chapitre169. 星明かり

文字数 10,073文字

「あ――えっと、君は」

 エメラルドグリーンの瞳をした女性が口走ったのは、フィラデルフィア語圏の公用語だった。シェルは記憶の箱を慌ててひっくり返して、彼女の名前を引き出す。

「リジェラさん、でしたね」
「え――ええ」

 かつて“春を待つ者(ハイバネイターズ)”だった彼女は、呆気に取られた表情でひとつ瞬きをする。それからシェルの肩にもたれている人に視線をやり、はっと口元を覆った。慌ててこちらに駆け寄り、その顔を下から覗く。

「……アックス?」
「リジェラ……」

 うつむけた顔を少しだけ上げて、アックスが途切れ途切れの声で呟いた。

「なぜ、ここに」
「貴方こそ、その傷……どうしたの。それに、あの子たちは?」
「あ――説明しますね」

 立って自重を支えているだけでも苦しそうな彼に代わって、シェルは簡潔に経緯を説明する。リジェラは説明を聞いて、なるほど、と頷いた。

「だから、知り合いの私が呼ばれたのかしら」
「呼ばれた? あ、そういえば」

 彼女の言い回しに眉をひそめて、そこでシェルは、エリザに言われたことを思い出す。

「ぼく、とりあえずこの場所まで来るように――って言われたんですけど、もしかして、あなたと合流しろって意味だったのかな。彼……早急に手当をしたほうが良いと思うんですけど、何か聞いていますか?」
「聞いてはないけど……」

 うぅん、とリジェラが小さく唸る。

「でも、手当をする場所まで連れて行くくらいはできるわ。近場だと、スーチェンの臨時本部かな」
「え――本当ですか」
「ええ、小型航空機(メテオール)で来たから」

 彼女はそう言って、通路の奥を指さした。

 その方角は、先ほどから風が吹いてくる方角と一致していて、なるほど――とシェルは納得する。上空でホバリングしている小型航空機(メテオール)の風が、通路を通り抜けてここまで届いているのだ。

 リジェラの案内に従って歩き、一行は十分もかからず、ラ・ロシェル直下の大穴まで到達した。

 ホバリングしている機体はかなり低い場所まで降ろしてあって、少し気を抜けばよろめきそうなほどの強風が、シェルの身体を叩きつける。吹き付ける風のなかでもリジェラは手際良くワイヤーをつないで、アックスと自身の身体を空中に吊り下げた。

 彼女が片手で水晶端末(クリステミナ)を器用に操作すると、風に揺れていたワイヤーがぴんと張る。そのまま勢いよくワイヤーが巻き取られて、二人は藍色から黒に移りゆく空に吸い込まれていった。

 強風になびく髪とコートの裾を抑えながら、シェルは不思議な感慨を胸に抱えて、その光景を見上げていた。地上で生まれ育ったアックスと、地下で使役されていたリジェラが、言葉や立場の壁を越えて友人になる――彼が見たかったのは、例えばこういう光景であるはずだ。

「……サジェス君」

 叩きつける風に目を細めて、シェルはその名前を呟く。目尻がつんと痛んで、涙で視界が歪んだ。

冬眠(ハイバネーション)が、終わったよ」

 今はもういない彼に、そう教えたい。

 その肉体も精神も、今は塵となって消えてしまい、世界中のどこを探しても存在しない。だけど、サジェスが揺るがない信条を持って地上を目指したとき、彼はきっと自分の死後すら見据えていただろう。たとえ彼の時間が有限に途切れても、その向こう側で野望を達したいと祈っていただろう。

 そんな彼の祈りが今、現実になろうとしていた。

 二人を乗せた小型航空機(メテオール)がその場でくるりと回り、星空に向けて垂直に浮上していく。シェルが機体を見送っていると、ひときわ強い風が斜め上から叩きつけて、そこで足下がぐらりと傾いた。すでに崩れかけていた床が、強風で決壊したようだ。

 サジェスの記憶に浸っていたシェルは我に返り、穴の底に飲み込まれていく足場を蹴って、近くの鉄骨に飛ぶ。

 だが、ぎりぎり届かない。

 爪先が鉄骨をかすめて、身体が後ろに傾く。

 このままでは頭から落ちる。

 とっさに足を引き寄せて、身体を反転させようとしたとき、かすかなモータ音が耳に届く。一秒後、暗闇に放り出されたはずのシェルの身体は、何かしっかりとしたものに支えられていた。

 びゅう、と風が前髪を揺らす。

 一歩間違えれば死にかけたことを自覚して、今さらのように鼓動が速くなる。それから、なぜ自分が落ちていないのか疑問に感じて、肩の後ろに視線をやる。そこには――金属のアームが展開して、シェルの背中から膝までを支えてくれていた。

『――シェル』

 苦笑交じりの声が背後で言う。

 スピーカーから流れるエリザの声だ。ロボットアームはシェルの身体を軽々と運び、安定した足場まで運んでから降ろす。

『気をつけてもらわないと』
「すみません、ぼうっとしてて……と、いうか、いたんですね」

 どうやら、積み重なった瓦礫と鉄骨の隙間に潜んで、様子を見守っていたようだ。展開した指先を折り畳みながら、ロボットアームがするすると通路の中へ戻っていく。シェルは肩から落ちた荷物を背負い直して、それを追いかけた。

「なぜ、今まで黙って?」
『リジェラに私の存在が知られると、少々厄介なので』
「ああ……それは、確かに」

 言われてみれば、そうだった。

 つい先ほどアックスにも言われた通り、エリザはサジェスが“春を待つ者(ハイバネイターズ)”に向けて唱えた物語の核となる人物だ。かつて“春を待つ者(ハイバネイターズ)”であり、サジェスの物語を信じていたリジェラの前に出てしまうと、話がややこしくなると考えて姿を現さなかったのだろう。

「そういえば」

 そこでふと気がついて、シェルはロボットアームのカメラを見上げる。

「あなたはまだ、コアルームにいるんですね」
『ええ』
「その……大丈夫なんですか。上層ですらこの有様では……最下層は、かなり崩壊が進んでいるのでは?」
『……平気ですよ』

 少しの間を挟んで、応答がある。

『まだ、彼らのように取り残されている集団がいないとも限りません。全て、避難が完了してから脱出します』
「でも――」
『平気です』

 彼女は強い口調で断言する。

『カシェも一緒に残ってくれているので』
「あ……そうなんですか」

 そうか、とシェルは目を見開く。

 考えてみれば、エリザの友人であり、彼女のことをとても大切に思っているカシェが、エリザを危険な場所に残して逃げるわけがない。女性だが体格に恵まれており、ハイバネイト・シティにも精通しているカシェが一緒なら、本当にコアルームに危険が及んだときは、彼女が助けてくれるだろう。

 交差路に差し掛かると、では、と言ってロボットアームがくるりと頭を回した。

『シェル、貴方はこれからどうしますか』
「あ、ぼくですか。えっと……」

 エリザに水を向けられて、そこで初めてシェルは、自分も迷子同然だったことを思い出す。元はといえば、通信機をなくして地上と連絡を取れなくなったところで、偶然にもロマンと出会ったのだった。

「どうしたら良いのかな……地上のMDPと、連絡を取りたいんですけど」
『じゃあ……唱歌団(コラル)の人たちと合流して、地上を目指したらどうですか。ちょうど、彼らにハイデラバードまでの道筋を伝えたところです』
「ああ……それなら」

 シェルは頷く。

 エリザが水晶端末(クリステミナ)に転送してくれた経路を辿れば、十分ほどでロマンたちと合流でき、三時間ほどでハイデラバードまで辿りつく計算だった。

「ごめんなさい、色々助けてもらって」
『いいえ。シェル、貴方だって、守られるべきラピス市民(ラピシア)のひとりなのですから』

 シェルの謝罪をさらりと受け流して、ロボットアームはくるりと腕を折り畳み、壁の隙間に吸い込まれていった。

 *

 凍った冬空に、星が瞬いている。

 太陽が照らす抜けるような青空とは趣が違うけれど、地球の影になった静かな夜空だって、なかなかに美しい。ただ今は、星空を楽しんでいるような余裕はなかった。リジェラはラ・ロシェル上空で機体を旋回させながら、後部座席に声を掛ける。

「アックス、横になって良いのよ」

 後部座席は二人掛けなので、大柄な彼でも、身体を横に倒すくらいのスペースはあった。

「怪我をしている足を、持ち上げた方が良いと思う。そっちの方が、血が止まりやすいから」
「ああ……すみません」

 いつになく力の入っていない声で言って、アックスが身体を倒す。小型航空機(メテオール)の重心が移動して、ほんの少し機体が傾いたが、すぐに自動補正が働いて元に戻る。リジェラはレバーを操作して、臨時本部が設けられているスーチェンに機体の方向を向けた。

 急がなければ。

 顔色の青白さや手足の冷たさからして、失血量がかなり多い。シェルが一通りの応急手当をしてくれたとはいえ、場合によっては輸血が必要な状況だろう。一刻も早く専門知識のある人に受け渡すべきだが、小型航空機(メテオール)の出せる速度にも限界がある。

 リジェラはもどかしく思いながら、計器の表示に目を凝らした。
 隣町のスーチェンまで、三十分ほど。

「ねえ、アックス」

 リジェラは明るい口調を保って話しかけた。

「何か話してくれない?」
「……何か、ですか」
「ええ。何でも良いのだけど」

 アックスは唐突な申し出に戸惑っているようだが、リジェラの提案には一応の理由があった。機体を操縦している都合上、後部座席にいる彼の姿を視認することはできない。なので、声が聞こえないと、彼の容態が悪化していないか確認できないのだ。

「そういえば……」

 注意して聞かなければ聞き逃しそうな声量で、アックスが呟く。

「ルージュが僕に怒っていた、理由が……分かったかもしれません」
「え――本当に!」

 思わず振り向きそうになるのを抑えて、リジェラは問い返した。アックスたちに幾度となく助けられておきながら、険悪な雰囲気の彼らを置いて出てきてしまったことが、今朝からずっと胸に引っかかっていたのだ。

 はい、とアックスが頷く。

「ルージュに……もし、彼女が音楽の技能を失ったとして、それでも自分を助けるのか、と……尋ねられました」
「それは……」

 リジェラは言葉を選びながら言う。

「大抵の人間なら、勿論、と即答するところよ」
「でしょうね」

 小さく苦笑するような声が応じる。

「だけど、僕がルージュに、音楽を創り出す以外の役割を求めないのなら、返事はノーになりうる。現に……彼女の声が変わってしまったとき、僕は悩みました。歌声を失った音楽家に、守る価値はあるのか、と」

 淡々と綴られる言葉に、リジェラは黙って耳を傾ける。コラル・ルミエールの人々は、長い修練を経て選び抜かれた音楽家だ。部外者のリジェラが想像する以上に、音楽は、彼らの価値観の深いところまで根ざしているのだ。

「悩んでいる当事者の子供を、見捨てるわけにもいかない。だけど、音楽を前提として繋がった仲であるのも事実……そんな葛藤が、ルージュに見抜かれていたんでしょう」
「……それで」

 高度を上げながら、リジェラは相槌を打つ。

「その葛藤に答えは出たの?」
「出せた……と、思います」

 やや速い呼吸をしながら、どこか心許ない口調でアックスが応じる。

「思えば、僕は――いえ、僕たちは、音楽家であることを、あらかじめ決められて生まれてきた存在です。だけど、誰かに強制されて音楽をやっているとは思わない。楽しいから、そこに魅力を感じるから、音楽を辞められない……」

 アックスはそこで言葉を切って、ひとつ呼吸を挟んだ。

「リジェラ、貴女は、音楽の魅力とは何だと思いますか?」
「え!?

 彼の独白を聞いていたリジェラは、突然自分に話題を振られて、しかも妙に本質めいた質問をされたので、思わず高い声を上げてしまった。危うく手元が滑りそうになり、慌ててレバーを握り直す。

「私……まったくの素人よ? 貴方に、意味のある答えを返せるとは思えないけど」
「いえ、むしろ……何の予備知識もない貴女にこそ、聞いてみたいんです」
「そ……そうなの?」

 それなら――と咳払いをして、リジェラは緊張しながらもひとつひとつ言葉を選んでいった。

「音楽って……不思議なものだと思うわ」

 おそらく二度と帰ることのない、コラル・ルミエールがかつて生活していた教堂(チャーチ)を思い出しながら、リジェラは目を細める。

「ただ、音を聞いているだけのはずなのに、なんだか壮大な経験をしたような気持ちになる。見たこともない景色が、見えるような気がするのよね。それが、とても不思議だなぁと思う……」
「見たこともない景色……ですか」
「ええ……どうかしら。貴方と同じ答え?」

 正解があるような問いではないと理解しつつ、音楽家である彼の前で、音楽について語るのはなかなか勇気が要った。アックスはリジェラの意見を否定も肯定もせず、しばらく考えるように黙り込んでいた。

「そうですね……」

 ややあって、彼が話し出す。

「僕の考えは……少しだけ違います。リジェラ、聖夜のコンサートで歌った曲を覚えていますか?」
「ええ。えっと……こんな感じだったかしら」

 ひときわ印象に残っているフレーズを口ずさむと、そうです、とアックスが応じた。

「それを聞くと、色々……思い出しませんか。練習したときの光景とか……ラ・ロシェルを去るときの、騒動とか……」
「ああ……そうね、そうかも」

 教堂の美しいステンドグラスや、灰に覆われゆく街の景色――懐かしい記憶の数々を暗い夜空に思い描きながら、リジェラは頷いた。

「一緒に覚えているものなのね」
「そうですね、それで僕は……つまりそれが、いま貴女のなかに見えている光景が、音楽の解釈というものではないかな……と思ったんです」
「――え?」

 リジェラは目を瞬いた。

「私の……解釈ということ?」
「はい。貴女だけの、です」
「でも私、楽譜だってほとんど読めないわ」
「それで良いんです」

 小さく頷くような気配。

「きっと音楽は、触れた人の数だけ解釈があって……演奏の技術が高いというのは、音楽に触れて感じた世界を、どれだけ伝わりやすく表現できるか……ということではないかな、と思うんです」

 なるほど、とリジェラは頷いた。

 ただ、楽譜に書いてある音の並びを繰り返すのではなく。演奏者の内側にある世界を、音楽という言葉に翻訳して空気に乗せる――いわば音楽とは、言語とはまた別の枠で行われるコミュニケーションであると、そう言っているようだ。

「僕は……」

 芯の通った声でアックスが言う。

「ルージュやロマンや、コラル・ルミエールの皆の音楽が好きです。それはつまり、演奏の向こう側にある、彼らの見ている世界が好きで……たとえルージュが声を失ったとしても、彼女の世界は色褪せないと気付きました」
「……そう」

 思わず微笑みそうになるのを堪えて、リジェラは静かに相槌を打つ。

 難儀な人だ――と思う。

 歌声を失っても、ルージュ自身は変わらない。つまり、そんな当たり前の事実を受け入れるために、アックスはこれだけの言葉を要したようだ。ただ、仲間だから大切にしたいと言えば済む話に見えるのに、そんなややこしい理屈を通す必要があるなんて。

「まあ、何というか……安心したわ」
「安心? ……そうですか」

 アックスが不思議そうに呟く。

 影になった丘の向こうに、スーチェンの灯りが見えてきた。医療施設に辿りつく前に、彼の容態が悪化したらどうしようと危惧していたのだが、落ち着いた語り口からしても、どうやら調子が安定してきたようだ。

「……そういえば」

 リジェラが内心ほっと胸をなで下ろすと、背後でアックスが言う。

「意外と……なんて言い方は失礼ですが。音感がちゃんとしてるんですね」
「え――さっきの?」
「はい」

 先ほど、部分的にフレーズを口ずさんだことを言われているようだ。褒められると何だか悪い気はしなくて、そうかしら、とリジェラは思わず口元を緩める。それからふと思いついて、戯れに尋ねてみる。

「ねえ、アックス」
「何でしょう」
「もし私が、歌を教えて――って言ったら、教えてくれる?」
「……え。えぇと」

 彼は呆気に取られた声を零して、黙り込む。

 それから十数秒、小型航空機(メテオール)のプロペラが回る音だけが密閉した室内に響いていた。あまりにも長い沈黙が耐え難くなり、リジェラは頬が熱くなるのを感じながら、わざと明るめの声で言った。

「違うのっ……ちょっと思っただけ!」

 少し褒められただけで、自分にもできるのでは――などと思ってしまったことが、たまらなく恥ずかしくなった。可能なら、操縦桿から手を離して顔を覆ってしまいたい。物心ついた頃からずっと音楽のために生きてきた彼らと、同じ立場に立てるわけがないというのに。

「貴方にとっての音楽を軽んじる気はなくて――その、怒らせたならごめんなさい」
「あ、いえ……別に怒ってないです」

 我に返ったような声でアックスが言う。

「すみません、そういう意味で黙ったのではなく……ただ少し、考えていたんです」
「考えていた……?」
「はい、もしも貴女に、本当に音楽の才覚があったら困るな……と」
「あったら?」

 何かの言い間違いかと、リジェラは首を傾げた。

「なかったら、の間違いではなく?」
「なければ良いんですけど」
「何それ? 酷いわ」

 リジェラがむっと唇を横に引くと、すみません、と苦笑交じりに謝られた。

「違うんです。ただ、唱歌団(コラル)の関係者以外で友人と呼べる相手は、貴女が初めてなんですけど……もし、貴女に音楽の才覚まであったら、友人なんて無責任な立場ではいられないだろうな、と思って」
「それは――」

 何かを言い掛けた口の形のまま、リジェラは硬直した。心臓のほうから、体温がじわじわと顔に上ってくるのを感じる。なんだか、アックスの口調は淡々としているのに、この上なく気恥ずかしいことを言われたような気がした。

「まあ……可能性の話ですけど」

 リジェラの様子には気がついていないのか、彼は呑気さすら感じる口調で言う。

「僕はこの通り、あの子たちで手一杯なので、できれば貴女とはただの友人でありたいな、と……でも、貴女だけの音楽を聴いてみたい気持ちもあるので……難しいところですね」
「そ――そう」

 汗で滑る操縦桿を握り直しながら、リジェラは素知らぬ表情で頷いた。

「なら、辞めておきましょうか――」
「え、いや……それは勿体ない。せっかく興味を持ったのに」
「もう――どうしろって言うの!」

 耐えかねて、なかば叫ぶようなトーンで言うと「じゃあ、とりあえず」とアックスは悪びれる様子もなく言った。

「さっきの続き、歌ってみてください」
「……ちゃんと覚えてないけど」
「良いですよ」
「へ、下手でも……笑わない?」
「当然でしょう」

 断定口調でアックスが言う。

 今さら後にも引けなくて、リジェラは進行方向の空を見つめながら、思い切って息を吸い込んだ。

 宇宙を映した藍色の空は深く、無数の星明かりがまるで道標のように煌めいている。うろ覚えで口ずさむフレーズは、星空の美しい景色や、小型航空機(メテオール)のプロペラ音や、後ろで聴いている人の存在と混ざり合って、リジェラの記憶に刻まれていく。

 *

「え……マジのやつ?」

 あろうことか、声の出し方を忘れてしまった――とロマンに告白したときの、彼の第一声はそれだった。想像をはるかに上回って間の抜けた返事に、ルージュが呆れて顔を歪めると「いや」と彼は首の後ろに手をやって、それから小声で言った。

「その……声質が変わって、それでオレらの前で話さないってのは、聞いてたから」
「――ぇ」

 驚いて、思わず立ち止まってしまう。

 後ろを歩いている唱歌団(コラル)の仲間に聞かれていないか不安になりながら、ルージュは唇の動きで問い返した。

『誰から』
「コイツ」

 と、ロマンが前方に手を伸ばして、先ほど合流したシェルの腕を掴む。一行の先頭で水晶端末(クリステミナ)を見ながら歩いていた彼は、ひとつに結んだ髪をひるがえして気まずそうに振り返った。

「まあ、確かに――ぼくだけど」
「ほら」

 ロマンがさらりと言う。ルージュが非難の意を込めてじっと見上げると、シェルは困ったように眉をひそめた。

「申し訳ないとは思うけど、ぼくに怒られてもなぁ……偶然、歌ってるとこ聴いちゃったんだよ。いつまでも隠し通せるものでもないでしょ」
「……ぁ……ぇ――ぃ、ぇす」
「分かってない?」

 シェルが眉をひそめて「何が?」と心底不思議そうに呟いた。

 おそらく、彼に悪気はないのだろう。歌声の変質が、音楽家としての矜恃にどれだけ関わるか、その重大さを理解していないだけだ。分かってはいつつもいらだちが勝り、ルージュは会話を切り上げてぷいと視線を逸らした。

「まあ――さ」

 ロマンが取りなすように言う。

「忘れたって言うなら、思い出すまで付き合うし……あんま、重く考えんなよ」
『思い出せるか、分からないのに』
「さっき、声、出てたじゃん」

 自身の喉を指さして、ロマンがからっと笑う。

「そっから辿って思い出せるって」
『……ありがと』
「え? 悪い、見えなかった」

 唇を小さく動かして言ったのを見落とされる。もう一度言うのも照れくさく思えて、ルージュは返事の代わりに首を振った。

 それにしても不思議だ。

 ルージュの歌声の変質に、音楽家でないシェルが頓着しないのは分かる。だけど、コラル・ルミエールの仲間であるロマンやアックスが、妙に楽観的な理由はよく分からなかった。

 いや――とルージュは首を捻る。

 彼らが楽観的なのではなく、ルージュが過度に悲観的なのだろうか。だけど、それにしても少し違和感がある。だってアックスには、あのとき確かに、音楽家でないルージュに価値はないと言われた。

 彼の言動が矛盾しているような。

『声が出なくなって、ピアノも弾けなくなったら――それでも、アタシのこと、守るべき音楽家だって言ってくれた?』
『それは、違うかな』

 ――そうか。

 地下で交わした会話の流れを鮮明に思い出して、ルージュははっと顔を上げた。ひとつ、思い違いをしていた気がする。あのとき、アックスが言った「違う」は、「守るべき」ではなくて「音楽家」という言葉に掛かっていたのではないだろうか。

 理解した瞬間、身体中から力が抜ける。

 はあぁ、と長い溜息を吐いて、ルージュは額を抑えた。隣を歩くロマンがぎょっと目を見開いて「何だよ」と怪訝そうな表情で呟く。たったそれだけの、言葉の取り違えに悩まされて、自分はコラル・ルミエールを去ろうとしたのか。あまりに愚かしい勘違いに、二度と思い出してやるものか――とルージュは記憶に蓋をした。

「そういえばさ」

 先を行くシェルに、ロマンが問いかけている。

「今って結局、どこの街に向かってんの?」
「ハイデラバードだね」

 水晶端末(クリステミナ)から投影されたウィンドウのひとつを指して、シェルが応じる。

「もうすぐ着くよ」

 その言葉通り、だんだんと空気に外気が混ざって、冷え込んできた。ハイバネイト・シティ内ではカーディガン一枚でも平気な室温だったが、肌寒くなって外套を羽織る。人工的だった通路は程なくして湿っぽい洞窟に変わり、やがて、夜空が見えてきた。

 わあ、と幼少の団員たちが声を上げる。

 久しぶりに触れる冷え切った夜の空気を、どこか懐かしく思っていると、シェルが「じゃあ」と言って集団から一歩離れた。

「ぼくはMDPの人を探すから、ここで一旦お別れかな」
「え? 一緒に来ないのかよ」
「うん、ぼく、一応は避難を助ける側だから……本部と連絡を取って、どうしたら良いか聞かないと」
「へぇ……」

 残念そうにロマンが肩をすくめる。

 それから彼はぱっと表情を真剣に作り替えて「じゃあ」とシェルの腕を掴んだ。

「最後にこれだけ教えてくれよ。結局さ、ロンガと何があったんだ?」
『……そういえば』

 ルージュも彼らのほうに近づいて、ペンライトで口元を照らしながら問いかける。言われてみればたしかに、以前シェルと出会ったときは一緒に行動していたはずの、彼女が見当たらない。

『お姉さんと一緒にいないですね』
「それは――」

 シェルの表情が、一気に強ばる。

 いちばん触れられたくない部分に踏み込まれたことが、嫌でも伝わる表情だった。ルージュの背中を冷たいものが駆け抜ける。対してロマンは、シェルの雰囲気に気付いているのかいないのか「もしかしてさ」とどこか軽い口調で問いかけた。

「ルージュみたいに、声が変わったの?」
「……え?」

 シェルは虚を突かれたような顔をして、それから「いや」と左右に首を一往復させた。

「違うけど……」
「あれ? 違うのか。いや、なんかさ――」

 ロマンが白く濁った息を吐き出しながら、ルージュを見下ろした。

「ルージュ、さっき、オレたちを案内してくれた女の人さ、いたじゃん」

 ああ――とルージュは頷く。

 たしかエリザと名乗っていた。回線越しに声を聞いただけなので姿は見ていないが、ハイバネイト・シティの管理者だとか言っていた。

『それが、どうかしたの』
「うん、あの声さぁ――声質は違うんだけど、なんか声の切り方とか、息の抜き方とかがさ、ロンガに似てたと思わねぇ?」
「――え」

 ガシャン、と派手な音が鳴る。

 手から水晶端末(クリステミナ)を滑らせたシェルが、異様に引きつって白くなった顔で「今、なんて」と呟いた。
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登場人物紹介

リュンヌ・バレンシア(ルナ)……「ラピスの再生論」の主人公。統一機関の研修生。事なかれ主義で厭世的、消極的でごく少数の人間としか関わりを持とうとしないが物語の中で次第に変化していく。本を読むのが好きで、抜群の記憶力がある。長い三つ編みと月を象ったイヤリングが特徴。名前の後につく「バレンシア」は、ラピス七都のひとつであるバレンシアで幼少期を送ったことを意味する。登場時は19歳、身長160cm。chapitre1から登場。

ソレイユ・バレンシア(ソル)……統一機関の研修生。リュンヌ(ルナ)の相方で幼馴染。ルナとは対照的に社交的で、どんな相手とも親しくなることができ、人間関係を大切にする。利他的で、時折、身の危険を顧みない行動を取る。明るいオレンジの髪と太陽を象ったイヤリングが特徴。登場時は19歳、身長160cm。chapitre1から登場。

カノン・スーチェン……統一機関の研修生で軍部所属。与えられた自分の「役割」に忠実であり、向学心も高いが、人に話しかけるときの態度から誤解されがち。登場時は19歳、身長187cm。chapitre1から登場。

アルシュ・ラ・ロシェル……統一機関の研修生で政治部所属。リュンヌの友人で同室のルームメイト。気が弱く様々なことで悩みがちだが、優しい性格と芯の強さを兼ね備えている。登場時は19歳、身長164cm。chapitre3から登場。

ティア・フィラデルフィア……とある朝、突然統一機関のカフェテリアに現れた謎の少年。ラピスの名簿に記録されておらず、人々の話す言葉を理解できない。登場時は10歳前後、身長130cm程度。chapitre1から登場。

サジェス・ヴォルシスキー……かつて統一機関の幹部候補生だったが、今の立場は不明。リュンヌたちの前に現れたときはゼロという名で呼ばれていた。赤いバンダナで首元を隠している。登場時は21歳、身長172cm。chapitre11から登場。

ラム・サン・パウロ……統一機関の研修生を管理する立場。かつて幹部候補生だったが現在は研修生の指導にあたっており、厳格だが褒めるときは褒める指導者。登場時は44歳、身長167cm。chapitre3から登場。

エリザ……かつてラ・ロシェルにいた女性。素性は不明だが「役割のない世界」からやってきたという。リュンヌと話すのを好み、よく図書館で彼女と語らっていた。笑顔が印象的。登場時は32歳、身長155cm。chapitre9から登場。

カシェ・ハイデラバード……統一機関政治部所属の重役幹部。有能で敏腕と噂されるがその姿を知る者は多くない。見る者を威圧する空気をまとっている。ラムとは古い知り合い。登場時は44歳、身長169cm。chapitre12から登場。

リヤン・バレンシア……バレンシア第43宿舎の住人。宿舎の中で最年少。年上に囲まれているためか無邪気な性格。登場時は17歳、身長152cm。chapitre31から登場。

アンクル・バレンシア……バレンシア第43宿舎の宿長。道具の制作や修繕を自分の「役割」に持つ、穏やかな雰囲気の青年。宿舎の平穏な生活を愛する。登場時は21歳、身長168cm。chapitre33から登場。

サテリット・バレンシア……第43宿舎の副宿長。アンクルの相方。バレンシア公立図書館の司書をしている。とある理由により左足が不自由。あまり表に現れないが好奇心旺盛。登場時は21歳、身長155cm。chapitre33から登場。

シャルル・バレンシア……第43宿舎の住人。普段はリヤンと共に農業に従事し、宿舎では毎食の調理を主に担当する料理長。感情豊かな性格であり守るべきもののために奔走する。登場時は21歳、身長176cm。chapitre33から登場。

リゼ・バレンシア……かつて第43宿舎に住んでいた少年。登場時は16歳、身長161cm。chapitre35から登場。

フルル・スーチェン……MDP総責任者の護衛及び身の回りの世話を担当する少女。統一機関の軍部出身。気が強いが優しく、MDP総責任者に強い信頼を寄せている。登場時は17歳、身長165cm。chapitre39から登場。

リジェラ……ラ・ロシェルで発見されたハイバネイターズの一味。登場時は22歳、身長157cm。chapitre54から登場。

アックス・サン・パウロ……コラル・ルミエールの一員。温厚で怒らない性格だが、それゆえ周囲に振り回されがち。登場時は20歳、身長185cm。chapitre54から登場。

ロマン・サン・パウロ……コラル・ルミエールの一員。気難しく直情的だが、自分のことを認めてくれた相手には素直に接する。登場時は15歳、身長165cm。chapitre54から登場。

ルージュ・サン・パウロ……コラル・ルミエールの一員。本音を包み隠す性格。面白そうなことには自分から向かっていく。登場時は16歳、身長149cm。chapitre54から登場。

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