chapitre162. 歪む空隙
文字数 6,943文字
――新都ラピス ハイバネイト・シティ第22層
「連絡、来ねぇな」
壁掛けの時計を見て、シャルルが首を捻った。
「三時半って話だったよな?」
「そのはずだけど」
寝台に重たい身体を倒したまま、サテリットは
「さっき、隣の区画を見てきたんだけど」
椅子から立ち上がってアンクルが言う。
「もう十センチくらい浸水してた。僕らも、もし助けの人が来なかったら、待ってるより上に向かった方が良いかも……」
「だけど、スロープが動いてないわ」
「いざとなったら、お前ひとりくらい担いで登ってやるよ」
「それは有り難いけど……」
シャルルが気を遣ってくれている雰囲気を感じつつも、サテリットは控えめに首を振る。
「少なく見積もっても、地上まで三百メートルはあるのよ。無謀じゃないかしら……まだこちらは浸水していないし、もうしばらくはここにいても平気じゃない?」
「どうかな……急に、水位が上がるかも」
「ああ、そういや、お前らとはぐれたときも、そんな感じだったな」
「はぐれた? ……ああ」
そんなことあったかしら――とサテリットは一瞬眉をひそめて、それから理解した。アンクルたちが話しているのは、サテリットが忘れてしまった過去のことだ。
「たしかその時は――私とアンだけ、スロープに乗り込んだのよね。シャルルたちはその後、結局どうしたの?」
「どうもこうもねぇよ」
苦い顔でシャルルが応じた。
「おっさんと一緒に流されて、お前らの居場所見失って……それっきりだよ。あんま、思い出したいことでもねぇから、聞かないでくれ」
「シャルル、それは――」
「あ――いや、悪い」
アンクルに咎められて、シャルルははっとしたように口元を抑えた。腫れ物に触るような態度がどうにも気持ち悪くて、サテリットはわざと強い口調で「別に良いわよ」と言った。
「変に気を遣われるほうが苦しいもの……でも、思い出したくないようなことでも、私は知りたいわ。手放してしまったもの全て、手に入れたい……」
呟いて、サテリットは目元を手のひらで覆う。
アンクルたちが毎日話をしてくれるおかげで、少しずつではあるが、失われた五年間の記憶を取り戻しつつある。
だが、思い出した――というよりは、彼らの話を聞いて、記憶を頭の中で再構成したと表現するほうが近しいかもしれない。
というのも、聞いたこと以外は思い出せない上に、感情が伴っていないのだ。悲しみ、怒り、憤り――そう形容される感情を抱いたはずなのに、感覚として掴めないまま。手応えがなくて味気ない、骨組みだけの記憶を辿る。それはまるで、自分ではない誰かの伝記を読んでいるような感覚だった。
ただの“記録”ではなく、血の通った“記憶”を取り戻したい。触れれば血が出るような傷だって、今のサテリットは持っていないのだ。
「教えてくれないかしら……ダメ?」
「俺からは、無理だ」
「そう……」
「――てかさぁ」
包帯の巻かれた手で額を抑えて、シャルルがいささか苛立った口調で言った。
「全部、なかったことになったら良いのにって、思ってんだよ――それをもう一度言葉にしろってか? 話したいわけないだろ」
「でも」
「いっそのこと」
鋭く細められた目がこちらを見下ろす。
「お前みたいに……全部忘れたほうがマシだよ」
「っ――ふざけないで!」
頭にかっと血が上る。
身体が弾かれたように動き、上に手を伸ばしてシャルルの襟元を掴んだ。そこにぶら下がるような不安定な姿勢のまま、サテリットは眉間にしわを寄せて彼を睨みつける。
「撤回して、今の」
「何をどう撤回しろって言うんだよ」
「――ふたりとも」
睨み合ったふたりの間にアンクルが割って入り、サテリットは肩を押し戻されて寝台に腰を下ろす。立ち上がった拍子に払いのけてしまったブランケットを拾い上げて、彼は小さく溜息を吐いた。
「どっちの気持ちも分かるけど……今話すことじゃない、っていうか」
「いや――そうだな、
前髪を払うように首を振って、シャルルが大きく息を吐いた。
「ちょっと浸水の具合、確認してくるわ」
「そう……うん、お願い」
シャルルが外に出て行って、扉がバタンと音を立てて閉まる。サテリットは唇を噛んで彼を見送った。声を荒げてしまったせいか、妙に体温が高く感じられた。肩に掛かる髪を背中に払うと、アンクルがこちらを見遣って「あのさ」と控えめに切り出す。
「リゼのことも、ラムのことも……なかったことにはできないけど、僕らは時間をかけて“悲しい記憶”を“悲しかった過去”に変えてきたんだよ」
「……分かってるけど」
「うん」
部屋の隅にあった椅子を引いてきて、アンクルが斜め前に腰を下ろす。
「だからね……記憶の奥底に埋めてしまったものを、また掘り起こすような真似は、できれば――しないであげてほしい。特にシャルルには」
「でも……苦しかったのや悲しかったのだって、歴史の一部だわ。全部の記憶は、繋がってないと意味がないのに、私はそれを――貴方たちの記憶からしか、手に入れられないのよ。今すぐ全てを――なんて言ってないわ、ゆっくりでもいいから話してほしい。それすらダメって言うの」
「ダメというのは違うけど……」
アンクルが難しそうに眉をひそめる。
「でも、例えばラムのことは、サテリットはそもそも知らないわけでしょう。最初から出会っていなかったことにして、気にしない方が、もしかしたら良いんじゃ――」
「違う」
彼の言葉を途中で遮って、サテリットは首を振った。膝の上に乗せていたこぶしに、自然と力がこもる。
「それは、違うわ」
「でも」
「私が何を知るべきか、それを決めるのはアンじゃない。貴方に決められたくないわ」
アンクルが顔を背けて、黙り込む。
ややあって、囁くような声が「ごめん」と呟く。内側にあるものを零さないよう、必死で気を張っている表情が痛々しくて、サテリットは目を逸らしながら「私こそ、ごめんなさい」と答えた。
彼なりに気を遣ってくれているのは、痛いほど分かっている。
ただ――知りたいのだ。
五年前の収穫祭の日から、アンクルやシャルルや仲間たちが、どんな日々を辿ってここまでやってきたのか――その抜け落ちたページを取り戻したいだけなのだ。もう死んでしまった人だって、彼らの、そしてサテリットの歴史を構成する要素のひとつだ。そこに「知らなくて良いこと」なんて、ただのひとつもない。
「強いよね、君は。吃驚するくらい」
アンクルが視線をこちらに向けないまま、ぽつりと呟いた。
「ちゃんと覚えてなくたって、この五年間、どれだけ嫌なことがあったかは……分かるでしょう。それを知るのが怖いとか、思わないんだね」
「だって、知っても知らなくても真実は変わらないもの。それに私……昔からこんな性格よ。知らないものがあるのが嫌なのよ。それとも、貴方の前だと遠慮してたのかしら……」
「それは……分からない」
アンクルが首を振る。
「でも、きっと僕は……昔の君にとって、どこか
呟きを空気に溶かして、アンクルはこちらに視線を戻した。
「ごめん。多分、ずっと君の邪魔をしていた」
「邪魔、とは違うと思うのだけど……」
言いながらサテリットは、アンクルが木材を削り出して作ってくれたという、木製の杖を握る。邪魔だなんてとんでもない。彼が自分を支えてくれていたのは、紛れもない事実だ。
「それに――」
杖を寝台に立てかけて、サテリットは視線を幼馴染の顔に向けた。
「私は、仮に貴方のことを枷のように思っていたとしても、それを口に出さなかったわけでしょう」
「……そうだね」
アンクルが曖昧に頷いた。
「それが、よく分からないのよね……」
サテリットは壁に背中を倒して、ひとつ息を吐いた。彼やシャルルから、この五年間における自分の話を聞くなかで、いちばん良く分からないのは自分自身の行動だった。いくら行動に制限が掛かっていたとはいえ、あまりにも退屈すぎる暮らしをしているように見える。なのに文句のひとつも付けず、せいぜい屋根の上で秘密の話をするくらいの反抗しかしなかった――それが不思議なのだ。
ただ、あの頃から自分が変わってしまった理由があるとすれば、いくつかは思いつく。リゼがいなくなったこと、リヤンの記憶を封じなければならなくなったこと、リゼの代わりに統一機関の女の子がやってきたこと――そして。
「ねぇ、アン」
そして――彼と恋人になったこと。
今は友人としか見られない青年を、サテリットはまっすぐ見つめる。
「貴方とのことだって、私は知りたい」
思い切って切り出すと、アンクルの頬から血の気が失せるのが分かった。どういう経緯で、どうして恋仲になったのか、彼は頑として話そうとしない。だけど、彼との関係によってサテリット自身が変容したのは、どうも確からしいように思える。
「話したくないのは分かるわ、でも……」
この言い方は狡いと思いつつ、サテリットは腹部に手を当てた。
「それこそ、なかったことにはできないわよね?」
「そう――だね」
厚手のカーディガンで覆われていても膨らみの分かる腹部を見て、アンクルが頷く。ハイバネイト・シティの管理AIが定期的に体調を見てくれたので、記憶こそ残っていないものの、自分の身体のことは大体分かっていた。
「この話……したかしら」
少し歩くにも一苦労するほどになった膨らみに手を当てて、サテリットは顔を上げる。
「この間ね、女の子だろうって診断されたの」
「いや……聞いてなかった」
アンクルが首を振る。
「そうだったんだ。女の子……」
「ええ、もう、そこまで来てるの……だからね私、この子と会う前に、貴方のことをもう一度……好きになりたいのよ。アンのことを好きだったから、こうして君が産まれたんだよって、自信を持って言えるようになりたいの」
「そっか……」
「だけど、私がアンを好きになったことも、今の貴方にとっては、思い出したくないことなのかしら。私、無神経なことを言いすぎてる?」
「いや――嬉しいよ。そう言ってもらえるのは。僕はね、今でもやっぱり、君が好きだから……好きになりたいって思ってもらえるだけでも、いっそ、悔しいくらい嬉しいんだよね」
彼は小さく笑ってから、「でも」と悲しげに眉をひそめた。
「サテリットの気持ちがどう動いたかは、僕には分からない。僕は一度、君に振られてて、それからだいぶ経ったあとに『気が変わった』って言われたんだよ」
「気が、変わった」
サテリットがそのまま復唱すると「そう」とアンクルが頷く。
「具体的に何がどう変わったの?」
「さあ……僕が聞きたい」
*
通路は静まりかえっている。
普段なら幾分か賑やかなのだが、近辺の居室を利用している入居者たちがすでに避難してしまったので、残っているのはシャルルたち三人だけだった。サテリットと言い争ったのを思い出して、シャルルは声にならない唸りを吐きながら額に手をやった。
サテリットが記憶に固執する理由は分かる。
これは昔からそうで、彼女は、知らないものがあるのが耐えられない性格だからだ。理解はしているつもりだし、できるだけ助けてやりたいのだが、ここ五年間のことを考えれば考えるほど、苦しさが胸を締め上げる。
辛いことしかなかった――わけではない。
楽しかったことも色々とあったはずなのに、自分の中の記憶に触れようとするだけで、右手の傷が痛み出す。それと併せて、頭部を撃ち抜かれて死んだラムや、崖から落ちて死んだリゼの記憶がぐちゃぐちゃに混ざって思い起こされる。いっそ全て忘れてしまいたいなんて思う日が来るとは、思ってもみなかった。
壁にもたれて目を閉じた、そのとき。
「――ん」
不意に水音が聞こえた気がして、シャルルは顔を上げる。
音の聞こえたほうに視線を向けると、そこに見慣れないものを見つけた。通路の床から低い壁のようなものがせり上がって、行く手を塞いでいる。興味を引かれて近づいていくと、壁の向こう側が浸水していた。
どうやら、浸水被害を広範囲に広げないための壁らしい。
なるほど――とシャルルがひとりで納得していると、また水音が聞こえた。誰かが歩き回っているような音だ。シャルルは一瞬迷ったが、意を決して息を吸い込む。
「誰か、いるのか」
その直後、音が止む。
数秒の間を挟んで「どこですか」という声が、入り組んだ通路の向こうで応じた。少年らしい、やや高めの柔らかい声だ。声は複雑に反響して、どちらから聞こえているのか良く分からない。
「どこって言われてもなぁ」
「近くに、金属のプレートがありませんか。そこに書いてある番号を教えてくれれば」
「プレート?」
ぐるりと見回すと、それらしいものがあった。言われるまま、刻字された番号を読み上げると、足音がまっすぐこちらにやってきて、一分もしないうちに少年が角から顔を出した。
「どうして残られてるんです?」
癖っ毛をうなじで括った少年は、開口一番に言いながらこちらにやってきた。
「この区画は、二時間くらい前から避難通告が出ているはずですが」
「いや、補助が来るって聞いてんだけど、ぜんぜん来なくて――」
そこまで言ってシャルルは、少年が首から銀の笛を下げているのに気がついた。伝報局員が
「あんた、MDPの人間か。ってことは、補助って」
「あ、はい。俺たちです――えっと、手を怪我されてる感じですか」
「あ――いや、俺じゃなくて」
包帯を巻いた手を慌ててポケットに突っ込みながら、シャルルは首を振る。
「仲間が……その、妊娠してるんだ」
「ああ、そうでしたか」
「もう結構、動くのもしんどそうで」
「それは大変ですね……すみません、そんな状況なのに、お待たせしてしまったようで。停電の都合で、スロープが動くのが予定より遅れてるんですよ」
「あ、いや、良いんだけどよ……」
あっさりと相槌を打つ少年を、どこか不思議な心持ちでシャルルは眺める。妊娠という事実は、ほんの数ヶ月前までなら、良くて眉をひそめられる、悪ければ石を投げられるような禁忌だったはずだ。
じゃあ、と言って少年が踵を返す。
「すみません、俺、ちょっと仲間を呼んできますね」
「おう、分かっ――」
そのとき。
通路の向こうに現れたものの姿形を見て、喉が凍りついた。身体中の筋肉がぐっと張りつめて、何かフィルターを掛けられたように頭が動かなくなる。奇妙に歪んだ視界のなかで、
「ここで待っててもらって――あれ」
振り向いた少年が首を捻る。
「来てたんですか」
「うん……えっとね、声が聞こえて」
「はい? 声って、誰の」
彼女は、少年が戸惑っているのも構わず、止水壁のすぐ向こうまで歩いてくる。肩幅に開いた足に、ぐっと力を込めて立ち止まる。そして丸い瞳を見開き、まっすぐにこちらを見つめた。
「……シャルル」
「お前――」
掠れる声で、シャルルはやっとそれだけ言った。
「なんでここに」
「あたし……
「は?」
「レゾン君」
流れるような早口で言ったかと思うと、彼女は機敏に振り返って、呆然と成り行きを眺めていた少年に笑ってみせる。
「ごめんね。あたしの知り合いなんだ」
「あ、あぁ……そういうことでしたか」
レゾンと呼ばれた少年は、ぱちぱちと瞬きをしながらも納得したように頷いてみせる。曲がり角の向こうからもうひとつ足音がやってきて、シャルルたちを捉えて「居た」と声を上げた。
「もう、やっと見つけた……えっと、そちらは、入居者の?」
「うん。ごめんフルル、急に出てきちゃって」
「本当だよ」
フルルと呼ばれた黒髪の少女が駆け寄ってきて、呆れた顔で肩を叩く。
「地下に来たときといい、本当リヤンは……無鉄砲って言うかさぁ」
「あはは……ごめん」
「でも、良くここが分かりましたね」
「声が聞こえたから、こっちかなって」
「……リヤン」
年代の近そうな友人たちと笑い合っている彼女に、おそるおそるシャルルが呼びかけると、彼女は無表情になってこちらを振り向いた。唇はぎゅっと横に引かれて、丸い頬には緊張が満ちている。まだ年端もいかない子供だった頃から知っているはずなのに、一度も見たことがない、凍りついたような表情が言う。
「会いたくなかったよ」
「――おう」
「でも仕事はする」
リヤンは一笑もせずに止水壁を乗り越えて、シャルルをまっすぐ見上げた。
「アンたちと一緒なんだよね。案内して」