chapitre156. ライブラリ
文字数 6,381文字
まずはハイバネイト・シティ全域へ、停電の発生を告げるアナウンスを開始した。慣れない七言語を使って必死に案内している、構成員の声を背後に聞きながら、アルシュは被害状況を確認するために新しくウィンドウを展開した。ハイバネイト・シティを抽象化したスケルトン図が表示され、損壊箇所が赤く表示される。
シナリオF。
それは、中間層から最下層に至るまでの部分的崩落を示す、計算機の弾きだした未来予測のなかでも、かなり被害の大きいシナリオだった。
「――落ち着け」
自分に言い聞かせるため、呟く。
それから意を決して、アルシュは、ハイバネイト・シティの現状をできるだけ具体的に脳内に叩き込んだ。
ハイバネイト・シティ最下層。
コアルームを含む、第1層から第10層までを示す領域。アルシュが自身の目で見た通り、中央の円筒形の部屋は貯水槽の水が流れ込み、すでに浸水しつつある。最下層であるために、溜まった水が逃げていくことができず、水面は時間とともに単調に上昇すると考えられる。
ハイバネイト・シティ中間層。
第11層から第20層までを示す、居住区域の環境を維持するために必要なシステムが詰め込まれた無人区域。件の貯水槽や発電棟、数時間前に訪れた共同墓地、他にも大小さまざまな施設が点在している。居住者はいないものの、浸水の被害はもっとも激しく、ハイバネイト・シティの諸機能の低下が危惧される。
ハイバネイト・シティ居住区域。
第21層から第50層までを示す、一般入居者の滞在している領域。停電の被害はあったものの、現在は非常電源が作動しているため、ひとまず動力が提供されている。居住区域に関しては、最大で百万人を収容する広大さを誇るため、被害状況は千差万別である。だが、ひとつ目に留まる損傷箇所があり、アルシュたちはその部分の詳細な情報を表示させた。
「――これは」
隣でパネルを見つめていた構成員が、重たい溜息とともに腕を組む。彼は、MDP側の人間のなかだと、もっともハイバネイト・シティの構造に精通していると考えられる人員だ。
「予期されていた、ラ・ロシェル地下の連鎖的崩壊に該当します。この、縦のライン」
彼は指先で、損傷箇所をつなぐように線を引いてみせる。指先は地上ラ・ロシェルの中央にそびえ立つ統一機関から、ほぼ垂直に降りていき、最後にアルシュたちの滞在するコアルーム近傍まで辿りついた。
「もとより、ハイバネイト・シティの水平方向中央である、このラインは――少々脆弱なようです。中央の部屋のように、巨大な空洞が多く存在するためですね」
「ああ……」
共同墓地も縦に長い円筒であったことを思い返しながら、アルシュは頷く。
「なるほど。でも、それは……設計図の段階から分かることでは? これだけ堅牢なシェルターを作るのに、その脆弱性を見過ごしたんでしょうか」
「いえ、当然、設計者も気がついていたのでしょう。ですから」
彼がひとつキーを押し下げると、構造図に新たなレイヤーが重ねられた。
「ハイバネイト・シティで円筒形の構造が多いのは、それが堅牢であるからです。また、莫大な質量を保持するため、このように大小の柱が設けられており、貯水槽のように水平方向にも広大な空間の維持を可能にしています」
「今までは可能だった――ですよね」
「仰るとおりです」
彼は固く頷く。
「現在、その均衡が崩れつつあるということです。私個人としては、貯水槽の決壊が、それらの支柱にも何らかの悪影響を及ぼしたと予測していますが――データ不足で、詳細な経緯までは……すみません」
「いえ、分かりました。貴方の責任ではありませんから、謝らないでください」
申し訳なさそうに肩を落とした彼を労って、アルシュはパネルに視線を戻す。この際、なぜ崩れたのかは大きな問題ではない。事実としてハイバネイト・シティは崩壊しつつあり、そこから、どう被害を抑えて逃げ切るかが重要だ。
「やはり、発電棟に向かうのが優先ですね」
アルシュが呟き、パネルを見つめていた仲間たちも頷いたとき、通路の方からざわめきが近づいてくる。向かいのブレイン・ルームに残した人員が戻ってきたようだ。壊れて半開きのままの扉からひとりが顔を出して、どうですか、と尋ねてきた。
「状況は」
「上に向かいたいところですが……」
ブレイン・ルームではまだ、
「非常電源下では通信も制限されます。避難指示を出すだけで精一杯でして……数百ペタは下らないライブラリを転送しているほどの余裕はありません。転送を諦め、我々も上層に向かうべきかと――いかがですか、マダム・アルシュ」
「えっ――でも」
アルシュは言い淀んだ。
その提案は見かけ上、MDP総責任者であるアルシュの意志を問うている。だが実際は、アルシュ側に反論の余地は与えられていない。相手はライブラリの転送において指揮を執っていた責任者であり、アルシュには現場の判断を覆すほどの知識も経験もない。
不利なのは分かりつつ「ですが」とアルシュは視線を持ち上げる。
「
「だから、避難指示のリソースを割いてまで転送すると? 人命とどちらが大切だというのですか」
「それはっ……なんてことを聞くんですか」
「どちらも大切、そんなのは分かってます! でも今は――線引きをしなければいけないときでしょう」
視線と視線がぶつかり合い、コアルームの空気がぴんと張り詰める。
知識と人命ならば、どちらが大切か。
――順位を付けられるわけがない。
簡単には推し量れないほど価値があり、失われたら二度と戻ってこないのは、生命も知識も同じだ。ここにいる全員、それは痛いほど理解していることだろう。それでも、限られた量しかないものを分配するためには、順位を付けなければいけない。
「決断のときです、マダム・アルシュ」
暗い眼光に見つめられ、アルシュはごくりと唾を飲み込む。
「ただ一言でいい。貴女が、ライブラリを捨て人命を優先すると言ってくれれば、それで我々は動けるんだ」
「少し、待って下さ――」
「迷っている場合ではないのです!」
ほとんど怒声のような叫び。
壁越しに聞こえる水音が、声と重なって焦燥感をあおった。こうしてアルシュが迷っている間にも、水位はどんどん上昇している。手をこまねいていては、拾えたはずのものまで拾えなくなってしまう。
やはり棄てるしかないのか。
ぞわりとした怯えが背筋を伝ったとき「ですが」と第三の声が割り込んだ。
「ELIZAのライブラリがなければ、七語圏の人々はそもそも、会話をすることすらままなりません」
「マダム・エリザ、貴女までっ……」
カシェの肩を借りて歩いてきたエリザに、構成員たちがいらだった視線を向ける。服に血をにじませながらも毅然と口元を引いているエリザの表情は、エリザ本人のものにも、その内側に存在しているロンガのものにも見える。
「ライブラリに格納された知識は、人間に必要だから残されたのです。成立してから三世紀と半分
「……そうよ」
かつて地下の覇権を握っていた女性は、エリザの問いかけに苦々しい表情で頷いた。
「旧時代から継承された膨大な知識が、結局のところ、このハイバネイト・シティで最も価値があるもの――と言えるでしょうね」
「それを地下に捨てていくのは、歴史をどぶに捨てるようなものよ。一気に転送しては回線を逼迫してしまうというのなら、時間を掛けてゆっくり送ればいい。そのために私はここに残ったって良い!」
柄にもなく激しい口調で言い切り、エリザは肩で息をしながらも、ほとんど睨むような視線で周囲を見回した。
「ともかく……ライブラリを捨てるのだけは容認できません」
「――あ」
エリザが場の注目を集めたことで、冷静を取り戻したアルシュの脳裏に、ふとひらめくものがあった。
「あの……どうしても、転送が難しいのであれば、データの格納されたメディア、それ自体を持っていくことはできませんか」
「データボード自体を、ですか」
構成員が視線を落として腕を組む。彼は数秒考え込んでから、小さく頷いて顔を上げた。
「たしかにそれは有りですね。ここにいる人間で分担すれば、可能性はあるかも……」
「本当ですか!」
アルシュが思わず高い声で問いかえすと、はい、と彼は紅潮した顔で頷いた。
「少し確認してきます」
「あ、私も行きます」
向かいのブレイン・ルームまで再び走り、ライブラリを格納しているメディアを取り出していく。すぐに仲間たちが合流して作業に加わった。膨大なライブラリだけあって、それが書き込まれているデータボード自体もかなり大きなものだったが、最下層に残っていた三十名ほどで分担すれば、そこまで無理なく運搬できると分かった。
「良かった……」
リュックサックにデータボードを収めながら、アルシュはひとまず胸をなで下ろす。そうなると、残された問題はひとつだった。
コアルームに戻ると、白く光るパネルの手前に、ふたりの女性のシルエットが見えた。アルシュは半開きの扉に身体を滑らせて、彼女らに声を掛ける。
「マダム・エリザ、それに……マダム・カシェ。貴女がたは、地下に残られるつもり――なのですね」
「ええ」
くるりと椅子を半回転させて、エリザがこちらに向き直る。
「私はどのみち動けないわ。傷も開いてしまったし。カシェには逃げて欲しかったんだけど――」
「……こんな、危険な場所にひとりで残せないわ。誰が何と言おうと、エリザは私の友人だもの」
「ほらね? 聞かないのよ、この子」
エリザが笑いながら首を傾げてみせる。年齢で言えば、カシェの方が十歳以上は年上のはずだが、エリザの態度はまるで年少の子どもをあしらうようだ。
「だから、手伝えないのは申し訳ないけれど……私たち、ここに残りたいの」
「そう……ですか」
「ダメかしら?」
「――いいえ」
アルシュは首を振ってみせる。
存外、良いアイデアであるように思えた。エリザひとりを残してしまうと、何かあったときの脱出が困難になるが、カシェが付き添ってくれるならば多少安全だろう。打てる手の限られている緊急事態で、最善手に近いと言えるかもしれない。
「先ほど話した通り、コアルームを無人にはできません。貴女がたが残ってくれるなら、それは有り難いことで――でも、その、マダム・エリザ、
「……ああ」
アルシュが言葉尻を淀ませると、エリザは含意に気がついた様子で、ひとつ頷いて腰を上げた。表情が揺らいで、見る角度で色を変える鱗のように、違う人間の雰囲気にすり替わる。
「外で話そう」
「……分かった」
エリザの顔と声で、ロンガが言う。
コアルームから、非常灯の照らす通路に出る。叩きつける水の勢いのためか、床は揺れていて、靴のかかとがカタカタと小さく音を立てた。
「アルシュ」
思えば長い付き合いになる友人は、前髪をわずかに揺らしながら、複雑な色彩をひそめた瞳でこちらをまっすぐ見つめた。
「私の意志はエリザと同じだ。私は、ラピシアにとって最善の選択をしたい。いつでも、どんなときでも……そのために、ここにいるんだ」
「でも……もしもだよ、マダム・エリザの身体が死んだら、貴女も、ここにはいられないんだよね?」
「そのときは、四百年待って、ここに帰ってくるよ」
彼女はさらりと言って笑ってみせた。
「せっかくエリザが、分枝の私を生かしてくれたんだ。今度はちゃんと、借り物じゃない私の身体で、みんなに会いに行く」
「……そっか」
「ああ、いや、もちろん」
慌てたように彼女が苦笑いする。
「だからといってエリザの身体で無茶はしない。ムシュ・ラムに申し訳が立たないし、マダム・カシェに今度こそ首を絞められる」
「ふふ、何それ、誰に向けての言い訳?」
「半分くらいは、エリザに言った」
「もう……今くらい、私と話してよ。どれだけ、会いに来てくれるって言っても、絶対じゃないのにさぁ……」
アルシュが唇を尖らせてみせたとき、通路の向こうから、データボードを荷物に詰めた仲間たちがぞろぞろと歩いてきた。通路を曲がって昇降装置に向かう流れから、カノンがひとり外れて、アルシュたちの方に歩いてくる。彼はアルシュとエリザを順に見て、片手を持ち上げた。
「今生の別れの挨拶かい」
「そうじゃなかったら良いなって話だよ」
表情に乏しい彼の表情をひと睨みして、アルシュはカノンの後ろに回った。リュックサック越しにその背中を押して、エリザの姿を借りたロンガの方に押し出すと、彼は不審そうにこちらを振り向く。
「何のつもり?」
「何って、カノン君だって、ロンガに言いたいことくらいあるでしょ」
「俺は……あれ以上、言いたいことはもう何も」
「あれって何?」
「あ――あのさ、ふたりとも」
アルシュが首を捻ったところで、見かねたようにロンガが割り込んだ。
「全部終わったら、絶対、会いに行くから。会えるから。そのときに話そう」
「……帰ってこれる算段でもあるのかい」
「うん、だから今は、早く行ってくれ。人命も知識も、どっちも守る道筋を、せっかく見つけたんだから……その道を全うしてほしいんだ」
「――絶対だよ」
「うん」
力強く頷いて、彼女は後ろに一歩下がった。
「約束するよ」
「分かった。気をつけて」
「うん、ありがとう。行こう、カノン君」
一点の曇りもない笑顔を浮かべたロンガに頷き返して、アルシュは昇降装置に向かう。彼女がこちらを見送っている視線を感じたが、後ろを振り返らないまま通路を曲がる。昇降装置に乗り込み、リュックサックの紐を締め直して、大きく息を吐いた。
「……ロンガ」
呟いて、小さく揺れる壁に額を押し付けた。
絶対帰ってこられる――わけがない。
本来ならD・フライヤに分枝ごと消されそうになったのを、エリザの力でどうにか繋ぎとめている状況だと聞いた。ロンガの存在自体が抹消の危機にあるのは、本人だって分かっているはずだ。
「分かってるくせに、それでも、絶対って言うんだもんなぁ……」
「あんたと同じじゃないか」
思わず嘆息すると、円筒形の壁にもたれて腕を組んでいたカノンが、そんなことを言った。
アルシュは眉をひそめる。
「同じって、何の話」
「私が責任を取るからベストを尽くしてください、っていう、あれのこと。大まかな括りで言えば同じだろう」
「ああ……まあ、そうだね」
優しい嘘、あるいは前向きな虚言。
理想ばかりが叶う世界ではないけれど、だからこそ、不安定な心が
「よし」
アルシュは自分の頬を軽くはたいて、勢い良く立ち上がる。
「ロンガは帰ってくるし、みんなを地上に逃がせるし、ライブラリも捨てない!」
精一杯に明るい声で言うと、視界の右上の隅で、カノンが何とも言えない笑みを浮かべてみせた。