chapitre106. 限りない世界
文字数 5,628文字
教える役目は終わったと判断して、そろそろ地上に向かおうと思う、と告げると、少し疲れた表情のアックスは申し訳なさそうに頭を下げた。
「僕たちの都合でお二人を引き留めてしまって、すみませんでした」
「いえ、少しでも力になれたなら良かったです」
「……ありがとうございます」
彼は眉を下げたまま笑ってから、実は、と声色を変えて言った。
「
「それは凄い」
ロンガは思わず口元を抑えた。
「彼らの手に掛かると、あらゆることがハイペースで進んでいきますね」
「ええ、僕も――まだ現実を受け止め切れてないんですけど、せめて彼らの手伝いができたら、と思います」
「あ、そういえば……ルージュと話した、と聞きました。どうでしたか」
周囲に人がいないことを確認しながらロンガが切り出すと、アックスは神妙な表情で頷いた。
「率直に言えば、以前の声の方が好きでした」
「……そうですか」
「ええ、だけどリジェラの言うとおり、音楽というのがただの繰り返しでなく、常に変わっていくものだとしたら――この変化も、後ろ向きに捉えるべきではないのかもしれません。結果はどうあれ、新しいものが生まれたことには変わりない、とも思います」
自分に言い聞かせるような口調だった。だがアックスの表情は暗くなく、前向きに物事を捉えようとしている姿勢が感じられた。
「それに、これは今まで言ったことと相反するようなのですが……声が違っても、やはり彼女でした。音楽は僕たちにとって至上の価値ですが、
「ええと――アックスの価値観において、音楽の唯一性が揺らいだということですか」
「違います。どう考えても矛盾しているのは分かりますが、どちらの立場の僕も違和感なく、僕の中に収まっているということです」
アックスは胸元に片手を当てて、おかしいでしょう、と微笑んだ。
「自分でも、まだよく分からないです。こんな不調和を抱え込むのは、あまり気持ちの良いものでもありません。ただ、どうにか――乗り越えられそうなんです」
「なら良かった。その結果こそが、全てではないでしょうか」
ロンガが笑い返すと、アックスも頷いた。
誰もが色々なものを抱えて生きているのだな、と思った。何年も生きていれば、アックスが言ったように、単純な価値観では受け止めきれないものに出会うこともある。喪失の悲しみなどは、その典型例だろう。
それでも乗り越え、飲み込み、生きていく。
人間はそれができる。
だからこそ人間が好きだ、と思う。
アックスと別れて、ロンガは一旦居室に戻った。出発する準備を整え、シェルと一緒に友人たちに挨拶に行った。練習部屋の扉を開けて声を掛けると、団員たちが集まってくる。読唇のレクチャーをしたために、今まで交流がなかった団員たちとも思いがけず親しくなれたのだ。
「いつか必ず地上で演奏会をやるからさ。絶対に来てくれよ」
ロマンが手を握って言う。
「良い席を空けておくからさ」
「ありがとう。情報を見落とさないようにするよ」
「頼んだぞ。な、あんたも来てよ」
「ああ――ぼく? うん、勿論」
ぼんやりと周囲を眺めていたシェルがぱっと笑顔を浮かべて、ロマンの手を握り返した。年少の団員たちはシェルを気に入ったようで、別れを惜しんでいたが、そろそろ練習だよと言って年上の団員たちに連れて行かれた。
ちょうど良いタイミングだったので、地上に向かうことにして練習部屋を出る。
通路を歩き出して数秒後に、後ろからぱたぱたと足音が追いかけてきて、二人の目の前にルージュが回り込んだ。まるで足止めするように彼女が立ちはだかるので、ロンガが戸惑いつつも声を掛けようとすると、彼女は口元を覆うマスクを外した。
「ありがとうございました」
聞き慣れない小声が、そう告げる。
驚きで立ちくらみに似た感覚が込み上げる。ロンガが混乱しているうちに彼女はマスクを付け直して、何事もなかったかのように背後に立ち去った。ようやく振り向くと、もう練習部屋の扉が閉まるところだった。
「
シェルがそう言って苦笑する。
ロンガは跳ねた心臓を抑えて、どうにか頷いた。
何に対してのお礼なのか、よく分からなかった。最後に本当のことを教えたかったのかもしれないし、あるいは単なる悪戯心かもしれない。想像しても真相は分からないが、ルージュがわざわざ追いかけてきて声を掛けてくれたのは、喜んでも良いことだろう。
「また、会いに行きたいな」
後ろ髪を引かれる思いはあったが、今は取りあえず地上に向かわないといけない。地上へのルートを確認しようとして、ロンガはパーカーのポケットに手を伸ばす。しかし、常にそこに収めていたはずのものがなく、あれ、と思わず声が出た。
「
「どこかで落としたのかな」
「かもしれない」
慌ててリュックサックを下ろし、中身をかき分けて確認するが、やはり見つからなかった。思わず肩を落とす。
「探しに戻ろうか」
「いや、良いよ。悪いけど、ソルの端末でルートを見てくれないか」
持ち物を落とすことは今までほとんどなかったのに、こんな大切なときに大切なものを無くしてしまった。その不甲斐なさに身体を竦めつつ、ロンガが頭を下げると、シェルは頷いて地図を表示した。ここから何本かのスロープを乗り継げば、ついに地上に辿りつくようだ。
「ついに地上に出られるな」
思わず浮き足立ってロンガが呟くと、シェルは少し意外そうにこちらを見た。
「嬉しそうだね。そんなに楽しみなの」
「まあ、地下世界も興味深かったけど、やっぱり地上の生まれだからかな、太陽がないと落ち着かない。それに……壁に区切られている場所は、やっぱり窮屈だ」
「そう?」
シェルは曖昧に首を傾げて、同意とも否定ともとれる相槌を打った。そのまま話を切り上げて、こっちだね、と言って道を曲がる。しばらく歩いてからスロープのある部屋に辿りつき、もうすっかり慣れた動作で壁のパネルを外し、ベルトコンベアに乗り込んだ。
「そういえば、どこの都市に出るんだっけ」
ロンガが問いかけると、ベルトコンベアの上で膝を抱えたシェルは振り返らないまま「フィラデルフィアだね」と答えた。
本来ならコアルームの真上にあるのはラ・ロシェルなのだが、現在のラ・ロシェルは灰色の砕屑に覆われている。そのために他の都市を目指す必要があり、多少は移動距離が伸びることも仕方ないと判断して、周辺都市を目的地に据えたのだ。
「そうか――なあ、ソルの用事が済んでからで良いんだけど、スーチェンにも行きたいんだ。友人がいるはずで」
「ああ……うん」
彼はゆっくりと頷いて、分かった、と呟く。
やけに虚ろな表情だった。
ふと、シェルの瞳にまた白銀の揺らめきが訪れないか不安になり、ロンガは思わず彼の顔をじっと見てしまった。彼はまっすぐ向けられた視線に戸惑うような表情を浮かべて、何、と不審そうに問いかけてくる。
「ぼくの顔に何か付いてる?」
「いや、違う。何でもない」
そう、と平坦な口調で答えて、彼は顔を背けた。
次のスロープに乗ればついに地上に出られるという地点で、ちょうど夕食の時間が近づいたので、倉庫で携行食を食べていくことにした。数日ぶりに食べたが、やはり甘ったるすぎて美味しくない。シェルが水筒からお茶を出してくれたので、ほとんど流し込むように無理やり食べた。
「気分が悪くなりそうだ」
吐き気すら感じて、ロンガは喉元を抑えた。
「少し休んでいこうか」
「うん、悪い。休ませてくれ」
シェルの提案に甘えることにして、倉庫の壁にもたれかかる。その隣に腰を下ろしたシェルが、あれ、と呟いてロンガの額に手を当てた。
「もしかして、体調が悪い?」
「……え?」
そう言われると、途端に頭の熱さに気がついた。ただでさえ揺れている視界が、さらに歪んで見える。やけに重たく感じられる身体を支えているのが苦しくなり、シェルの肩にもたれ掛かると、溶けるように手足から力が抜けた。
「ごめん、そうかも……」
「うん、謝らなくて良いんだけど――そうか。どうしようかな」
シェルが困ったように首を捻る気配を感じた。申し訳ないと思いつつ、身体に力が込められず、ほとんど重力に逆らえないまま崩れ落ちる。シェルの手に支えられているが、自分の顔が上下左右のどこを向いているのかも、もうよく分からない。
ありとあらゆる世界が急速に遠ざかった。
暗い穴に落ちていくような感覚のなか、慣れ親しんだ声が「ごめんね」と呟いたような気がした。
*
白に近い光がきらめいている。
重たい目蓋をゆっくりと押し上げて、澄んだ空気を吸った。光に導かれるように上半身を起こし、そちらを見る。藍色からピンクになり、オレンジを経て黄色につながり、そして白に続く美しいグラデーションが、瞳に飛び込んできた。
朝だ。
ロンガは静かに瞬きをして、その色彩を見つめた。空という、実体を持たないがゆえに無限の広さを持つキャンパスに、太陽が描き出した芸術。常闇の地底に生まれた人々が渇望した、暖かく白い光を、両目に溢れるほど受け止める。
もっと近くで見ようとして、何かに引き止められて身体が傾く。叩きつけられたのは床ではなく、柔らかいマットレスだったが、腕が可動域のぎりぎりまで引っ張られて痛んだ。
そこでようやく疑問を持つ。
――ここはどこだ?
地下にいたはずなのに、なぜ朝焼けが見えているのだろう。寝起きのぼやけた頭を無理やり動かして、ロンガは周囲の様子を探る。白い天井と窓、簡素なベッド。微妙に湾曲した特徴的な壁を見て、ようやく気がついた。
統一機関の塔の上だ。
2年前の秋に幽閉されていた、あの部屋だった。どうしてまたここに戻ってきたのだろう、と眉をひそめて、そこでもうひとつ違和感に気がついた。
なぜか自分はハーネスを付けていて、そのうえ両手首が縛られ、背中側を回ったロープで繋がれている。先ほど転びそうになったのは、ロンガ自身の身体がそのロープを踏んでいたからだった。今度は慎重に立ち上がって、美しい色彩を切り取った窓に背を向け、扉に向き直る。
そこに彼がいた。
冬の冷たい風が窓から吹き込んで、シェルの長い髪が揺れる。温度のない眼差しが、ロンガをまっすぐ見ていた。
「おはよう――ルナ」
「ソル。これは君がやったのか?」
「そうだよ」
「どういうつもりだ」
彼はその問いに答えず、ロンガに歩み寄って額に手を当てた。
「熱、下がったね」
「そんなことはどうでもいい。質問に答えろ」
「良くない。ルナが治るまで、待つつもりだったから」
「
ロンガが強い口調で問い返すと、彼は曖昧に視線を逃して、背後をちらりと見る。シェルの横顔越しに、塔の中央の部屋と、そこに佇んでいるものが見えた。
「――まさか」
背筋がぞっと冷える。
向かい合った2枚の虹晶石。新都ラピスの最新鋭の技術を注ぎ込んで作られた、届かない場所に手を伸ばすことのできる、最大の禁忌。
時間転送装置だ。
「おい、まさか。ソルの向かいたい先って……!」
「
よろめいたロンガの身体を支えて、シェルは明瞭な口調で告げた。
「分かってるでしょ、ルナ。ラピスは根本的に、もうダメなんだ。取り返せない損失を取り返すなら、時間を遡るしかない」
「……何を、言ってるんだ」
「ルナ、なかったことにしよう。ぼくたちはこの未来を知ったんだ。どこからでも良い、もう一度、やり直そう」
淡々とした口調で言う、友人だったはずの少年。彼の口からそんな言葉が出てくることが信じられなくて、ロンガは目を見開く。それから次第に、腹の底から燃えるような怒りが持ち上がってきた。
「ふざけないでくれ」
「分かってよ――」
「そんなことのために、ここまで来たわけじゃない! 皆、あれだけ前に進もうとしていたのに、ずっと過去に戻ることを考えてたのか。そんな、そんなっ、後ろ向きな……」
「うん、そうだよ」
ロンガの追及に一切動じず、シェルは目を閉じて頷いた。
「全てとお別れするつもりで、ここまで来た。その過程で、まだこの世界にも前向きな人が沢山いて、ラピスの未来のために努力してるって分かった」
「そうだ、だから……!」
「だから
シェルは硬直しているロンガの身体に手を回して、強い力で抱きしめた。
その体温をはっきりと感じるのに、どうしようもなく冷たく感じられた。もどかしさと悔しさで、涙がぼろぼろと溢れる。こんなに近くにいるのに、物心ついてからずっと隣にいたのに、彼の考えていることひとつ読み取れなかった。
掠れた声が耳元で告げる。
「ぼくたちは違う世界に行こう」