グレイの停滞
文字数 6,635文字
行くと、大抵は飲みものを出される。
甘ったるいジュースだったり、変わった味のお茶だったりした。飲むと決まって気分が悪くなったので、アルコールか、あるいは何かの薬剤が溶かされていたのかもしれない。気分が悪くなるとは言っても、大抵は少し頭痛がする程度だったが、たまに身体を起こしていられないほどの倦怠感に襲われることがあった。
エリザが苦痛を訴えると、バックヤードの小部屋まで連れて行かれた。そう、理由は分からないが、ルーカスに連れられて向かう先には、決まって仮眠室のような場所があった。エリザが寝台に倒れ込むように寝ると、ルーカスもその隣に寝そべってくる。こちらをじっと見つめている視線や、腰に回される手は不快だったが、身体の気怠さに負けてエリザは目を閉じる。
「……あの」
ある日、目を閉じたままエリザは聞いてみた。
「こういう場所に来るのって、どういう意味があるんですか」
「意味って……面白いことを聞くね、エリザ。デートだよ。僕と君は恋人なんだから、一緒に色んな場所に行くのは当然でしょ?」
「そうなんですか……」
小さく頷く。本当に納得したわけではないが、とりあえず理解したふりをしてエリザは会話を切り上げた。真に理解できたのは、ルーカスはエリザに対して、ただのひとつも本当の言葉を吐く気はないのだろう――ということだ。いくつもの嘘で嘘を塗り固めて、嘘で煮詰めて嘘をまとわせる。嘘を吐かれていることは分かるけれど、何重にもコーティングされた言葉の内側は、どう頑張っても見えない。
けど、それすら、エリザはもうどうでも良いのだった。
ルーカスの本心になんて興味はない。ルーカスという人間に、エリザは一切の興味を持っていなかったから、本心を知りたいとも思わないのは当然のことだ。興味がないことを知る必要なんてない。ただ、彼の「恋人」というロールプレイングに付き合っていれば、雑用をしなくて済む――という結果だけを求めて、エリザはルーカスに従い続けた。
それに加えて、ひとつ、目に見えて好転したことがあった。
ルーカスに誘われる回数が増えた時期と前後して、サティに連れ出されることがぱったり途絶えたのだ。以前にブラウン区画長のもとを訪れたときのように、クローズドな交渉に同行することは時折あったが、それが終わるとハイバネイト・シティにまっすぐ帰る。廃屋に連れ込まれてセックスを強要されることはなくなり、避妊薬の吐き気と戦うこともなくなった。エリザにとって意外だったことに、ルーカスは性的な欲求をこちらに向けてこなかったから、結果としてメリットだけが残った。
これはこれで良いのかもしれない、とエリザは思った。
――ただ。
ハイバネイト・シティの廊下や調理室で、たまにユーウェンとすれ違った。彼はいつも笑顔で「おはよう」とか「こんにちは」と声を掛けてくるので、エリザも挨拶を返す。手鏡が光を跳ね返すように、まったく同じ言葉を返す。
ユーウェンの姿を見るたびに、どうしてかエリザは、彼に背負われて地下街を歩いたあの日を思い出した。どんな会話をしたのかはあまり思い出せないけれど、あの日は妙に楽しかった気がするのだ。幸せだ、とも、思ったような気がするのだ。何か特別なことをした覚えはないのに、それはやけに印象的な記憶として、エリザの頭の片隅に残り続けた。
君は難しいね、とユーウェンは言っていた。
当時のエリザに、それは褒め言葉のように聞こえた。
どうして「難しい」というネガティブな言葉が褒め言葉に聞こえたのか、今のエリザはもう思い出せない。難しいとは面倒くさいということで、分かりにくいということだ。身の回りのもので考えるなら、たとえばジゼルの研究の話とか、アマンダが嫌がりながらも食事の支度をする理由とか、ルーカスがエリザを連れ回す真意とか――そういうものが「難しい」の具体例だろう。
「……ちがう」
エリザは首を振る。
自分はもっと簡単な人間だ。楽で、シンプルなものが良い。やることは少なければ少ないほど良い。苦しいことはしなければ良い。見たくないのなら見なければ良い。考えたくないことなら、考える必要などない。
あらゆることから目を逸らすと、時間の流れは驚くほど速くなった。
単調な日々は惰性のままに流れていき、気がつけばカレンダーがぐるりと二周した。地下世界に季節は存在しないし、外の世界だってずっと真冬のようなものだから、年月が経つという実感はほとんど得られないのだが。エリザは十五歳になり、体格こそ少し変化したものの、成長した実感はやはりまったく得られなかった。
本当に、時間などというものは存在するのだろうか。
エリザは時折、そう考えてしまう。あまりに変化がないから、過去も未来も、昨日も明日も同じに見えるのだ。そもそも、未来視の目などというものが存在する時点で、時間などという概念は虚飾に過ぎないのではないか。過去には戻ることができず、未来は予測できない、そう人間は思っていて、時間とは一方向に流れていく軸のようだと思っているけど、本当は違うのではないか。ずっと同じ一日が繰り返されていて、ただ、少しだけ出来事のレパートリーが違うだけなのではないか――
そこまで考えて、エリザはいつも「止めよう」と首を振る。
難しいことを考えすぎている、と思うからだ。いつも同じように疑問を持って、同じように思考が展開し、そして同じように思考を中断する。問題提起・論理展開・思考停止のルーチンが完成していると言える。
一度だけ、こうして同じ思考をぐるぐると回し続けること自体が、過去も未来も存在しないことの証明なのでは――という、高次のアイデアに辿りついたことがあり、エリザはその時点で何もかも馬鹿馬鹿しくなった。ブロックを丁寧に積み上げて作った建物が、地盤ごと揺すられてバラバラに崩れたみたいだった。
***
ハイバネイト・シティの一角に、資料室がある。
洗面所から戻る道すがら、資料室の前を通りかかると、ちょうど扉が開いてユーウェンが出てきた。分厚い本を何冊も抱えた彼は、エリザを見て「やあ、こんにちは」と笑う。本の背表紙に英語で「制御工学」とか「人工知能」とか書かれているのが、ちらりと見える。エリザは小さく会釈を返してから、両手が塞がっているユーウェンの代わりに扉を閉めた。
「ああ、どうもありがとう」
「……いえ」
首を左右に一往復させる。
エリザはそのまま居室に戻るつもりだったのだが、ユーウェンが「あれ」と呟き「ちょっと良いかな」と呼び止めたので、仕方なく立ち止まった。彼は学術書を抱えたまま、エリザの顔をじっと見据える。真正面から向けられる視線が重たく感じられて、エリザは思わず眉間にしわを寄せた。
「……何でしょうか」
「いや、あのさ……目の色、すこし変わった?」
「え……?」
思わず目元に手をやりながら、エリザは聞き返す。
エリザの目は、かなり目立つ色をしている。というより、通常の眼球とはかけ離れた構造をしている。視力に問題はないのだが、瞳孔や光彩といった要素が存在せず、鉱物のように均質なテクスチャなのだ。色は白に近い銀色だが、ガラスのような透明感があり、しかし虹色の光が無数に散っている――はず、なのだが。
「目の色……変ですか?」
自分の顔を鏡でまじまじと見たりしないから、多少色が変わっていても気がつかない可能性はある。エリザがユーウェンに問い返すと、彼は「いや」と難しそうに眉根を寄せた。
「うーん、僕の気のせいかな。光の加減かな……分からないけど。何となく、虹色が淡くなってるっていうか……灰色に近い色になってる気がするんだよね」
「……そうですか」
「病気とか、栄養状態で目の色が変わるって話もあるから、念のために、誰かに相談したほうが良いんじゃないかな。まあ、君の目は……その、特殊だから、僕たちと同じ理屈が通用するのか分からないけど」
「ああ……未来が見えなくなったら、困りますもんね」
エリザが頷くと、ユーウェンは細めの目を少しだけ見開いた。それから気まずそうに目を逸らし「まあ、それもあるけど」と玉虫色の言葉を返す。ユーウェンとの会話はそれで終わりになり、エリザは自分の部屋に帰った。
手鏡を出して、自分の瞳を観察してみる。
たしかに、虹色がすこし鈍っている気がした。以前は、虹色をまとった光の欠片がタイルのように敷き詰められた風合いだったのだが、その欠片が小さくなっている気がする。全体として灰色の占める割合が増えているから、それで「目の色が変わっている」とユーウェンに指摘されたのかもしれない。
その数日後。
「気温の下二桁がズレていた」
ジゼルの研究室に呼び出されたエリザは、開口一番そう告げられた。
「え……?」
「お前が予測した気温の、下二桁がズレていた。普段は、十のマイナス四乗程度の誤差精度だったんだがな……オーダーにして百倍だ」
ジゼルはパネルを細長い指で示しながら話した。
「以前にも言ったように、お前の能力は不確定性原理を超越していないから、多少の誤差が出る可能性はある。ただ、統計的に有意とまでは言い切れないが、最近どうも誤差率が上昇しているように思うな……このままだと、最悪、実用上の問題に発展するかもしれない」
「実用上、って」
「ハイバネイト・プロジェクトの目的を達成するにあたり、お前の能力では不足、と私が判断するかもしれない、ということだ」
「……はぁ」
エリザは生返事をした。
ジゼルは以前、エリザのことを「世界でもっとも優れたシミュレータ」と表現していた。彼女がエリザに求めるのは、気候変動を予測するシミュレータとしての働きであり、それはそのまま、ハイバネイト・プロジェクトがエリザに求める対価でもあった。
「その場合、私は解雇ですか?」
エリザが単刀直入に聞くと「まあ」とジゼルはわずかに口元を歪める。それは、彼女なりの苦笑いなのかもしれなかった。
「そうなりたくないのなら、なぜ誤差が増えたのか、自分の身を振り返ってみることだな」
「振り返る、ですか」
エリザは首を傾げて、ジゼルの言葉を繰り返す。
そう言われても、エリザは、自分に未来視の力がある理由を分かっていない。気がついたら発現していた能力という以外に言いようがないのだ。従って、能力がいきなり弱まったとしても、その理由は分からない。
エリザが黙っていると「なにか心当たりはないのか」とジゼルが聞いてきた。
「そもそもお前はどこからその力を手に入れた」
「分かりません」
「その力は血縁に属するのか。お前の親は、お前と同じ力を持つのか?」
「両親とは会ったことがありません」
「あるいは、手術かなにかで人工的に付与された力か?」
「覚えてません。でも、ないと思います」
否定ばかりを返していると、ふう、とジゼルは息を吐いた。
「聞けば聞くほど超能力だな」
「……私も、そう思います」
「とっくに科学者のプライドなんて捨てた身だがね。やはり
噛みしめるように、ジゼルが呟いている。
この人もユーウェンと同じで、難しいものが好きなのか。
「……難しいものがお好きなんですね」
しかし、エリザがそう問いかけると、ジゼルは「いや」と即座に否定を返した。
「それは違う。難しいものが嫌いだから、たくさんの簡単なものに分解したいんだ。学者というのは、そういう生き物だ」
「嫌い、ですか」
「そうだ。それから――」
深いしわが刻まれた目尻が、ぎゅっと細められる。ナイフで裂いた切れ目のように鋭い目元が、色濃い影を伴ってエリザを睨みつけた。
「複雑性を『難しい』などという曖昧な言葉で許してしまうことも、私は嫌いだ。すこし、お前のデータを整理するから、もう帰れ。それで――吹雪のなかに一文無しで放り出されるのを厭うなら、少しはお前も、その能力について考えろ」
そう言って研究室を追い出される。
いつもながらジゼルには、こちらの都合も考えずに呼びつけられ、用が終わればあっという間に追い出される。さんざん自覚している通り、ハイバネイト・プロジェクトにおけるエリザの立場は、ジゼルが利用している電子機器と同等なので、道具がつねに彼女のために控えていることは当然なのかもしれないが。
居室に戻り、寝台に寝転がる。
考えろ、とジゼルには言われた。難しいことで頭を悩ませるのは好きではないが、エリザの所有者である彼女に命じられたのなら、少しは考える必要がありそうだ。もう、どうなっても構わないという諦念もあるにはあるが、もし本当にハイバネイト・プロジェクトから放逐された場合、エリザに待っているのは餓死か凍死か、あるいは殺されるかだ。どれも酷く苦しそうな死に方だ。肉体的に苦痛を味わうのは、できれば避けたい。
デスクの前に座り、ううん、とエリザは首をひねる。
手鏡を持って覗きこむと、灰色に近い色の瞳がこちらを見つめていた。ユーウェンに指摘された通り、やはり色が変わっているように思う。もしジゼルが言うとおり、未来視の精度が悪くなったのなら、それは瞳の色の変化と同じものに起因するのではないだろうか。
大元の原因。
すなわち、エリザが未来を見通せる理由。
それは、何だろう?
そう問うた瞬間に、電流が走るような衝撃があって、エリザは思わず立ち上がった。蹴飛ばしてしまった椅子が背後に倒れて、ガタン、と激しい音を立てる。
「……そうよ」
激しく打ち始める胸を押さえて、エリザは呟いた。
どうして自分は未来が見えるのだろう。一体いつ、どうして、こんな能力を手に入れたんだろう。誰かに授けられたのだとしたら、それは一体何者なんだろう。どうして、研究者のジゼルでも、プロジェクトリーダーのニコライでもなく、無力な子どもでしかないエリザが、こんな大それた能力を持っているのだろう。
どうして今まで、こんな大きな問題から目を逸らしていられたのか。
ああ、考えないと、とエリザは思った。
ジゼルに命じられたからではなく。ハイバネイト・プロジェクトに飼われ続けたいからでもなく。他でもないエリザ自身に帰属する、こんなに重大な問題だからこそ、ちゃんと考えて、自分なりに答えを見つけないと。
エリザは目をきつく閉じる。
そして必死に考えた。どんな仮説を立てれば、エリザは、エリザ自身のことを説明できるのだろうか。私はこんな人間で、こういう経緯があって今の私になりました、と言うためには、何を解き明かせば良いのか。
考えようとした。
だけど、考えは雲を掴むように逃げていく。学校に通ったことがなく、一般的な教養もない上に、最近は考えこむことを意図的に避けていたから、エリザは頭の使い方というもの自体を忘れつつあった。
どうしたら。
何から考えれば。
煮詰まりつつあった頭をエリザが抱えた、その時だった。
――あ、見つけた!
そんな声が、頭の中央で響いた。次の瞬間、目の前で真っ白い光が弾ける。その眩しさはあまりに近く、眼球の内側で光っているのではないか、と思えるほどだった。強すぎる光にエリザは意識を奪われ、後ろ向きに倒れていく。後ろにあった寝台が、上半身のさらに上半分だけを受け止めて、エリザの身体は不自然な姿勢に折れ曲がる。おかしな方に伸ばされた筋肉が痛むのを感じるが、それに抗っている暇もなく、意識は遠ざかっていき、身体のコントロールが失われた。