chapitre61. コアルームの黎明
文字数 4,800文字
創都342年の
ラ・ロシェル地下に広がる施設にて、ゼロと呼ばれた青年は反逆の狼煙を上げた。
「貴方は――サジェス・ヴォルシスキーだ」
落ち着いた女性の声がそう言うとき、彼女の表情は強ばりながらもたしかに微笑んでいた。見えないけれど、そうと分かるのだから不思議なものだ。
空気を吐き出す音と共に扉が閉まった。
大質量を持つ、円筒型の小部屋が小刻みに揺れながら上昇していく。音で、風で、熱でそれを感じ取り、サジェス・ヴォルシスキーは小さく息を吐いた。自分はたった今、ラピスにおいて絶対的な正義であるはずのマダム・カシェに反逆したというのに、心臓は静まりかえっていつも通り脈を刻んでいた。その代わりに月光のような、ほのかな暖かさが胸に満ちる。
「俺はサジェス・ヴォルシスキーだ」
取り戻した自分の名前を、慈しむように繰り返す。この身体を世界と結びつける、連続する短い音の並び。この世界で一番大切なひとつの言葉を、ようやく取り戻したのだ。サジェスは胸元で強く拳を握りしめて、その感慨に震えた。
一秒後に地面を蹴った。
風の跳ね返る細い通路を駆けて戻り、叫び声の行き交う広間に飛び出す。そこにいる人数は正確に覚えていた。自分を除き、マダム・カシェと眠る女性を含めて37人。2人が中央のステージ、残り35人はステージを取り囲むように円を描いて配置。混乱でかなり乱れているようだが、大まかな配置はそのままだ。
駆ける風、跳ね返る音、通り過ぎた体温。
サジェスは静かに息を吐いて発砲した。ぐっ、という物が詰まったような声と、倒れる質量。それになぎ倒される他の質量の動きを捉えて、また撃つ。金属質な塊が床を跳ねる音を察知して、誰かが取り落としたのだろう銃を拾い上げた。円形の床を時計回りに駆けながら次々に発砲する。耳をつんざくほど聞こえていた
鼓動が2つ。
多少早いものと、非常に静かなものが一つずつ。
サジェスはそれらの位置を確認してから、マダム・カシェと相対する場所に陣取った。
「――貴方は誰なの」
困惑しているが、それでも理性的な声でマダム・カシェが問いかける。
「俺はサジェス・ヴォルシスキー。貴女たちに記憶を奪われていた男だ」
「あら、その声はゼロね。この土壇場で自分が誰だか思い出したの? 面白いこともあるのね」
くす、と笑う声が聞こえた。「違う」とはっきり発音してサジェスはカシェに鋭い視線を向けた。
「それは俺の正しい名前ではない。訂正して欲しい」
「ずいぶん下らないことで文句を言うわね。名前なんて大した価値はないでしょうに――まあ良いわ、サジェス、それで、どういうつもりなの?」
「何のことだ」
「このとんでもない奇術は貴方がやったのよね、サジェス。それであの娘を逃がして、一体どういうつもりかしら。千載一遇の好機であったことを知らないはずないのに、貴方、命が惜しくないの?」
「さあ。俺がやった訳じゃないからな、この異常を消す方法なら知っているが」
「何でも良いわ。さっさとやって
「分かった」
サジェスは短く答えて、一秒の間もなく頭上に発砲した。ステージの直上には、巨大な水晶柱が吊されている。銃弾がそれを打ち砕き、水晶柱は大小の破片に空中で分解した。そのうちの一番大きな欠片がまっすぐ落下してきて――
――破滅的な音を立て、エリザの眠っていたベッドを打ち砕いた。フレームが歪み、足は折れ、マットレスは原型すら残さないほど破裂して綿が飛び散る。
「は?」
マダム・カシェがぽかんと口を開けたのが分かった。それを感じ取りながらサジェスは身体を屈めて、パラパラ落ちてくる破片から身を守った。この異常空間を壊す方法も、かつて教えられたものだ。水晶が核となって発生するため、その核を破壊すれば異常空間も消え去る。どうやら上手く行ったようだ、とサジェスは瓦解してゆく異常な光景を見回した。
聞こえているマダム・カシェの鼓動が早くなる。彼女が崩れ落ちて膝を付いたらしい振動が床に伝わり、絞り出すような声が言った。
「あ、貴方、今――エリザを、殺し」
「俺は言われたとおりにしただけだ」
「え? はは、は。そう……」
異常空間が消え去り、絶望的な顔で膝を付いているカシェが目に入る。その視界に入るように、サジェスは予めベッドから移動させて抱えておいたエリザの姿を見せてやった。少女のような歓喜を浮かべたカシェの表情が、次の瞬間凍りつく。
彼女が何よりも大切にした友人、エリザ。
その額に、サジェスは見せつけるように銃口を押しつけた。他ではまず見せないほど感情を表に出したカシェの表情が、激しい揺らぎを経て、やがて諦めの形に
何がしたいの、と彼女は掠れた声で問う。
疲れ果てたような顔から一切の感情が抜け落ちていて、四十を過ぎたはずの年齢の影響など普段は感じさせないのに、やけに年老いて見えた。サジェスはエリザを抱えたまままっすぐ立ち、燃える金色の瞳をまっすぐカシェに向けた。
「マダム・カシェ、俺と取引しないか」
「――貴方がエリザを解放するなら考えるわ」
「ああ、勿論。それどころか彼女を助けてやれる、俺なら。だから要求する、俺に地下施設の全権を譲渡して欲しい。ここを管理している人工知能だ、知っているだろう」
「……それで貴方はどうするつもりなの」
「俺は革命を起こす」
一厘の迷いもなく、サジェス・ヴォルシスキーは宣言した。記憶を取り戻して数日、名前を取り戻して数分。普通ならば気がつかないうちに過ぎ去ってしまうほどの短い期間に、サジェスは自分の人生を揺るがすほどの決意を固めていた。
今のラピスは
人々に「役割」を押しつけて管理し、
――こんなものが“新都”、新しい都だと? 否、俺は絶対に認めない。誰かの犠牲の上に成り立つ平和が正しいなどというのは、偶然上に立てた者の傲慢でしかない。
「地底人類の解放を目指す。ラピスが正しい形になるために、俺は一切の努力を惜しまず、また、地底の人類が力を合わせれば決して不可能なことではない」
「そう……まあ出来るとは思えないけれど、私にはどうでも良いことだわ。ご自由に」
サジェスの熱弁に、カシェは醒めた目を細めた。
政治部の重鎮と目される彼女が、実は権力や政治に大して興味がないことを、彼女の従者を努めていたサジェスは良く知っていた。彼女はラピスの向かう未来に対してなんの意思も持っていない。強いて言えば、全てにおいて諦めている、という感覚だろうか。一度滅亡の危機を乗り越え、かろうじて再建されたこの世界は、もうこれ以上どうにもならないだろうと思っているようだ。
この世界は彼女にとって何の価値もない。ただ一人、眠り続けるエリザだけがカシェの生きる意味なのだ。その相手に銃を突きつけたのだから、当然、カシェは従うしかないだろうと踏んだ。
実際、サジェスの目論見通りに事は運んだ。
カシェは、エリザを背負ったままのサジェスをコアルームに案内して、画面に浮かび上がった女性像に何事か話しかけた。ふと、今までただのインターフェースだと思っていたその顔が、今背負っているエリザに酷似していることに気がつく。カシェに問いかけると「その通りよ」と冷たい声で答えが返ってきた。
「貴方もあの娘に話したのを聞いていたでしょ? エリザは過去の世界から来た人間――ああ、どのくらい前かは言ってなかったかしら。4世紀の昔、まだラピスが成立していなかった頃から、私たちの時代に迷い込んだ」
「時間軸汚染とか言ったな。つまり俺たちの遙か遠い祖先でもあるのか」
「ええ。この施設はその頃作られたもので、エリザもその設計に携わっていたのよ。だから随所に彼女の痕跡が残されている」
カシェが長いパスコードを打ち込むと、女性像が頷き、口の端を持ち上げた。その瞳が開き、塗りつぶされた瞳孔がサジェスを捉えて白銀色に光った。スピーカーがジジッと音を立てて鳴り、女性の人工的な合成音声が流れ出す。
『初めまして、サジェス・ヴォルシスキー。貴方をハイバネイト・シティの新たな総代表者と認識しました。私はハイバネイト・シティの総権を預かる人工知能です。
「名前までも同じなのか」
サジェスは呟き、背負っている女性とよく似た顔に話しかけた。カシェと一定の間合いを取るのを忘れないよう、細心の注意を払う。カシェの権力の大部分であるだろう、この人工知能のコントロール権はすでに奪ったとはいえ、油断して良い相手ではなかった。
「初めまして、ELIZA。よろしく頼む」
何回か応答を繰り返して大体の操作方法を把握し、まずはエリザを個室に隔離した。使われていない部屋の一つを選択し、サジェスの指示以外では解錠しないよう要請した。そこは何もない真四角の部屋だったが、天井のスピーカーに向かって指示すると壁の一部がスライドし、ロボットアームがパイプやらマットレスを運び込む。4本の機械の腕は見事な連携を見せて、1分も経たずに簡易なベッドを組み立てた。その手際の良さに感心しながら、背負っていたエリザをベッドに寝かせて布団を掛けた。
部屋から出た瞬間、横から撃力が加わった。
カシェは女性らしからぬ怪力でサジェスを突き飛ばし、すぐさま銃を奪い取る。サジェスとカシェは体格自体は大差がなく、体重のかかった衝撃をもろに受けてサジェスの身体は吹き飛んだ。背中からリノリウムの床に落下したサジェスの胴に、ほとんど飛び乗るような形でカシェが飛びつき、腹に膝がめり込む。内臓が押し潰され、乾いた嗚咽をもらすサジェスの額に、銃口が突きつけられた。
その引き金が躊躇なく引かれる。
だが、サジェスの脳が弾け飛ぶことはいつまで待ってもなかった。地底施設の新しい帝王になったサジェスに攻撃を加えたことを人工知能が察知したのだろう、カシェの背後にロボットアームが迫る。
「別室に厳重隔離してくれ。エリザの部屋と違えばどこでも良い」
天井に指示すると、両脇を持ち上げられたカシェが、なぜ、と掠れた声で呟いた。サジェスを殺してコントロール権を奪い返すつもりだったのだろう。サジェスは口元を拭って立ち上がり、宙づりにされて遠ざかるカシェをゆっくり歩いて追いかけた。
「さっき水晶を撃った弾で最後だ。最初から弾切れだよ。残念だな、マダム・カシェ」
「あ、貴方――何てことを」
「そんなに睨まないでくれ。俺は別に貴女を殺すつもりも、エリザを殺すつもりもない。貴女の目標と俺の目標、どちらも叶える方法を持っている――協力しないか」
「……信じられると思うの? 広間であれだけ
「急所は外した」
サジェスが口の端を持ち上げると「へぇ……やるじゃない」と言って、宙づりのままカシェは笑った。この状況においてまだ笑えるなんてつくづく恐ろしい相手だ、と思う。
「良いわよ。貴方の言うことなんて到底信じられないけれど――こんな年になって、面白いこともあるものね」