chapitre169. 星明かり
文字数 10,073文字
エメラルドグリーンの瞳をした女性が口走ったのは、フィラデルフィア語圏の公用語だった。シェルは記憶の箱を慌ててひっくり返して、彼女の名前を引き出す。
「リジェラさん、でしたね」
「え――ええ」
かつて“
「……アックス?」
「リジェラ……」
うつむけた顔を少しだけ上げて、アックスが途切れ途切れの声で呟いた。
「なぜ、ここに」
「貴方こそ、その傷……どうしたの。それに、あの子たちは?」
「あ――説明しますね」
立って自重を支えているだけでも苦しそうな彼に代わって、シェルは簡潔に経緯を説明する。リジェラは説明を聞いて、なるほど、と頷いた。
「だから、知り合いの私が呼ばれたのかしら」
「呼ばれた? あ、そういえば」
彼女の言い回しに眉をひそめて、そこでシェルは、エリザに言われたことを思い出す。
「ぼく、とりあえずこの場所まで来るように――って言われたんですけど、もしかして、あなたと合流しろって意味だったのかな。彼……早急に手当をしたほうが良いと思うんですけど、何か聞いていますか?」
「聞いてはないけど……」
うぅん、とリジェラが小さく唸る。
「でも、手当をする場所まで連れて行くくらいはできるわ。近場だと、スーチェンの臨時本部かな」
「え――本当ですか」
「ええ、
彼女はそう言って、通路の奥を指さした。
その方角は、先ほどから風が吹いてくる方角と一致していて、なるほど――とシェルは納得する。上空でホバリングしている
リジェラの案内に従って歩き、一行は十分もかからず、ラ・ロシェル直下の大穴まで到達した。
ホバリングしている機体はかなり低い場所まで降ろしてあって、少し気を抜けばよろめきそうなほどの強風が、シェルの身体を叩きつける。吹き付ける風のなかでもリジェラは手際良くワイヤーをつないで、アックスと自身の身体を空中に吊り下げた。
彼女が片手で
強風になびく髪とコートの裾を抑えながら、シェルは不思議な感慨を胸に抱えて、その光景を見上げていた。地上で生まれ育ったアックスと、地下で使役されていたリジェラが、言葉や立場の壁を越えて友人になる――彼が見たかったのは、例えばこういう光景であるはずだ。
「……サジェス君」
叩きつける風に目を細めて、シェルはその名前を呟く。目尻がつんと痛んで、涙で視界が歪んだ。
「
今はもういない彼に、そう教えたい。
その肉体も精神も、今は塵となって消えてしまい、世界中のどこを探しても存在しない。だけど、サジェスが揺るがない信条を持って地上を目指したとき、彼はきっと自分の死後すら見据えていただろう。たとえ彼の時間が有限に途切れても、その向こう側で野望を達したいと祈っていただろう。
そんな彼の祈りが今、現実になろうとしていた。
二人を乗せた
サジェスの記憶に浸っていたシェルは我に返り、穴の底に飲み込まれていく足場を蹴って、近くの鉄骨に飛ぶ。
だが、ぎりぎり届かない。
爪先が鉄骨をかすめて、身体が後ろに傾く。
このままでは頭から落ちる。
とっさに足を引き寄せて、身体を反転させようとしたとき、かすかなモータ音が耳に届く。一秒後、暗闇に放り出されたはずのシェルの身体は、何かしっかりとしたものに支えられていた。
びゅう、と風が前髪を揺らす。
一歩間違えれば死にかけたことを自覚して、今さらのように鼓動が速くなる。それから、なぜ自分が落ちていないのか疑問に感じて、肩の後ろに視線をやる。そこには――金属のアームが展開して、シェルの背中から膝までを支えてくれていた。
『――シェル』
苦笑交じりの声が背後で言う。
スピーカーから流れるエリザの声だ。ロボットアームはシェルの身体を軽々と運び、安定した足場まで運んでから降ろす。
『気をつけてもらわないと』
「すみません、ぼうっとしてて……と、いうか、いたんですね」
どうやら、積み重なった瓦礫と鉄骨の隙間に潜んで、様子を見守っていたようだ。展開した指先を折り畳みながら、ロボットアームがするすると通路の中へ戻っていく。シェルは肩から落ちた荷物を背負い直して、それを追いかけた。
「なぜ、今まで黙って?」
『リジェラに私の存在が知られると、少々厄介なので』
「ああ……それは、確かに」
言われてみれば、そうだった。
つい先ほどアックスにも言われた通り、エリザはサジェスが“
「そういえば」
そこでふと気がついて、シェルはロボットアームのカメラを見上げる。
「あなたはまだ、コアルームにいるんですね」
『ええ』
「その……大丈夫なんですか。上層ですらこの有様では……最下層は、かなり崩壊が進んでいるのでは?」
『……平気ですよ』
少しの間を挟んで、応答がある。
『まだ、彼らのように取り残されている集団がいないとも限りません。全て、避難が完了してから脱出します』
「でも――」
『平気です』
彼女は強い口調で断言する。
『カシェも一緒に残ってくれているので』
「あ……そうなんですか」
そうか、とシェルは目を見開く。
考えてみれば、エリザの友人であり、彼女のことをとても大切に思っているカシェが、エリザを危険な場所に残して逃げるわけがない。女性だが体格に恵まれており、ハイバネイト・シティにも精通しているカシェが一緒なら、本当にコアルームに危険が及んだときは、彼女が助けてくれるだろう。
交差路に差し掛かると、では、と言ってロボットアームがくるりと頭を回した。
『シェル、貴方はこれからどうしますか』
「あ、ぼくですか。えっと……」
エリザに水を向けられて、そこで初めてシェルは、自分も迷子同然だったことを思い出す。元はといえば、通信機をなくして地上と連絡を取れなくなったところで、偶然にもロマンと出会ったのだった。
「どうしたら良いのかな……地上のMDPと、連絡を取りたいんですけど」
『じゃあ……
「ああ……それなら」
シェルは頷く。
エリザが
「ごめんなさい、色々助けてもらって」
『いいえ。シェル、貴方だって、守られるべき
シェルの謝罪をさらりと受け流して、ロボットアームはくるりと腕を折り畳み、壁の隙間に吸い込まれていった。
*
凍った冬空に、星が瞬いている。
太陽が照らす抜けるような青空とは趣が違うけれど、地球の影になった静かな夜空だって、なかなかに美しい。ただ今は、星空を楽しんでいるような余裕はなかった。リジェラはラ・ロシェル上空で機体を旋回させながら、後部座席に声を掛ける。
「アックス、横になって良いのよ」
後部座席は二人掛けなので、大柄な彼でも、身体を横に倒すくらいのスペースはあった。
「怪我をしている足を、持ち上げた方が良いと思う。そっちの方が、血が止まりやすいから」
「ああ……すみません」
いつになく力の入っていない声で言って、アックスが身体を倒す。
急がなければ。
顔色の青白さや手足の冷たさからして、失血量がかなり多い。シェルが一通りの応急手当をしてくれたとはいえ、場合によっては輸血が必要な状況だろう。一刻も早く専門知識のある人に受け渡すべきだが、
リジェラはもどかしく思いながら、計器の表示に目を凝らした。
隣町のスーチェンまで、三十分ほど。
「ねえ、アックス」
リジェラは明るい口調を保って話しかけた。
「何か話してくれない?」
「……何か、ですか」
「ええ。何でも良いのだけど」
アックスは唐突な申し出に戸惑っているようだが、リジェラの提案には一応の理由があった。機体を操縦している都合上、後部座席にいる彼の姿を視認することはできない。なので、声が聞こえないと、彼の容態が悪化していないか確認できないのだ。
「そういえば……」
注意して聞かなければ聞き逃しそうな声量で、アックスが呟く。
「ルージュが僕に怒っていた、理由が……分かったかもしれません」
「え――本当に!」
思わず振り向きそうになるのを抑えて、リジェラは問い返した。アックスたちに幾度となく助けられておきながら、険悪な雰囲気の彼らを置いて出てきてしまったことが、今朝からずっと胸に引っかかっていたのだ。
はい、とアックスが頷く。
「ルージュに……もし、彼女が音楽の技能を失ったとして、それでも自分を助けるのか、と……尋ねられました」
「それは……」
リジェラは言葉を選びながら言う。
「大抵の人間なら、勿論、と即答するところよ」
「でしょうね」
小さく苦笑するような声が応じる。
「だけど、僕がルージュに、音楽を創り出す以外の役割を求めないのなら、返事はノーになりうる。現に……彼女の声が変わってしまったとき、僕は悩みました。歌声を失った音楽家に、守る価値はあるのか、と」
淡々と綴られる言葉に、リジェラは黙って耳を傾ける。コラル・ルミエールの人々は、長い修練を経て選び抜かれた音楽家だ。部外者のリジェラが想像する以上に、音楽は、彼らの価値観の深いところまで根ざしているのだ。
「悩んでいる当事者の子供を、見捨てるわけにもいかない。だけど、音楽を前提として繋がった仲であるのも事実……そんな葛藤が、ルージュに見抜かれていたんでしょう」
「……それで」
高度を上げながら、リジェラは相槌を打つ。
「その葛藤に答えは出たの?」
「出せた……と、思います」
やや速い呼吸をしながら、どこか心許ない口調でアックスが応じる。
「思えば、僕は――いえ、僕たちは、音楽家であることを、あらかじめ決められて生まれてきた存在です。だけど、誰かに強制されて音楽をやっているとは思わない。楽しいから、そこに魅力を感じるから、音楽を辞められない……」
アックスはそこで言葉を切って、ひとつ呼吸を挟んだ。
「リジェラ、貴女は、音楽の魅力とは何だと思いますか?」
「え!?」
彼の独白を聞いていたリジェラは、突然自分に話題を振られて、しかも妙に本質めいた質問をされたので、思わず高い声を上げてしまった。危うく手元が滑りそうになり、慌ててレバーを握り直す。
「私……まったくの素人よ? 貴方に、意味のある答えを返せるとは思えないけど」
「いえ、むしろ……何の予備知識もない貴女にこそ、聞いてみたいんです」
「そ……そうなの?」
それなら――と咳払いをして、リジェラは緊張しながらもひとつひとつ言葉を選んでいった。
「音楽って……不思議なものだと思うわ」
おそらく二度と帰ることのない、コラル・ルミエールがかつて生活していた
「ただ、音を聞いているだけのはずなのに、なんだか壮大な経験をしたような気持ちになる。見たこともない景色が、見えるような気がするのよね。それが、とても不思議だなぁと思う……」
「見たこともない景色……ですか」
「ええ……どうかしら。貴方と同じ答え?」
正解があるような問いではないと理解しつつ、音楽家である彼の前で、音楽について語るのはなかなか勇気が要った。アックスはリジェラの意見を否定も肯定もせず、しばらく考えるように黙り込んでいた。
「そうですね……」
ややあって、彼が話し出す。
「僕の考えは……少しだけ違います。リジェラ、聖夜のコンサートで歌った曲を覚えていますか?」
「ええ。えっと……こんな感じだったかしら」
ひときわ印象に残っているフレーズを口ずさむと、そうです、とアックスが応じた。
「それを聞くと、色々……思い出しませんか。練習したときの光景とか……ラ・ロシェルを去るときの、騒動とか……」
「ああ……そうね、そうかも」
教堂の美しいステンドグラスや、灰に覆われゆく街の景色――懐かしい記憶の数々を暗い夜空に思い描きながら、リジェラは頷いた。
「一緒に覚えているものなのね」
「そうですね、それで僕は……つまりそれが、いま貴女のなかに見えている光景が、音楽の解釈というものではないかな……と思ったんです」
「――え?」
リジェラは目を瞬いた。
「私の……解釈ということ?」
「はい。貴女だけの、です」
「でも私、楽譜だってほとんど読めないわ」
「それで良いんです」
小さく頷くような気配。
「きっと音楽は、触れた人の数だけ解釈があって……演奏の技術が高いというのは、音楽に触れて感じた世界を、どれだけ伝わりやすく表現できるか……ということではないかな、と思うんです」
なるほど、とリジェラは頷いた。
ただ、楽譜に書いてある音の並びを繰り返すのではなく。演奏者の内側にある世界を、音楽という言葉に翻訳して空気に乗せる――いわば音楽とは、言語とはまた別の枠で行われるコミュニケーションであると、そう言っているようだ。
「僕は……」
芯の通った声でアックスが言う。
「ルージュやロマンや、コラル・ルミエールの皆の音楽が好きです。それはつまり、演奏の向こう側にある、彼らの見ている世界が好きで……たとえルージュが声を失ったとしても、彼女の世界は色褪せないと気付きました」
「……そう」
思わず微笑みそうになるのを堪えて、リジェラは静かに相槌を打つ。
難儀な人だ――と思う。
歌声を失っても、ルージュ自身は変わらない。つまり、そんな当たり前の事実を受け入れるために、アックスはこれだけの言葉を要したようだ。ただ、仲間だから大切にしたいと言えば済む話に見えるのに、そんなややこしい理屈を通す必要があるなんて。
「まあ、何というか……安心したわ」
「安心? ……そうですか」
アックスが不思議そうに呟く。
影になった丘の向こうに、スーチェンの灯りが見えてきた。医療施設に辿りつく前に、彼の容態が悪化したらどうしようと危惧していたのだが、落ち着いた語り口からしても、どうやら調子が安定してきたようだ。
「……そういえば」
リジェラが内心ほっと胸をなで下ろすと、背後でアックスが言う。
「意外と……なんて言い方は失礼ですが。音感がちゃんとしてるんですね」
「え――さっきの?」
「はい」
先ほど、部分的にフレーズを口ずさんだことを言われているようだ。褒められると何だか悪い気はしなくて、そうかしら、とリジェラは思わず口元を緩める。それからふと思いついて、戯れに尋ねてみる。
「ねえ、アックス」
「何でしょう」
「もし私が、歌を教えて――って言ったら、教えてくれる?」
「……え。えぇと」
彼は呆気に取られた声を零して、黙り込む。
それから十数秒、
「違うのっ……ちょっと思っただけ!」
少し褒められただけで、自分にもできるのでは――などと思ってしまったことが、たまらなく恥ずかしくなった。可能なら、操縦桿から手を離して顔を覆ってしまいたい。物心ついた頃からずっと音楽のために生きてきた彼らと、同じ立場に立てるわけがないというのに。
「貴方にとっての音楽を軽んじる気はなくて――その、怒らせたならごめんなさい」
「あ、いえ……別に怒ってないです」
我に返ったような声でアックスが言う。
「すみません、そういう意味で黙ったのではなく……ただ少し、考えていたんです」
「考えていた……?」
「はい、もしも貴女に、本当に音楽の才覚があったら困るな……と」
「あったら?」
何かの言い間違いかと、リジェラは首を傾げた。
「なかったら、の間違いではなく?」
「なければ良いんですけど」
「何それ? 酷いわ」
リジェラがむっと唇を横に引くと、すみません、と苦笑交じりに謝られた。
「違うんです。ただ、
「それは――」
何かを言い掛けた口の形のまま、リジェラは硬直した。心臓のほうから、体温がじわじわと顔に上ってくるのを感じる。なんだか、アックスの口調は淡々としているのに、この上なく気恥ずかしいことを言われたような気がした。
「まあ……可能性の話ですけど」
リジェラの様子には気がついていないのか、彼は呑気さすら感じる口調で言う。
「僕はこの通り、あの子たちで手一杯なので、できれば貴女とはただの友人でありたいな、と……でも、貴女だけの音楽を聴いてみたい気持ちもあるので……難しいところですね」
「そ――そう」
汗で滑る操縦桿を握り直しながら、リジェラは素知らぬ表情で頷いた。
「なら、辞めておきましょうか――」
「え、いや……それは勿体ない。せっかく興味を持ったのに」
「もう――どうしろって言うの!」
耐えかねて、なかば叫ぶようなトーンで言うと「じゃあ、とりあえず」とアックスは悪びれる様子もなく言った。
「さっきの続き、歌ってみてください」
「……ちゃんと覚えてないけど」
「良いですよ」
「へ、下手でも……笑わない?」
「当然でしょう」
断定口調でアックスが言う。
今さら後にも引けなくて、リジェラは進行方向の空を見つめながら、思い切って息を吸い込んだ。
宇宙を映した藍色の空は深く、無数の星明かりがまるで道標のように煌めいている。うろ覚えで口ずさむフレーズは、星空の美しい景色や、
*
「え……マジのやつ?」
あろうことか、声の出し方を忘れてしまった――とロマンに告白したときの、彼の第一声はそれだった。想像をはるかに上回って間の抜けた返事に、ルージュが呆れて顔を歪めると「いや」と彼は首の後ろに手をやって、それから小声で言った。
「その……声質が変わって、それでオレらの前で話さないってのは、聞いてたから」
「――ぇ」
驚いて、思わず立ち止まってしまう。
後ろを歩いている
『誰から』
「コイツ」
と、ロマンが前方に手を伸ばして、先ほど合流したシェルの腕を掴む。一行の先頭で
「まあ、確かに――ぼくだけど」
「ほら」
ロマンがさらりと言う。ルージュが非難の意を込めてじっと見上げると、シェルは困ったように眉をひそめた。
「申し訳ないとは思うけど、ぼくに怒られてもなぁ……偶然、歌ってるとこ聴いちゃったんだよ。いつまでも隠し通せるものでもないでしょ」
「……ぁ……ぇ――ぃ、ぇす」
「分かってない?」
シェルが眉をひそめて「何が?」と心底不思議そうに呟いた。
おそらく、彼に悪気はないのだろう。歌声の変質が、音楽家としての矜恃にどれだけ関わるか、その重大さを理解していないだけだ。分かってはいつつもいらだちが勝り、ルージュは会話を切り上げてぷいと視線を逸らした。
「まあ――さ」
ロマンが取りなすように言う。
「忘れたって言うなら、思い出すまで付き合うし……あんま、重く考えんなよ」
『思い出せるか、分からないのに』
「さっき、声、出てたじゃん」
自身の喉を指さして、ロマンがからっと笑う。
「そっから辿って思い出せるって」
『……ありがと』
「え? 悪い、見えなかった」
唇を小さく動かして言ったのを見落とされる。もう一度言うのも照れくさく思えて、ルージュは返事の代わりに首を振った。
それにしても不思議だ。
ルージュの歌声の変質に、音楽家でないシェルが頓着しないのは分かる。だけど、コラル・ルミエールの仲間であるロマンやアックスが、妙に楽観的な理由はよく分からなかった。
いや――とルージュは首を捻る。
彼らが楽観的なのではなく、ルージュが過度に悲観的なのだろうか。だけど、それにしても少し違和感がある。だってアックスには、あのとき確かに、音楽家でないルージュに価値はないと言われた。
彼の言動が矛盾しているような。
『声が出なくなって、ピアノも弾けなくなったら――それでも、アタシのこと、守るべき音楽家だって言ってくれた?』
『それは、違うかな』
――そうか。
地下で交わした会話の流れを鮮明に思い出して、ルージュははっと顔を上げた。ひとつ、思い違いをしていた気がする。あのとき、アックスが言った「違う」は、「守るべき」ではなくて「音楽家」という言葉に掛かっていたのではないだろうか。
理解した瞬間、身体中から力が抜ける。
はあぁ、と長い溜息を吐いて、ルージュは額を抑えた。隣を歩くロマンがぎょっと目を見開いて「何だよ」と怪訝そうな表情で呟く。たったそれだけの、言葉の取り違えに悩まされて、自分はコラル・ルミエールを去ろうとしたのか。あまりに愚かしい勘違いに、二度と思い出してやるものか――とルージュは記憶に蓋をした。
「そういえばさ」
先を行くシェルに、ロマンが問いかけている。
「今って結局、どこの街に向かってんの?」
「ハイデラバードだね」
「もうすぐ着くよ」
その言葉通り、だんだんと空気に外気が混ざって、冷え込んできた。ハイバネイト・シティ内ではカーディガン一枚でも平気な室温だったが、肌寒くなって外套を羽織る。人工的だった通路は程なくして湿っぽい洞窟に変わり、やがて、夜空が見えてきた。
わあ、と幼少の団員たちが声を上げる。
久しぶりに触れる冷え切った夜の空気を、どこか懐かしく思っていると、シェルが「じゃあ」と言って集団から一歩離れた。
「ぼくはMDPの人を探すから、ここで一旦お別れかな」
「え? 一緒に来ないのかよ」
「うん、ぼく、一応は避難を助ける側だから……本部と連絡を取って、どうしたら良いか聞かないと」
「へぇ……」
残念そうにロマンが肩をすくめる。
それから彼はぱっと表情を真剣に作り替えて「じゃあ」とシェルの腕を掴んだ。
「最後にこれだけ教えてくれよ。結局さ、ロンガと何があったんだ?」
『……そういえば』
ルージュも彼らのほうに近づいて、ペンライトで口元を照らしながら問いかける。言われてみればたしかに、以前シェルと出会ったときは一緒に行動していたはずの、彼女が見当たらない。
『お姉さんと一緒にいないですね』
「それは――」
シェルの表情が、一気に強ばる。
いちばん触れられたくない部分に踏み込まれたことが、嫌でも伝わる表情だった。ルージュの背中を冷たいものが駆け抜ける。対してロマンは、シェルの雰囲気に気付いているのかいないのか「もしかしてさ」とどこか軽い口調で問いかけた。
「ルージュみたいに、声が変わったの?」
「……え?」
シェルは虚を突かれたような顔をして、それから「いや」と左右に首を一往復させた。
「違うけど……」
「あれ? 違うのか。いや、なんかさ――」
ロマンが白く濁った息を吐き出しながら、ルージュを見下ろした。
「ルージュ、さっき、オレたちを案内してくれた女の人さ、いたじゃん」
ああ――とルージュは頷く。
たしかエリザと名乗っていた。回線越しに声を聞いただけなので姿は見ていないが、ハイバネイト・シティの管理者だとか言っていた。
『それが、どうかしたの』
「うん、あの声さぁ――声質は違うんだけど、なんか声の切り方とか、息の抜き方とかがさ、ロンガに似てたと思わねぇ?」
「――え」
ガシャン、と派手な音が鳴る。
手から