chapitre34. あの時の続きを
文字数 7,462文字
「さあ、続きを教えて? 算術の試験で
今晩もまた、いつもと同じく、サテリットにラ・ロシェルでの日々を語って聞かせる日だった。少なくとも彼女はそう期待していただろう。胸の前でかたく結んだ指からそれが伝わってきて、申し訳ないと思いつつもロンガは「その話は後でもいいか?」と切り出した。
「え、どうして?」
サテリットは少し意外そうな顔をして、それでもロンガを咎めるような口調にはならなかった。少し安堵する。
「相談に乗ってくれないか」
「……ロンガがそんなこと言うなんて意外。何かあったの?」
彼女の揺らがない視線を受けて、やはり始めにアルシュのことを話すならサテリットが適任だ、と確信した。サテリットには既に、今やメトル・デ・ポルティの総責任者として知れ渡ったアルシュが自分の旧友であることを伝えてあった。その彼女にラ・ロシェルに戻らないかと提案されたことを告げると、サテリットの顔に明らかな落胆が浮かんだ。
そっか、と呟いてサテリットは指先に髪を絡める。
「ラ・ロシェルにいる方がロンガにとって安全なら、それも仕方ないのかな。――でも、一つ聞き捨てならないんだけど」
「な、何?」
突然厳しい口調になったサテリットにロンガがたじろぐと、彼女は少し語気を弱めて言った。
「自分は
「だって。私の前には違う住人がいたんだろう」
思わず口に出してから、しまった、と思った。ロンガの予想通り、サテリットは口をつぐんで見る間に表情を曇らせた。軽はずみな行動を後悔するが、今さら口から出た言葉が戻るわけでもなかった。薄雲が月を隠し、しばらくして再び月光が差すと、サテリットは小さく口元を引いて話し始めた。
「――そうだよね。リゼのことを隠してたのは私たちのほう」
「聞いてもいいのか?」
慎重にロンガが問いかけると、サテリットは小さい頷きを返した。
「隠してるわけじゃないからね。けど、それを話すためにはまずリヤンの話をしないといけない」
「リヤンが関係あるのか」
「大いにね」
サテリットは頷き、更に声を潜めて、ほとんど囁き声のような声で言った。
「リゼ――亡くなった5人目の住人は、リヤンの兄なの」
「それは……」
ロンガはごくりと唾を飲み込んだ。
「比喩とかではなく?」
「正真正銘の
「あの子はソヴァージュで、上にもう一人親を同じくする兄がいた……」
確認したロンガに、サテリットは頷いてみせた。
彼女が不安げに瞳を揺らしている理由はよく分かった。動物としての正規の繁殖手段で生まれ落ちた子供は、冷たい目で見られることこそあれ、好感を持たれることは決してない。それどころか、時には穢れや不徳の象徴として迫害される。
もちろん新都ラピスの掟は、
「あのリヤンがか……。事情は分かった」
「冷静に聞いてくれてありがとう」
緊張した表情を弛緩させて、サテリットがほのかに微笑んだ。
ソヴァージュとはロンガも並々ならぬ関係があるというか、ロンガ自身が
代わりに、サテリットの話したいだろう方向に話を進めようとした。
「それで、なぜリヤンの兄は――」
その瞬間、ロンガの言葉を消し去るように場違いなサイレンが鳴り響いた。
2人は一瞬目を見合わせ、すぐに屋根を降りてバルコニーに戻った。
ロンガは宿舎の部屋を回り、もう寝床に入っていたリヤンたちを起こした。一分後には
「いつも通り行こう。いいね、落ち着いて。僕は観測所に行く。サテリットは有線放送を。リヤン、シャルル、ロンガが現場に向かう。オッケー?」
「了解」「分かった」「大丈夫!」「任せろ」
四つの声が重なる。深夜に叩き起こされたにも関わらず、殊更に上ずることもない、平穏なトーンの声だ。
アンクルは高台に駆けていき、サテリットは物置部屋へ非常電源を取りに行った。ロンガたちが外の倉庫で出発準備をしていると、サテリットの声がスピーカー越しに聞こえた。
『――
ロンガたちが
最初にラ・ロシェルを襲った発生原因不明の
バレンシアでは謎の「白い霧」として恐れられていた現象に名前を付け、その対処法をシステムとして確立させるのにはロンガも一役買った。半年にわたる根回しと議論の結果、高台からの観測による座標推定、非常電源を用いての警戒放送、対処班の編制など必要な仕組みができあがった。第43宿舎の5人は、バレンシア中に20ほど存在する幻像対処班の1つでもあった。
放送された数値を頭にたたき込み、3人は第28宿舎の方面に駆け出す。機敏なリヤンが先陣を切り、シャルルがその後ろを走る。最後尾のロンガは前方を照らしつつ、サテリットの放送を聞き漏らさないよう耳を澄ました。
『幻像は第一類、侵入者の危険性はありません。幻像の半径は50と推定、拡大中です。幻像対処班Cが現場に直行中。近隣の住民は対処班に巻き込まれない様、速やかに宿舎内に待機して下さい。避難対象の宿舎は第8宿舎、第12から15、第19から――』
「50っつったか。結構でかいな」
シャルルが妙に呑気な感想を零した。先頭を走るリヤンは「ねー、派手だねぇ」と長閑な口調で相槌を打つ。ロンガは2人のやり取りを黙って聞いていたが、彼らの緊張感のなさに苦言を呈するつもりはなかった。
十分な注意さえ払えば、さほど難しい業務ではない。
サテリットが警戒放送で宣言した「第一類」というのがそれを意味する。バレンシア内で平均して十日に一回ほど発生する幻像の、九割以上は第一類だ。この分類の意味するところは、過去や未来の景色を見せるだけで実害はない幻像、従って第一類の幻像は視覚的に住民を惑わせるだけで物理的被害は発生しない。危惧すべきは混乱に陥った住民の衝突など二次災害だが、警戒放送がしっかりと整備されたためにその発生率も激減した。
木立の隙間から膨らんで張り出している、白い光の壁にリヤンが躊躇なく飛び込んだ。
「鈴を付けろ、リヤン!」
「分かってるよぉ?」
間延びしたリヤンの返事を聞きながら、ロンガも腰に小さな鈴を取り付ける。シャルルを含む3人は音程の違う鈴をそれぞれ付けている。鈴の音程で互いを区別し、同時に衝突を防ぐ工夫だ。
先鋒のリヤン、次鋒のシャルルに続いてロンガも白い壁を突き破る。とたんに強い光量が炸裂し、闇に馴染んでいた目が眩んだ。細く絞ったまぶたの隙間で、暴力的とも言えるほどの光が破裂する。
目を慣らし、ロンガは幻像内部を見渡した。
時刻は昼。
太陽の傾きを見るに、正午よりは少し過ぎた頃のようだ。
ロンガは無線機を取り出して手探りでボタンを押し、話しかけた。
「ロンガだ。幻像範囲内に突入した。昼時みたいだ」
『こちらアンクル。拡大は停滞中、現在半径は65。
「了解。――2人とも聞いたか?」
無線を切り、前方を走っているだろうリヤンとシャルルに問いかけると、「うん!」「いやぁ聞こえねえよ。ま、想像できるけどな」と、見事に真逆の返事が返ってきた。鈴の音を阻害しないために無線機の音量を絞っているから、シャルルのように聞こえないのが普通で、リヤンの耳が並外れて良いのだ。
リヤンの優れた聴覚は、彼女が小柄で年少にも関わらず「幻像対処班」の切り込み隊長を任されている一つの理由だ。もう一つの理由は思い切りの良さにある。見えるはずのないものが見え、見えるはずのものが見えない幻像内部では、そうと分かっていても惑わされるものだ。
だがリヤンは違う。
白昼の大通りに行き交う人々――が見えている空間に、リヤンが一切速度を緩めず突っ込んだのが鈴の音で分かる。思い切りが良いと言えば褒め言葉だし、向こう見ずと言うのもまた正しい。
己の身を顧みず突っ込んでいくリヤンの姿勢に、どこか
「おっけ、“幻像核”確保」
ロンガは安堵の息を吐いた。顔こそ見えないものの、仲間の間に一先ず安心した空気が流れるのを感じ取る。幻像は水晶結晶を核として生成し、核を破壊すれば消失するため、“幻像核”を確保すれば任務の前半は完了だ。
だが任務後半のために、水晶はまだ破壊しない。次いで3人は分担し、周囲の宿舎を見て回った。貼り紙やメモ書きに目を滑らせ、日付の書いてあるものを探す。
幻像の見せている時間が
ラピスで広く幻像という謎の現象が知られてから2年経ち、対処法こそ確立されてきたものの、未だに生成する理由もきっかけも分からない。少しでも理解を深めるために、ロンガたち幻像対処班は内部時間を記録することにしていた。
「新聞、あったよ!」
鈴の音と共にリヤンの声が聞こえる。
「ええと――創都339年だね。日付はっと――」
言われたとおりの内容を、ロンガは無線でサテリットに伝える。最近ではすっかり役割分担が確立された。アンクルは高台から幻像の様子を観測して、現場に向かうロンガたちに情報を伝える。歩くために杖を必要とする彼女は、突撃隊に加われないので警戒放送と記録を担当する。
ロンガが説明した内容を、サテリットは確認のため繰り返した。
『三三九年ね。日付はどう』
「リヤン、日付を……あれ、リヤン?」
いつも元気な声が先程から静かになっていることに気付き、ロンガは彼女のいるべき方に向かった。だが、高い鈴の音と低い鈴の音、どちらも聞こえてこない。とつぜん静まりかえった仲間たちを不審に思いながら、最後に音の聞こえた方角に向かうと、どん、と何かにぶつかった。虚無の空間から途端に鈴の音が響き、ロンガは身を固くする。
「わっ――」
「誰……あぁ、シャルルか」
声と鈴の音で察してロンガは安堵する。
「いるならそうと言ってくれ。なあ、リヤンはどこだ? 全く動かないと音が出ないのは鈴の難点だな……」
そこで違和感を覚え、言葉を切った。
シャルルの返事が聞こえない。多弁ではないが寡黙でもない彼が、ましてや幻像対処班としての活動中に、任務内容に関わる質問に答えない理由がない。
しかし、確かに隣にいる気配があるにも関わらず彼は黙りこくっていた。
凍りついたような沈黙。
息遣いが不自然なリズムを刻むのが聞こえた。
ロンガはようやく異常に気付き、「どうした?」と不審げに呼びかけながら、何が見えるわけでもないのに周りを見回した。彼の精神状態か身体か、分からないがとにかく想定外の事態が起きている。
受信機からブツッという音がして、アンクルが回線に割り込んだ。
『ロンガ。想定外の事態かな?』
「想定外というか何というか……」
ロンガが起きている事実をそのまま伝えると、ふむ、と回線の向こうで難しそうに呟いた。ややあって、当惑する彼女を励ますように明るい声が話し始めた。
『とりあえず今のところ、3人は近くにいるということだね?』
「そのはずだ」
『状況は気になるけど、とにかく日時を確認して欲しい。それさえ済めば“幻像核”を破壊して対処できるからさ。リヤンが幻像内の年を教えてくれたのなら、必ずその辺りに日付を確認できるものがあるはずだ。ロンガ、任せられる?』
「……アンの言うとおりだな。すぐやろう」
探すまでもなくすぐに見つかった。誰かが投げ捨てたらしい新聞の――ロンガが勤務する伝報局で毎朝発行しているものだ――日付を読み上げる。
「創都339年、
『記録したよ』
『お疲れ。じゃあ速やかに幻像の除去を――』
言いかけたアンクルの声がぷつりと切れる。ロンガは無線機の不具合を疑ったが、背景の雑音は入り続けていた。代わりにサテリットの押し殺した声が聞こえた。
『収穫祭の日、だね?』
「ああ、確かに――」
頷いたとき、思わず無線機を放り投げかけるほどの大声が飛び出した。
『今すぐ核を破壊しろ、ロンガ! 彼らに見せちゃダメだ』
「なんて?」
ロンガは目を眇めて問い返す。
「いや、勿論。すぐに壊す」
ポケットに手を伸ばし、ロンガは手のひら大の装置を取り出した。視界が効かない幻像内部でも使えるよう、極めてシンプルな作りになっている。スライド式のカバーとスイッチが一つずつ。小型の水晶を内部に収めると、高圧水が内部に噴射される。硬度の高い水晶を安全に破壊できるよう開発された装置だ。
シャルルの握りしめた水晶をもぎ取ろうと手を伸ばしたロンガは、彼の意外な抵抗にあってたたらを踏む。大きく傾いたその視界に、5人組の通行人が映り込んだ。男性が3人、女性が2人。1人は明らかに幼く、他の4人も10代と思われる。取り立てて目立つ容姿でも振る舞いでもない。
だから見逃しかけて――その示すところに気がつき、ロンガは目を見開いた。
在りし日の昼時を映し出す幻像内界において、似たような通行人は何組もあったが、ロンガは瞬きもせず彼らだけを見つめた。
創都339年、今から5年前。
ロンガたちは16歳でリヤンが12歳の年だ。
その当時のリヤンとシャルルとアンクルとサテリットが、そして見知らぬ青年が連れ立って歩いていた。どの顔もあどけなく笑っており、彼らの視線はどれも見知らぬ青年に注がれていた。視線に込められた尊敬と親しみは、時を超えて未来から見ているロンガにも感じ取れた。
即座に察してしまう。
彼こそ、埃を被ったあの椅子の主、そしてリヤンの兄だ。
胸元を強く引かれた。忙しなく鳴る鈴の音はリヤンのものだ。動転した声が言う。
「ロンガ、だよね……? あたしはここにいるよね?」
「リヤン、勿論だ」
ロンガは手探りでリヤンの腕を掴み、異様に冷たい手のひらを包んで握った。
「今日の日付が言えるか? ここがどこか分かる?」
「344年、
正しい日付を口にしかけたリヤンは、上ずった声を喉からもらして屈み込んだ。服を掴まれているロンガはつられて腰を落とし、小さく震えているリヤンの肩に手を回した。
やだ、違う、そんな言葉が辛うじて聞き取れた。
取り落として地面に転がった無線機から、急いで、と急かす声が絶え間なく流れ出ている。幻像核の処理を優先することを決意したロンガは、リヤンから手を離し、シャルルの抵抗を抑えて水晶を奪い取ったが、反動で水晶を破壊する装置を取り落とした。体重差で突き飛ばされて建物の壁に強かに背中を打ちながら、リヤンたちのいない方角に水晶を放り投げ、ブーツから抜いた銃で撃った。
発砲音と共に水晶が砕け散る。
ロンガは地面に横倒しになったまま、
幻想的とすら言える輝きの交錯は、何度見ても目を奪われる美しさだ。
だがそれを楽しむ余裕はなく、ロンガは背中を押さえて身体を起こす。近くに蹲っていたシャルルがゆらりと立ち上がる。かよわい月光にぼんやりと浮かび上がった精悍な顔は苦しそうに歪んでいた。
「なんで壊した? 今なら助けられたのに」
歯の隙間から絞り出したような声は、地を這うように低かった。充血した目から光が失われている。シャルルはロンガを険しい顔で見下ろしたが、ああ、と不意に悲しげな声をもらして膝を付いた。
「……違うか。違うよな」
自嘲的な笑みが、シャルルの口元に浮かんでいた。
「全て、もう、過去になってしまったんだ」
彼は身体を丸めて、ごめん、とうわごとのように呟いた。シャルルの背中の向こうで、気を失ったらしいリヤンが倒れていた。丸い頬に土が付いている。ロンガは背中の痛みを堪えながら、地面に転がった無線機を見つけて手を伸ばした。