凍土のなかのバースデイ
文字数 10,642文字
青い空、というものを知らない。
エリザが物心ついたときからずっと、この世界は凍りついていた。どんどん下がる気温と、狭くなる生存可能圏と、減っていく人口と。ありとあらゆるものが消失へ向かう、そんな時代を生きていた。
そうやって、世界がぎゅうと一点に押し縮められているから――なのだろうか。
どうしようもなく、なんだか根本的なところで、世界が歪んでいると思うのは。
***
「いやあ、信じられん」
仕立ての良さそうなスーツを着た中年男性は、まるまると太った顔をハンカチで拭いて、コミカルに両目を見開いた。
「驚いたよ、まさか本当に、七日連続で当ててみせるとはね」
「だから、申し上げたでしょう」
中年男性の対面、エリザの隣に腰掛けた男――サティは、ソファに腰を下ろしたまま、大仰な仕草で両手を広げて見せる。
「うちのエリザは、まさしく未来が見えているんです。まあ、明日の天気を当てるくらいのことなら、その辺の科学者にだって可能でしょう。でも、下五桁まで正確に、しかも七日間続けてとなると……」
サティはぐっと声を潜めた。
「いかがです? ブラウン区画長」
「だ……だからといって勘違いしてもっては困るよ、きみ。私は、未来が見えるなんて、荒唐無稽なお伽噺を信じたわけではないからね」
慌てたように男は首を振った。
信じていないとはいうものの、区画長の目はすっかり神秘に魅了されていた。曲がりなりにも官吏の立場で、未来視の目などというオカルトを肯定するわけにはいかない――そんなところだろうか。
ごほん、と彼は古典的に咳払いをする。
「今時は計算機がずいぶん、発達しているとも聞く。まあ、だが――存外しっかりしたことをしているのかな、と感じたよ。そのハイバネイト・プロジェクト、とやらは」
「評価していただけたようで、何よりです」
どうやら交渉がまとまりつつあるようだった。にっこりと人の良さそうな笑みを浮かべてみせるサティの横で、エリザはワンピースのスカートをぎゅっと握りしめる。
――ああ、もう帰るのか。
エリザは内心で溜息を吐いた。
プロジェクトに金銭的支援を集めるための交渉は、退屈で仕方がなかった。
だけど、どれだけつまらない交渉でも、長引いてくれたほうが嬉しい。公の場である以上、サティは本性を現してこないから。彼が良識と倫理観を兼ね備えた、新進気鋭の研究者のふりをしているうちは、エリザも、痛みと恥辱に耐え忍ばなくて良いのだから。
「あいつ、結論を先延ばしにしやがって」
屋外に出て、サティが毒づいた。
除雪車が作り出した幅一メートルの道を、エリザは彼の後について歩いて行く。寒冷化のため、地上は一年中雪に閉ざされていて、瞼が凍りつきそうな吹雪がいつも叩きつけている。だから、移動するときはたいてい地下通路を使うのだけど、サティは交渉の帰りに決まってこの道を選んだ。
途中に、めったに人の来ない、それでいて暖房設備の残っている廃屋があるからだ。
「あぁ、くそ、寒っ……」
当然のようにエリザを廃屋に引きずり込み、サティが空調の電源を入れる。
どうにか耐えられる程度に室温が上がったところで、エリザは外套からワンピースから下着まで、さっさと脱いでしまう。どうせ何もしなくても脱がされるけど、サティは粗暴なので、適当にスカートだけめくってことを始めるかもしれない。そうすれば、故郷から持ってきた大切なワンピースに皺が寄ったり、体液が付いたりしてしまう。
だから先に脱いでおくのだ。
薄いピンクのシフォンレースがあしらわれたワンピース。お気に入りの洋服くらいは、せめて綺麗であってほしかった。
「おい、とっとと来い」
男が手招きする。
エリザが歩いて行くと、両手首をぐっと掴まれた。そのまま、カビの匂いがするマットレスに押し付けられて、ほとんど何の準備もないままに、怒りと鬱憤をぐちゃぐちゃに混ぜた何かをぶつけられる。
「あの、野郎……」
目をぎらぎらとどす黒く光らせて、汗のしたたる頬を歪めてサティが呟く。腰を鷲づかみにした手のひらが、恨み言に相槌を打つようなタイミングでエリザの身体を引き寄せて、そのたびに身体の奥が杭で穿たれたように痛む。
「若造だと思って……馬鹿に、しやがってっ……俺たちの思想なんて、なにひとつ、分かってない……くせに」
エリザは両手の拳をぐっと握って、ただひたすら苦痛に耐える。痛い――痛いけれど、本当にただ痛いだけだ。悔しいとか、恥ずかしいとか、最近はあまり感じなくなった。夜に思い出して、わけもなく泣きたくなることも減った。
「お前……最近さ、女っぽくなったなぁ、こう……身体つきがさぁ」
罵倒の言葉をひととおり吐き終えたらしいサティが、固い指先で肌を辿りながら粘っこく笑う。激しく揺すられて朦朧とする頭で、エリザはふと不思議に思った。今までは女だと思っていなかったのだろうか。女だと思っているから、こういうことをするのではないのか。
いや――違うか。
天井をぼうっと見つめながら、エリザは考えを改めた。
自分は道具だ。
ただ都合良く蹂躙できる玩具なのだ。
今さら、悲観するようなことでもない。そもそもハイバネイト・プロジェクトのメンバーは全員、エリザの未来視の目を利用している。そのために大枚を叩いて、育ての親からエリザを買ったのだ。サティの場合は、それに性欲をぶつける標的というオプションが加わるだけ。
ただ、それだけ。
小分けにされた薬を投げつけられて、エリザは我に返る。
気がつけば、全て終わっていた。裸のままシャワールームに向かって、もらった薬を飲み、汚れた身体を洗う。エアタオルで水気を飛ばしてから部屋に戻り、服を着る。動かしたマットレスを元の位置に戻す。数分後にサティがシャワールームから戻ってくるので、彼の後について外に出る。
ルーティン化された作業。
いつも、同じことをぐるぐる繰り返すだけの日常。
片付けを済ませて扉の外に出ると、激しい吹雪が真正面から吹き付ける。口元を覆うファスナーを引き上げて、サティのあとを追いかけると、ふと、白く濁った視界の向こうに細長いシルエットを見つけた。
今時、地上で人と出会うのは珍しい。
何をしているのだろう、と何となく眺めていると、人影はこちらに気がついて「あ」と声を上げた。そのまま、ざくざくと雪を踏みわけて、こちらにやってくる。
「すみません、この辺りの人ですか」
ネイティブではないのか、どこか平たい発音の英語だった。背が高く、肩が広い。雪除けのカバーを付けていて顔が見えないが、声のトーンからして、サティよりは少し年上の男性のようだ。
「ええ、そうですよ。迷われましたか?」
サティがよそ行きの紳士的な口調で応じると、男は盛大に安堵の溜息を吐く。吐き出した息が真っ白く濁って、広がるさまはまるで煙幕のようだ。ぼんやりと霞んだ、どこか幻想的な視界の向こうで「すみませんが」と男が端末を取り出す。
「メトロから出たら迷ってしまって。ここに行きたいんですが」
「ああ……地下から出ない方が迷わずに済みますよ。あちらに、少し戻ったら、煙突みたいな形の入り口がありますから……いったん駅まで戻るのが宜しいかと」
「ははぁ、なるほど……どうも、すみません」
広い肩をすくめてみせた男が、ふと気がついたように「おや」とこちらを振り向く。
「そういう貴方がたは、なぜ
屈託のない問いだった。
数秒続いた沈黙に、あ――と彼は慌てたように首を振った。
「いや、すみません。あまり詮索する気は」
「……兄妹でここに住んでるんですよ」
「ああ、そうでしたか」
心なしか、ほっとした声色で男が応じる。
どうもすみません、助かりましたと再三お礼を言いながら、男が遠ざかっていく。吹雪に紛れてその姿が消えたころ「行くぞ」とサティが低い声で呟いて身をひるがえした。
***
ハイバネイト・プロジェクト。
寒冷化に襲われた現代を乗り越えるために発案された、地下に巨大都市を造る計画だ。発起人はロシアで建築会社を運営していたニコライという男で、彼が全世界から協力者を募り、十数年に及ぶ壮大な計画を立案した。現在の協力者は、サティやニコライを含む六人のコアメンバーと、未来視の目を買われたエリザの計七人。ニコライの建築会社で働く社員たちや、協力している研究者を含めると、百名程度がプロジェクトメンバーとして名を連ねている。
地下の居住区に戻り、着替える。
数十分ほどすると夕食の時間になったので、エリザは自室を出て食堂に向かう。六名のコアメンバーとエリザは、こうして地下で共同生活を営んでいる。これもプロジェクトの一環だ。地下で全ての生活が完結することを身を持って証明し、ニコライたちが考案した包括的社会維持施設の堅牢性をアピールしようとしているのである。
うっすら有機溶媒の匂いがする通路を歩いて行くと、カラカラというワゴンの音が近づいてきた。食事係のアマンダが、夕食を運んできたようだ。エリザは立ち止まって、ワゴンが通れるように扉を押さえておく。そうしないと「気が利かない」と睨みつけられるからだ。アマンダはそんなエリザを一瞥もしないまま、ワゴンを押して食堂に入っていった。
食堂は誰の趣味なのか、蝋燭や花が飾られたクラシックなデザインだ。とはいえ蝋燭はボタン電池で光る偽物だし、花瓶に生けられているのは造花だが。見かけだけ本物に似せたレプリカの、何を有り難がっているのか、エリザにはよく分からない。
配膳を手伝って、末席に座る。
大人たちがワイングラスを交わすかたわら、エリザは勝手にジュースを注いで飲んだ。食事のメニューはパンと人工肉のパテ、それにサラダと、足りない栄養を補うための錠剤。少しずつ味付けが違うものの、たいていは毎日同じものが提供される。
不味くはないが、美味しくもない。
味を調えようとすればそれだけコストが掛かる。しかし、あまりにも味が貧相では食べる気をなくし、健康に支障が出る。妥協点をぎりぎりまで追求したような食事を味わうたび、エリザは故郷で食べた料理を思い出す。とろりとした油の浮かぶスープと、ナッツを練り込んだ甘いパン、そして食後の焼き菓子――あんな贅沢は、きっともうできないだろう。
粘土の塊みたいな人工肉を切って口に運ぶと、プロジェクトリーダーのニコライが「そういえば」と会話を切り出した。
「ひとり、プロジェクトに新しく加わることになったよ」
そう言ってニコライは食堂を見回す。
「
「へえ?」
一番に反応したのはルーカスという男だ。肩まで伸びた、ウェーブした金色の髪をかき上げて「でも」と隣を見る。
「そういうのって、マリアちゃんの役回りじゃありませんでしたっけ?」
「ち、違うわよ!」
ルーカスの隣に座っている、マリアと呼ばれた女性が、テーブルに両手をついて慌ただしく立ち上がる。甘ったるい香水の匂いが食堂じゅうにぶわりと広がって、エリザは思わず眉をひそめた。
「ちょっと、ニコライ、その言い方だと誤解を招くでしょう。あたしは外側の設計が本業で、今までは人がいないからソフトもやってたけど……内側のシステムをやってくれる人材が見つかったってこと!」
「まあ、そういうことだ」
「んもぅ……」
マリアが溜息を吐いて、化粧品で桃色に染めた頬を膨らませてみせる。
「あたしはちゃんと仕事してるもの」
「ごめん、悪かった」
ルーカスは、芝居がかった仕草で肩をすくめてみせる。
「僕は別に、マリアちゃんを疑ったわけじゃないよ」
「ルーカス……」
「まあ――そういうわけでだ」
マリアがうっとりと目を細める横で、ニコライが話を元に戻す。
「構造設計のチームにひとり加えようと思う。子細はいまマリアが言ったとおり……問題ないかな、みんな」
「俺は良いっすよ」
サティが軽快な口調で笑う。
プロジェクトのなかで、エリザを除いていちばん若手の彼は、メンバーに対しては気さくな好青年としてふるまっている。そんなサティが実は、機会さえあれば少女を人目のないところに押し込んで欲望を発散していることは、エリザ本人を除いて誰も知らない。
「マリアちゃん忙しそうだったんで、ちょうど良いじゃないですか」
「サティ……貴方の専門分野だって、こっちじゃない」
「いやあ、でも俺の仕事は交渉ですし」
サティはマリアの追撃をひらりと交わしてみせる。そのやりとりを横目に見ながら、ニコライが残るふたりに視線を向けた。
「ジゼル、アマンダ――君たちの意見は、どうだね」
「私は賛成」
ジゼルと呼ばれた最年長の女性は、低いトーンで言ってワイングラスの中身を飲み干した。
「マリアの負担が減り、よりよいシステムが作れるなら、反対する理由など何もないだろう」
「あっ……あ、あたしもっ、なにも文句ないです」
アマンダが緊張からか掠れた声で言う。よし、とニコライが頷いて、安堵したようにあごひげを撫でながら微笑む。
「みんなが賛成してくれて良かった」
ニコライが言う「みんな」のなかにエリザが含まれていないのは、今さら疑問視するような点でもなかった。
それからしばらくして、夕食はお開きになる。
食後の片付けはエリザの担当だ。食卓に散らばった皿やグラスを集めてワゴンに載せ、居住区の隅にある部屋まで持って行く。生ごみは肥料にするので分ける。汚れた食器は形ごとに分類して、それぞれベルトコンベアに載せれば、洗って乾かすまで自動で済まされる。
いつも通り作業をこなしていると、突然、吐き気に襲われる。
昼間に飲んだ避妊薬の副作用だ。エリザは調理室に備え付けの洗面台に駆け寄り、床に膝を突いて嗚咽する。薬ごと吐いてしまうわけにも行かず、歪めた唇のはしから吐息をこぼしながら、エリザは必死に吐き気に耐えた。
視界が涙でゆがむ。
呻きながら吐き気が去るのを待っていると、壁掛けのデジタル時計が目に入った。
「あ……そっか」
液晶パネルに表示された日付を見て、エリザはひとり呟く。カレンダーを見るまで忘れていたけれど、今日はエリザの十三歳の誕生日だった。育ての親と暮らしていた頃は、ささやかなプレゼントをもらっていた覚えがある。
誕生日。
生まれたことを祝い、成長を喜ぶための記念日だ。でもハイバネイト・プロジェクトの人々にとっては、エリザの誕生日なんて、ただの戸籍情報でしかないだろう。エリザは身体を起こして、鏡のなかで眉をひそめている自分に語りかける。
「誕生日おめでとう、エリザ」
虹色の瞳が、涙に濡れて光った。
いつからか手に入れた、未来が見える力を証明するように、エリザの瞳は普通なら有り得ない色で光っている。未来が見えるといっても、ほんの少しだけだ。例えば、次にサティと交渉に向かう日がいつであるかは分からない。でも、明日の天気などの自然現象については、かなり正確に知ることができる。
ハイバネイト・プロジェクトがエリザを買ったのも、つまりそのためだ。下がり続けている地表の気温が、どのくらいで上昇に転じ、いつ頃から地上で暮らせるようになるか――を、どんなシミュレータより正確に予測する。環境学者のジゼルを始めとして、メンバーがエリザに求めている役割はそれだけだ。
せいぜい、高度なプラグイン程度の扱いだ。
誕生日を祝ってくれるわけもない。
少し吐き気が収まったので、エリザは洗面台に手を突いて立ち上がり、残りの仕事を片付ける。ワゴンを壁ぎわに寄せて部屋を出ると、向こうから金色の髪を揺らした青年が歩いてくるのが見えた。
「やあ、エリザ」
「――ルーカスさん」
「おや、どうしたの?」
立ち止まって小さく頭を下げると、ルーカスは怪訝そうな表情を浮かべて首を傾げた。彼はエリザの頬に手を添えて、薄い唇を持ち上げてみせる。
「体調が優れないようだけど」
「いえ……」
「でも、何だかふらついてるよ。部屋まで運んであげようか?」
「平気です」
構わないで欲しいと思いながら、首を振る。
ルーカスは、プロジェクトメンバーのなかではエリザに好意的に接してくれるほうだ。だけど、ルーカスに優しくされると、彼を好いているらしいマリアに必ず睨まれるので、できれば関わりたくなかった。彼がなかなか立ち去ろうとしないので、意を決してエリザは「あの」と顔を上げる。
「マリアさんに怒られるので……いいです」
「え? 僕とマリアは別に、恋人でも何でもないよ。ほら――っと、軽いね、エリザは」
ルーカスはエリザの腰に手を回して、楽々と持ち上げた。抵抗するほどの体力もなく、諦めてエリザは身体を脱力させる。居室までの道中、エリザはマリアとすれ違わないことだけを祈っていた。幸いなことに、何事もないまま自室に辿りつき、エリザは安堵して柔らかいマットレスに身体を沈めた。
椅子をひとつ引いてきて、ルーカスがベッドのそばに腰を下ろし、うん、と頷く。
「やっぱり体調が悪そうだ」
「ルーカスさん、もう、結構ですから……」
エリザは目を閉じて、腹を突き上げる吐き気に堪えるため、枕のわたを強く握りしめた。向こうでルーカスが興味深げに眺めているのが分かる。早く出ていって欲しい――という祈りも届かず「僕はさ」とルーカスが口を開いた。
「君が、あんまりにもメンバーから無碍にされてるんじゃないかって、ちょっと心配してるんだよ」
「……そんなこと、ないです」
「本当?」
ふふ、とひそやかに笑う声。
何かあったら言ってね、という優しげな言葉と、わずかな煙草の匂いを残して、ルーカスは部屋を出て行った。彼は親切そうに見せかけているけど、多分ポーズだけだ。本当にエリザのことを気遣っているわけではないと思う。
だって。
エリザの誕生日すら、覚えていないのだ。
エリザは立ち上がって部屋の電気を消し、扉に内側から鍵を掛ける。引き返してマットレスに倒れ込み、そのまま目を閉じて、夜が過ぎていくのをただ待っていた。
***
ユーウェンという男は、半月後、エリザたちが拠点とするハイバネイト・シティにやってきた。夜、歓迎の意を示して簡素なパーティーが開かれる。エリザは壁ぎわの椅子に腰掛けて、ぼんやりと壁掛けの時計を眺めていた。宴もたけなわといった様子で、アルコールの入った大人たちの声が耳にやかましい。お開きになるまで、あと三十分くらいだろうか。
退屈だ。
空になったグラスを弄んで、膝下をぶらぶらと振っていると、ユーウェンという男がプロジェクトメンバーの輪から外れて、こちらに歩いてきた。彼はエリザの両目を見て、おお、と驚いたような息をもらす。
「こんにちは。君が、噂の……虹色の目をしてるって、本当なんだね」
「エリザ・ベネットです……はじめまして」
「うん、はじめまして」
エリザが小さく頭を下げると、ユーウェンは屈託のない笑みを浮かべてみせた。アジア系の精悍な顔立ちに、硬そうな黒髪を短く切り揃えている。背が高く、肩幅が広い。爽やかな青年というのが第一印象だった。
「君は――」
そう言ってユーウェンは、オードブルを囲んでいる大人たちを指さす。
「あっちに加わらないの」
「お酒は飲めないので……」
「はは、見たら分かるよ、そんなことは」
何か冗談でも聞いたように、愉快そうにユーウェンが笑う。その様子を見ていて、ふとエリザは既視感のようなものを覚えた。何だろう――と首をかしげたところで、向こうでウィスキーを飲んでいるサティが、やけに険しい目つきでこちらを見ているのに気がつく。
ああ、とそこで思い出す。
ユーウェンは、半月前に廃屋の前で出会った男だ。
顔は雪除けのカバーに覆われていたが、声や体格が記憶と同じだ。なるほど、だからサティは彼を警戒しているのだろう。エリザを廃屋に連れ込んでいることがメンバー内で暴露されれば、彼の地位が地に落ちるからだ。
黙り込んでいるエリザを見て、困ったように笑っていたユーウェンは「そうだ」と呟いて、腕に下げていた紙袋のなかに手を入れた。
「君、お菓子って好きかな」
そう言って、小包を差し出す。
「挨拶にって思って、パリの空港で買ってきたんだけど、君も良かったら」
「あ……ありがとうございます」
お礼を言って受け取る。
ビニール袋のなかに、丸っこいパステルカラーが見えた。エリザは慎重に包装を破いて中身を取り出し、おそるおそる口に運ぶ。少しねっとりとした食感のなかに、甘酸っぱい味が広がって、エリザは思わず目を見開いた。
「あ、美味しい……」
「良かった。マカロンって、もともとこっちのお菓子だよね。君は好き?」
「マカロン……」
そういう名前なのか。
「初めて食べました」
「え、本当」
「でも」
エリザは口元を抑える。
滅多に食べられないお菓子を、名残惜しく思いながらも飲み込む。すっと抜けるように爽やかな香りが、口の中や鼻の奥にほんのり残っていた。
「好きになる……気がします」
「良かった。じゃあ、残りもあげるよ」
そう言って彼は、紙袋ごとこちらに差し出した。
「え――いえ」
慌ててエリザは首を振る。
「だって……皆さんのために、買ってきたんですよね」
「だけどこれ甘すぎてさ、お酒のつまみにはならないから。君さ、付き合わされて退屈そうだし、このくらい、お給料としてもらっときなよ」
「でも……」
良いのだろうか。
エリザが困っていると、じゃあこれだけ、と言ってユーウェンは小包をふたつ取り出した。
「部屋ででも食べなよ」
「じゃあ……はい、ありがとうございます」
「うん」
「色が……違うんですね」
手のひらに載せたビニールの小包を見比べて、エリザが呟くと「そうだね」とユーウェンが頷いてみせる。
「味が違うんだ。こっちはカシスで、こっちはプラリネ……」
「さっきの黄色いのは……」
「あれは、シトロン。そうだ、もし気になるなら、これを読みなよ」
そう言ってユーウェンは、小冊子のようなものをエリザに差し出した。向こうで飲み交わしている大人に呼ばれて、ユーウェンは「あ」と呟いて立ち上がる。
「じゃあ、また」
「あ……はい」
ひらりと片手を振って、ユーウェンが立ち去っていった。
パーティー会場の片付けを終え、与えられた自分の部屋に戻ってから、エリザは小冊子を開く。洋菓子のメーカーが、商品のラインナップを紹介するために作ったもののようだ。八つ折りの紙に、色とりどりなマカロンの写真と名前が載っていた。ポップな色合いは、この世界のものじゃないみたいに鮮やかで可愛い。
「わあ……」
フランボワーズ、ピスタチオ、キャラメル、ヘーゼルナッツ。
可愛らしいパステルカラーと、気の利いたお洒落な名前を見比べる。エリザがその遊びに没頭していると、ふとこちらに近づいてくる足音が聞こえて、エリザは慌てて小冊子とマカロンの小包をブランケットに隠した。
ノックもなく、扉が開けられる。
「おい」
険しい表情のサティが入ってきて、扉に内鍵を掛ける。彼はそのままつかつかとエリザに歩み寄って、ブラウスの胸ぐらを掴みあげた。余裕のない表情に恐ろしい形相を浮かべて、至近距離から睨まれる。
「お前……分かってるな?」
押し殺した声で問う。
「なにも言うなよ、あいつに」
「……分かって、ます」
喉が詰まって苦しいなか、どうにか頷くと、サティはひとつ息を吐いてエリザを解放した。とつぜん手を離されて、ベッドに倒れ込むエリザを尻目に、彼は部屋を出て行く。エリザは咳をしながら、勢い良く閉められた扉を暗い目で見つめた。
最初から、告発する気などない。
サティとエリザの関係が公になったところで、何も良いことはない。メンバーはエリザを守る気などなく、せいぜい、少しサティを蔑む程度で終わりだろう。もし警察に通報されたら、サティからは離れられる可能性があるが、その場合生活する術を失う。まだお金を稼げる年齢ではないし、故郷では未来視の目を気味悪がられているから、育ての親のもとに帰ることもできない。
ここで生きていくしかない。
どれだけ手酷い仕打ちをされたって、このハイバネイト・プロジェクトは、エリザの存在に値段を付けてくれる、世界で唯一の場所なのだ。それがエリザの現実で、ここから連れ出してくれる人はどこにもいない。パステルカラーのマカロンがいつでも食べられるような、そんな未来は、きっと、どこを探しても見つからない。
***
その夜、夢を見た。
チョコレート色のレンガを敷き詰めた道を歩いている。空はバーチャル・リアルティの映像よりも青い。屋外を歩いているのに外套も帽子もなしで、半袖のワンピースを着ているあたりが、いかにも夢だ。
ここはどこで、どこに向かっているのだろう、漠然とそんなことを考えながら、エリザは歩いて行く。
石畳の階段を上り、重たい扉を押し開ける。
埃っぽくて薄暗い室内には、ぎっしりと書架が並べられている。クラシカルな雰囲気の図書館だ。横に視線を動かすと、大人が二人、向かい合ってソファに腰掛けている。二十代後半くらいの男女だ。エリザが彼らに近寄って片手を持ち上げると、二人も視線を持ち上げて、こちらに笑顔を返してくれた。
「エリザ」
親しげに呼びかける声。
勧められるまま、エリザはソファに腰を下ろす。
彼らは何か仕事をしていたのか、鏡面仕上げの机には、ハードカバーの本やノートが散らばっている。その隙間に埋もれるように白い丸皿があり、丸っこい焼き菓子が並んでいた。
「ああ、それ、食べて良いわよ」
そう言って女性のほうが皿を指さしたが、エリザの指先が焼き菓子をつまむ直前で、視界がふっと暗くなる。はるか遠い場所でベルの音が鳴り、それがだんだん近づいてきて、エリザは夢から目覚めた。
まぶたを押し開ける。
枕の横に、昨晩ユーウェンから貰った小冊子と、まだ手を付けていないマカロンが転がっていた。そう、夢のなかで勧められたあの焼き菓子も、マカロンだった。寝る前まで小冊子を読んでいたから、あんな夢を見たのかもしれない。目を閉じて、ブランケットに顔を押し付けると、少しだけ涙がにじんだ。
幸せな夢だった。
今日が始まってしまうことを、痛いと感じてしまうほどに。