忘れて遊んでいた。そして、そのたびに叱られていた記憶がある。
「なんか……あたし、成長してないなぁ」
思わず、肩を落としてしまう。
直観で思ったままに動いて、その結果、誰かに迷惑をかけた。賢い仲間たちを間近で見ていると、もっと思慮深くなりたいと思うこともあった。だが、リヤンの根本にあるのがその無鉄砲さとでも呼ぶべき性質なのか、昨日も気がつけば感情のまま動いてしまった。
「レゾン君も、ごめん。巻き込んだよね」
「まあ――その、はい。その通りだと思うので、特に、フォローとかはないんですけど……」
彼は荷物を背負い直しながら「でも」と真面目なトーンで言った。
「リヤンさんの思い切りの良いところ、俺は……格好良いとも思ってます」
「うぅ……いいよ、励まさなくて」
「いや、その――本気ですよ」
やけに真剣な顔でレゾンが言う。
「難しいこと考えずに、思ったまま飛び出していけるの、俺にはできないので。ちょっと憧れます」
「えっとぉ……そう、かな」
苦笑いで応じる。
遠回しに怒られているのか、それとも本気で言われているのか、判別が付けられなかった。彼はあまり、嫌味を言う人ではないと思うけれど、無鉄砲な行動に巻き込まれて危険に晒されたら、温厚な人間でも文句のひとつは言うだろう。
「あ、あと――別の話ですけど」
爪先をぎゅっと握ると、レゾンが思い出したというように振り向いて言った。
「例の、リヤンさんが参加してた研究の成果、ハイデラバードの方と共有されたそうですよ」
「研究――」
「ええ。もう、結果出てたんですね」
レゾンが晴れやかに笑った。
「出生管理施設が焼けたとき、正直言って、本当にもうダメかと思ったんですけど――妊娠が阻害されている、原因となる抗体が特定できたそうです。ハイデラバード側もその成果を認めたらしくって。リヤンさんのおかげで未来が開けたって……すごいですね」
「あ――あたしは、何もしてないけど」
「え? そんなことないでしょう。誇って良いと思いますよ。だって、リヤンさんが研究対象に名乗りを上げてくれたから――」
そこまで言って、レゾンは不思議そうに眉をひそめた。
「あの、疲れてますか? 顔色が悪いような」
「う、ううん」
慌てて首を振る。
「ぜんぜん、平気だよ」
「なら、良いんですけど……昨日からずっと働きづめですし、避難補助をする側が倒れてもダメなので、遠慮せずに言ってくださいね?」
「うん、ありがとう」
追及されなかったことに安堵しながら、リヤンは微笑んだ。どうも自分は、感情が顔に出やすいような気がする。今までは滅多に隠しごとをせずに済んだから、素直すぎる表情筋に、困らされることもなかったけれど――今は、ひとつだけ、知られたくないことがある。
MDPヴォルシスキー支部の研究成果が出て、
紛れもなく、良いことだ。
だけど、誇る気にはなれなかった。
「レゾン君さ」
「はい?」
彼に少し探りを入れてみようと、リヤンは何気ない口調で切り出した。
「研究って、何をやってたか知ってる?」
「いえ、具体的なところは聞かされてないですね。
「――そっか」
「それがどうかしましたか? あの、疲れてないのなら、そろそろ出ませんか」
「うん……フルルが待ってるもんね」
リヤンはリュックサックの肩紐を締め直して、彼の後をついて歩き出す。
重たい身体を引きずって歩く。
「ねえ、レゾン君はさ」
手を背後で握って、リヤンはさりげなさを装って尋ねてみた。
「もしも、抗体を無効化するみたいなお薬ができたら、どうする?」
「は――はい!?」
やけに驚いた声を出して、レゾンが勢い良く振り返った。
「えっと――それは、どういう意味で」
「だからぁ……誰かと恋をしてさ、子供が欲しいとかって、考えることある? だってさ……“できる”と“したい”って、別物だよね」
「いや、えっと、俺は――」
日焼けした頬が、心なしか血色に染まっている。彼は、何か言葉を紡ごうとして呑み込むことを何度か繰り返して、最後に「どうなんでしょうね」と苦笑いを浮かべた。
「考えたことが、ないわけじゃない……ですけど、あまりに遠い話というか。だって、いや、リヤンさんに言うのは悪いですけど、今までそういうのって、公に認められてなかったじゃないですか」
「そっか……」
「どうして、そんな質問を」
「うん……あたしはね、憧れてたんだ」
リヤンは目を細めて、懐かしい宿舎の人々を思い出した。
「誰かを好きになるのも。好きになってもらうのも、この人ならって思える人と恋をするのも……身近に、そういう人がいてさ、ずっと憧れてた」
「
「どう、だろう……」
分からない。
宿舎の彼らのように、お互いにとって特別な相手がいるのは、きっと素敵なことだと思う。その核にある
その想像と、ぜんぜん違う経験をした。
身体の内側に触れた金属の冷たさを思い出して、リヤンはぶるりと背を震わせる。鉄とエタノールの匂いがする無機質な処置室で、目隠しの布を一枚隔てた向こうで、白衣を着て仕事をしていた彼らは、何も悪くない。道義に反することは、多分されていない。
だけど。
「リヤンさん?」
怪訝な視線を向けられて、リヤンははっと我に返った。先を歩いているレゾンがこちらに向き直って、真剣な顔で「あの」と切り出した。
「やっぱ、さっきから変ですよね。すみません、俺、なにか……失礼なことしたんでしょうか」
「ちっ、違う……」
リヤンは慌ててぶるぶると首を振った。
「レゾン君は、何も悪くないよ」
「でも」
「悪くないけど……ごめん。ちょっと今は、まだ言えないや」
「……分かりました」
何か苦いものでも飲み込んだような顔で、レゾンが頷く。彼は押し黙ったまま、小さく背伸びをして、壁にはめ込まれたパネルを外す。リヤンは近くに置いてあった木箱を引っ張ってきて、それを踏み台代わりに使い、下の階層に向かうスロープに乗り込んだ。
気まずい沈黙を、ベルトコンベアの低い音が埋める。
リヤンは曲げた膝を引き寄せて、そこに顔を伏せた。困ったように向こうに視線を向けている、レゾンの横顔をちらりと見て、また俯く。自分でも良く掴み切れていない、もやもやとした苦しみを、誰かに分かって欲しい――けど、彼に言える気もしなかった。
一分も経たず、リヤンたちはスロープを降りる。
下の階層は、すでに浸水していた。
足を組んで木箱に腰掛けていたフルルがリヤンたちに気がついて、片手を振ってみせる。彼女は水飛沫を上げながら床に飛び降りて、こちらに小走りでやってきた。
「お疲れ」
「うん、フルルも、運転お疲れさま」
「あぁ、ありがとう」
彼女は頷いて、凝りをほぐすように両腕をぐるぐると回した。
そういえば、フルルの操縦する
「あの……次の連絡、入ってます?」
レゾンが
「そろそろコアルームから連絡が来るはずなんですけど、俺たちまだ、次のこと聞いてないんですよね」
「ああ――うん、電源が復帰した都合かな、予定が変わったみたいで。私たち、二十分くらい待機だね。二人とも、お昼もう食べた?」
「ええ、俺たちは」
レゾンが頷く。
「フルルさんはまだですか」
「そう……」
生欠伸をして、フルルが目元を拭った。
「時間あるし、ここでお昼食べて良いかな、私」
「あぁ、勿論です……あの、じゃあ俺ちょっと、その辺を見回ってきますね」
「え、休んでたら良いのに――あ」
曲がり角の向こうに消えていったレゾンを見て、フルルが「行っちゃった」と唇を尖らせた。彼女は廊下の一角にあるテーブルに腰を下ろして、携行食と呼ばれる保存食品をリュックサックから取りだした。リヤンは水没した通路を横切って、彼女の斜め向かいに座る。
「なんか、リヤンたちさぁ――」
携行食を包んだホイルを剥きながら、フルルがこちらを見て、ふっと口元を緩める。
「喧嘩でもした?」
「――してないよ」
「あ、そう? なんか、雰囲気変だなぁって思ったから――お互い、目、合わせないし」
「違う……」
リヤンは爪先を見下ろした。
彼には何の非もない。ただ、リヤンがひとりで落ち込んで、一方的に困らせてしまっただけなのだ。
「レゾン君は悪くないんだ」
「じゃあ、他に何かあったってこと?」
「う……」
ごまかすつもりで墓穴を掘ってしまい、リヤンは俯く。組んだ指をじっと見つめていると、フルルが小さく笑う気配があった。
「ごめんね――話しても話さなくても、どっちでも良いんだけど、リヤンってあんまり、隠しごととか、得意じゃなさそうだからさ……話した方が楽になるなら、教えてよ」
「でも、こんな時なのに」
「いや……緊急事態だからこそ、気になることは減らしておいた方が良いと思うけどな」
チョコレートケーキに似た色の携行食をかじって、頬を膨らませながらフルルが言う。
「心配事があったら集中できないでしょ」
「うん……ありがとう」
リヤンは背筋を正して、湿った空気を肺いっぱいに吸い込む。フルルになら、少しは話しやすいかもしれない。
「あのさ……」
胸の奥にあるざらつきを、言葉にしてみようと決めた。
「あたしが
「――そうだね」
フルルが一瞬だけ表情を硬くした。
一度、そのことで喧嘩になりかけたからだろうか。いつになく緊張した面持ちをする彼女が何だか可笑しくて、リヤンは「そんな顔しないでよ」と苦笑する。
「それはね、別に気にしてないって言うか……良いんだ。むしろ、あたし……その人たちみたいに、恋がしてみたかったの。この人となら一生、一緒にいてもいいって思えるような人に……愛されてみたかった」
「うん……良いと思うよ」
フルルが相槌を打つ。
「多分だけど、ラピスは今までとは変わる。
「そう、そうなんだけど――だからこそ、あたし、恋に憧れてたから、だからっ……ただ調べる対象として、あたしの身体を使われたのが――冷たい器具で触られて、数字で記録されたのがっ……」
「リヤン――」
食べかけの携行食を膝に置いて、フルルが白い顔でこちらを見た。おそるおそる、震えた声で問いかけられる。
「やっぱ嫌だったの……?」
「いっ――嫌に決まってるよ!」
叫んだ拍子に、目元にじわりと涙がにじんだ。
自分自身の声が耳の中で残響して、そうだ、とリヤンは気がつく。恋人どころかほとんど初対面のような相手に、金属の器具で拡げられて、身体の奥を観察されるのが、我慢こそしていたけれど、本当はずっと――嫌だったのだ。
「痛いし苦しいし、恥ずかしかった」
「だ、だから言ったじゃんっ、嫌なことは断って良かったんだってば――」
そこまで言って、フルルははっと気がついた顔になり「違うか」と俯いた。
「断れないか。ラピスの……ううん、
「うん……そんな感じ」
リヤンは頷いて、両膝を寄せた。
調査をしていた人たちは悪くない。彼らは、医学や生命工学の知識がほとんどないリヤンでも分かるように、どんな調査をするか詳細に説明してくれた。質問すれば納得するまで教えてくれたし、最後には必ずリヤンの意志を確認してくれた。
『――良いですか?』
念入りな確認に、頷いたのはリヤン自身だ。断れなかったのと、断らなかったのは、外から見れば同じに見える。
「誰のせいでもないけど、嫌だった」
「えっと――何というか」
フルルは視線をあちこちに向けながら、短い髪を片手でかき回した。
「あぁ――ダメだ、私、何も言えないや……謝るのもお礼を言うのも、なんか、違う気がする。今さらどうにもならないし、リヤンのおかげでみんなが助かったのも本当だし……」
「うん。でも、聞いてくれてありがとう」
少し腫れぼったくなった目元を拭って、あはは、とリヤンは声を上げて笑ってみた。
「そうだよ、嫌だったんだ……あたしは」
胸につっかえていた不透明な靄が、理解可能な形で書き下せたような気がする。そうすると不思議なことに、苦しさそのものの大きさも、一回りだけ小さくなったように感じた。思っていることを、言葉で切り分けて考えてみるのは、やっぱり大切なことなのだ。
「ちょっとスッキリした」
「なら良かった」
微笑んだリヤンを見て、フルルがどこか安堵したように笑ってみせた、そのとき。
かすかな声が耳に届く。
「――え」
リヤンは跳ねるように顔を上げた。
雑音のはるか向こうに見つけた、微かな揺らぎのような、音のかたち。たしかに鼓膜を揺らした、忘れられるはずもない周波数。心の奥深く、記憶のずっと古いところに根を張った、懐かしくて優しくて暖かくて、だけど会いたくなかった人たちの声。
「嘘……」
「リヤン?」
「そっか、地下にいるって、手紙で……言ってた」
「どうしたの」
片腕をつかまれて、リヤンははっと我に返る。うまく動かない首をぐるりと捻って振り返ると、フルルが心配そうな目でこちらを見ていた。