chapitre14. 水没した街
文字数 7,238文字
曇天の空を遥かにしのぐ明るさを持った光は、人々のざわめきよりも早く広がり、あっという間に広場一帯を飲み込んだ。リュンヌはとっさに身を引き、船に腰掛けていたアルシュの手首を掴む。
今朝、塔の上で自分を飲み込んだ光と同じだ。そう確信した。
一体なぜ、と考える暇もなく、二人の身体は真っ白い光に包まれる。肌をちりちりと焦がすような眩しさに目を細めながら、アルシュの手を離さないように、とだけ考えていた。風のない日なのに、嵐の中にいるように足元が覚束なかった。
強すぎる光で目が眩む前に目を閉じた。おそらく、この光はすぐに消え去る。その後に何が起きるか、リュンヌはもう知っている。
え、と横で息を呑む声がした。
アルシュの声だ。
「どういうこと。リュンヌ、そこにいるの?」
多少焦ってはいるが、落ち着いた声でアルシュが言う。手を握り直して、彼女の居るだろう方向に声をかけた。
「大丈夫。ここにいる、光が過ぎ去るのを待とう」
まぶたの向こうで、光が弱まる気配がした。おそらく、塔の上でサジェスを見たときと同じように、過去の景色が見えるはずだ。そう思って目を開けたリュンヌの視界は、無数の泡に遮られた。
気泡だ。
瞬いて、再び確認する。
濁った水の中にいた。
泡立った気泡が渦巻いて天に向かう。
続いて足元を見た。石畳の地面は変わらないが、ひび割れていた。割れ目に薄い苔が入り込んで覆っている。
何かが変だ。
何か。
まるで。その先は考えるのが怖かった。
――ひどく時間が経ったような。
「リュンヌ、ねえ、これって」
悲鳴に近い声がすぐ隣で響いた。
ラ・ロシェルの街が水没している。
その認識と共に、改めて周囲を見渡した。普段は人の往来が途切れない広場なのに、人の姿は一つもない。その代わりに瓦礫や、割れたガラスのようなものが積み上がり、時折すき間から不定形の気泡を吐き出しては、汚れた水の中で揺れていた。
背後に振り返り、直接は見えないが、そこにいるはずのアルシュに声をかける。
「アルシュ、これは景色が見えているだけだ。溺れたりしない」
「えっ、ああ、本当だ……」
言葉の後半から、声は落ち着いた響きになり、力のこもっていた手の握りが緩やかになった。はあ、と困惑したような溜め息が聞こえる。
「リュンヌは知っているの? これが、何か」
「信じてくれるのなら言うけれど、これは、過去の……」
言いながら、違和感を覚えた。今見えている景色は、リュンヌの知っているラ・ロシェルの街並みが、そのまま水の底に沈んだもののように思えた。だが、ラ・ロシェルが水没したという話は、新都の歴史を収めた本のどこにも書いていない。もしかしたらこれは過去ではなく、いずれ来る未来なのではないか、という直感がよぎった。白い光の発生する理由は不明だが、飲み込まれた者に過去を見せるのだと思っていた。
だけど、もしも水晶に時間を越える力があるというのなら。
それが過去に限らないというのなら。
「――これが未来のビジョン?」
リュンヌは信じられない思いで水没した街を眺めた。
「ねえ、リュンヌ!」
横からせっつかれて、リュンヌは我に返った。手を強く引かれている。
「どういうことなの? 今、未来って言った?」
「ええと」
詳しい説明は諦めた。
「皆が同じ幻覚を見ている、ってところかな」
「分かった。私たちはさっきの場所にいるのに、おかしなものが見えているんだね? 広場に集まった人たちも?」
「おそらく、いや、そうだ」
曖昧な表現を避けて簡潔に言うと、横でアルシュが頷く気配があった。原因の究明よりも事態の把握が先に出るあたり、彼女が政治部の人間だと改めて感じる。どうしよう、とアルシュが呟く。
「どうやったら目が覚めるの」
「分からない」
塔の上で同じ光に飲まれたときは、ソレイユに外から導かれることで脱出できた。おそらく、この光は空間的な広がりを持っていて、その内部にいる者にのみ過去や未来のビジョンを見せる力を持っているのだろう。だから闇雲に歩き回れば、いつか光の外側に出られるかもしれない。
だが問題は、葬儀に参列していた多くの市民も巻き込まれているだろうという点だ。参列者たちはおそらく混乱しているだろう。その全員を光の広がっている領域から出すことは不可能に近く、したがって、この光を根本的に消し去るしか解決策はない。
そう話すと、アルシュは「わかった、ありがとう」と落ち着いた声で答えた。手が引かれるので、彼女が歩き出したのだと分かる。
「どこに行く?」
「光の外側だよ」
当然のように返される。
「それしか出る方法がないんでしょう」
「全員を出すのは無理だと……」
「皆なんて言ってないよ、リュンヌ。まず、私たちだけでも出る。ここにいてもどうしようもないもの」
それもそうだ、と思った。そんな簡単なことすら気づけないということは、思ったより混乱しているのかもしれない。対するアルシュには思ったより動揺している様子がなく、心強かった。
歩きながら、水没した街の様子を見ていった。水棲と思われる、変わった形の植物があらゆるところに巻き付いている。おぞましい色をした汚泥が水底に溜まって、ところどころ地面が覆われている。上を見上げると、濁った層の向こうに、水面に反射する光が僅かに見て取れた。透明度の低さからして、水深は十メートル以上あるだろう。
この景色はあくまで見せられているだけで、身体の本体は別の場所にあるという認識が前提にあるので、一歩引いて見ることができる。だが、もしもこの空間に本当に投げ込まれたら、生理的な嫌悪感で鳥肌が立つだろう。何年後か分からないが、ラ・ロシェルの街が廃墟になる未来があるということか。
「これは何時の景色なのだろう」
手を引かれて歩きながら、リュンヌは呟いた。何か暦が書いてあるものでもあれば年代を特定できるのだが。天変地異があって街が水没したとして、年代が分かれば備えられるかもしれない。
「そっか、これがリュンヌの言うとおり未来の景色なら、それは大事かも。ただ……何か分かったところで対策できるかなあ」
「色々あるんじゃないか? 見たところ高層の建物まで全て水没するとまでは至っていないようだし、もし洪水の類いなら堤防を作るとか」
「方法じゃなくてね」
アルシュは悲しそうに呟く。
「未来の景色を見た、なんて誰も信じないよ」
そういうものだろうか、とリュンヌは内心では首をかしげた。だが、冷静に考えればそうだ。昨日から立て続けに色々なことを知らされ、感覚が麻痺しているのかもしれない。二人は、人が多く集まっているだろう広場の中央を避けて進んでいたが、しばらく進んだところでアルシュが足を止めた。
「リュンヌ、あれ見える? 何か、光ってる」
あっち、と指をさす代わりに、手を引いて方向を示す。そちらに視線を向けるとたしかに、白く光っている小さい点があった。空中、あるいは水中にゆらゆらと、不規則に漂う光点。暗い水底の景色のなかで、それだけが異質な輝きを放っている。
「あれは?」
二人は、どちらからともなく、行こう、と頷き合った。その動作は見えてはいないが。
だが、広場を横切る行程はなかなか困難を極めた。
見えないだけで多くの人がそこにいるのだ。混乱して動き回る者、地面にうずくまっていると思われる者。悲鳴のような怒号のようなものが飛び交い、ともすればお互いの声すら聞こえなくなる。
数多の見えない障害物を避けながら進んだ。
「ゆっくり行こう。手は離さないで」
三分ほどかけて数十メートルの距離を進んだ。
手を伸ばして、光っている本体に手を伸ばす。指先に硬質な感覚が触れた。視覚と触覚が乖離した、この異常な空間のなかで唯一、見ることができると同時に触ることができる、ということだ。何か大切な意味を持っている、と直感的に感じた。
光っている本体は、現実世界のほうで何かと繋がっているらしく抵抗があったが、リュンヌはそれを目の前まで引き寄せた。それは、光り輝く水晶だった。大きさは親指ほどで、削られていない天然のままの形をしている。
「前にあの光に巻き込まれたときも、水晶の近くにいた」
正確にはただの水晶ではなく、時間転送装置の素材に使われていた虹晶石と呼ばれる特殊な水晶だが、その点はややこしいので伏せておく。葬儀の礼服に、アクセサリとして水晶を合わせる者が多いのだ。リュンヌも首飾りに一つと腰に二つ、水晶を身につけていた。あの装置の暴走とメカニズムが同じなら、誰かが身にまとっていた水晶が今の事態を生み出している可能性は高いのではないか、と思えた。
その仮説が正しければ、核であるこの水晶を始末すれば何とかなるかもしれない。リュンヌがそう説明すると、アルシュが困惑した声で言った。
「でも、どうしよう。これを壊すの?」
「可能ならそうしたいが」
水晶の硬度は高く、相応の道具がなければ傷をつけるのも難しい。銃が使えればまた話は別だが、葬儀なので身につけていない。
「間が悪い」
リュンヌは舌を打った。
その瞬間。
「……壊せば、いいのか?」
突然、すぐ近くでしわがれた声が話しかけた。アルシュの声ではないが、どういうわけか、見えないはずのリュンヌを正確に認識して話しかけているようだ。心構えをしていなかったリュンヌの肩が、驚きに大きく跳ね上がる。
答えられないままでいると、声は同じ内容をもう一度繰り返した。ほとんど子音のみで構成された発音で、べたついた喉を無理やり動かしているようだった。
「壊すのか?」
「……ええ、お願い」
リュンヌの代わりに、アルシュが応じた。
「貴方が誰か分からないけど、お願いします」
頷くような気配があった。分かった、と相変わらず聞き取りにくい声で応じる。
「それを空に投げろ」
「投げる?」リュンヌは聞き返した。
「できるだけ高く」
「……分かった」
不可解だが、従うしかない。リュンヌは水晶の表面を指先で辿った。その水晶は元は誰かの首飾りらしく、紐が巻き付いているようだ。爪先を隙間にねじ込んで緩ませ、どうにか水晶本体を取り出す。
「じゃあ、投げるぞ。3、2……」
どうにも、その声の意図するところが分からず、不格好な合図になった。手の平にしっかりと水晶を握り直す。投擲は得意ではないが、そんなことを言っていられる場合ではなかった。数を数えながら、手を振りかぶる。
「1!」
そして、かけ声と共に、渾身で水晶を投げ上げた。
濁った水の中に、真っ白い光が吸い込まれるように登っていった。まっすぐ天を目指した光は、次第に減速し、最高到達点で一瞬停止した。
その瞬間だった。
減速が加速に転じる間の静止。
僅かな時間を狙って、何かが水晶を砕いた。
光が粉々になって散り、呆然とそれを眺めるリュンヌの周りにぱらぱらと落ちる。
数秒ののち、周囲が明るく光り始めた。濁った水に覆われたほの暗い町並みが、ひび割れるように光り出す。景色が正常な色を取り戻していく。キンと耳をつんざくような音がして、次には見慣れたラ・ロシェルの街並みに立っていた。
一瞬。
全てが停止したような感覚があった。
隣にいたアルシュの顔が見えた。彼女と、訳が分からないまま目を見合わせる。彼女の顔には当惑の表情が浮かんでいた。おそらく、リュンヌも同じだろう。
次の瞬間、あらゆるものが動き出した。
混乱した人々が動き回り、意味を為さない声が行き交う。リュンヌはとっさに、しわがれた声の持ち主を探した。人波の向こう側に、背中を向けて去って行く、弓を背負った後ろ姿を見つける。人の身体で遮られてよく見えないが、その人物が首元に巻いている赤いバンダナには見覚えがあった。
「待ってくれ、ゼロ!」
覚えたばかりの名前を呼ぶ。
水晶を砕いたのは彼だ、という確信があった。背中を向けた彼は弓を背負っていた。おそらく、リュンヌが投げ上げた水晶をあれで射貫いたのだ。たしかに弓術に長けていたとはいえ、そんなことが可能なのか、と背中に鳥肌が立つのを感じた。
「リュンヌ、今の人は何?」
アルシュが高い声で尋ねた。だが、リュンヌにも何といって紹介すればいいのか分からず、彼を追いかける理由も分からず、そうやって逡巡している間に、ゼロのものと思わしき後ろ姿はすっかり見えなくなってしまった。
騒動を何とか抜け出して、二人は広場の隅に寄った。
一連の騒動で外れかけてしまっていたヴェールを被り直している友人の横顔を、リュンヌはぼんやりと眺めた。不思議な感慨のようなものが胸を占めている。長年、隣のベッドで寝ていた友人との、片や幹部候補生として、片や
「葬送どころじゃなくなっちゃった……」
途方に暮れた顔でアルシュが呟く。その目尻に薄く涙が浮かんだ。彼女が自分の相方を亡くしたばかりであることを、リュンヌは今さらのように思い出した。その葬儀を台無しにされた内心は、きっと穏やかではないだろう。
広場に集まり、格子のように整然と並んでいた市民たちは、今や一切の秩序を欠き右往左往していた。そうなるのも当然だろう。突然周囲の人が消え、水没した街の景色を見せられたのだ。
一体この事態をどう収めるのだろう。
リュンヌがどこか他人事のように、事態を収拾する手段について考えていると、広場の前方でオレンジ色がひらりと舞うのに気がついた。ソレイユが演台から群衆の中に飛び降りたようだ。
何をしているのだろう、と目を眇めたが、その姿はすぐに人波の中に消えた。
「あの子、リュンヌの相方?」
「そう。……何してるんだ、あれは」
だが、おかしなことが起きた。
広場に跳ね返っていた老若男女の声が、次第に音量を潜めていった。雲のように広がっていたざわめきが遠ざかっていく。リュンヌは周囲を見回した。雑多に散りばめたようだった人の並びが、少しずつ整えられていく。
リュンヌは、近くにいた初老の男性に話しかけられた。
「お嬢さんたち、さっきの、開発部がやってる新しい技術なんだってさ」
二人は視線を見合わせる。
事態の急速な収束は、嘘の情報が出回ったためか。
話しかけてきた男性は、二人の服装を見て「おっと、すみません。機関の方でしたか」と軽く頭を下げた。
「ええ、でもお気になさらないで」
アルシュが応じた。統一機関の人間であるという矜恃があるためか、背筋が凜と伸びている。
どうもすみません、と男性は先程までとは打って変わって低姿勢になり、恐縮したように二人に視線を向けた。
「さっきのは本当でしょうね?」
「……はい。ご迷惑をおかけしてすみません」
困惑を隠しつつ、リュンヌは肯定した。
彼女が肯定したことで情報はさらに信頼性を増したらしく、「らしいぞ」「なんだ、そうか」「驚いたな」と方々でやり取りが聞こえた。おそらく、ソレイユが嘘を流したのだろう。この光の正体を現時点で知っているのは、他には彼だけのはずだ。
意図的に間違った情報をこの速度で流せるのは、真実を知っている者でないと難しい。
演台に、先程まで司会をやっていた幹部が立つのが見えた。静粛に、と呼びかける。
アルシュがはっとした顔になった。
「私、前に戻らないと」
「そうだな。私はあちらから行く、別れて戻ろう」
なぜ別々に帰るの、と逡巡を顔に出しかけて、あ、とアルシュは小さく声をこぼす。
すぐに表情を引き締めて、頷いた。
一連の騒動でそれどころではなくなったが、ムシュ・ラムの罠について告発したばかりなのだ。
アルシュとリュンヌがただの同室の人間以上であることが知られれば、その分アルシュは動きづらくなるだろう。
「――じゃあ、行かないと」
淡泊な言葉とは裏腹に彼女は寂しそうな顔をした。別れを惜しむように、リュンヌの長い三つ編みを掬い上げた。
「リュンヌ、髪、自分で結えたんだね」
アルシュはほんのり微笑んだ。「それとも、ソレイユ君がやったの?」
生まれつきの癖毛がどうも上手く扱えず、彼女とルームメイトだった頃は、毎朝のように結ってもらっていたのだ。今朝髪を結び直したのはもちろん、ソレイユなのだが、それを認めるのがどこか悔しくて、リュンヌは「さあ」と顔を背けた。
ふふ、とアルシュは笑ったようだ。
「今だから言うけど、私は、リュンヌの髪を結うの好きだった」
「……それはどうも」
リュンヌが無愛想に言うと、じゃあねと呟いてアルシュは小走りに去って行った。
すぐ振り返ったが、止める間もなく、まっすぐに駆けていく背中が見えたのみだった。慌てて、彼女とは逆の方向に歩き出す胸の中に、苦い後悔が広がっていった。
あんな言葉が別れの挨拶になってしまった。
――ありがとうとごめんねを大切に。
ソレイユが、そしてエリザが大事にしていた信条だ。アルシュの言葉にただひと言、ありがとうと返せば良かったと、今になって思う。
それで何かが変わったかは分からないが。
少なくとも、こんな痛みを抱えて別れるようなことにはならなかった。