眠りゆく過去に捧ぐ
文字数 5,302文字
ラピス七都のひとつサン・パウロにて、ラピシア統合議会の第一回会議が開かれた。七つの異なるルーツを持ち、それに伴って七つの異なる公用語を持つ総勢百十三名の議員たちが一堂に会し、新しいラピスの成立を各々の言語で宣言した。
そして、一時間にも及ぶ宣言の後。
初代議長に選出された、レイファンという名のスーチェン語圏出身の男が、七言語のどれとも違う言語で、締めくくりの挨拶を行った。
「新しい都ラピスは三世紀半の昔、雪下に滅んだ旧時代の遺骸から立ち上がり――」
彼はラピスという社会の沿革を端的に、しかし誤魔化すところなく語ったあとに「そして」と手を広げた。
「それぞれに七つの歴史を刻んだ七つの世界が、今ふたたびひとつに合わさった。そのいずれにも偏らない統治の象徴として――」
男はひとつ息を挟んだ。
「私は――新しい言語の成立を宣言する」
ラピシア統合議会初代議長・レイファンがスピーチで使用したこの言語は、現在進行形で語彙の拡充と文法の見直しがなされ、言語体系の確立を目指している、これからラピスの公用語となっていく予定の新しい言語――通称「ラピシア」だった。男はこの日のために、数ヶ月も前から発音の練習を繰り返していたのである。その練習に立ち会っていた人々は、固唾を呑んで中継映像を見守り、男が完璧にスピーチを終えて見せたことに安堵した。
拍手が鳴り響く。
七語圏が正式に手を取り合うことを宣言した日であるとして、八月一日は「統合記念日」、創都三四五年は「統合元年」と後の記録で記されることになる。
その翌年、夏。
統合からちょうど一年が過ぎた記念日、サン・パウロでささやかな催しが開かれるなか、リジェラは旧中央都市であるラ・ロシェルの上空にいた。
高度を下げていくと、青く茂った丘の向こうに、崩れた塔が見えてくる。かつて統一機関が拠点としていた、ラ・ロシェルの中央にそびえる巨大な建造物だ。そこから東に三百メートルほど離れた広場で、黄色と黒の旗を振っているシルエットを視認し、リジェラは機体の方向を微調整しながらさらに降下していった。
着陸を済ませて機外に出る前に、リジェラは防塵マスクと専用の防護服を着用する。
二年前の、地上と地下との争いで散布された砕屑が、まだまだ市街のあらゆる場所に残っているのだ。この砕屑は砂と同程度のサイズでありながら非常に鋭利な形状をしており、生身でラ・ロシェルに踏み込めば即座に目や喉の粘膜が傷つく。七語圏の
これが理由のひとつとなり、統一機関時代は二万人が生活していた中央都市ラ・ロシェルは、今となっては立ち入ることすら禁じられた廃都と化した。かつて
支度を終えて、すでに到着していた仲間たちと合流する。
リジェラがやってきたのを確認して、グループのリーダーである男が「事前に話したとおりだが」と説明を始めた。
「本日は、この広場から西方向の扇形区域を中心とする。また、区域からは外れるが、近隣で回収依頼のあった地点も担当に含めているため、各々確認するように――」
数分で作戦の確認を終えると、一同は砕屑に覆われた街へ散開する。リジェラは指定された建物を回り、備蓄用の食品や衣類、まだ使える道具類などを回収して、
「リーダー?」
無線機の電源を入れて、リジェラは防護服に内蔵されたマイクに呼びかけた。
「道が水没してます。ええ――はい、そうです、橋に続く道です。先日の大雨による増水かと……」
報告しながら、黄土色に濁った水面を見下ろす。
これが、ラ・ロシェルが半永久的に立ち入り禁止区域に指定された二番目の理由だ。市街地を斜めに横切っている川が、夏季に頻繁に氾濫を起こすようになったのである。調査の進捗状況はあまり芳しくないと聞くが、おおむね研究者たちも、そしてリジェラたち一般の
二度とこの場所が、雑踏が行き交い人々が笑い合う場所――「街」に戻ることはないだろう。滅びてゆく都市の残骸を見つめながら、リジェラはスピーカー越しの指示に小さく頷いた。
「――はい。それでは、私は引き返します」
無線機のスイッチを切り替えて、マイクに音を拾わせないようにしてから、リジェラは大きく溜息を吐く。
浸水した橋の向こうに、かつてリジェラが友人たちとともに幾許かの日月を過ごした、懐かしい
***
「――そういうわけなの」
回収作業終了後。
本来であれば、コラル・ルミエールに教堂から回収した楽譜を受け渡す予定だった。そのために、サン・パウロとラ・ロシェルの街境付近にある合流地点の丘まで来てくれたアックスに、リジェラは経緯を説明してから頭を下げる。
「今月半ばに、今度は別のグループが行くから、そのとき、もう一度トライしてみることになると思う……ごめんなさい」
「いえ……それは、どうしようもないことです」
物分かりの良さそうなことを口にしつつ、アックスの表情は明らかに落胆している。そんな様子を見ているとリジェラの方まで悲しくなってきて、リーダーの指示を振り切ってでも川を越えるべきだったか、などと思ってしまう。勿論、一介のメンバーに過ぎないリジェラがそんな真似をすれば、最悪の場合プロジェクトから罷免されてしまうのだが。
「せっかく来てもらったのに、本当、ごめんなさいね。都合、大丈夫だった?」
「今日は事前から空けていましたから、問題はないです……まあ、夕方頃、本部に寄るつもりですが」
アックスが言った本部というのは、統合議会が本拠地としている建物のことである。ラピスが八番目の言語として
「忙しそうね」
リジェラが労うと「まったくです」と彼は微かに苦い表情を浮かべた。
「僕らの本業ではないのに、迷惑なものです。まあ――
「見事に弱味を握られているわよね」
「弱味、ですかね。空を飛べないことや、土の上では眠れないことを弱味と呼ぶなら、これも弱味かもしれませんが……」
よく分からない喩えを口にしながら、アックスが足下に置いていた荷物を背負い直す。
「僕はサン・パウロに戻ります。貴女は?」
「えぇと……少し、訪ねたい人がいるの」
「こんなところに?」
アックスは少し目を見開いた。
二人がいる丘の上は、樹が数本立っている以外は何もない、見晴らす限りの草原だ。だからこそ
ただ、リジェラが会いたいのは生者ではなかった。
「ここね……お墓があるの」
「――ああ」
その一言で彼は察したようだった。
「たしかに、ラ・ロシェルが見える高台に葬られたと聞きました。ここだったんですね」
「ええ。少し歩いた先だけど」
「なるほど……」
彼は小さく頷いた。
「あの――近いなら、僕も行っても良いですか。結構、お世話になったので……」
「貴方も?」
意外な提案に、リジェラは小さく肩を跳ねさせた。
「勿論、良いけど」
そうして二人は、荷物の受け渡しをしている人々の喧噪から離れ、腰上まで伸びた草むらを横切った。丸いシルエットをした樹の横を抜けると、視界がぱっと開け、同時にラ・ロシェル方面に下る階段が現れる。
そのとき、階段の下から、誰か登ってくるのが見えた。
一見して異様な人物だった。真夏の炎天下だというのに、黒一色の装いで、詰め襟のボタンを首元まで留めている。腰まで伸びた金色の髪は、結うこともなくそのまま風に泳がせている。だが、無駄をそぎ落とされたように深く沈み込んだ目元といい、その奥で光る美しい青色の双眸といい、どこか目を引く容貌の女性だった。
すれ違いざまに、リジェラは思わずその目を見つめた。どれだけ涙を流せば、それだけ深みのある目元になるのだろうか――などと、つい考えてしまう。当の彼女はリジェラの不躾な視線には一切の反応をよこさず、丘の向こうに姿を消した。
「あの人も……ですかね」
「さあ……」
リジェラは首を傾げた。
ここに墓があることは、あまり広く知られているわけではない。プロジェクトでこの丘に来るたび、リジェラは墓を訪ねていたが、自分以外の客人が来ているのを見るのは今日が初めてだった。
「行きましょうか」
不思議に思いつつも、リジェラは、今しがた彼女が登ってきた階段を先導して降りていった。一分ほど下ったところの傍らに、斜面を
「……あら」
近づいていくと、墓石の前に色とりどりな花束が添えられているのに気がついた。それもどういう訳か、同じような造りのものが二束。後ろから追いついてきたアックスが怪訝そうな声で「ふたつ?」と呟く。
「ひとり、ですよね?」
「そのはずだけど……」
置かれた花束を踏んでしまわないよう注意を払いながら、リジェラは石碑の裏に回り込む。そして、地下に眠る人と同じ向きで、ラ・ロシェルの方角を眺めてみる。重みを感じるほどの強い日射しと、深い青色の空に湧き上がる積乱雲、その下に眠る街。
「それは……何をしているんですか」
景色の一部になっていたアックスが、死者のために祈るでもなく、ただ立ち尽くしていたリジェラに問いかける。
「そういう作法なんですか」
「いいえ? ただ、これが……物語の中で語られた真祖が、私たち、
「ああ、なるほど……しかし、その名前、久しぶりに聞きましたね」
アックスが少し笑ってから「そういえば」と思い出したように言った。
「先日、ラピシア統合議会の第一期議員の一覧を見たんですよ、広報で。それで……便宜上こう呼びますけど、
「え、参加してるけど?」
リジェラはそう言って、背後に背負ったリュックサックから
「ほら見て、アックス」
議員たちがずらりと並んだ集合写真のなかから、リジェラと同じ地下の出自を持つ人を指さしていく。
「このピンクのシャツの人は地下の出身。あとこの人、灰色のジャケットの人ね、それにこの青いネクタイの人も――」
「あ――本当だ」
アックスが頷く。
「たしかに、彼らは地下の名前ですね」
「そうでしょう?」
「いや……すみません。見た目で判断していました。地下から来た人なら、もっと肌が白いと思って――」
そこで彼は言葉を止めた。
投影された画像から、リジェラの顔に視線を映す。ああ、と呟くように彼が口元を動かしたのを見て、リジェラは苦笑する。日に焼けていない白い肌を地底出身者の判断基準とするのは、今となってはほとんど役に立たないアイデアだ。
「リジェラ、貴女も」
アックスが笑う。
「日に焼けましたね」
「そうでしょう?」
ほんのり褐色になった頬を持ち上げて、リジェラは笑顔を返してみせる。