chapitre51. 絵空事を誓う
文字数 7,911文字
日光は遮られ、寒々しい風が流れるなか、4人は一夜を明かした出張伝報局を出発した。例年、収穫祭が終わるとにわかに気温が下がり、冬らしい気候になる。今年もついに冬の幕開けだ。ロンガはフードの紐を絞り、首元に流れ込む冷たい空気をさえぎった。
フルルが手書きの地図を取り出して、3人に見せる。
「今日はラ・ロシェルに到着するのが目標です。何事もなければ夕刻前に付くでしょうが、少々、天気が荒れそうですから急ぎましょう」
「そうだね。雲が厚い」
むき出しの頬に触れる空気が、どこか湿っているような、身体の中に冷たさを浸透させるような感じがした。季節の移り変わりと共に、空気の手触りも移りゆく。今日は雪が降るかもしれないな、と思った。
あと、とフルルは声を潜める。
「途中でスーチェンに寄りましょう。通り道ですから、所要時間は変わりません。状況を確認しましょう。――ですよね? マダム・アルシュ」
「うん」
アルシュが申し訳なそうに頷いた。
これに関してはロンガも同じ立場なので、罪悪感を抱かずにはいられない。朝食の折に、昨夜2人で共謀してついた嘘についてフルルとリヤンに明かし、そろって頭を下げた。フルルが浮かない顔をしているのもそれが原因だろうか。ロンガとしてはまだ謝り足りない気分だったが、外で迂闊に作戦の話をして“ハイバネイターズ”に聞き咎められたら一巻の終わりだ。
彼らはどこで耳を立てているか分からない。ティアの名前を出すこと、作戦の存在を仄めかすこと、その他“ハイバネイターズ”に聞かれたらまずいことは外では話さないようにしようと朝食の後に取り決めた。
ラ・ロシェルまでの道中、その代わりに話し合ったのは、“ハイバネイターズ”に接触するための手段と、どうやって和睦を図るかだった。とにかく謝らなければ同じ立場に立てない、というアルシュの主張は全員に受け入れられたものの、では具体的にどう謝罪を伝えるかというと誰も明確な案を持っていなかった。
「とにかく、こちらの言うことに価値があると向こうに思わせなければいけません」
フルルが腕を組んで言った。
「マダム・ロンガの仰った、ラピスが水没するという予測も、根拠が伴えば交渉材料になると思います。彼らが本当に地下に居を構えているならば、水害の影響は地上より大きいのではないでしょうか」
「そこは何とも言えないね。機密性が高ければむしろシェルターになるかもしれない。ただ、彼らも最終的には地上を目指しているのだから、ラピスの災難は彼らの災難でもあると言えるかな」
「そう思う。彼らもそれを知れば動くはずだ。ただ、どう伝えるかが課題だな」
「やはり、そこですよね」
地下の“ハイバネイターズ”にどうやって話しかけるか。それが目下の課題だった。
「まあ、こうやって話し合っている間にも、聞かれているかもしれないけどな」
ロンガが苦笑すると、「でもそれじゃ駄目なんだよ」と先頭を歩いていたアルシュが振り返って釘を刺す。
「ちゃんと、地上の人間の総意として――少なくとも誠意を持って、形式を整えて話しかけないといけない。そういうの大事だよ。聞き入れるに足るものなんだ、って向こうに分かってもらわないと」
「実際のところ、おそらくですが傍受はしていると思います。ただ向こうも、些末な情報まで構っている余裕はないでしょう」
「傍受……えっと、聞かれてるってことかな。この会話も?」
「それで正しい」
小声で尋ねたリヤンに、フルルが頷いてみせる。
「例えばあそこにスピーカーがあるでしょ。リヤン、見える? もとは統一機関が放送するための装置だったけど、スピーカーは使い方次第で集音にも使える。だから、配電系統を乗っ取った“地底の民”が、地上で交わされる会話を聞くことは不可能ではない」
「んん、難しいなぁ。――あ。すみません、いつもあたしが話を止めちゃってますよね」
眉をしかめて首をひねっていたリヤンは、ふと顔色を変えた。両手を胸元で白くなるほど握りしめ、ごめんなさい、と呟く。
「あたしのことはあんまり気にしないでください。口を挟まないようにしますから、3人で話し合ってくれたら」
「いやリヤン、分からないことは全部聞いていい」
肩を丸めて身体をすくめたリヤンの背に、ロンガは励ますように手を置いた。
「もともと私たち3人は研修生の身分で、似たような教育を受けているんだ。立場や経歴が近いぶん、前置きなしで通じる話題が多い、それだけだ。分からないのはリヤンが悪いとかじゃない」
「でも」
リヤンの透き通った瞳が、潤んで揺れていた。
「あたしのせいで話が進まないのは嫌です。足を引っ張りたくないんです」
ロンガは返す言葉に詰まった。邪魔をしたくないという感情に共感できないわけではなかったが、着いてこれないリヤンを置いて3人で話を進めてしまうのは、何か間違っている気がしてならなかった。
この違和感は何だろう。
ロンガがそれに気づくよりも前に、アルシュが答えた。
「聞いて、リヤン。これから私たちがするのは、会ったこともない、住む場所も違う人たちと話すことなんだ。“地底の民”は、私たちとリヤンよりもさらに遠い間柄の人たち。それでも、ちゃんと伝わるようにお話しできないといけないの」
「――はい。それは分かります」
「極端に言えば私たちの理想は、わかり合うこと。同じ立場まで歩み寄ること。だからこそリヤン、貴女の『わからない』も大切にしたいと思うの。そうじゃないと、彼らとわかり合うなんて、夢のまた夢。――だよね」
「うん、そうだ、その通りだ。あのな、リヤン」
アルシュが言葉にしてくれたことで、自分の感じた違和感の正体が理解できた。ロンガは頷き、それでもまだ戸惑った顔をしているリヤンに笑いかけた。
「私たちは立場が近いから、うっかりするとすぐ同調してしまうと思うんだ。集団って、ただでさえそういうところがある。ひとつの意見が優勢になると、それがベストで唯一の正解だと思い込んでしまうものなんだ。だから、リヤンにもしっかり自分の意見を言って欲しいし、そのためには、リヤンにもちゃんと分かるように話をしたい」
「うん。……ありがとう」
最後尾を歩いていたリヤンは、決意したように顔を上げた。幼かった顔立ちは、ここ数日でずいぶん大人びたように思えた。
「本当はあたしも、理解したいんです。自分の知らないところで話が進んでいくのは、それを隠されるのは本当は――もう嫌だから」
*
1時間に1回ほど休みながら歩いた。
休憩のたびに、ロンガは適当な場所に座って右眼の眼帯を外し、出張伝報局の屋上でやったように未来の景色を眺めてみたが、どこでも見えるものは大差なかった。薄い黄緑色に濁った水が、踏み固められた道も木々も全て飲み込んでいる。ただ、ラピス中心部に近づくほど、水底に届く光の量は減っているように思われた。おそらく、標高が下がったぶん、水面からの距離も遠ざかっているのだろう。それは言い換えれば、ラピス全域が恒久的に水の中に沈むというロンガの予想を裏付けることになる。
昼前にスーチェンに辿りついた。
馬車のために整備された道があったので、その道のりは困難ではなかったが、昨日から歩き通したせいで疲れていた。スーチェンで一休みしよう、と話し合ったのだが、市街地に入る手前でいきなり止められた。
「自警団の者だ。グラス・ノワールで脱獄があったおかげで警戒態勢になっている。よそ者を入れるわけにはいかん」
「――えっ。脱獄と言いましたか?」
唖然として聞き返したアルシュの横で、何故ですか、とフルルが食ってかかる。
「私たちはMDPの者です。この方は代表者のマダム・アルシュです。怪しい者ではありません。内部に在駐している構成員に確認すれば分かりますよ」
フルルは首元に下げている金属製の笛を掲げて言った。
しかし自警団の男は、フルルが笛を見せても頑として態度を変えなかった。ロンガは、彼女を後押ししようと間に割って入る。
「ちょっといいか、フルル。――脱獄というのなら中から出る者を警戒するのは分かります。けど私たちは、外から入りたいと言っている。なら別に構わないでしょう」
「駄目だ。これはあんたらのためでもある。下手によそ者が立ち入ったら撃たれるぞ」
思った以上に強硬な対応を受け、4人は顔を見合わせる。自警団の男から離れてしばらく小声で相談したが、立ち去る以外の選択肢はないようだった。アルシュが小さく肩をすくめ、男の方に一歩進み出て「分かりました」と告げた。
「確かにスーチェンの治安が良くないという話は聞いています。ここは引くけれども、ひとつだけ教えてくれませんか。脱獄が発生したというのは本当ですか。出たのは何人?」
「全員だ。
男は銃を担ぎ直して、唇の端を曲げた。
「何人かは仲間がとっ捕まえたけど外に逃げたやつもいる。あんたら、うっかり出くわさねえようにしろよ」
「ご忠告に感謝します。私の仲間によろしく」
アルシュが事務的な口調で礼を告げ、そのまま4人は森の中に伸びていく脇道を下ろうとしたが、自警団の男は仲間に何事か言われたらしく「おい、ちょっと待て」と引き留めてきた。
「俺たちの仲間に、お前らを護衛してもいいって奴がいる。どうする?」
*
案内された先で待っていた男を一目見て、ロンガは吸った息を吐くのを忘れて
「よっ、久しぶり」
「カノンじゃないか!」
喉に唾の絡まったかすれ声のままロンガは叫んだ。ロンガが統一機関にいた頃から面識があり、ラ・ロシェルを脱出するときには助けられた、友人と呼んでも差し支えない相手だが、再会への喜びよりも動揺のほうが強く声に出た。カノン・スーチェンは立ち上がり、彼の背丈より少し低いドア枠を、腰をかがめて通り抜ける。思わず一歩引いたロンガたち4人にも構わず、彼はのんきに笑いかけた。
「元気そうじゃない。その目はどうしたのさ」
「――えっ? ああ、話せば長いんだが、いや違う。まずカノンがここにいる理由から教えてくれ」
「そうねぇ。スーチェンが俺の故郷だからかな」
曖昧にはぐらかされる。真実をずばりと言わず、遠回りに話す口調が癖になっているのかもしれない。だが今は、ゆっくり押し問答しているほど暇ではなかった。かみ合わない会話にロンガが苦い顔をすると、間にアルシュが割って入った。
「相変わらずよく分からないタイミングで来るのねと言いたいところだけど、それは大事じゃないから答えなくて良い。私から頼むことはふたつ。伝報局に案内してちょうだい、それからグラス・ノワールの脱獄について教えて」
「おお。ずいぶん嫌われたねぇ、俺」
「伝報局に、案内してちょうだい。歩きながら話したい」
自分より頭ひとつ分以上背が高い相手を下から
最初に止められたスーチェンの入り口から、伝報局は20分ほど歩く場所にあり、ロンガ、アルシュ、フルルとリヤンの4人にカノンを加えた一行は、縦一列になってスーチェンの街並みを歩いた。先頭にフルル、最後尾にカノンの銃を持った2人が、周囲を警戒しながら進む。すれ違う住人には怪訝な顔でこちらを見る者や、突っかかってくる者もいたが、そういう事態になるとカノンがすっと歩み出て場を収めた。ロンガたちがカノンの知り合いだと判明すると、「なんだそうか」と彼らは気の抜けた顔になって去って行く。
固唾を呑んで見守っていたロンガたちに振り返り、カノンは笑って見せた。
「あいつら酒が抜けてないんじゃないか。もとから気性が荒い奴が多いが、今日はひでぇな」
「やっぱり脱獄があったからなのかな?」
アルシュが尋ねる。彼女は牢獄グラス・ノワールで発生したという脱獄のことを妙に気にかけているようだった。そうねぇ、と呟いてカノンが顎に指を当てる。
「何人か取り逃がしたから、そいつらがスーチェン市街に残ってるんじゃないか、とか思ってるんじゃないの。あんたらの綺麗な服装でそれはないだろうにね」
「捕まった中には――その、いるの?」
「いない。いたら真っ先に連れてきてやったよ」
「だろうね。それにしてもこの入り組んだ道は何。昔からこうだった?」
「いいや、去年の春にも脱獄騒ぎがあったんだがね、それ以来だね。今まであった道を封鎖して、新しい道をどんどん作ったのさ。隠れやすく攻められにくいように。要塞みたいなもんだ」
いくつかロンガに理解できないやり取りがあったが、話題がすぐに切り替わってしまい聞く機会を逸した。一行はカノンの道案内に従い、本当に先に進んでいるのか疑いたくなるような複雑な道を行った。指示に従って突き当たりを曲がったフルルが、いぶかしげな顔になってこちらに振り向く。
「本当にこちらで合っていますか?」
「ん? ――あぁ、まだ閉まってるのね。悪いけど引き返そう」
「閉まってる?」
ロンガは聞き返した。先頭のフルルに追いついて曲がった先を見ると、そこは確かに壁が立ちはだかっていた。しかし、壁と呼ぶにはどこか妙な構造に見える。ロンガの疑問を受けて、カノンは頷いた。
「こいつは防壁だ。この向こうに住んでる奴が管理してて、向こうから開けられる。いつも昼間は開けてくれてるんだが、今日はダメだな」
「可動なのか」
ロンガは得心して頷いた。
「これも最近できたのか?」
「前からある奴が多いね。今のスーチェンは要塞みたいになってると言ったが、もとから攻め入られることに備えたデザインだったのよ。昔は電気で動いたんだが今は手動だ」
「ムシュ・カノンの言うとおりです。でも、街の作りは明らかに複雑になっていると思いますよ」
フルルが口を挟んだ。彼女もスーチェンの出身なので、かつてはこのエリアに住んでいたのだ。
「やはりこの2年で変わったのではないでしょうか。隣人も警戒しなければならないほど切迫した状況になったということです」
来た道を引き返していくと、ロンガの袖をリヤンが引いて、小声で囁いた。
「何だか悲しいな。お互いを信じていないなんて」
「バレンシアとはかなり風土が違うようだな」
ロンガも応じる。
今度は無事に伝報局に辿りつき、MDP構成員と一般の局員が一行を出迎えた。アルシュは日常的に
「ここは電気を引いていますか?」
伝報局の局長であるという女性にアルシュが尋ねる。もし配電系統が来ているのなら、ここは“ハイバネイターズ”に監視されている可能性がある。局員たちが首を振ったので、少しほっとした顔でアルシュは彼らとやりとりを始めた。ガスマスクを秘密裏に運び込む作戦は、どうやら上手くいっているようだった。
MDP構成員のひとりが、午前中に届いたという手紙と数値を書き付けた紙を取り出して見えるように広げる。
「ラ・ロシェルからこのように連絡が来ています。支援物資の運搬に紛れさせているそうなので、まず見つからないと思います」
「良かった。後はフィラデルフィアからの連絡を待って動いてください」
「――はい。本当に、待つのですね?」
アルシュの言葉を受けた構成員のひとりは、両手を胸の前で握って食い下がる。
「いえ。趣旨は分かります、こちらが先んじて動いては、作戦が筒抜けになっていると知られてしまう」
「はい、まさにそういう考えです」
「でも――」
「ごめんなさい。貴方がたに一番辛い役割を任せてしまっていると思います。助けられる立場にいるのに、助けることを許さない、だなんて」
まだ10代と思わしき構成員は、今にも泣きそうな表情を浮かべた。ぐるりと囲んでやり取りを見守っていたスーチェン伝報局員とMDP構成員を見回し、アルシュは腰を折って頭を下げた。
「だけど、どうかお願いします。こちらとしても、向こうの手が読めるのは千載一遇の好機であり、私たちの唯一の希望なんです。犠牲はやむを得ないなんて言うつもりはありません。でも今、こらえなければ、結果としてさらなる犠牲を出すことになります」
彼女の訴えでしばらく場は静まりかえった。ロンガは息を詰めて場の移ろいゆく様子を見守っていた。昨夜も話し合ったのでアルシュの主張はロンガの考えと大体同じなのだが、今、作戦の前線に立たされた彼らが求めているのは懇願ではないような気がした。
「――少しいいですか、マダム・アルシュ」
敢えて丁寧な口調で、ロンガはアルシュに話しかけた。
「ひたすら防衛に徹し、表だって防衛することすら許さない。いま頼んだのはそういうことなんです。非常に不安定な立場に立つことを強いたんです」
「え? 分かってる――はい。その通りですが」
「だからこそ、この決して無血ではない作戦に正義を保障し、それだけではない、必ずこの戦いを終わらせると約束してほしい。しなければならない。私はそう思います」
希望がなければ人は動けない。こんな一方的に攻められるだけの立場から抜けだす未来があるのだと、たとえ不確定だっていい、それこそが真実だと保障してくれる誰かが必要だ。それを約束するのに足るのは、MDPの総責任者として信頼されているアルシュしかいない。
ロンガの言葉を聞いて俯いたアルシュは、小さく頷き、今度は腰を折らずに胸を張って一同を見渡した。唇を横に引き、目を少し見開いた。
「必ず私が“地底の民”を名乗る者たちと交渉し、攻撃を止めさせます。その日まで、どうか、時間を稼いでくれませんか」
「――信じますよ。マダム・アルシュ」
誰かが言った。
冷え込んだ部屋の空気に、静かな熱が満ちていく。アルシュが背負い込んだ十数名ぶんの信頼を、ロンガが肩代わりすることはできない。だがその代わりに、彼女がいま描いて見せた絵空事を、現実のラピスに投影する。
それがロンガの責任だ。
不信と警戒で満ちたスーチェンの一角で、小さくとも確かな信頼をひとつ、結んだ。