chapitre9. エリザ
文字数 4,720文字
ああ、これは夢だ、そう思いながらリュンヌは緋色のカーペットを歩いた。
幼い日の自分が、
問いかけられた女性は、小さく首をかしげて「さあ、どうしてかな……」と微笑んだ。さらさらの髪が、滝のように流れ落ちる。本物の滝は見たことがないけれど、図鑑で写真を見たから知っている。当時のリュンヌは、本を読むことで無限に広がっていく世界に夢中になっていた。
「理由が分からないの?」
「そうね。リュンヌが図書館に来てくれるからかもしれない」
「えー?」
リュンヌは笑いながら、女性の隣に腰掛けた。ソファがふわりと弾んで、リュンヌの身体を受け止める。
「エリザ、それって冗談?」
「違うよ。リュンヌとのお喋りは楽しいもの」
えへへ、とリュンヌは両手で頬を押さえた。エリザは新都ラピスの中心区域に引っ越してきてから初めて親しくなった大人だった。
「ソルも来てくれたら良いのにな。街で遊んでばっかり」
リュンヌは、一緒に引っ越してきた友人のことを思い出してむくれた顔をする。この辺りはラ・ロシェルという地名なのだが、新都の中心部だけあって、故郷のバレンシアに比べて栄えている。ソレイユは見たことがないものばかりの街を探検することに夢中のようだった。
「ソレイユは街の人と話すのが好きなのね。もちろん、本の世界も素晴らしいけど、誰かとお喋りするのだって大切なことだよ」
「エリザもそうやって言うの?」
リュンヌはしかめっ面をした。
「私、人とお喋りするの苦手かも」
「あら。私とはお喋りできてるけど?」
「それは、だって……エリザは色んなことを知ってるし、面白いもの」
「ううん、それは私だけじゃないよ。皆、お仕事に合わせて、色んなことを知ってるの」
「お仕事?」
リュンヌは首をかしげる。
「役割のこと?」
「あ、ええ、そうね。皆、色んな役割を持っているでしょう?」
エリザが微笑む。
リュンヌはうん、と頷いて、知っている役割をいくつも並べてみた。
「料理を作ったり、荷物を運んだり、家を作ったり、道具を売ったり……色んな役割があるよね」
「そうね。どれも大切な役割だね」
「私の役割は、そういう色んな人をまとめて管理することなんだって。ねえエリザ、私にできるかなあ」
リュンヌは急に不安な気分になった。彼女は数ヶ月後から、新都ラピスの権力を一手に引き受ける統一機関に研修生として入ることが決まっていた。それから十年間研修を受けたのち、晴れて統一機関の構成員になり、彼女の役割を果たすのだ。
「それがリュンヌの役割だから、大丈夫だよ」
「そうかな。でも……私、本当は、司書さんのほうが楽しそうだなって思う」
リュンヌは図書館の入り口をちらりと見た。扉の脇に設けられたスペースで、本を読んでいる大人がいる。図書館を管理する、司書という役割の人だ。
「ずっと本を読んでいられるし……」
「あら、司書さんのお仕事は見た目よりも大変だよ。いっぱいある本を管理して、傷んだ本は直して、新しい本を選んだりも」
「そうなの?」
リュンヌは驚いた顔でエリザの顔を見た。
「そうね。楽なお仕事はないと思う、でも……」
エリザは何かを考えるように、顔を斜め上に向けた。三階まで吹き抜けの壁はステンドグラスになっていて、七色の光がその笑顔に降りそそいだ。その彩りに目を細めながら、エリザが口を開く。
「ねえリュンヌ、私はね、その人にとって楽しいお仕事というのはあると思ってる。本当は、決められた役割なんてなくして、その人のしたいお仕事ができる方が良いんじゃないかな、って思うんだ」
「うーん、どういうこと?」
「つまりね、リュンヌが司書さんをやりたいなら、統一機関の研修生じゃなくてそっちのお仕事をしたほうがいいと思ってるの」
「えー。そんなの不可能だと思うけどなあ?」
新都が街として機能していくために、業務ごとに必要な人間の数を割り出し、それに応じて役割を割り振っているのは常識だ。もし、何を役割にするかを自分で決めてしまったら、どこかの役割が足りなくなるのは容易に想像できた。
「そうね……ラピスの規模では、無理かもしれない。でも、すぐ無理だって諦めちゃうのはダメ。常に、本当にこれでいいのかな、って問いかけるのは大事なことなんだよ」
「ふうん……」
リュンヌは曖昧な返事をした。
正直、エリザの言葉の意味は半分も分からなかったのだ。
「ねえ、エリザの役割は何なの?」
その何気ない問いをリュンヌが発したとき、エリザはわずかに驚いた顔になった。
唇をきゅっと横に引き締めてから、慎重に口を開く。
「……そうね、私の役割はないのよ」
「ない? ないって、どういうこと?」
おうむ返しにリュンヌは聞き返す。エリザは、新しい本の表紙をめくるときのような、幾分緊張した面持ちになった。
「私は、役割がない世界から来たの」
エリザは色々な話をして聞かせてくれた。
そして、そのおとぎ話の全てが、遠い昔の物語であることも同時に教えてくれた。
「ラピスは忘れてしまったけれど、昔はもっと自由な世界だった」
「世界……」
不思議な響きの言葉だった。人が住む場所、人が住めない山の奥、そういうものを全部合わせて世界と呼ぶらしい。それってラピスのことじゃないの、と聞くとエリザは「もっともっと広いもののこと」と教えてくれた。
回想の中で場面が切り替わり、ステンドグラスの外側は冷たい雨になっていた。麻で編まれた服は肌にちくちく刺さる上に、保温性が低く、冬になるととても寒かった。リュンヌは毛布にくるまって膝を抱えている。エリザが吐いた溜め息は、白い霧になって広がった。
「ラピスの大人たちは間違っているの?」
「うーん、私から見ればね。絶対に間違いとは言わないけど、でも、リュンヌとソレイユならラピスをもっと良い街にできると思うんだ」
そう、その日は珍しくソレイユが一緒に来ていた。友達と計画していた遠出が、雨のせいで中止になってしまったらしい。もっとも、一時間くらい本を読んだら、疲れたと言って眠ってしまったのだが。
「もうすぐ、リュンヌたちと会えなくなっちゃうね……」
エリザが、二人の顔を見ながら寂しそうに呟いた。冬が終われば、二人は研修生として統一機関の建物のなかで暮らすのだ。街にもたまには遊びに行けるが、今のようにとはいかない。
だけどリュンヌは、エリザの言葉に首を振った。
「そんなことない。休みのときに会いに来るよ」
「いいえ。会えないつもりでいてほしい」
「どうして……」
眉をひそめてリュンヌは聞き返した。研修生としての期間が始まっても、図書館に来ればエリザに会えると思っていたのだ。エリザは、癖っ毛の頭を優しく撫でて、リュンヌを安心させるように笑顔を浮かべた。
「そちらの方が、今を大切にしようと思えるでしょう? リュンヌ、私は後悔したくないの。さ、今日はどの本を読みたい?」
優しく細められた目、柔らかな口元の輪郭。エリザの顔を忘れても、言葉を忘れても、その笑顔だけはリュンヌのなかに暖かい記憶として残り続けた。長い年月を経て、解放された思い出の風景をリュンヌは見つめた。エリザにつられて、幼い日のリュンヌが屈託なく笑っていた。
最後に、あんな風に笑ったのは何時だろう。
そんなことを考えた。
そう、そして、次に来る場面をリュンヌは知っている。
刻々と春に近づいているのに、雪が降っていた。リュンヌがソレイユと、それから多くの同輩と共に統一機関に研修生として迎え入れられる前日のことだった。
二人は石畳の道を歩いて、図書館に向かった。
「ルナが今日までお世話になったから。ご挨拶、しないとね」
ソレイユが律儀にそんなことを言う。何それ、と言ってリュンヌは笑った。
「会えなくなるわけじゃないんだよ?」
「それでも、節目でしょ。それに、ありがとうとごめんね、は大切にしないと」
「また、それ言ってる」
リュンヌは苦笑した。
「ありがとうとごめんねを大切に」とはエリザ自身が言ったことなのだが、ソレイユはその言葉を気に入ったらしく、座右の銘のようにしていた。幾度となく登った図書館前の石段を通り過ぎて、錆び付いて重たくなった扉を押し開ける。図書館の中には、埃っぽくて凪いだ空気が詰まっている。扉の隙間から流れ出す、なじみ深い空気を感じながら、リュンヌはいつものように奥に呼びかけた。
「エリザ!」
その声は高い天井に跳ね返り、そして、答える声はなかった。
「あれ?」
静寂を不思議に思ったリュンヌは首をかしげて、ソレイユを振り返る。
そこに、見慣れた幼馴染の顔はなかった。
代わりに真っ黒な壁があった。それが、立ちふさがる大人たちの黒い服だったことに、リュンヌは――今、記憶を俯瞰している十九歳のリュンヌは、初めて気がついた。そして、記憶の中のリュンヌが眠らされると同時に、視界が真っ暗になった。
次に明るくなったのは、塔の中の小部屋。
新都の技術者によって記憶を操作された直後だったのだと、今だから分かる。
エリザに関わる全ての記憶を奪われた、その後の自分は、今のリュンヌから見ても痛々しかった。胸を締め上げる喪失感の理由が分からず、ただただ打ちひしがれて鬱屈としたまま日々を過ごした。時折、胃の中身がせり上げてくるような感覚に襲われたり、後頭部がずきずきと痛んだりした。夜は全く眠りにつけないうえに、朝目覚めるときはいつも泣いていた。
そうだ、そんな日々がほんの少し変わったのは、その数週間後だった。
背中に手を隠したソレイユが、講義の終わり、リュンヌに話しかけてきた。
「ねえねえ、
握っていた手の中には、月を象ったシルバーのイヤリングがあった。脈絡のないプレゼントだったが、どういう訳か、ソレイユの言葉によって少し視界が晴れるような感じがしたこともあり、勢いに負けてリュンヌはイヤリングを受け取った。
リュンヌがそれを左耳に着けると、ソレイユもどこからか別のイヤリングを出してきて自分の右耳に着けた。そちらはゴールドで、太陽を象っている。
「ね、
「ありがとう。どこで手に入れたの? 街?」
「……ぼくらの為に作ってくれた人がいるんだって」
僅かに視線を泳がせたソレイユが、そう答えた。
*
まぶたの向こうに、清浄な朝がやってきた。
リュンヌは長い記憶を巡る夢から目覚め、ぼんやりと窓の外を眺めた。曇り空が白く光り、部屋に淡い光をもたらしていた。靴こそ脱いでいるが、普段着のまま眠っていたらしい。枕元に水晶端末と、月のイヤリングが置かれている。
「……エリザ」
十年近く忘れていた、その名前を呼ぶ。
銀色に煌めくイヤリングを左耳に着けた。毎日のように着けていて、すっかり馴染んだ感触だった。
ふと思い至る。
これを作ってくれたのは、もしかしてエリザなのだろうか。
部屋の外からノックが聞こえたので、返事をする。
扉が開いて、慣れ親しんだ気配が入ってきた。
「おはよう、ルナ」
Ⅱ 水晶の街 了