祈りと叛逆
文字数 6,180文字
目の前を漂っている白い靄は吹雪のようでもあるが、違う。ここはD・フライヤが展開する異空間だ。エリザはゆっくりと立ち上がって、傷ひとつない手足を一瞥したのち、目の前で渦巻いている腕たちの集合体を睨みつけた。
「やあ」
鋭い視線を意にも介さず、
「……D・フライヤ」
「久しぶりに会ったね、エリザ」
「なんの、つもりですか」
「どういう意味?」
「あんな助かり方、普通、有り得ないでしょう!」
エリザは拳を握りしめて叫んだ。
自分がいかに奇跡的な状況で助かったか――というのは、事情聴取のためにやってきた警官から教えられたことだった。エリザを救助してくれたヘリコプターが備えていたセキュリティカメラに一部始終が収められており、その映像が警察の事情聴取に提供されたのだが、警官は説明の際に何度も「奇跡」という言葉を口にした。
エンジントラブル、事故、ビルの崩落、そしてエリザの生存。
その全てが引き起こされる確率は、ゼロをいくつ並べたら表現できるのか分からない、とは警官の言葉だった。まるで誰かが仕込んだような状況だ、と彼らは疑ったらしいが、雪上車のメーカーやオフィスビルの管理会社と、事故の被害者である違法取引の関係者が、どう見ても無関係であったらしいことから、結局は「奇跡的偶然」と言う他になかったようだ。
だが。
「……奇跡でも、偶然でもない」
超越的存在をじっと見て、エリザは言う。
「あれは、貴方がやったんですよね」
「一般的に、それを奇跡って言うんじゃないかなぁ。まあ、そうだよ」
「なんのために!」
「そりゃあ、この世界はきみのためにあるんだよ。死んでもらうわけにはいかない」
「私のため?」
あはっ、とエリザは自嘲的に笑った。
細めた目尻から、ひと筋の涙がこぼれ落ちる。
「違いますよね。この世界はあの子の……リュンヌのためにあるんでしょう。私なんてっ……あの子のために存在しているに過ぎないんだ」
「エリザ――」
「死なせてくださいよ……!」
絞り出すように叫んだ。
エリザを搾取し、利用しようとする人々、それを助けてくれない滅び行く社会、ひどく歪められた世界。自分を傷つけるものの全てにノーを突きつけるために、エリザはあのとき、虚空に飛んだ。搾り取られて最後に残った尊厳を、誰の手にも渡さず、誰かの思惑に利用させないため、この命ごと散らしてしまうつもりだったのに。
なのに、邪魔をされた。
「そのくらい良いじゃないですか! 私がいなくたって世界は続くでしょう。なんの問題があるんですか! 誰が悲しむって言うんですかっ……あの子のために、あいつらに犯されて孕まされて、人間扱いなんて誰もしてくれない! それを我慢しろっていうんですか!」
「我慢できるなら、してほしいけど」
「なっ……」
あまりにも非道な返事に、エリザは絶句した。
D・フライヤは人間の倫理が通じない相手だと知ってはいたけれど、こうして実際に言葉で告げられると、いやでも動揺してしまう。エリザの雰囲気が冷え切ったのを感じ取ったのか、彼はやけに優しい声になって「まあね」と両手を広げて見せた。
「きみの苦しみは、ぼくにも聞こえている。だから分かるよ。ほかの七人のエリザと比べて、いかにきみが苦しい状況にあり、周囲の人間に恵まれていないかは」
D・フライヤはひとつ息を吐いて「でもね」と続けた。
「きみがどれだけ死のうとしても、あれと同じことが起きる。そういうルールなんだ。この世界はきみを中心にあり、きみを死なせないようにできている。絶体絶命の状況から、奇跡的にきみを救い出す偶然なんて、
「……私は、
「そう、きみは
僅かな言い回しの差異を無視して、D・フライヤがエリザの言葉を反復した。まるで、死なないなんて素晴らしいだろう、とでも言いたげに。
「ただ……死なない、というのは、あくまで肉体の話でね」
そう言って、腕のひとつがエリザを指さす。
まっすぐ伸ばされた指先は、エリザの眉間あたりを指していた。
「きみの心が死んでしまうのは、分枝世界と言えども止めがたい。それに、ぼくはね……きみの心だけは、自由にあって欲しいんだ。直接干渉してねじ曲げることだって、まあね、できなくはないけど……天然の輝きに手を加えたって面白くないからさぁ……」
「……めちゃくちゃなこと言いますね」
エリザは喧嘩腰に応じた。
「身体は死なせない、そのくせ心は死ぬな、ですか。無理ですよ、そんなのは。嫌なことがあれば苦しくて、その全部を受け止めるなんて無理なんですよ。身体と心のどっちかを捨てないと、もう片方を保てないことだって、あるんですよ」
「それは……」
「まあ」
D・フライヤが珍しく言い淀むので、エリザはふんと鼻を鳴らした。口の減らない相手を叩きのめせたようで、少しだけ気分が良かった。
「分かりませんよね。貴方には。悲しいとか苦しいとか、そういう感情とか、そもそもないんでしょうね」
「……あるよ」
「嘘だ」
「人間の『それ』とは、違うかもしれないけど――そう、たとえば、欲しいものが手に入らなくて苦しいという感覚なら……」
「へえ。偶然をコントロールできる貴方に、手に入らないものなんてあるんですか?」
エリザが皮肉で返すと、D・フライヤは黙り込んだ。
やはり、この超越的存在に情など期待してはいけないのだ、とエリザは思った。感情を持ち合わせていないというのなら、非道さにもまだ理解が行く。だけど、自分には感情があるなどとのたまいながら、エリザの感じている苦痛に一切寄り添うところがないのだから、尚のことたちが悪い。
「はやく、ここから帰して下さい」
白い靄を片手で払い、投げやりにエリザは言った。
「貴方と話すことなんて、もう、何もないです。私たち、分かり合えないんですから。私が、私の心をどうしようが、口出ししないで下さいね」
「うーん。口出しするなというのは、すこし難しい。きみの祈りが途絶えてしまうのは、ぼくとしては不本意だから……」
「……祈り?」
エリザは薄く笑う。
「もう長いこと、祈った覚えなんてありませんよ」
故郷で暮らしていた頃は教会に通う習慣があったが、祈りを捧げて手を組むなんて、ハイバネイト・プロジェクトに買われて以降は一度もなかった。どなたかと間違えていませんか、とエリザは意地の悪い口調で笑ったが、D・フライヤは「いや」と、いつもの嫌味なほど明るい声に戻って言った。
「きみはいつも祈っているよ。故郷にいた頃の料理は美味しかったな、とか。他の分枝世界のように、プロジェクトメンバーが優しかったら良かったのに、とか。人身売買の被害者になるくらいなら死んだ方がマシだ、っていうのも、祈りだよね」
「貴方は、それを祈りって呼んでるんですか?」
エリザは呆れて肩をすくめた。
本当に相容れない。
たしかに祈りというのは、自分の力ではどうにもできない状況に対して、人知を超越した救済を求める行為だ。だから祈りは、本を正せば悲痛な感情なのかもしれないが、だとしたら、それを美化しているD・フライヤはやはり気味が悪い。
「帰ります。貴方の話は分からない」
「じゃあ……帰る前に、ひとつだけ」
「……しつこい」
「きみにも悪い話じゃないから」
腕のひとつがエリザの片腕を掴み、ほかの腕が人さし指を立ててみせる。あまりの往生際の悪さにエリザは辟易とするが、D・フライヤが許してくれなければ、この世界から出ることは叶わないようだ。
はあ、とエリザは溜息を吐く。
「これ以上、何の用ですか」
「うん、アドバイス」
そう言ってD・フライヤは、ぴしりとエリザを指さした。
「きみの心が消えないため、きみはもっと、朱・宇文を頼るべきだ」
「……え?」
D・フライヤが出してきた名前があまりに意外で、エリザは驚きのあまり、先程までの斜に構えた姿勢を捨てて、素朴な声を出してしまった。
「ユーウェンさん……?」
「そうそう。ぼくからも少々彼をけしかけてはいるけどさ、やっぱり、きみが直に『助けて』って言った方が、話が早い。この世界を作るとき、彼のことは、そこまで歪めずに済んだんだよね。後から合流するメンバーで、あんまり裁量を持ってないからかな……ほとんど、オリジナルの朱・宇文と同一人物だよ」
「オリジナル、って」
「え? ああ……だって彼はレプリカだから」
――レプリカ。
事もなげに言われた言葉は、エリザの心の奥深くにずしりと突き刺さった。
それは、頭のどこかではとっくの昔に理解していて、それでも考えないようにしていたことだった。D・フライヤは、この第八分枝世界のことを「オリジナルの歴史からコピーして作り替えた」と言っていた。それはつまり、この世界にいる人たちは、本物ではないのだ。何かを考えているように見えても、実は既存の歴史をなぞっている、あるいはD・フライヤの物語を実行しているだけ。
「そうだよ」
まるでエリザの考えを読んだように、D・フライヤの声が答える。
「いま、この世界で生きている人間と呼べるのは、きみだけさ」
「……やめて、ください」
「彼だけじゃない。この世界は全部そうだよ。寒冷化で滅びかけている世界だって、そこで哀れにも足掻いているハイバネイト・プロジェクトのメンバーだって、きみが毎日過ごしてる部屋だって、朱・宇文がきみにあげたマカロンだって――」
「――やめて」
「カシスとシトロンとプラリネ。やけに大事そうにしていたね、きみ。そんなにあれが美味しかったのかな。それとも彼がくれたのが嬉しかった? だけどね、あれだって、それをくれた彼だって、本物じゃない。全部、レプリカ」
「やめてっ……!」
「そうだ、そうやって拒絶するんだよ。それが祈りだ、エリザ!」
どういうわけか、楽しそうにD・フライヤは叫んだ。
「きみのためだ。この世界はきみのためにある。きみの祈りが美しく研ぎ澄まされるために、生きろ、生き続けるんだよ、エリザ」
「知りません……!」
エリザがかたくなに首を振り続けると、D・フライヤは不機嫌そうな口調で「だから」と言った。
「何度言ったら通じるのかな……そうやって無視されちゃ困るんだ。きみはちゃんと感じないといけない。悲しみを、怒りを。そしてそれを、ちゃんと祈りに変えないと、ぼくはきみを見つけられな――」
「……来ないでよ!」
差し伸べられた腕のひとつを、エリザは平手で思いっきり叩いた。
ばし、と乾いた音がする。
「あなたが……あなたが全部の元凶じゃないですか! 私のため? 私の娘のため? 違うでしょう! バカなこと言わないでよ! ぜんぶ、あなたがやったから、こんなっ……こんな、最悪なことになってる!」
「エリザ――」
「だいっきらい……!」
「……っ」
ほんの一瞬だけ、D・フライヤは怯む様子を見せた。
全力で叫んだせいで息が切れてしまい、エリザは白い空間に膝を突く。徒労感に全身を苛まれて、わけもなく涙がこぼれ落ちた。眉間にしわを寄せながら顔を上げると、表情を持たない超越者は、なぜか悲しそうな雰囲気をまとわせていた。
「……どうしたら良いんだろう」
腕たちがざわめいて、困ったように問いかける。
「エリザ、教えてよ。どうすれば、ぼくは、きみに、選ばれ……いや、認められ……ううん、これも違うな。うん、そうだね……どうすれば、ぼくはきみに許されるのかな」
「……私が貴方を許す日なんて」
自分の膝を抱き寄せて、エリザは目を伏せる。
「そんな日は、来ませんよ」
「そう……うん。そうだよね」
重たい溜息とともに、腕のひとつが消える。
そのまま白い腕たちは、ひとつまたひとつと、泡が弾けるように消えていった。行き場のない怒りが腹の底で渦巻いて、鈍痛を放っている。じわりと濡れた目元を拭いながら、エリザはD・フライヤが浮かんでいた方角を睨み続けていた。
***
レプリカの世界で、エリザは目覚める。
アイボリーの壁紙が貼られた部屋は、パリの郊外にある大型病院の一室だ。ハイバネイト・シティから、メトロで一時間半ほどの場所にある。数日前にオフィスビルの屋上から落下したエリザは、柔らかいマットレスに受け止められたため、事故の経緯からはまったく想像できないほど軽傷であるものの、大事を取ることになって入院していた。
プロジェクトメンバーは誰も見舞いに来なかった。
その代わり、エリザの病室には警察の人間が多く訪れた。彼らの目的は、もっぱら事情聴取であった。どうやらオフィスビルの崩落事故に加えて、ルーカスが関与していたらしい違法ビジネスも捜査の対象になっているらしい。司法やら警察組織というものは、まだちゃんと存在していたんだな――と、エリザは妙な感慨めいたものを抱いた。
「ああいう廃ビルは裏取引の温床でね」
お喋りな中年の警官は、そう言って腕を組んだ。
「安全性にいくら問題があろうが、彼らには関係ない。むしろまともな人間が近づかないからこそ、ああやって利用されているわけだね……まあ、何というか今回の事故は、神が彼らに与えた天罰だったのかな、とも思うね」
「……そうかもしれませんね」
神様ではなく超越的存在です――という言葉を飲み込み、エリザは頷く。それからふと思い出して「そういえば」と警官に尋ねた。
「崩落に巻き込まれた人は、どうなったんですか」
「ああ……君、そんなの知りたいのかい」
彼はすこし驚いたように目を見張ってから、新聞などにも公表されているらしい事故のデータを見せてくれた。ほら、と言って警官が指さした先のコラムに、犠牲者の名前が箇条書きで並べられている。オフィスビルの崩落は、D・フライヤがエリザを救うために起こした奇跡的偶然なので、ある意味彼らはエリザのせいで死ぬことになった被害者なのだが、それを悼むことが目的ではなかった。
ルーカスとユーウェンの名前は、いずれも書かれていなかった。
警官にそれを問いかけると「ああ」と彼も頷く。
「非常階段から落ちたやつと、腹を撃たれて倒れてたやつか。あっちの二人の助かり方も奇跡的だったねぇ。まあ、君ほどじゃないけど」
「……そうだったんですか」
D・フライヤはたしか、エリザの周囲にいる人間ほど強く関与している、というようなことを言っていた。だとすると、あの二人にも奇跡的偶然の力が及んだのだろうか――などと思案しつつ、エリザは「じゃあ」と問いかけた。
「ユーウェンさんは、今は?」
「別の病院に入っている。話ができないほど重体じゃないから、別のやつが事情聴取にあたっているよ。人身売買への関与が疑われている」
「え……ユーウェンさんは、それ、多分、関係ないです」
「そう言われてもねぇ」
バインダーをぱたんと閉じて、警官は目を細める。
「そもそもね、あんな場所にいる以上、まっとうな稼業の人間とは言い難いし。子どもを売り買いする取引場所に、偶然にも一般人が迷い込むことがあるかね。まあ、ただ、取引の関係者がほとんど事故で死んじまってるから、証拠不十分ってことになりそうではあるが……」
「で、でも……やっぱり、違うと思います。疑わないでください」
「それは、私がどうこうできる話じゃないよ」
苦笑を最後に残して、警官は病室を去って行った。