chapitre48. 迷い人ふたたび
文字数 8,090文字
朝の部屋は冷え切っていて、二の腕に鳥肌が立っていた。
ロンガが起き上がって周囲を見ると、アルシュとリヤンがブランケットに身を包んで眠っていた。フルルのブランケットはすでに畳まれて、彼女の姿は見えなかった。
外して床に置いていたイヤリングを付け直し、髪を編む。共用の水道で顔を洗って、眼帯で右眼を覆い隠す。眼帯を付ける前にちらりと鏡をのぞくと、相変わらず、右眼は異様な白銀色に変色したままだった。虹晶石に良く似た、およそ生物っぽさとはかけ離れた無機質な煌めきを
集会所の廊下に設けられた、窓際の椅子に腰掛ける。
しばらく棚に上げていた疑問について考えた。
この瞳が何であるのかは、
『ああ、ようやく会えたね、***。君が思い出してくれるまで10年も待ったよ』
そうだ。
思い出す、というのは結局何を指していたのだろう。「彼」自身のことではないだろう。2年前にティアと話した段階で、ロンガはすでに
あの夢を見る直前まで忘れていたことというと、それはひとつしかない。今のロンガの右眼と同様に、エリザの目もまた白銀色をしていたという事実だ。ロンガがそのことに気付いたから、
「それに対する知識を持っていることが、
ほとんど声に出さず呟いてから、いや違うな、と首を振る。
例えば、かつての同居人シャルルは、幼少期に幻像の中でエリザと出会ったので「エリザの目が白銀色であること」を知っていた。そして今は、白銀色の目と
思い出してくれるまで10年待った、と
エリザとロンガの間には、生まれた瞬間に繋がれた、切っても切れないリンクがある。
「――血縁か?」
白銀色の瞳の保持者と血縁であるならば、
ふと、もしかしたらムシュ・ラムはこのことを知っていたのかもしれないな、と思った。自分たちを塔の上に閉じ込めたうえに、一度はこちらに凶器を向けた人間を好意的に見るのは難しいが、エリザの目に対する記憶だけが厳重に封じられていたのは、ロンガに手出しされないよう、ムシュ・ラムが策を講じたのかもしれない。
少なくともエリザかムシュ・ラムのどちらか、あるいは両方が、
自分が彼らの娘であるという事実は、どう心理的に処理すれば良いのか、未だに分からない事実のひとつだった。
考えるのにも少し疲れた。
立ち上がって身体を伸ばしていると、玄関からフルルが戻ってくるのが見えた。ロンガが片手を上げるとこちらに気付き、「おはようございます」と軽く頭を下げた。
「早いな。どこかに行ってたのか?」
「はい、
フルルは目に見えて落ち込んでいた。
昨日の放送からずっと、何者かによって配電系統が制圧されている。電子機器は当分使えないと見るしかないようだ。
「この様子ですと、ラ・ロシェルに向かうにしても徒歩ですね」
「ああ、まあ、仕方ないな。2日ほどかかるが」
「はい。すでに経路は検討しました。幸い、
アルシュとリヤンも程なく起きてきたので、1時間後には用意をしてバレンシアを出発した。朝食は集会所で配られていた携帯食を食べたのみだ。第43宿舎での暖かい食事が脳をよぎるが、贅沢を言っている場合ではない。
馬車のために整備された道があるので、ひたすらそれに沿って歩く。バレンシアは高台にあるので、最初の下り坂は見晴らしが良かったが、平地に降りてしまうとひたすら似たような道が続いていた。
だが4人は退屈しなかった。話し合うべき内容がいくらでもあったからだ。
「昨日の放送では、地下に向かえと言っていたな。どう思う?」
「従う道理はありません。ですが、おそらくバレンシアの浄火を爆破したのが、向こうからすれば牽制なのでしょう。彼らの主張に従わなければ、いずれ危険な目に遭う、という」
「とすると、これ以降も攻撃が予測されるわけだよね。うーん、事前に予測できれば対策が取れるのだけど」
「それは向こうも分かっていて、だからこそ予兆は直前まで見せないようにしているだろう。彼らは恐怖を煽りたいんだ。そして、間接的に私たちを地下へ導こうとしている」
ロンガ、アルシュ、フルルの3人が話し合っていると、あまり言葉を挟まなかったリヤンが「あの」と控えめに声を上げる。3人の注目を受けたリヤンは、顔を紅潮させながらも口を開いた。
「どうやって危険を凌ぐかも大切ですけど、それより、あたしたち、一体何をしちゃったんでしょうか。どうして攻撃されるのかが分からないと、その、永遠に解決しないような……」
「確かに」
ロンガは頷いた。
「恨みを持たれているわけだよな。それが、そもそもなぜだろう」
「昨日の放送だと、彼らはもともと、我々に使役していたような口ぶりでしたね」
「それについてだけど、ひとつ仮説がある」
先頭を歩いていたアルシュが振り返って言った。
「ロンガ、前にフィラデルフィアの調査結果について話したよね。覚えてる?」
「ああ、うん。ここ2年の電力不足の原因は、フィラデルフィア火力発電所のせいではない。あちらは以前と全く変わらず稼働している、という話だったよな」
「そう。それで、昔の消費電力量の6割が、私たちの知らない場所で生産されていた。ここまでが確認された事実。それで――その知らない場所、というのが、つまり地下なんじゃないかな。もしかしたら電力だけじゃなくて、あらゆるインフラが支えられていたのかもね」
「私たちの生活を支えるために、人知れず尽力していたということですか……」
「知らなかった、というのは言い訳にならないですよね」
リヤンがぽつりと呟いた。
「あたしたちは皆、そういう犠牲があって生きてたんだ」
4人の間に重苦しい沈黙が流れた。
彼らはそれぞれ生まれ育った経緯こそ違うが、基本的には善良に生きてきたつもりだった。今まで何も気にせず踏んでいた地面が実は人の背中だった、何も気にせず食べていた食事が実は人の肉だった、大袈裟にいえばそのくらい衝撃的だった。
「でも」
沈黙を打ち破ったのはリヤンだった。
「だからって、攻撃される理由にはならないです」
「そうだ、リヤンの言う通りですよ。やり口が暴力的すぎます。なぜ対話ではなく、こんな手段を取るのでしょう?」
年下の2人が同調したが、アルシュは「うーん」と首を傾げた。
「暴力的なのは同意するけど、対話してるつもりはあると思うよ。少なくともこちらに譲歩してる、というか」
「配電系統を乗っ取られた時点で、本来なら負けたようなものだよな。本気を出したら、例えば軍部保有の兵器をアクティベートして、そこら中を火の海にするくらいできるだろう」
「そうなんだよね。何だか、向こう側にも葛藤が見える気がするんだ。こちらを攻撃したい。でも、皆殺しにしたいわけではない。そんな感じの」
話しているうちに、今日の目標地点である出張伝報局に辿りついた。
まだ陽は高かったが、ここを過ぎてしまうと夜を越せないので、今日の行程はここまでだ。出張伝報局には簡易的な宿泊施設が併設されていて、4人なら十分快適に過ごせる程度の設備が揃っていた。
アルシュとフルルは屋上に向かっていった。
「どうした?」
「見て、ここ、お料理できるよ!」
調理室と書かれた部屋には、簡易的なキッチンが設けられていた。カセットコンロと水道、棚には皿やカッティングボード、ナイフといった道具がひととおり揃っていた。床下に貯蔵庫があり、干し肉や豆類が保存されていた。
「ねえ、せっかくだし、晩ご飯はちゃんと作ろうよ」
「いいな。そうしようか」
一応、おおもとの所有者であるアルシュに許可を取ってから、2人は協力して料理を作った。ロンガの料理の腕も、この2年でそれなりに上達したが、まだリヤンの方がずっと上手い。基本的にはリヤンの指示に従う形になった。
陽が落ちかけたころ、屋上に行っていたアルシュとフルルが戻ってきたので、彼らを交えて夕食を食べた。
「空より至り土へ還る、ラピスの恵みに感謝して頂きます」
ロンガとリヤンが口を揃えると、ほかの2人は少し驚いた顔をした。考えてみれば、これはラ・ロシェルにいた頃は持たなかった習慣だ。バレンシアが農業の地であるからか、食事の恵みに感謝する文化が自然と醸成されていた。ロンガがアルシュとフルルにそう説明すると、2人も真似して「頂きます」と言った。
「素敵な文化だと思います」とフルルが微笑んだ。
*
その夜、仮眠室で眠りについていたロンガは、リヤンに肩を揺すられて目覚めた。
「ロンガの服から音がする」
彼女が小声で囁くので、壁に掛けた外套を見に行くと、ポケットにいれたままの
ポケットから
『
メッセージは数秒で消えたが、短い文章を読むには十分な時間だった。ロンガは、一緒に見ていたリヤンと顔を見合わせた。この状況で
何のために。
なぜ自分たちに。
その疑問はとりあえず捨て置いて、2人は音を立てないように玄関に向かった。扉を押し開けると、青白い月光が照らす草むらに、小柄なシルエットがぽつりと立っていた。外套を被っていて、その顔は影になっている。警戒してリヤンを背後に回しながらロンガが近づくと、その右手が動いて、外套を少し持ち上げた。
その隙間から覗いた、黄金色の瞳にロンガは息を呑む。
「――ティアか?」
「そうです」
2年前に見たときより背が伸びて、顔立ちも少し大人びたが、ロンガにとっては忘れようのない相手だった。別世界のラピスからやってきた少年、ティア。思えば、彼が統一機関にやってきた日が全ての始まりだった。
「お話があって来ました。――そちらの方は?」
「リヤン。友人だ」
「分かりました。リヤンさん、僕はティアと言います。貴方がたにお願いがあるのです」
2年前にはこちらの公用語を全く解さなかったはずなのに、ティアの言葉回しは流暢だった。アクセントにはまだ少し違和感があるが、かなりこちらの言葉に慣れたようだ。リヤンが服の裾を掴んだのを感じ取りながら、「その前に聞いても良いか」とロンガは問いかけた。
「
「――端的に言うなら、そうです」
ティアは外套のフードを脱ぎ、小さく頷いてみせた。
「でも、僕は貴方がたを攻撃しに来たのではない。そこだけ、まず信じてもらえませんか?」
「分かった」
ロンガがあっさり認めたからか、えっ、とリヤンが小さく声を上げたが、異を唱えることはしなかった。2年前にティアと話したときの、彼のあまりに真摯な態度をロンガは今でも覚えている。だから信頼できる、そう踏んだのだ。
「ありがとうございます。――確かに僕は、“
ハイバネイターズ、それが向こうの組織名らしかった。耳慣れない発音にロンガは首をひねる。
「ラピスの公用語とは語源が違うようだ」
「そうですね、冬眠する者たちという意味あいです。僕が生まれ育ったラピスで使われていた言語です――が、僕が名付けたわけではありません。もともとは創都前に付けられた名前で、旧時代ではこちらが共用語だったようです」
「旧時代?」
後ろでリヤンが訝しげに呟いた。彼女はまだ、創都よりも前から世界があったということをよく理解していない。あとで教えると囁いて、ティアに続きを促した。
「お2人は昨日までバレンシアにいらっしゃったようなので、知っているかと思いますが、“
淡々とした口調で、彼は告げた。意図的に感情を排しているようだ。
「その理由は分かりますか?」
「何となく。地下の民、ティアが言うところのハイバネイターズたちによって、地上の生活は維持されていた。その報復なんだろう、これは」
「はい。そうです」
冷酷なほどにきっぱりと肯定して、でも、と不意に表情を揺らがせた。満月の灯りの下で、彼のまとう雰囲気はひどく不安定に見えた。
「――でも。僕は、たしかにあちらの味方ですが、ラピス市民を傷つけたいわけではないんです。お願いしに来たのは、そのことです。攻撃予定地点と時刻をお知らせします。ですから、僕たちの攻撃から、
「え?」
思わず声が裏返った。
「ティア、何を言ってるか分かってるか? それは……」
「それは味方への裏切りだ、ですよね」
ティアは視線をまっすぐ据えて頷いた。
「分かっています。ですから、内通していると知られないように、あくまで自然な形で防衛して下さい。“
「貴方自身の安全は?」
黙っていたリヤンが問いかけた。
「そんなことして無事で済むの」
「済むわけがありません。だから、知られたらお
「そんな――」
「――分かった。決意は固いんだな」
引き留めようとしたリヤンを制して、ロンガは話を進めた。ティアがここに来てしまった時点で、もう彼の裏切りは始まっているのだ。ティアの身を守るためにも、彼の願いを聞き届けるしかないようだ。
「それなら中で話さないか。直接アルシュと話したほうが――」
「それは出来ないんです」
ティアが突然、激しく首を振った。なぜ、と聞き返そうとして、ロンガも気付いた。2年前、彼は罪を犯したのだ。当時のティアは激しい混乱状態にあったので同情の余地は広いが、それでも否定しようがなく、また取り返しもつかない罪を犯した。
彼はアルシュの
アルシュも当然、そのことを知っている。葬送で、
「ねえ、どうしたの?」
リヤンが聞いてくるので、ロンガは事態を要約して話した。説明を聞くとリヤンは難しい表情になって考え込んだが、やがて「でもさ」と言って、リヤンより頭ひとつぶん低いティアの顔に視線を合わせた。
「そういうの、ちゃんとアルシュさんにも言うべきだよ。隠したままは、良くないと思う」
「――でも」
「アルシュさんには、貴方に向かって怒る権利があるんだよ。それを乗り越えないまま、ちゃんと姿を見せないまま、仲間になんてなれないと思う」
切実な口調でリヤンは訴えかけた。かつて兄を
「ありがとうございます。中に入れてもらえませんか」
ロンガは返事の代わりに小さく頷いて、玄関の扉を開けた。眠っているアルシュとフルルに声をかけ、仮眠室の電気をつける。上半身を起こし、目元をこすったアルシュの表情が、扉の向こうに立っているティアを見て強ばった。
「貴方は――ティア・フィラデルフィアだよね?」
「はい。お話があって来ました」
声を震わせながらも、ティアが答える。声にならない呻き声を上げて、アルシュは膝に顔を埋める。しばらくそうしていたが、やがて充血した目を上げて、「ごめん、出て行ってくれる?」と言った。
彼女はティアに言ったのではない。
他の3人に言ったのだ。
2人で話をさせて欲しいということだろう。ロンガは頷いて、リヤンと、まだ状況が飲み込めないらしいフルルを連れ、談話室に向かった。