chapitre147. 眠りを醒まして
文字数 9,526文字
――新都ラピス ハイバネイト・シティ第18層
裸電球の照らす通路を満たしている空気は、やけに湿っていて生暖かい。空調設備の不具合か、あるいは貯水タンクが破裂した影響によるものだろうか。汗が筋を描いて流れ落ち、ただでさえ奪われていた体力がどんどん蒸発していくが、シェルは額を拭って、壁に空いた穴に手を掛けた。ぐっと身体を引き寄せて、荷物運搬用のベルトコンベアに乗り込み、急勾配の坂を這うように登っていく。
そして、スロープ内部を覆うパネルのひとつに手を掛けて取り外し、向こう側の状態を一応確認する。床のへこみが水没していることに、すんでのところで気がついて、空中で身体を捻りながら飛び降り、足を滑らせるのを回避した。もっと気をつけて動け――と、彼女なら言うのだろうが、これでもシェルにしては注意深く動いた方だった。着地の勢いを逃がし損ねて、二、三歩たたらを踏む。
部屋の扉を押し開けたところで、目を閉じている女性を見つけた。彼女は、腹部を庇うように足を畳んだ姿勢のまま、身体を横に倒している。いつもは下ろしていたはずの髪を、珍しくひとつに纏めて編んでいた。シェルはペンライトを左手に持ち替えて、彼女のそばに膝をつく。
「――エリザ、無事ですか?」
声を掛けて、しばらく様子を伺う。肩を揺すろうとして伸ばした手を、途中で引っ込めた。手術の傷が開きかけていると聞くから、不用意に身体を動かすべきではないだろう。
「ぅ――」
エリザが微かな呻き声を漏らす。目蓋がぴくりと揺れて、虹色の煌めきが細くこぼれた。瞳がゆらりと動いて、シェルの顔に焦点を合わせる。
「あ……ええと、シェル――でいいのかしら」
「そうですが……」
シェルは戸惑いながら頷く。自己紹介は半月前に済ませているはずだった。もしや意識が朦朧としているのでは――と眉をひそめると「ああ」とエリザはひとつ瞬きをして、ゆっくりと身体を起こした。
「ごめんなさいね、違うの……貴方のことはちゃんと覚えてるわ。ただ、どう言ったら良いのかな、本当の名前じゃないでしょう?」
「あ、そういうことですか」
意図を理解して、シェルは小さく頷いた。
「ぼくがここに来たとき、
「それって“
「はい。彼らにとっての太陽とは、究極的な目的……みたいな存在だったので」
「そういうこと……」
エリザは壁に片手をついて立ち上がる。
出血を抑えるためか、彼女はワンピースを脱いで腰に巻き付けており、骨張った腕が剥き出しになっていた。シェルがやってきた道のりと違って、そのフロアは冷たい空気が満ちていた。脱いでいたジャケットを彼女に貸して、最寄りの医療室に向かって歩き出す。
途中で、エリザの希望で休憩を取った。
「そういえば、さっきの話だけど」
両膝を抱えて座り、壁と床のあいだに身体を預けながら、エリザが視線をこちらに向ける。
「お名前、もうひとつあるわよね」
「――え」
「ソル、とも呼ばれているじゃない」
その呼び方を耳にした瞬間、シェルの身体の真ん中に、重たくて冷たい塊が落ちる。きぃんと耳鳴りがして、脈打つように頭が痛んだ。一瞬で零下まで落ちた体温を悟られないように、シェルは背後で拳を握りしめた。
「それ――誰から聞いたんですか?」
「誰からって……」
エリザは目をくるりと回した。
「……リュンヌが昔、貴方のことをそう呼んでたなぁと思ったのよ」
「ああ、それで……」
納得して、シェルは目を伏せた。
心臓が、その居場所を示すようにうるさく鳴っている。不意打ちで、最愛の幼馴染以外が口にすることのない愛称を聞いたので、自分でも驚くほど動揺してしまった。自分を落ち着かせるために長い息を吐いてから、シェルは顔を持ち上げる。
「
そこまで言って「いや」と小さく首を振った。
「……ぼくはそう思ってましたけど、彼女がそれを望んでいたかどうかは分かりません」
「あら――謙虚ね」
くす、とエリザは苦笑を零す。
「心配しなくても、きっとリュンヌは貴方のこと、とっても大切だと思ってるわよ」
「だと良いですけど――」
「絶対、そうよ」
エリザは明瞭な口調で言い切った。
「分かるわよ。だって娘だもの」
「そうですか……」
どんな論理展開を下敷きにしているのか不明だが、否定するのも無意味に思えて、シェルは曖昧に相槌を打った。
「それにしても、そんな昔のこと、よく覚えてましたね」
「貴方にとっては大昔のことでしょうけど、私にとっては、つい最近とも言える記憶だもの」
「……そうですか」
「ええ」
10年もの間を眠っていた女性は、10年前の冬と変わらない笑顔で頷いた。
しかし、以前に話したときは、シェルのことは覚えていないと言っていたようにも思うのだが。記憶違いかな――と首を捻っていると、エリザは不意に、隣に座るシェルに手を伸ばした。痩せた手のひらが耳の横を通り過ぎて、シェルの後頭部に触れる。突然の行動に驚いて、硬直したまま動けないでいると、彼女の細い指先が髪の毛を梳いた。
「あの子が、こんなに大きくなったなんて」
幼い子どもを可愛がるときのように、頭を撫でられているのだ――と気がつき、どことなく恥ずかしくて、頬が熱くなる。優しげなのに、それでいて悲しそうな笑顔が、まっすぐに見上げていた。
「そんなに長い間、眠っていたのね、私は。本当に何もかも、変わってしまって……色んな人が、いなくなった」
「――エリザ」
胃がぎゅっと絞られたように痛くなる。彼女の夫も、娘も、ある意味、シェルのせいでいなくなったのだ。エリザの大切な人を、ふたりも奪っておきながら、今まで彼女に何も言えていなかった。
「謝って済むことじゃ、ないと思いますけど――」
それでも言葉に出さないと伝わらない。
ごめんなさい、と言って頭を下げると、エリザが小さく目を見開いた。
「あら……どうして謝るの? むしろ、貴方に、私のほうが謝らないといけないんじゃないかしら」
「……エリザが? どうしてですか」
「だって、ラムが散々迷惑を掛けたんだもの。リュンヌだって、貴方が守ってくれなかったら、彼に殺されていたと聞いたわ――ほら、シェル、顔を上げて? 貴方が俯く必要はないのよ」
恐る恐る視線を持ち上げると、何もかも包み込むような穏やかな笑顔がこちらを見ていた。中間層の管理用通路は薄暗く、ペンライトの乏しい光しかないのに、春の陽光が差しこんだと錯覚するほど、暖かい表情だった。
「ありがとう、シェル。それに、色々迷惑を掛けて、ごめんなさい」
「……そう言ってくれると、甘えたくなりますけど、結局、ぼくは、最後には失敗して――ルナが、今、ここにいないのだって」
シェルは頬の内側をきつく噛んで、振り絞るように言った。
「ぼくのせいなんです」
「それも、知ってるわ」
「……そうだったんですか」
予想よりあっさりとした返答に、勢いを削がれる。エリザはひとつ頷いて、何かを抑えるように目を閉じる。
「良いのよ、シェル、私は……誰かの失敗を弾劾できるような人間じゃないわ。期待だけさせておいて、なにひとつ守れなかった。大切なひとたちも、滅びゆく街も……でも」
エリザはぱっと顔を上げて、肩に引っかかった長い三つ編みを背後に回す。
「まだ生きている。貴方も私も、この街も……それって素晴らしいことだわ。シェル、貴方は、
「え――あ、はい、少しですが」
「どのくらい聞いた?」
「ええと――」
ひとつ瞬きをして、記憶を辿る。
それが、およそ四世紀前の話。
ごく僅かに生き残った人々は、このハイバネイト・シティで長い冬を越えて、新たにラピスという都を築いた。
統一機関の研修生だった頃に講義で習った内容と、ムシュ・ラムに教えられた内容を組み合わせると、そのような筋書きになる。試験の口頭記述のような、妙な緊張感のなかで答えると、エリザが頷いてみせた。
「
「はい、それも、聞きました」
「どれだけ神に祈っても、あの時代は、救われないまま終わっていった。それに比べれば、ラピスにはまだ、ずっと希望がある。少しでも良い未来のために、歩いている人がたくさんいる。だから貴方もね、前を向いてくれさえすれば、私に謝る必要なんてないのよ」
さあ、と微笑んでエリザが腰を浮かせた。
「行きましょうか」
「大丈夫ですか。もう少しゆっくり行っても――」
「いいえ、もう平気。一分一秒でも早く、下に戻って、皆を手伝わないとね?」
そう言ってエリザは、慣れた様子で
かつてシェルが信じなかった希望、多くの仲間たちが信じていた希望が、エリザの胸の中にも灯っているらしかった。自分が友人に対して決定的な過失を犯してしまう日の前に、エリザから今の話を聞いていたら、未来は違っていたのだろうか。
彼女の手を離さずに済んだだろうか?
「……ダメだ」
小さく首を振って、シェルは思考を打ち消した。エリザも言ったとおり、余計な後悔は止めて、今の自分にできることを見つけていく以外にないのに、気がつけば思考が過去に囚われている。
医療室の扉を開ける。
エリザを医療システムに預けると、壁の上部に埋め込まれた長方形のランプが赤く光った。その照らす下にシェルは腰を下ろし、長い溜息とともに両足を投げ出した。コアルームに短いメッセージを送ってから、目を閉じる。全身に疲労が溜まっていて、身体が床に吸い込まれそうなほど重たくなる。
目蓋の裏にある暗闇をじっと見つめていると、そこに彼女の顔が浮かび上がった。片方の瞳だけが白銀色に輝いた、記憶に新しい姿の彼女は、両耳にイヤリングを下げている。右耳に金色の太陽、左耳に銀色の月。背中の後ろで両手を縛られた彼女は、こともなげに肩を前に回した。関節が砕ける鈍い音が響くが、彼女は顔色ひとつ変えず、シェルの手を両手で包み込む。
「やっと手を握れた」
「……ルナ」
懐かしい名前で呼びかけると、彼女は静かに微笑む。
「二年間、ずっと会いたかった。あのとき、地下で、ソルが生きてて、出会えて、本当に嬉しかった」
ぼくもだ――と答える声は音にならず、水の泡になって消えていく。彼女は関節の外れた腕でシェルを抱きしめて「でも」と耳元で囁いた。
「手を離されてしまったな。ソルは、私より、ラピスの行く末を取ったから。だから私は
静かな呟きが淡々と責め立てる。
叱責の声はだんだんと音量を増していき、ある値を超えたところで、身体中に電撃が走った。短い自由落下の感覚とともに、幻覚が消え失せて、シェルはハイバネイト・シティ中間層の一室に戻ってくる。
短い夢を見ていたようだ。
「うわ――最悪」
舌打ちして頭を抱える。
「ルナ、あんなこと、言わないでしょ……」
シェルは冷たい床に身体を倒して、声にならない声を吐き出した。彼女に叱責されること自体は変でも何でもないが、夢の中に浮かんだ彼女の態度は、現実のそれとは全くかけ離れている。それは、シェル自身の歪んだ後悔を、そのまま彼女に投影してしまったからだ。
「夢にまで責任感じることないって、言われたけど……」
仰向けに転がって、暗い天井を見上げる。思っていたよりもずっと、心の深い場所までが、後悔に蝕まれているらしい。このままでは、また同じ失敗をしてしまうけれど、過失のひとつとして割り切るには、失ったものがあまりにも大きすぎた。
――ダメかもしれない。
心の一番弱い部分が、そう言って嘆いた。
*
エリザは眠っている。
その身体の内側で、ロンガは目を見開いた――というのは比喩だが、一時的に眠りについていた意識を、身体の上層に引き上げた。膝を揃えて座っているエリザの姿を見つけ、彼女の隣まで、意識の海の中を泳いでいく。
水面の少し下で、波紋の煌めきを両頬に落としたエリザがこちらを見る。
「リュンヌ……貴女、さっき私がシェルと話してるとき、途中から、後ろで聞いてたでしょう」
「……はい」
「どうして自分で話さないのかしら」
溜息とともに髪を払って、エリザが身体をこちらに回す。
「板挟みになる身にもなってほしいものだわ。貴女、彼に会うために
「そのためだけではないですけど……」
少し言い淀む。
「でも、私がここを見つけられたのは、多分、ここにソルがいたからだと思います」
「ずいぶん大切にしているのね」
どこか白けた調子で、エリザが目を細める。
「なら、尚更のこと……貴女が前に出て行って、私はここにいるよ――と、彼に言ってあげれば良いものを。貴女がここにいないことで、どれだけ彼が気に病んでいるか、傍目に見てるだけの私だって分かるわよ」
「それは……そうですけど」
エリザの言っている通りだろう。
ロンガを塔の上に連れて行き、
「だからこそ――言えないんです。私が他人の姿を借りないと、彼と同じ世界にいられないことを、知られたとき……どうなるかが、怖くて。私、もうソルにこれ以上、後悔してほしくないんです。だから――」
「だから本当のことは知らせないまま、一方的に隣にいる」
ロンガの言葉を遮って、エリザが代弁してみせる。
「主張は理解するけど、ずいぶん臆病ね。リスクを考慮しすぎて動けなくなっている。さっき、宙吊りにされながらも、カノンを説得してみせた貴女とは、まるで別人みたい」
「……そうかもしれません」
「ふぅん……」
大人しく認めると、エリザは少し毒を抜かれたような表情になった。ロンガから視線を逸らし、光の差しこむ水面に視線を持ち上げる。彼女はそのまま、しばらく煌めきに目を細めていたが、やがて唇を薄く開いて「貴女さ」と呟くように問いかけた。
「彼のことが好きなの?」
「はい。好きですよ」
「そういう意味ではなくてね――」
ひとつ肩を竦めて、エリザはこちらに向き直る。
「ラピスでは、あまり馴染みのない概念だとは知ってるけど、だけど貴女だって、無縁ではないわけでしょう? 恋人として好きなのか、と聞いてるの」
「それは……違いますよ」
「本当かしら。私にはとても、そうは見えない。貴女も彼も、お互いに関する話題のときだけ、全然違う態度になるんだもの」
「その――他の仲間と違うとは、思います。隣にソルがいてくれなければ、何もかも違っていた。今さら、自分と切り離して考えられない……大切で、特別な存在です」
「あぁそう……それはね?」
唇から気泡を零して、エリザが笑う。
「
ロンガが反論しようとした、そのとき。
笛のような高い音が海水を揺らして、ふたりの意識は同時にゼロレベルまで引き上げられる。
開いた傷の手当てが終わり、エリザの身体が目覚めたようだ。幕が上がった向こうは暗く、医療用ベッドに横たえた身体をゆっくりと起こす。腰回りが、太いベルトのようなものでぐるりと覆われている。麻酔が残っているのか、まだ少し身体が重たいが、ひとまず処置は完了したようだった。
時刻は午前七時になっていた。
服装を整え直して、外の部屋に出ると、壁にもたれてシェルが眠っていた。その隣に膝をついて、目を閉じた顔を眺めた。長い睫毛が、緑色のランプの下に揺れている。眉を寄せたり、涙を流すことのない、穏やかな寝顔だ。夢の内容までは見えないが、彼がよく眠れているらしいことに安堵する。言いようのない暖かさが心を満たして、身体の中心で溢れそうなほどに揺れた。
好きだし、特別だ。
だけどそれは恋だろうか。
恋人と呼ばれる関係にならないと、大切な相手だと思ってはいけないのだろうか。旧世界ならいざ知らず、人類が
「大切で特別な相手――以上の名前が必要なんですか?」
隣に重なり合っている気配に問いかけると、呆れたような、微笑むような声とともに、エリザの気配が背後に遠ざかっていくのを感じた。
「まあ、名前を付けなくても、貴女は困らないのかもね……ただ、何かと都合が良いのよ、関係性に名前が付いているというのは」
「あの――エリザ?」
「しばらく貴女に任せる。私、疲れてしまったから。それで、貴女も、少しは彼と話しなさい」
引き止める暇もなく、エリザの意識が消えていく。取り残されたロンガは、ひとりシェルの顔を見つめて、その頬に指を伸ばした。触れる直前で止めて、空気越しに伝わってくる体温を感じ取る。
エリザと彼が会話していた、一連の言葉のなかで、ひとつ、気に掛かることがあった。
『
謙遜ではないと思う。
あのとき彼は本気の目をしていた。ロンガが彼のことを特別だと思っている、当たり前すぎて言うまでもないはずのことが、多分伝えきれていなかったのだ。彼を恋人と呼ぶことで、唯一無二の大切な存在だと伝わるのなら、たしかに、名前の付いた関係性というのは便利なのだろうけど。
だけど。
「――ソル」
ほとんど囁くような声で呼んでみる。彼のことを自分だけがソルと呼ぶ、自分のことを彼だけがルナと呼ぶ、それ以上にまだ、いかにお互いが大切な存在か、客観的に分かりやすく説明する言葉が必要だろうか。
「おはよう」
かつて研修生だった頃、毎朝のように彼を起こしていたことを思い出しながら、声を掛けてみた。目蓋が小さく痙攣するように動いて、薄く開いた睫毛の隙間から、瞳がこちらを見る。まだ半分眠りの中にいるらしい。昔から朝に弱かったよな――と懐かしく思い出しながら、もう一度「おはよう」と声を掛けると、彼は驚いた風に目を見開いた。
「え、あれ――」
――ルナ?
そう言うように彼の唇が動いた。
心臓が大きく跳ねる。
そういえば、ロンガが最初に
両肩に手を掛けられる。
長い睫毛が一本ずつ分かれて見えるほどの至近距離で、赤茶色の瞳が見ていた。太陽の名前に相応しい、まっすぐな視線が、身体の殻を越えてその奥を見抜くような――そんな錯覚を起こす。
静寂の暗闇のなか、心臓の音が直接聞こえるほどに鳴り出した。
今すぐ彼から離れろ、と身体のどこかで叫ぶ自分がいる。ロンガが
だけど、叶うことなら彼の声で、もう一度、ルナと呼んで欲しい。その唯一無二の呼び方こそが、自分と彼を繋ぐ、他のどこにもない関係性の証明だからだ。
ぱちりと、彼がひとつ瞬きをする。
彼の唇が動いて、何か音を作り出そうとした瞬間、突然スピーカーから耳障りな雑音が流れ出した。驚きで肩を強ばらせると、その衝撃で目が覚めたらしく、シェルの瞳に光が戻る。
「――え、あ、エリザ!?」
彼はほんの一瞬だけ硬直してから、慌てたように肩を掴んでいた手を離し、後ろに飛び退いて下がった。
「うわ、ごめんなさい! ちょっと、その――寝ぼけてしまって」
「いえ……大丈夫です」
「ああ、もう、本当ダメ……ごめんなさい」
シェルが眉根を寄せて、泣きそうな顔で頭を下げた。どうにか彼を安心させたくて「大丈夫です」と繰り返す。ロンガの方からけしかけたようなものなのに、彼に謝らせるのは胸が痛んだ。
「エリザ、もう処置終わったんですね」
血が上って真っ赤になった顔で、シェルが聞いてくる。
「寝起きでぼぅっとしていて、っていうのは理由にならないですけど……本当、ごめんなさい」
「――いえ、本当に、気にしないでください」
首を振って、どうにか笑ってみせた。
それにしても、まだ心臓が鳴っている。何事も起きなかった安堵と、今にも何かが起きそうだったことへの落胆で、胸が落ち着かない。あのとき、あと一秒でも猶予があったら、なにか変わっていただろうか。そんなことを思いながら、夢現の膜を割る原因となった雑音を垂れ流すスピーカーを見上げると、不意に人の声が聞こえてきた。
『――えぇと、聞こえますか。こちらコアルームです』
音が割れているが、辛うじて誰だか分かる――アルシュの声だ。
『シェル君、マダム・エリザ、私の声、聞こえてますか? 応答してください』
「聞こえてるよ」
少し声を張って、シェルが応じる。
「エリザもいる」
『良かった。マダム・エリザ、お身体の調子はどうですか?』
「そうですね、医療室で処置を受けたので――ひとまず平気だと思います」
ベルトのような包帯に覆われた腹部に触れながら答える。それからシェルの耳元に口を寄せて問いかけた。
「何故ここが分かったんでしょう」
「あ……メッセージ送っといたので、多分それですね。これ、借りました」
彼は小声で囁き返して、ポケットに収めていた
『ふたりとも、あまり眠れていないと思いますが――こんな事態なんでね、ご容赦を。今から“
「え――フィラデルフィア語圏に?」
『ええ』
こともなげな相槌が返ってくる。
「対話に応じてくれるんですか」
『まぁ、多分』
『その――こちらが予期しなかった方面での、協力がありまして』
口ごもるようなアルシュの口調は、何かを隠している様子にも思えた。
『ともかく……私たちは、持ちうる手段、あるいは協力者の全てを使う必要があると考えています。ここだけの話――フィラデルフィア語圏の人たちを信用している訳ではありませんが、叛乱のリスクを考慮しても、やはり人手が必要なんです』
「なるほど。つまり――」
ロンガはごくりと唾を呑んだ。
「地上に人々を逃がすんですね?」
『そういうことです』
1月28日午前7時。
さまざまな思惑のうごめくハイバネイト・シティにて、数十万の居住者が地上を目指す、新都ラピスの命運を掛けた作戦が始動した。