chapitre94. 貴方が恋人だった昨日
文字数 6,853文字
「良ければ……杖を補強したから、持っておいて。ここに置いておくね」
ふたりの中間地点に杖を置いて、アンクルは部屋の隅に戻った。サテリットがゆっくりと顔を上げて、這うように床の上を移動して杖を受け取り、無言のまま向こう側に戻る。俯いて陰になった顔から、どうして、と低い呟きが聞こえた。
「貴方がどれだけ優しくしてくれたって、私、それに応えられないのよ」
「うん、でも、君と約束したからね」
今はもう面影のない、この部屋に来た日のサテリットを思い出して、アンクルは泣かないように笑顔を保つ。
「サテリットが僕の記憶を守ってくれた。その代わりに僕が君を守るって、僕がサテリットのことを覚えている限りは大丈夫だよって……言ったんだよ」
「私が、そう言ったの?」
「そうだよ。君は、僕よりもずっと頭が良くて、思い切りが良くて、優しいんだ」
「……その弱気なとこは、5年経っても変わってないんだね。アン」
サテリットは少しだけ顔を上げて、垂れ下がる前髪をかき分けた。泣き腫らした目元が、少しだけ見える。
「何だか信じられない。5年後、世界はこんな風に変わってるなんて、全然、想像してなかったもの」
「それは僕もだ。ずっとリゼがいて、リヤンがいて、宿舎でずっと暮らすんだって、根拠もないのに信じてたよ」
「リゼ……夢の中で、会ったわ」
サテリットは掠れた声で言って、目元を手の甲で擦った。
「収穫祭の日――つまり
「……そうだね」
アンクルは眉をひそめて頷いた。彼女の記憶は今、5年前の収穫祭の日まで巻き戻ってしまっている。必死に説明して、どうにか彼女の記憶に異常が発生していることは理解してくれた。だが、起きたことの全容は、心理的にまだ受け入れられていないようだ。
5年間に起きたことが、一度に降りかかってきたのだ。悲しいことや辛いことがあっても、普段なら時間をかけてゆっくり受け入れられる。しかし今のサテリットには、それができない。本当はもう少し、段階を踏んで話した方が良かったのかもしれないけれど、切迫した現状ではあまり悠長なことを言っていられなかった。
アンクルが溜息をついて、折りたたんだ両足を床に伸ばすと、サテリットの肩がびくりと強ばった。遠目にも、その顔が青ざめているのが分かる。昨日まで隣で微笑んでくれた彼女は、今は、アンクルが近づこうとするだけで怯えたような表情になる。
無理もない。
今のサテリットにとって自分はただの友人で、同居人のひとりでしかない。彼女が覚えていないところで、その身体に触れられていたなんて、想像するだけで気分が悪いだろう。かつて彼女が自分を愛してくれていたことも、今の彼女がそうではないことも、どちらも本当だ。アンクルが悪いわけではなく、もちろんサテリットだって同じで、ただやりきれない現実だけが目の前にあった。
「――ごめんね」
思わず口走ってしまった言葉に、やめて、とサテリットが首を振る。
「悪いことをしてないなら、堂々としていて。無理やり抑えつけてした、とかじゃないんでしょう? 私は貴方をちゃんと愛していて、その上で許したんでしょう」
「僕はそう思ってたよ」
「じゃあ、きっとそうよ。嫌だったらしないもの」
ちらりと視線をよこして、彼女はきっぱりと言う。サテリットの方が辛いに決まっているのに、逆にこちらが励まされてしまった。
「ねえ、私、アンを嫌いになったわけじゃないのよ。大切な友達だもの……ただ、それ以上のことは、今はあまり考えられないだけ」
「うん――ありがとう」
「泣かないでよ……」
昨日まで恋人だった人の、変わらない澄んだ声が耳に響いて、膨らんだ水面が弾けるように涙が落ちた。それを見せたくなくてサテリットから顔を背けたのに、声の調子からだろうか、泣いていることを見抜かれる。
「私、きっとこれから、また貴方を好きになるから。保障は……ごめんなさい、できないけど」
「ううん、良いんだよ、好きにならなくて」
アンクルは首を振って笑ってみせる。
「サテリットが僕に応えてくれたのって、たぶん偶然だから。同じ奇跡が二回起きるとは思ってないよ。でも――昨日までの君と約束したから、安全な場所に行くまでは、僕に守らせてほしい」
「良いの? そんな……」
「もちろん。それに僕は、悲しくて泣いたわけじゃない。記憶がなくなっても、君が君のままであることが、あのね、嬉しかった」
言葉を選びながら伝えると、え、とサテリットは眉をひそめた。俯いていた顔を上げて、潤んだ瞳がこちらをまっすぐに見ている。
「でも私は、何より大切なはずの感情を忘れてしまったんでしょう」
「それは違うと思う。君の一番はね、僕じゃないよ。えっと、もちろん僕のことも、大切にしてもらってたとは思うけど……」
視線を持ち上げる。
金属板の打ち付けられた天井ではなくて、もっとずっと向こうを見る。
「凜とした強さと、優しいところ。それさえあれば、君は君だ。何も変わってないよ」
「そう……何だか不思議。私よりもアンのほうが、私のことを知ってるみたいね」
「教えてくれたからね。そうだ、遠い場所を目指して旅に出たいっていう夢は、5年前から持ってたのかな」
「……私、それ話しちゃったの?」
両手で頬を包んで、恥ずかしい、と呟いた。
「忘れてよ。そんなこと、できるわけないもの」
「できるって言ったよ。君は」
「嘘、どうして。だって図書館に行かないといけないし、バレンシアを出られるわけがないし――」
「ううん、言ったでしょ。僕たちはもう、あの街を出たんだよ。君の望む方へ、ラピスは変わりつつあるんだ。そう、もし
「ラピスの外側……」
数日前にサテリット自身が言った表現を引用すると、彼女は最初、ひどく不思議そうな口調でそのフレーズを反復した。しばらく繰り返しているうちに、だんだん自信に満ちた声に変わって、うん、と頷く。
「それって素敵な言葉ね」
「サテリットが言ったんだよ」
「え、本当?」
弾む声で聞き返して、それからふと黙り込む。スカートの裾をぎゅっと掴んで「ねえ」と張り詰めた声で言った。
「少しだけそちらに行っても良い? もっと話を聞かせて」
「も、勿論。僕がそっちに行こうか?」
「それは遠慮させて。私のペースで近づきたいの」
そう言って彼女は立ち上がり、杖を支えにこちらに歩いてきて、機械のひとつに背中を預けて座り直した。まだ数メートルは離れているけれど、部屋の対辺に座っていたときに比べると、ふたりの距離は半分以下になった。今までと比べて、サテリットの表情がはっきり見えることに、思わず動揺してしまう。熱くなった頬を抑えて視線を逸らすと、どうしたの、と苦笑された。
「昨日まではもっと近くにいたんでしょう?」
「うん、ごめん、何でだろう。僕まで、あの頃の……君に片思いしてた頃に戻ったみたいな」
「ふふ、何それ!」
目を細めて笑う表情が、薄暗い部屋の中なのに、やけにきらきらと光を浴びて見えた。
*
どこかで、誰かの歌声が聞こえたような――そんな気がした。
サテリットは浅い眠りから覚める。薄く目を見開くと、見慣れつつある暗い部屋の天井が見えた。頭が痛くて、ぼんやりするけれど――たしか自分は、ハイバネイト・シティという場所の一室で助けを待っていたはず。
なんだか、やけに不快だった。
サテリットは仰向けに寝転がったまま、もう一回瞬きをして、現状について考える。自分は大切なことをいくつも忘れてしまったのだと、誰かが教えてくれた。
リゼは、もういない。
シャルルとリヤンも、今はいない。
誰かと一緒にいた――
「アン?」
ぱっと起き上がって、そこでようやく不快感の原因に気がついた。髪もスカートも、全身が冷たい水に濡れている。何これ、と思わず言葉にして呟いた瞬間、額に水の粒が落ちてきて目を瞑った。
部屋が浸水している。
暗がりに目を凝らすと、部屋の隅で眠っているアンクルを見つけた。横向きに寝ている彼の顔は、今にも水に沈みそうだ。声をかけようとして、伸ばした手が強ばる。彼に対する拭い去れない嫌悪感を思い出してしまった。食道を胃液が逆流してきて、吐きそうになったのをどうにか堪える。
相反する感情がぶつかって、火花の代わりに涙をこぼしながら、サテリットは床を這ってアンクルのもとに辿りつき、その肩を揺すった。
アンクルが薄く目を見開いて、焦点の合わない目がこちらに向けられる。
「……サテリット?」
ぼんやりと彼女の名前を呼んだアンクルは、次の瞬間眉をひそめて起き上がった。激しく咳き込む彼に、サテリットは手出しできず、ただ呆然と見つめていた。
部屋を見回すと、天井に貼り付けられた金属板の隙間から、何筋も水が垂れていた。今はまだ靴が浸水する程度の深さだが、この部屋はおそらく密閉されている。放っておけば、次第に水面が上がって、やがてどうにもできなくなるだろう。
「これは……えっと、どういう事態だろう」
ようやく咳の治まったアンクルが、まだ掠れた声で問いかける。
「分からないけど――ここにいたらまずいと思うわ」
「そうだね、上に戻る? でも……スロープを逆流しないといけない」
アンクルが立ち上がって、ここに来るときに使ったという荷物運搬用のスロープを見に行く。パネルを外して中を覗きこみ、やっぱりだ、と眉を下げてこちらを見た。
「ちょっと厳しいよね?」
「そうね……足が悪いんだったわね、私」
サテリットは溜息をつき、床に屈んでリュックサックを持ち上げる。枕代わりのリュックサックを彼が自分に譲ってくれていたから、自分は眠っている間に水を飲まずに済んだのだと、今更のように気がついた。
不思議だった。
自分が彼を愛していたらしいことを、自分は忘れてしまったのに、今なお大切にされているのだと強く感じる。自分は彼に指ひとつ触れることすら躊躇うのに、直接触れなくても良い方法で色々と気を遣ってくれるのだ。
「外に出るしかないかな」
アンクルがリュックサックを背負いながら、扉に寄って外の音を聞く。今のところ静かだけど、と眉をひそめて足下に視線を落とす。すでに彼のブーツは半分以上が水の下に埋まっていた。
「水位、どんどん上がってるよね」
「そう思うわ」
「排水が追いついてないんだ」
彼は溜息をついて、寄せた眉を手で抑えた。彼が心配しているのはつまり、誰がうろついているか分からない外の通路に出てしまって大丈夫かということだろう。武器はないし、仮に手に入っても使えない。
「ねえ、扉を少しだけ開けて水を逃がすのは――」
サテリットが言いかけた瞬間、アンクルが顔色を変えて唇の前に指を立てる。遠くで足音が聞こえてきた。彼は口を塞ぎながら、無言で顔を横に振ってみせる。アンクルが言うには、ここにいる人々は好戦的という言葉でもまだ足りないほど、攻撃的な存在らしい。見るからに弱く、抵抗する術を持たない自分たちが見つかってしまえば、一切の猶予もなく殺されるだろう。
息を殺して足音が通り過ぎるのを待ったサテリットは、ふと、視界のすみで瞬くものに気がついた。指さしてアンクルに教える。
「あ、あれ……何か光ってる?」
「本当だ。ラムの端末が」
かつて宿舎の仲間だったらしいロンガと、彼女の友人だという者から、数分前にメッセージが届いていた。事情は分からないが彼らはこちらの居場所に気付いており、本来なら無人であるはずの中間層にいることを疑問に思って連絡をくれたらしい。
部屋から出たいが動けずにいる、とメッセージを送ると、数十秒後に返信がやってきて、画面が白く点滅する。返信の内容を確認したアンクルが、ほっとした顔になってこちらに振り向いた。
「少し時間が掛かるけど、来てくれるって」
「……その人たちは、ここに来て大丈夫なの。外は危ないんでしょう」
「それは、そうだけど……」
安心で頬を緩ませていたアンクルが、怪訝な顔になってこちらを見た。濡れた頬に
「でも、正直言ってロンガたちに頼る以外、僕らには他にどうしようもないよね」
「そうね……」
「気が進まない?」
サテリットは胸元を抑えて、小さく頷く。心臓の動きが耳に聞こえるほど速い。どうしてこんなに気掛かりなのか、サテリット自身もよく分からなかった。
「もしかして……だけど」
自分の感情をうまく説明できなくて言葉に詰まると、アンクルが濡れた服を絞りながら言った。
「忘れてしまった相手と会うのが、怖い?」
「ああ――」
やっと腑に落ちて、サテリットは頷いた。
「うん……そうかも。記憶がなくなっても、アンのことは知っていたけど、そのロンガって人は、私からすれば、これから出会う人だもの」
「そうだね。僕らが19歳の秋に出会った人だ」
「私の知らない私を知ってる人、なのよね。怖い……ごめんなさい、どうしてかしら。アンにはそんなこと、思わなかったのに」
「ううん、僕もサテリットの立場だったら、きっと怖かったと思う」
でもね、とアンクルは励ますように笑顔を浮かべた。
「多分、ロンガが知ってるサテリットって、今の君と同じだよ。君は彼女の前で嘘をついたり、自分を取り繕ったりはしてなかったと思う」
「そうなの?」
「むしろ結託して、僕に隠しごとしてたよ」
「本当? ふふ、それはごめんなさい」
サテリットは苦笑して、分かった、と頷いた。背筋がひりつくような恐怖はまだ残っているけれど、本来の自分を知っている相手に会ってみたいという好奇心もあった。アンクルがメッセージを返信して、顔も知らない友人がやってくるのを待つ。
水位は少しずつ上がっていく。
アンクルとサテリットは、お互いが手を伸ばしてもぎりぎり届かない程度の距離を開けて、壁際に並んでいた。水が膝下まで飲み込んで、凍りつくような冷たさが爪先の感覚を奪っていく。サテリットは自分の身体を腕で抱きしめて、少しでも体温を逃がさないようにしたが、濡れた服も相まってどんどん身体が冷えていった。
空気も水も、背中を預けた金属の壁も、全てが冷たい。体温だけでなく、生命そのものが吸い取られていくような気がする。額がずきずきと痛み、その痛みを堪えるために目を瞑ると、今度は身体ががくりと傾いた。
倒れかけたサテリットの手が、力強い手に引かれる。薄目を開けると、アンクルが支えてくれたのだと分かった。掴まれている手をサテリットがじっと見下ろすと、ごめん、と慌てたように彼は手を離した。
自分よりは高い彼の体温が、手のひらに残る。
「……アン」
「ごめん。思わず」
「いいえ――ありがとう」
彼が支えてくれた手のひらを、サテリットはじっと見つめた。どうしてだろうか、今までずっと感じていた拭い去れない嫌悪感を、今はほとんど感じなかった。自分の胸元に引き寄せた手のひらを、もう一度彼の方に差し出す。
「……もし良ければ、手を握っていてくれる?」
「えっ――平気なの」
「アンの手、温かかったから。それに私は――あまり身体を冷やさないほうが良いのでしょう?」
サテリットは自分の腹部にちらりと視線を落とす。プリーツスカートに覆われていても、目に見えて分かる程度には膨らんでいた。それから再び視線をアンクルに戻し、手を取るべきか戸惑っている様子の彼に、視線で催促した。
やけにぎこちない動きでアンクルが片手を持ち上げて、差し出したサテリットの手を握った。距離がまた少し近くなり、36℃の熱がすぐ隣にあるのを感じる。
「暖かいね」
「何だろう。すごく緊張する」
参ったなあと呟いて、アンクルが赤くなった顔に苦笑を浮かべた。