chapitre150. 言葉は届かない

文字数 8,359文字

 ――創都345年1月28日 午前8時17分
 ――新都ラピス ハイバネイト・シティ第37層

 およそ50分に渡って議論が交わされたのち、ラピシア緊急集会は終了した。雑音のみを流し続けるスピーカーを切って、リジェラはふぅと息を吐く。仲間が労いながら肩を叩いてきて、強すぎる力に少しよろめきながらも笑顔を返して見せた。

 空き部屋のひとつに集まった顔ぶれは、今日の未明に上の階層から降りてきたときと同じ仲間たちだ。だが、その表情はどことなく違っていて、まるで薄膜が剥がれたようだと感じた。

 ガラッと音を立てて、部屋の扉が開く。

「なぁ、入って良いか」

 扉の隙間から、寝癖の跳ねた頭だけを出して、通路で会議を聞いていたらしいロマンが聞いてくる。

「もう終わったんだよな? さっきの」
「ええ。聞いてたのね」
「声で目が覚めたから。ダメだった?」

 後ろ手に扉を閉めながら、ロマンが少し不安そうに眉を下げる。いいえ、とリジェラは首を振って見せた。

「本当なら、あれは、ハイバネイト・シティにいる皆が聞くべき話だから」
「そっか」

 心なしか緊張のにじんでいた表情をふっと緩めて、ロマンが笑う。そこから、何かを思い出したように真顔になって、彼は首の後ろに手をやった。あのさ、と言いづらそうに口ごもっていたが、やがて決意したように少し上気した顔を上げた。

「なあ、ラピシア――って、言ってたよな?」
「ええ」

 頷いてみせると、やっぱり、とロマンが呟く。

 ラピシア。

 “ラピスの”という意味を持つ形容詞だ。ラピスの歴史、ラピスの風土、ラピス市民――このラピスに存在する、善も悪も光も影も、形のあるものも形のないものも、昔も今もこれからも、全てを包み込むひとつの言葉だ。

 だが、元はといえば、ロマンたちコラル・ルミエールの友人が、リジェラたちと対等な立場に立って話をするために、彼らの母語でも、リジェラたちの母語でもない、第三の言葉を作ろうとしたとき、その新しい言語に付けられた名前だった。

 ラピシア――とは、ロマンたちがリジェラたちにくれた言葉なのだ。

「七つの語圏とか、地上と地下とか、そういう括りより、もっと大きい名前が求められていると思ったんだ。でも、嫌だったかしら?」
「そんなことない!」

 ロマンは勢い良く首を振って、それからほんの少し照れた表情で、部屋に集った仲間たちを見渡した。

「その……使ってくれて、ありがとな。なんか、お礼言いたくて」
「いえ、私たちのほうこそ、ありがとう。きっとこれから、ラピシアっていう言葉は、もっともっと大きな意味になっていくと思う」
「もっと、大きな意味……かあ」

 部屋の壁よりずっと遠い場所に焦点を合わせて、ロマンがぼんやりと言葉を繰り返す。まだ15歳の子どもには、どんな未来像が見えているのだろう。想像のなかの景色を切り取るように、幾度か瞬きをしたあと、あのさ――とロマンは視線をこちらに戻した。

「リジェラ、それに皆。オレさぁ、“春を待つ者(ハイバネイターズ)”のこと、ああ、今はもう違うんだっけ……とにかく、地下から来たアンタたちのこと、知らないことのほうが多くて、がんばって話そうとしたのも、まるで意味がなかったのかなって……それが悔しくって、だから追っかけてきたんだ」
「……そうだったのね」
「でも、オレたちのやってたこと、ちゃんと意味があったんだなって……届いてたんだなって、思って。あんま、上手く言えないけど……嬉しかった」

 へへ、と眩しそうに目を細めて、ロマンが笑ってみせる。

「喋るの、上手くなっただろ」
「そうね、本当に。もう私たちと遜色ないくらい」
「頑張って練習して、良かったよ。最初はさ、その、殴っちゃったから……罪滅ぼしみたいな気持ちだったけど、オレ、普通に、アンタたちと友達になりたかったんだよな。フツーに喋れるようになりたくて……」

 まとまらない言葉を転がしていたロマンが、ふと顔を上げて部屋に集った仲間たちを見回す。リジェラたちは一足先に地上に向かうため、すでに出発の支度を始めていた。

「アンタら、今からどこに行くんだっけ。また、危ないところ?」
「いえ、今度は少し違う。今から避難をするのだけど、例えばラ・ロシェルに戻るわけには行かないでしょう? だから、航空機を動かして、移動を手伝うのよ」
「そっか。気をつけてな」

 ロマンは頷いて、先ほど閉めたばかりの扉を開けた。

「オレ、もう追っかけないからさ」
「ええ。絶対、付いてこないでよ? 貴方たちに無理をさせないでって、アックスに頼まれたんだから」
「アックスが?」
「そうよ、昨晩ね……本当、貴方たちのことが大事なのね、彼」
「へえ……」

 信じているのか信じていないのか曖昧な表情で、ロマンが鼻の下を擦る。まだ、守られていることに無自覚な年齢なのかもしれないが、知り合ってまだ日の浅いリジェラでさえ、アックスがいかに若い音楽家たちを大切にしているかは分かる。

「ちゃんと感謝した方が良いと思うけど?」
「――分かってるよ」
「本当かしら」

 そこまで言ってからリジェラは、今さらながらに、ロマンがひとりで訪ねてきたことに気がつく。扉の外に出て、左右に伸びた通路を見渡すが、見慣れたふたつのシルエットがどこにもない。

「そのアックスは? ルージュもいない。ひとりだけで来るなんて珍しいわね」
「あー、寝てたから置いてきた。まあ、昨日あんなことがあったばっかだし……オレも、戻ったら、もう少し寝るつもり」

 少し黒くなった目元を擦って、彼はひとつ欠伸をする。深夜に起き出して、下の階層に取り残されたリジェラたちを助けた彼らが、再び眠りに就いたのは四時近かったのではないだろうか。

 どうせなら一言挨拶をしてから上に向かいたかったが、眠っているところを起こすわけにもいかないか――などとリジェラが逡巡していると、あ、と声を上げてロマンが視線を滑らせる。

「噂をすれば……だ」

 ロマンが見た方向の曲がり角から、まるで呼ばれたようにアックスが顔を出す。おそらくは、近づいてくる彼の足音を聞きつけたのだろう。本当に唱歌団(コーラス)の人たちは耳が良いな、と感心しながらアックスに手を振ってみせたところで、彼が妙に息を切らしていることに気がつく。

「そんなに走って、どうしたの?」
「いえ、起きたらいなかったので、焦って探しに……でも無事で良かったです。こっちにいたんだね、ロマン」
「あ――おう。わざわざ悪いな」

 少し気を遣った表情で、肩を持ち上げて応じてみせたロマンが、あれ、と首を捻る。

「でもオレ、書き置きしたけど。リジェラたちのトコ行ってるって……見なかった?」
「あれ……本当に。気がつかなかった」
「テーブルの上の、めっちゃ目立つとこ置いたぞ」
「ごめん……見なかった」

 アックスが額を抑えて、長い溜息を吐く。

 なぜだか、いつになく参っている様子だった。壁に背中を倒して息を整えていた彼は、ふと怪訝そうに顔を上げて、どこか所在なさげに立っているロマンを見る。

「ルージュは……一緒じゃないの?」
「え、寝てたから置いてきたぞ」
「僕が起きたとき、ロビーにはもういなかった」
「あら、大丈夫なの?」

 リジェラが割り込むと、まあ平気だろ、とロマンが軽く笑ってみせる。

「すぐ戻ってくるだろ。案外……どっかで歌う練習でもしてんのかも」
「……それなら、良いけど」

 棒読みに近い口調でアックスが言う。彼にしては奇妙な歯切れの悪さを不思議に思って、リジェラは、寝不足が色濃くにじんだアックスの顔を下からのぞいた。

「何かあったの?」
「いえ、その――昨日、少し揉めたので。まさか、それで怒ってどこかに行くほど、大人げないことはしないとは思うんですが……」
「揉めた?」

 リジェラは驚いて目を見張った。

「喧嘩したの? 貴方とルージュが?」
「……はい」

 アックスが気まずそうに頷いて視線を逸らす。

「いや、喧嘩……というよりは、もう少し一方的でしたけど。僕が何か、ルージュを怒らせたんじゃないかな、とは思うんですが」
「ちゃんと謝ったの?」
「……いいえ」

 気まずそうに眉を歪めて、アックスが首を振る。少しだけ、わざと非難めいた眼差しを向けてみると「でも」と彼は視線を横に逃がした。

「そもそも――何が悪かったのか分からないのに、ただ謝るのも違う気がしませんか」
「そういうものかな……」

 唱歌団の同期である三人は、リジェラよりずっとお互いに付き合いが長い。出会ったばかりのリジェラが口を出すのも、どこか行き過ぎた行為のように思えた。

「まあ、良いわ」

 後ろに三歩。少し詰めすぎた距離を取り直して、リジェラは肩をすくめる。

「それより、ルージュが心配ね。いまは、シャッターが降りているから、遠くには行ってないと思うけど……どこかで迷ってたりするかしら」
「んー……いやまぁ、オレもこの辺のことは、あんま分かんねぇけど、探しに行っとくか。一応な」
「探すの、手伝いましょうか?」

 部屋のなかにちらりと視線を投げながらも、リジェラは意を決して進言してみる。仲間たちはまだ支度をしており、少しなら時間の猶予がありそうだった。扉の近くで荷物を括っていた仲間のプルーネと目が合って、彼女は小さく頷いて見せる。かつて“春を待つ者(ハイバネイターズ)”だったリジェラたちにとって、地上の出身でありながら、歩み寄ろうとしてくれたコラル・ルミエールの人々は恩人でもあった。

「少しだけ、行ってくる」

 部屋のなかにそう呼びかけて、六つ辻の交差路まで、小走りにロマンとアックスを追いかけた。

 ハイバネイト・シティ居住区域は、六方向に伸びた道が区切る正三角形の区画に、長方形の部屋がまるでパズルのように並んだ構造をしている。三人は向かう方向を決めて、ルージュを見つけるか、シャッターの降りている地点まで辿りついたら、交差路まで戻ってこようと約束した。

 それにしても――とリジェラは走りながら、平時より少し早くなった呼吸のあいだに溜息をつく。今からハイバネイト・シティを離れないといけないのに、次に唱歌団(コラル)の人々に会えるのはいつか分からないのに、彼らがあんな調子では、お世話になったお礼も、迷惑を掛けたことへの謝罪もできない。

「まあ、仕方ないのだけど」

 彼らの間に交わされる絆は、リジェラたちの知るものとは質も形も異なるものだ。理解することが叶わないならば、彼らを信じるしかない。

 次の交差路に辿りついて、左右に目を配る。

 その時、視界の片隅に、シャッターの前でうずくまっている小さい人影を見つけた。遠目でも分かる、見慣れた少女の背中が、近づいてきたリジェラの足音に気づいてか大きく跳ねる。

「ルージュ?」

 名前を呼びながら近づいて、彼女の隣に膝をついたリジェラは、真っ赤な頬に伝う涙の量を見て、思わずぎょっと目を見開いた。まるい涙を何粒も零しながら、彼女はリジェラの襟元に自分の顔を押し付ける。よりかかってきた重みを支えきれず、リジェラは後ろの床に腰をぶつけながら、泣いている少女を抱き留めた。

「ルージュ……どうしたの」

 いつもの彼女らしからぬ取り乱し方に動転しながらも、自分を落ち着かせるためにひとつ息を吐き、震える小さな肩に手を置いてやる。

「昨日、アックスと喧嘩したって聞いたけど。もう、四つも下の女の子を泣かせて、何をやってるのかしら――」
「――っ、……」
「ルージュ?」

 掠れて、ほとんど音になっていない声が、伏せた顔から僅かに漏れて聞こえる。彼女は顔を上げて、眉根を寄せた泣き顔のまま、大きな所作で唇を動かした。

『違うの』
「な……何が違うの?」

 以前に少しだけ読唇を学んだので、ゆっくり喋ってもらえれば読み取れる。もう一度、違うの、と繰り返して、ルージュは目元にしわがよるほど固く目を閉じた。目蓋に溜まっていた涙が、押し出されて零れ落ちる。

『声が出ない』
「ええと……」

 腰をついた不安定な姿勢のまま、リジェラは掛けるべき言葉を考えた。

「声帯の手術を受けて、声が変わってしまったのは、もう聞いたわ」
『そうじゃない!』
「え、そうじゃないって……」

 うずくまって震える小さな背中を抱きしめながら、リジェラは身体に悪寒が走るのを感じた。

「本当に、出せなくなってしまったの……?」

 ルージュは泣き声ひとつ立てないまま、身体中を震わせて泣いている。ときおり鼻を啜る音と、苦しそうな息遣いだけが、今の彼女から発せられる音の全てだった。

「風邪とかじゃ、なくて?」

 リジェラは彼女の体温を抱きしめながら問いかけるが、ルージュは血の気の失せた顔で首を振る。

『出し方、分かんなくなった』
「……ショックを受けると、一時的にそういうこともあるって、ライブラリで読んだわ。だから、いつか治るよ」

 まだ涙の零れている丸い目を見開いて、ルージュはこちらを見上げた。ぐちゃぐちゃに乱れた前髪を直してやりながら、リジェラは微笑んでみせる。

「皆のところに戻りましょう?」

 背後に手を付いて身体を立て直し、ルージュを抱えて立ち上がらせる。ねえ、と呟くように力の抜けた口元が動いて、ルージュはリジェラをまっすぐ見上げた。

『ふたりに言わないで。お願い』
「でも――」
『歌が歌えなくなったら、アタシ、助けてもらえないと思う』
「そんなことないでしょう!」

 思わず声が高くなってしまう。

 リジェラの知っているアックスたちは、たしかに音楽を大切にしている。だけど、たとえ声が出せなくなったって、歌が紡げなくなったって、音楽家がただの人間に戻ってしまったというだけで、冷たい目で見るようになる彼らなんて、想像したくもなかった。

「そんなこと……ないはずよ」

 まるで祈りのようだ――と思いながら、ほとんど同じ言葉を繰り返すが、ルージュはかたくなに首を振った。

『あの人はそう言う。きっと置いてかれる』
「いいえ、違う。だってふたりは、私たちにも優しかったわ。私たち、音楽の素養なんてまるで無いのに、よ――」
『だって言われたの!』
「……アックスに?」

 ふたりが喧嘩したという話を思い出して、リジェラが恐る恐る問いかけると、ルージュは眉を吊り上げて頷いた。それから唇を大きく動かして、空気を震わせない言葉を綴る。その意味にリジェラが息を呑んだとき、背後から、良く知った人の声が掛けられた。

「リジェラ――と、ルージュ?」

 何も知らない顔をして、交差路からアックスがこちらに歩いてきた。彼から隠れるように、リジェラの背中にしがみついたルージュを一瞥して、彼は怪訝そうに眉をひそめる。

「今、何の話を?」
「――いえ、何も」

 ルージュとは読唇を使って話していたから、おそらくアックスには、リジェラの独り言のように聞こえていただろう。服の背中をルージュがぎゅっと握りしめる感触を感じながら、リジェラは友人の顔をじっと見上げた。

「アックス、貴方は……ちゃんと、優しい人よね?」
「何のことですか?」
「いえ……」

 声がいつになく冷たく聞こえるのは、リジェラの気のせいだろうか。

「ルージュと仲直りしてね?」

 むき出しの腕を襲った寒気に耐えて、そう言って微笑んでみせる以外、言えることは何もなかった。
 


「あ、そうだ」

 昇降装置を待っていたロンガは、ふと思い出して、隣に立っているシェルの顔を見上げた。

「さっきは、助け船を出してもらってありがとう。おかげで、和やかに進みました」
「あ、いえ……たいしたことでは」
「でも、これから、さっきのラピシア緊急集会の人たちと、協力していくんですから……大切な第一回が、喧嘩腰とかにならず、終えられたのって、きっと、すごく大事なことだと思います」
「それは――そうですね。ちゃんと、“ありがとう”と“ごめんなさい”を言えましたから」
「大事なことですよね」
「はい」

 屈託なく笑って見せたシェルが、ふと視線を上に持ち上げて「そういえば」と呟く。

「“ありがとう”と“ごめんなさい”は、どの言語でも、簡単に訳せるんですよね。人間はどうしても、誰かの助けを借りながら生きていくし、時には誰かの足を踏んでしまうから。そういうとき、謝意を率直に伝えるための言葉は、どんな文化にもある……って」 
「シェル……」

 胸の中に、ふわりと感傷がこみ上げた。

 “ありがとう”と“ごめんなさい”は、どちらもシェルが昔から大切にしていた言葉だった。昔の、今とは違う名前を名乗っていた彼から、いま隣にいるシェルまで続く繋がりを感じて、たまらなく懐かしくなる。

「素敵な話、ですね」

 懐かしい――と口に出してしまうわけにもいかず、それだけ答えて俯くと、横にある親しみ深い気配は、にわかに焦るような雰囲気に変わった。

「え、えっと――あの、忘れたんですか?」

 見上げると、シェルの頬は少し赤くなっている。想定外のリアクションにロンガが首を捻ると、彼は両手の指を所在なさげに組み合わせて、気まずそうに笑った。

「これ、ぼくが貴女に聞いた話です。あんまり図書館に行かなかったぼくが、覚えてる、数少ない貴女の記憶なんですよ」
「あ……それは、気づかなかったです」
「ぼくのオリジナルじゃないですよ」

 そう言って、彼は、ふと表情から笑顔を消す。
 赤みの強い瞳が、まっすぐ向けられた。

 遠くから、モータの低い作動音が近づいてきた。昇降装置が上から降りてきているのだ。壁も床も、ぶら下がった裸電球も細かく震える中で、シェルの視線だけが不動のままロンガを捉えていた。身体ごと貫くような視線だ。実際には指ひとつ触れられていないはずなのに、まるで縛り付けられたように動けない。

「――シェル?」

 不躾ともいえるほど強い視線に、思わず目を逸らすと、彼は一歩こちらに踏み出して、「シェル」と「エリザ」としての距離を超えた。手を伸ばせば容易に触れられる、息遣いさえ感じそうなほどの近さ。ほつれたオレンジの髪が揺れて、その毛先がエリザの頬をかすめていく。

「ちょっと……変なこと、聞かせてください」

 声は掠れている。

 増幅するモータ音に飲み込まれそうな小声で、それでもたしかに唇が動いていた。

「白銀の目を持つ者は、繋がっているって、聞いたんです」

 空気をびりびりと震わせる振動。
 低いモータ音と心臓の音が混ざり合って、思考が白く灼けていく。ここまで積み上げた嘘の全てを捨てて、彼に全てを伝えてしまいたい、そんな欲求が喉元までせり上がる。

「本当にエリザですか?」

 そう尋ねる、言葉が見えたとき。

 ガタン、とひときわ大きな音とともに昇降装置が止まり、扉が開いた。開いた扉のほうにシェルが視線を逃した、その一瞬を使って、ロンガは後ろに下がる。ポケットに収めていた水晶端末(クリステミナ)を、押し付けるようにシェルに渡して、彼が引き止める前に昇降装置に乗り込んだ。

「じゃあ、また。お気をつけて」

 唇を横に引いたが、ちゃんと笑えている自信はなかった。背を向けたのと同時に扉が閉まり、昇降装置は揺れながら降下を始める。円筒の壁にもたれてずるずると座り込みながら、ロンガは長い溜息を吐き出した。膝を抱えて、熱を出したときにも似た体温を閉じ込める。

 いちばん本当のことを言いたい相手に限って、“ありがとう”や“ごめんね”すら言えないままだ。

「貴女、本当の本当にそれで良いの?」

 横に浮かび上がったエリザの気配が、哀れむような口調で呟いた。
 
 *

 去り際に押し付けられた水晶端末(クリステミナ)を握りしめたまま、シェルは遠ざかっていく昇降装置の音を見送った。はあ、と溜息を吐いて、膝を抱えてうずくまる。

「……何やってるんだろ」

 顔が火照って熱い。

 鼓動は速く、胸元を見えない手で押さえつけられたように苦しい。冷たい壁に額を押し付けて、シェルは目を見開いた。いつの日か聞いた言葉が、耳の中で跳ね返る。

『白銀の目の持ち主は、超越的存在を通じて繋がっているという』
「繋がってる……」

 ごくりと唾を飲み込む。
 ここにいない彼女と、ここにいるエリザが。

 微笑みの角度。
 言葉の句切り方。
 立っているときの体重の支え方。

 説明するのも難しいような、指先や瞳や、ちょっとした仕草の数々に、どうしようもなく彼女を思い出すのは。たしかにエリザの姿をとっているのに、母娘(おやこ)だから似ているという域を超えて、彼女そのものの存在を感じてしまうのは、もしかして本当に――そこに彼女がいるから、なのだろうか。

「――違う!」

 激しく首を振ると、壁に額を斜めから打ち付けてしまい、鈍い痛みにシェルは小さく呻いた。じわりと広がる痛みに目を閉じて、違う、と呪文のように繰り返す。

 都合の良いことを考えてはだめだ。

 せめて、誠実でいないといけない。幻覚に苦しさを逃がす権利など、彼女の居場所を奪ってしまった自分に、ありはしないのだから。
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登場人物紹介

リュンヌ・バレンシア(ルナ)……「ラピスの再生論」の主人公。統一機関の研修生。事なかれ主義で厭世的、消極的でごく少数の人間としか関わりを持とうとしないが物語の中で次第に変化していく。本を読むのが好きで、抜群の記憶力がある。長い三つ編みと月を象ったイヤリングが特徴。名前の後につく「バレンシア」は、ラピス七都のひとつであるバレンシアで幼少期を送ったことを意味する。登場時は19歳、身長160cm。chapitre1から登場。

ソレイユ・バレンシア(ソル)……統一機関の研修生。リュンヌ(ルナ)の相方で幼馴染。ルナとは対照的に社交的で、どんな相手とも親しくなることができ、人間関係を大切にする。利他的で、時折、身の危険を顧みない行動を取る。明るいオレンジの髪と太陽を象ったイヤリングが特徴。登場時は19歳、身長160cm。chapitre1から登場。

カノン・スーチェン……統一機関の研修生で軍部所属。与えられた自分の「役割」に忠実であり、向学心も高いが、人に話しかけるときの態度から誤解されがち。登場時は19歳、身長187cm。chapitre1から登場。

アルシュ・ラ・ロシェル……統一機関の研修生で政治部所属。リュンヌの友人で同室のルームメイト。気が弱く様々なことで悩みがちだが、優しい性格と芯の強さを兼ね備えている。登場時は19歳、身長164cm。chapitre3から登場。

ティア・フィラデルフィア……とある朝、突然統一機関のカフェテリアに現れた謎の少年。ラピスの名簿に記録されておらず、人々の話す言葉を理解できない。登場時は10歳前後、身長130cm程度。chapitre1から登場。

サジェス・ヴォルシスキー……かつて統一機関の幹部候補生だったが、今の立場は不明。リュンヌたちの前に現れたときはゼロという名で呼ばれていた。赤いバンダナで首元を隠している。登場時は21歳、身長172cm。chapitre11から登場。

ラム・サン・パウロ……統一機関の研修生を管理する立場。かつて幹部候補生だったが現在は研修生の指導にあたっており、厳格だが褒めるときは褒める指導者。登場時は44歳、身長167cm。chapitre3から登場。

エリザ……かつてラ・ロシェルにいた女性。素性は不明だが「役割のない世界」からやってきたという。リュンヌと話すのを好み、よく図書館で彼女と語らっていた。笑顔が印象的。登場時は32歳、身長155cm。chapitre9から登場。

カシェ・ハイデラバード……統一機関政治部所属の重役幹部。有能で敏腕と噂されるがその姿を知る者は多くない。見る者を威圧する空気をまとっている。ラムとは古い知り合い。登場時は44歳、身長169cm。chapitre12から登場。

リヤン・バレンシア……バレンシア第43宿舎の住人。宿舎の中で最年少。年上に囲まれているためか無邪気な性格。登場時は17歳、身長152cm。chapitre31から登場。

アンクル・バレンシア……バレンシア第43宿舎の宿長。道具の制作や修繕を自分の「役割」に持つ、穏やかな雰囲気の青年。宿舎の平穏な生活を愛する。登場時は21歳、身長168cm。chapitre33から登場。

サテリット・バレンシア……第43宿舎の副宿長。アンクルの相方。バレンシア公立図書館の司書をしている。とある理由により左足が不自由。あまり表に現れないが好奇心旺盛。登場時は21歳、身長155cm。chapitre33から登場。

シャルル・バレンシア……第43宿舎の住人。普段はリヤンと共に農業に従事し、宿舎では毎食の調理を主に担当する料理長。感情豊かな性格であり守るべきもののために奔走する。登場時は21歳、身長176cm。chapitre33から登場。

リゼ・バレンシア……かつて第43宿舎に住んでいた少年。登場時は16歳、身長161cm。chapitre35から登場。

フルル・スーチェン……MDP総責任者の護衛及び身の回りの世話を担当する少女。統一機関の軍部出身。気が強いが優しく、MDP総責任者に強い信頼を寄せている。登場時は17歳、身長165cm。chapitre39から登場。

リジェラ……ラ・ロシェルで発見されたハイバネイターズの一味。登場時は22歳、身長157cm。chapitre54から登場。

アックス・サン・パウロ……コラル・ルミエールの一員。温厚で怒らない性格だが、それゆえ周囲に振り回されがち。登場時は20歳、身長185cm。chapitre54から登場。

ロマン・サン・パウロ……コラル・ルミエールの一員。気難しく直情的だが、自分のことを認めてくれた相手には素直に接する。登場時は15歳、身長165cm。chapitre54から登場。

ルージュ・サン・パウロ……コラル・ルミエールの一員。本音を包み隠す性格。面白そうなことには自分から向かっていく。登場時は16歳、身長149cm。chapitre54から登場。

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