chapitre21. 二つの手紙
文字数 7,602文字
雲の上を歩くような気分のまま、リュンヌは階下に降りるティアを見送った。
エリザを名乗る者が、リュンヌにメッセージを残した。
その行為の意味を考えるために、彼女の頭は高速で回転をはじめた。
――もちろん、エリザ本人ではない。
彼女であるわけがない。
「そんなわけがない」
遠ざかっておく昇降装置の音を見送りながら、リュンヌは苦々しく吐き捨てた。
だが、同時にある疑問が頭の中に湧き上がりつつあった。
図書館の入り口でリュンヌが捉えられ、記憶を封印された後、エリザの姿を見たことはない。そうだ、自分は、あの後のエリザの顛末を知らないのだ。
「エリザが生きている?」
雷に打たれたような感覚が身体を駆け巡った。
「生きていて、私にメッセージを残したのか?」
そうであってほしい、という我が儘な感傷が胸の中でうるさいほどに高鳴る。そんな都合のいいことはない、浮かされて愚かな真似をするな、と自分を諫める声もまた耳の奥で叫んでいた。相反する二つの意思が自分の中でぶつかり合っている感覚がした。
エリザの名を騙る者の罠か。
あるいはエリザは生きているのか。
どちらとも結論が付けられないまま、覚束ない足取りでリュンヌは部屋に戻った。
窓の桟に腰掛けたソレイユが片手を振る。
「ムシュ・ラムは来た?」
「――いや。ゼロだけだ」
「じゃあ必要なかったね、これ……?」
窓の外側に吊したノートを引っ張り上げたソレイユが、不意に顔色を変えて、窓枠からひょいと飛び降りた。その足取りのまま、リュンヌに数歩近づく。まつげの一本一本が分かれて見えるほどの至近距離でじっと見られて、リュンヌは思わず視線を逸らした。
「何かあった?」
「何も」
「訊き方を変える。何
「――何も」
リュンヌは断固として首を振った。
本当は今すぐにでもソレイユに全て明かしてしまいたかったが、『誰にも告げず』と書かれていたのが気掛かりだった。ひとつでも間違った行動をした瞬間、遥か遠くに見えた気がしたエリザの後ろ姿が霧のように消えてしまうような気がした。手がかりを離したくない思いが、僅かに罪悪感を上回った。
「……そう」
ソレイユは感情の乗らない声で言って、斜め下を向いた。隠し切れたとは思っていない。リュンヌよりもずっと、人を見ることに長けている彼にとって、物心ついたときからそばにいた幼馴染の下手な嘘を見破ることなど朝飯前だろう。
ふう、と長い息を吐いて、ソレイユは椅子に腰掛ける。
リュンヌを見上げて、眉を下げた笑顔を浮かべた。
「心配させてくれるなあ、ルナ。そんな顔してたら流石に分かっちゃうよ?」
「――嘘を吐くのが下手で、ごめん」
向かいの椅子に腰掛けて、リュンヌは素直に嘘を認めた。そわそわとして落ち着かないので、両手の指を組んで顎を乗せる。
「それに、ソルは私に嘘を吐かないと約束してくれたのにな」
「まあね?」
ソレイユは肩を竦める。でもね、と言いながら肩を下ろして微笑んだ。
「ルナの、隠そうとするその意思を尊重する。その結果ぼくにとって悪いことが起きても、ルナの為になるなら別に構わない」
「――そうか」
「なに? 罪悪感が増した?」
目を伏せたリュンヌに、ソレイユはいつになく厳しい口調で言った。
眉根が寄り、太陽の欠片のような瞳に、冷たい熱が宿っている。
「その程度の嘘なら、ぼくに言うべきだ」
「いや」
彼の視線に気圧されながら、尚も、リュンヌは頑なに首を振った。
「言えない。罪悪感を紛らわすための謝罪もしない」
「……分かったよ」
彼は諦めるように笑った。
ソレイユが笑顔に戻ったので、リュンヌは少しほっとした。
とはいえ、何も解決していない。ソレイユに協力を仰ぐ道も自ら絶った今、リュンヌは自分一人であのメッセージに向き合わねばならなかった。リュンヌがその重圧を改めて感じていると、「それで、さ」とソレイユが窓の外に視線を動かした。彼は何時ものことだが気分の切り替えが早く、その声から冷たい響きは完全に消え去っていた。
リュンヌも頭を切り替え、彼の言葉に集中する。
「さっき、窓の外を見たんだけどさ……ちょっと見てほしいものが」
ソレイユが立ち上がったので、リュンヌも後に続いた。窓から身を乗り出すと、横殴りの風が髪を激しく揺らし、足元が掬われる感覚に襲われた。桟を握りしめる手に自然と力がこもる。あまり意識しないようにしている、ここが地面から数百メートルも離れている場所だということを嫌でも思い出してしまう。
リュンヌが隣をちらりと見ると、ソレイユは全く平気な顔をしているどころか、片手で風に流される髪を抑える余裕っぷりを見せていた。普段からここに腰掛けている彼はやはりどこかおかしい。
「前々から思っていたが、ソルには恐怖心がないのか」
「え。身体の重心を外に出さなければ落ちないよ?」
リュンヌが何を怖がっているのか分からない、という口調と表情で言う。根本的に感覚が違うらしい。
「で、見て欲しいというのは?」
「うん。あれ、見える?」
そう言ってソレイユが指さした方向が見事に下を向いていたので、リュンヌは諦めて腹を括り、真下を向いた。その途端に地面との距離を実感し、腹の奥がふわりと浮くような感覚がしたが、堪えて指先の方向を見る。
彼が指さしているのは、三メートルほど下の壁だった。
壁に沿って這わせた配水管に、鳥が止まっている。不自然な羽ばたき方をしているのに気がついて、リュンヌはさらに目を凝らした。どうやら、複雑に交差したパイプに足を挟まれたようだ。
リュンヌはそれだけ確認して、視線を上に戻した。「ただの鳥じゃないか」と言おうとしたが、ソレイユが真面目な顔でこちらをのぞき込んでいるので言葉を飲み込む。
「……あれがどうした?」
「足にね、何か付けているようなんだよ。あれ、伝令用に飼われてる子じゃないかな」
「そういえば、いたな。
新都の情報伝達手段が今より行き届いていなかった、創都から間もない頃は、伝令として俗に
現在では電気による情報交換が当然のインフラとして行き渡り、
「なぜ今、こんなところにいる?」
「ルナにしては察しが悪いな」
苦笑したソレイユが、一転して声を潜めた。
「あれはぼくらに、密かに情報を届けに来たんじゃないの?」
「あっ……!」
リュンヌは珍しく叫びに近い声を上げた。しぃ、と口の前に指を立てられる。慌ててリュンヌは口を覆う。下の階がどうなっているか分からないが、恐らく他の幹部がいるはずだ。あまり騒いで鳥の存在に気付かれては、せっかく内密に情報を届けた努力も台無しだ。
声量と、はやる気持ちを抑えて確認する。
「アルシュが……?」
「かも」
ソレイユが真剣な顔で頷く。
葬送でアルシュと話をして、塔に軟禁されている現状を伝え、解放へと働きかけてもらえないか彼女に頼んだあの日から、既に半月が過ぎていた。もしあれが、彼女からの手紙を持っている鳥なら、一刻も早く読む必要があった。
「だが、動けないようだ」
「うん。ぼくが降りて、連れてくるよ」
ソレイユはさらりと言ってのける。彼ならそう言うだろうと予測していたから、さして衝撃はなかった。だが、この高さで絶壁に近い壁を上り下りするのは、いくら彼の身体能力と度胸があっても無茶ではないだろうか。リュンヌは今にも身体を窓の外に出そうとするソレイユの肩を掴み、引き留める。
「待て待て、流石に危険だ」
「でもここで止まったら前へは進めない。アルシュちゃんの尽力も水の泡だ」
ソレイユはまっすぐな目でリュンヌを見据えた。
それはそうだが、とリュンヌは言い淀む。
「分かった――せめて命綱を付けてくれ」
「ロープがないよ。鞭じゃ長さが足りないし」
「シーツを剥いでくる。待ってろ」
リュンヌは自分とソレイユの寝室を回り、布の端を硬く縛って繋いだ。幸い、マットレスの下に布を入れ込む形式のシーツだったので長さが稼げた。平気なんだけどなぁ、と口を尖らせたソレイユが、一端を自分の腰にぐるりと結びつけて、「で」と言った。
「命綱って、もう一つどこかに結びつけないと意味がないんだけど」
二人は部屋を見渡したが、都合の良い場所に柱や梁はなかった。元々インテリアのほとんどない部屋で、彼の体重を支えられるようなものといえば一つしかなかった。
「……この部屋で、ソルと近い質量があるのは私自身しかないな」
「あらま」
ソレイユが目を丸くした。
「ある意味、そっちの方がぼくにとっては怖いんだけど? 背負う重さが倍になった気分だよ」
「……迷惑だったか?」
「まあ、迂闊に落ちられなくなったね」
余計な世話だったかと心配になりかけたリュンヌに、冗談か本気か分からない顔でソレイユが笑いかけた。口ではそう言っているが本心は分からない。彼はいつも笑っているから、笑顔でいるときが一番感情が読みにくいのだ。ともあれ、リュンヌは迷いを捨て、シーツのもう一端を自分の腰に巻き付けた。その長さがギリギリなので、窓の傍に寄る。ソレイユが身軽に窓の外に躍り出て、命綱が辛うじて通る幅まで窓を閉めた。
「絶対に開けないでね。これで、窓ガラスの強度限界までは大丈夫」
「あんまり怖いことを言うな」
窓越しに文句を言うと、あは、と軽い笑いを残し、ソレイユはすぐにその身を翻した。身動きが取りにくいまま、リュンヌは彼の動向を見送る。壁の僅かな溝や、配水管の細い支柱を手がかり、あるいは足がかりにして身軽に降りていく。その間、命綱にほとんど力がかけられることはなかった。ソレイユの身軽さはよく知っているつもりだったが、改めて目の当たりにすると芸術的とすら言える身のこなしだった。
ものの十数秒で彼は
表情が一瞬、安堵に緩んだが、見る間に強ばっていった。彼は窓際で見守るリュンヌに視線をよこす。
その口元が言葉を告げている。
「この子、足を痛めてる。命綱をつなぎ替えるから引き上げて」
「無茶な!」
リュンヌの悲鳴も虚しく、彼は既に腰のシーツを解いていた。
シーツの端を引いて
だが、放り投げたシーツの先が、宙に舞った。ソレイユのいる場所まで数十センチだが、足りていないのだ。先程までは腰に巻ける程度の余裕があったはずなのに、今はソレイユの指先にも届いていない。
「――あれ?」
リュンヌは目を凝らして、相方のぶら下がっている場所を見る。先程見た時よりも、その掴んでいる場所が遠いような気がした。ひとつ下の階と思われる、僅かにせり出した窓枠につま先を引っ掛けている。
上を仰ぎ見たソレイユが青ざめた顔で笑った。
「ごめん、落ちちゃった」
「馬鹿か!」
叫んでリュンヌは窓を開け、身を乗り出した。腰に結んだシーツを解き、自分の肩に結び直して少しでも長さを稼ぐ。
「届いた!」と叫ぶ声が聞こえた。
ソレイユが端を掴んだのだろう、突然、肩に質量がずしんと響く。
「引っ張るぞ!」
叫んで、両手で命綱を掴み、自分が持って行かれないよう腰を下げて全力で引き上げた。腕の筋肉が小刻みに震え、奥歯がガチガチと音を立てる。引っ張られる力に耐えながら、シーツを身体に巻き取っていく。
無事にソレイユが窓枠から部屋に崩れ落ちたとき、二人とも疲労困憊だった。
リュンヌは床に倒れ込み、肩で息をした。シーツを巻き付けていた右肩が、鈍い痛みを放っていた。内出血くらいはしているだろう。一方、ソレイユも流石に心身をすり減らしたらしく、床に体重を預けて虚空を眺めていた。床に投げ出した両足をずるずると引き寄せ、はあと溜め息を吐いた。リュンヌは仰向けのまま、天地が逆転した部屋と友人の顔を眺めた。厚い前髪をかき上げて、大量に噴き出した汗を拭う。ソレイユが天を仰いで目を閉じた。
「……命綱って大事だね」
「当たり前だ」
荒い息をしながら軽口を叩き合う。リュンヌはまだ疲労の残る上半身を持ち上げ、
想像通り、その細い足首に畳んだ紙が巻き付けられていた。
リュンヌがその鳥に恐る恐る手を触れ、破らないように慎重に紙を外す間、
「逃げないものなのか?」
「そう躾けられているのかな」
ソレイユが膝を引きずるようにして、足首にシーツを引っ掛けたまま、這いながら隣にやってきた。蛇腹状に折られた紙を丁寧に開くのを、肩越しにのぞき込んでくる。
二人は文章に目を落とす。緊張で息が詰まっていた。
『アルシュです。無事に届くといいのだけど』
見慣れた名前を確認して、リュンヌは口元を覆った。ソレイユが「本当にやってくれたんだ」と感慨深そうに呟く。彼女の名前から始まる長い文章が、綺麗に整列した文字で綴られていた。
*
『――アルシュです。無事に届くといいのだけど。
まず、お礼を言います。
葬送の日、リュンヌと話をできたことが、幼少の日のように手を繋いだ記憶が、相方を亡くした私にとって強い励みになりました。
二人のことを調べ始めて、改めて部門の分断を強く感じました。政治部の私にとって、開発部の情報を集める手法は人脈を頼る以外になく、時間が掛かってしまったことをまずお詫びします。
開発部の幹部候補生として昇格した人と連絡が取れなくなった、という話は今までにもいくつかあったようです。話してくれた人たちは不思議に思いつつも、多忙のため、と理由を付けて今まで納得していたそうです。問題が表面化しなかったのは、人々が相互に関心を持たなかったことに由来する、と言えるかもしれませんね。
私が思ったよりも人々は事勿れ主義で、自分の想像が統一機関の上層部を疑うものかもしれない、と気付くや否や私を追い返す人も一人や二人ではありませんでした。
ともあれ、信用できそうな相手に二人の境遇を伝え、協力を仰ぎました。
驚いたのが、その結果、予想以上の同意が集まったことです。個々の関係が集積して集団となり、自発的な成長をしています』
*
文章の途中まで目を滑らせて、リュンヌは深い息を吐いた。
古い友人の顔が浮かんでくるようだった。どちらかというと心配性で弱気なアルシュが一人で行動してくれたことを想い、リュンヌは胸が温かくなるのを感じた。文面を見ると、一筋縄ではいかなくとも数を当たることで地道に仕事を進めてくれたらしい様子が読み取れる。信じて待った時間が無駄ではなかったことを思うと、安堵と喜びで膝から力が抜けた。
「すごい。想像以上だ」
ソレイユが目を見張る。自分たちの境遇を知る者が、塔の下に集団として存在していることが、リュンヌにはまだ信じられなかった。
「そうか、半月経ったんだな……」
塔の上に閉じ込められている身では、時間の経過に対する感覚がどうも鈍っている。気がつかないうちに半月もの日月が流れ、その間にアルシュは驚くべき仕事を成し遂げたようだった。
『――その中で興味深い話も聞きました。曰く、開発部の幹部が塔のなかで仕事をしていること自体真っ赤な嘘であり、本当は別の場所にいるとか……。こちらはまだ、信用するには足りませんが。
正直な話をします。私ひとりで彼等を統率するには説得力が足りないのです。このままでは、せっかくの協力者も個々の正義に従って勝手な行動をとりかねません。そのため、証人としても、二人には絶対に塔の下に戻ってもらわなければいけません。
そのための方法は、実はすでに手配しつつあります』
「あれ? 終わりだ」
目を瞬かせてソレイユが呟いた。リュンヌは紙の裏側を確認したが、続きは見当たらない。これから具体的な方法を記すのではないか、という段階で文章が切られていた。
「核心的なことは書かないようにしたんじゃないか。
「ああ……そうか」
腑に落ちたように頷く。
アルシュからの手紙を床に置き、二人は左右からのぞき込んで何度も読み返した。濃い茶色のインクで綴られた、丁寧な文章。均一な大きさの文字が綺麗に整列しているそれは、彼女自身の実直で謙虚な人格を思わせた。
「何点か気になるね。この……幹部が塔の中で仕事をしている自体が嘘、ってところとか」
ソレイユが指さして指摘する。
「まだ何か有りそうだな。私たちがここに閉じ込められていることや、ゼロが記憶を処理されていることは氷山の一角に過ぎないのかも」
天からの救いと言って差し支えない彼女の手紙を読みながら、リュンヌは自分に向けられたもう一つのメッセージのことを思い出していた。
『一人で、誰にも告げず、明朝、午前3時に』
ティアの細い首と、短い言葉で綴られた文面を思い出し、リュンヌは密かに手を握りしめた。