chapitre118. 不透明な時間
文字数 7,489文字
――新都ラピス ハイバネイト・シティ第22層
サテリットたち三人が地上からハイバネイト・シティ居住区域にやってきて、二ヶ月半ほどになるという。アンクルが教えてくれたその数値に、サテリットはあまり実感を抱けなかったが、目を覆うほど長くなった前髪は、サテリット自身よりも正確に、ここに来てからの日々を覚えていた。
昼食の前に髪を切ろうと思い立ち、寝台の横に立てかけてあった杖を取って、ゆっくりと立ち上がる。ただでさえ足に力が掛けづらいのに加えて、いよいよ無視できないほど腹部の膨らみがはっきりとしてきたので、年が明けてからというもの、少し動くだけでも億劫に思うようになってしまった。
どうにか立ち上がり、厚手のカーディガンを羽織る。共用スペースから借りてきたハサミを取って、通路に出る。洗面台に裏紙を広げて、壁に貼られた鏡と見つめ合いながら、少しずつ、前髪を切っていく。
失ってしまった五年間。
地下に来てから二ヶ月半。
名前さえ決めていない、この子が生まれるまで――あと、四ヶ月。
サテリットの体感には何も気を遣ってくれないまま、時間はどんどん前へ、前へと、淀まずに流れていく。
「よう」
溜息とともに前髪を裁ち落とすと、斜め後ろから声を掛けられた。シャルルが自分の居室から顔を出して、こちらに手を振る。
「髪切ってんのか?」
「そうよ。本を読むのにも邪魔になるくらい、いつの間にか、伸びてしまって……」
切り残した髪の毛の束を指先でつまみ、切り落とす。
「シャルルも……伸びたんじゃなくて?」
「ああ――言われてみりゃあ、伸びたな」
鏡をのぞき込んで、シャルルが頷く。散らばった髪の毛を拾い集めながら、サテリットも彼の横顔を見る。日に焼けた髪の襟足が、シャツの首元に掛かるくらいまで伸びて、外を向いて無秩序に跳ねていた。
「邪魔にならない?」
「んー……地下じゃ料理しねぇし、長くても、あんまり不自由ないんだけどな」
そう言いながら彼は、ハンドソープの容器を持ち上げる。蓋を捻るのに彼が難儀していると気がついて、サテリットはハサミを洗面台の縁に置き、視線を前に固定したまま、片手だけを横に差し出した。
「開けましょうか」
できるだけ、さりげなく問いかける。
「あー……悪ぃな」
シャルルは少し眉をひそめたが、それ以上は何も言わずに容器を手渡した。サテリットは無言で受け取り、蓋を捻って彼に返す。
彼の右手は包帯に覆われ、五指のうち二本が
語りたくないのなら、無理に引き出すべきではないのだろう。サテリットは、そして多分アンクルも同様に考えて、最近はあまり話題に出さないようにしていた。
取り繕った穏やかな日常が、時計の針に引きずられて毎日訪れる。過ぎ去った時間のことを思い起こさせるように髪は伸びて、揃っていた毛先がバラバラになっていく。
「シャルル」
流水音にかき消されないよう、少し明るめの声で話しかける。
「あとで髪、切ってあげましょうか」
「え――いや、ならハサミだけ貸してくれよ。自分でやるから」
「そう?」
幼少期から髪を伸ばしていたサテリットは、後ろの髪は結ぶか、あるいはひとつに纏めているので、前髪を整えるだけで済む。だが、シャルルはそういうわけにもいかないだろう。首の後ろでハサミを動かすのは、想像しただけでなかなか怖いものがある。
「もちろん貸すけれど、ちょっと切りづらくないかしら」
洗面台周りに散らかした私物を片付けながら、サテリットが小さく首を捻ると、不意にシャルルが押し黙る。いつもの応酬より一拍遅れて、無理やり抑えつけたような声が「別に」と呟いた。
「全然、平気だ」
「なら良いけど……」
「ハサミくらい、使える……だろ」
「え?」
会話が噛み合っていない気がして、その異物感に振り返る。伸びた髪が覆うシャルルの横顔を眺めながら、しばらく考えて、それから息を飲んだ。
「――ごめんなさい。違うの」
自分の言葉が、彼にはどう響いたのか、それに気がついた。
「首の後ろの髪は、自分だと切りづらいかなって……思って」
「あぁ……」
シャルルは、包帯を巻き直した右手を一瞥して、眉をぎゅっと中央に寄せる。額を片手で抑えて長い息を吐いてから、軽く頭を左右に振った。
「悪い」
「――いえ。私こそ」
「メシ食ったら、頼んで良いか」
「もちろん」
シャルルの雰囲気が、いつもの砕けた調子に戻った。防波堤を越えずに済んだことに安堵しながら、サテリットは壁に立てかけていた杖を手に取る。
「食堂に行きましょうか」
「おう」
「アンの調子は?」
「まだ、しんどそうだった」
サテリットの歩みに合わせてゆっくり歩きながら、居室の扉をちらりと振り返って、シャルルが言う。
「食堂で誰かに移しても悪いから、食えるもん適当に持ってきてくれ――ってさ」
「そう……」
「でも、ただの風邪で良かったよな。ほら、何か……変なもん貰ってたら、しばらく会えなくなる、みたいな噂あっただろ」
「噂じゃなくて本当よ。
「ああ、朝のアレ、そんなこと言ってたのか……寝起きで聞いても頭に入んねぇよ」
苦笑交じりにシャルルが言う。
地上で巨大な
「私たちにとっては何の害もない菌やウイルスが、他の世界から来た人に対しても無害だとは限らない――という話よ。もちろん、逆も然り」
「あぁ……だから、それ以上移さないように隔離すんのか」
「多分、そう」
「だとしてもよ、人間に感染する前に分かんねぇのかな」
「難しいんじゃないかしら」
昼食のトレイをテーブルに置いて、シャルルは慣れた手つきで小皿を取り分けていく。少し前まで、ハイバネイト・シティで提供される食事の一部には、記憶を阻害する成分が含まれていたそうだ。シャルルが怪我をしたときに守ってくれた人が、その見分け方を教えてくれたのだと言う。
「何がどう身体に影響を及ぼすのか――なんて、起こってみないと分からないことの方が多いんだと思うわ」
「まぁ……そうかもな」
「不思議な話ではあるわよね。自分たちで作っておいて、仕組みが分からないなんて」
「いや、でも――それは、そういうもんだろ」
「そうかしら」
「俺はそう思うぜ。料理だって畑仕事だって、こうすりゃ成功しやすい……みたいなセオリーはあるけどさ、どこまで行っても運任せなトコはあった」
「それも……そうね」
常日頃から、農作物という制御しきれない生き物と向き合っている、彼らしい意見だった。サテリットはひとつ頷いて、スープの注がれたカップに口を付ける。
世界は複雑だ。
どれだけ単純な枠に当てはめようとしたって、必ずそれを越えていく。まだ少女だった頃の無邪気な自分と、半分くらい重なり合って存在しているサテリットは、目の前に茫洋と広がる不可解の海に、憧憬に近い感情を抱いた。
ひとつでも多くのものを見て、そこにある未知に胸をときめかせたい、そんな感情。
「私……」
空になったカップをトレイに戻して、サテリットは視線を空の方向へ向けた。
「異世界の人に、早く会ってみたいわ」
「この話の流れで、なんで、そうなるんだよ……会ったら危険って話だろ?」
「それが何とかなったら、って話よ」
サテリットの返事に、シャルルは肩をすくめて「お前らしいな」と笑ってみせた。
食べ終わったトレイを片付けて、紙で包んだパンと、水筒に移し替えたスープを持って食堂を後にする。約束通り、シャルルの髪を切ろうかと提案すると「それは後で良いから」と、昼食の入ったかごを目の前に差し出された。
「冷める前にさ、持ってってやれよ」
「えっと……私がひとりで、ってことかしら?」
「そう。顔、見せてやれよ」
「……別にふたりで行ったって良いじゃない」
唇を尖らせつつも、シャルルの意図は分かった。きっと彼は、五年間こうやって、自分とアンクルに気を遣い続けていたのだ。「恋人」だったふたりの間に、第三者である彼が割り込みすぎないよう、距離を置いていたのだろう。
「――分かったわ」
彼なりの親切を無碍にするわけにも行かず、ひとつ頷いてかごを受け取る。アンクルの居室の前まで移動して、いくつかノックをすると、少し間を置いてから、眠たそうな声で返事があった。
「……はい」
「私だけど」
「え――サテリット?」
一瞬の沈黙ののち、ばたばたと忙しない足音がする。開けて良いかと尋ねるまえに扉が開けられて、アンクルが顔を出した。少し腫れたまぶたの内側で、サテリットを見つめた視線が、片手に提げたかごに移動する。それから部屋の中の、おそらくは壁掛け時計を見て「ああ」と納得したように呟いた。
「そっか、お昼か……ごめん、持ってきてくれたんだ」
「ええ」
「貰うね。ありがとう」
アンクルが右手を差し出して、かごを受け取ろうとする。広げられた、大きくはないが意外と厚い手のひらを見て、どうしようか――と少し考えた。
昼食を渡しに来ただけだから、彼の手にかごを持たせれば、それでサテリットの役目は終わるはずだ。でも、シャルルに気を遣わせておいて、本当に顔を見せただけで帰るのも、少し不義理に思えた。
それに。
「サテリット?」
不思議そうにこちらを見る視線。
碧色の瞳、色素の薄い少し跳ねた髪、どこか頼りなくて穏やかな目元、汗ばんで顔色の悪い頬――は風邪を引いているからだけど、アンクルという幼馴染を構成する要素は、五年前からほとんど変わっていなかった。サテリット自身もそうだ。五年前から変わったことといえば、足が動かしづらくなったことくらいだろう。
人そのものは変わっていない。
人のあいだにある感情だけが変わった。
「部屋に入っても良い?」
人間は複雑だから、何が起こるか分からない。
16歳のサテリットは分からない。昔とほとんど変わっていないこの人を、どうして好きになったのだろう。シャルルでも、死んでしまったリゼでも、さらに言えばリヤンでもなく、どうして彼だけが特別だと思ったのだろう。
知りたい。
もう一度好きになるために。
扉を片手で抑えて、じっとアンクルを見つめると、彼は少しばかり気まずそうに視線を逸らす。
「良いけど、僕は嬉しいけど……風邪が移るよ」
「そういうとこ、かしら」
「えっと……なにが?」
「いえ、何でも」
ひとつ首を振って、彼の部屋に入れてもらう。アンクルが壁ぎわに寄せられていた椅子を持ってきてくれて、ごく自然な流れで腰を下ろしてから、病人に気を遣わせてしまったことに気がつく。
「――ありがとう」
「えっと……あ、椅子のこと?」
寝台の上で壁にもたれて座りながら、いいよ全然、とアンクルが笑う。
平時よりは明らかにゆっくりと、彼が昼食を消費していくのを眺めながら、サテリットは手持ち無沙汰になって彼の居室を見回す。サテリットが使っているものとほぼ同じ間取りだが、壁からせり出した収納の付いている場所だけが左右逆だ。
その収納の戸が薄く開いていて、内側に何か、見慣れない造形のものがある。
「ねえアン、あれは――」
「え、あれって……収納のこと?」
「違う、その中の」
「中の? あ……ちゃんと閉めてなかったのか」
アンクルがひとつ溜息を吐いて、食べかけのパンをかごに戻す。寝台から立ち上がって戻ってきた彼の手には、ひび割れたプラスチックに覆われた金属部品の塊が抱えられていた。
「これ、この間、向こうの区画で見つけた……ロボットアームから外れた部品。こっそり、持ってきた」
「向こうの――って、どこ」
「……S3方向に二時間くらい歩いたところ」
「そんな遠くまで行ってたの?」
思わず高い声で問いかけると、ばつの悪そうな表情でアンクルが頷く。
「なかなか、見つけられなくて」
「だけど――」
往復するだけでも四時間かかる計算だ。一日三食を一緒に食べているのに、自分にもシャルルにも気づかれないまま、そんな遠出をしていたなんて、少し信じがたい。
「そんな長い時間、貴方がいなくなったこと、あったかしら?」
「……ふたりが寝た後に探してた」
「えっ? どうして、そんなこと――」
反射的に問い返してから、ふと思い当たる節に気がついて、サテリットは口を手で抑えた。
「もしかして、前に、私とシャルルに言ってたこと?」
「……うん」
アンクルが唇を横に引いて、ロボットアームの関節部分と思わしきパーツを見下ろす。よく見ると、記号やメモ書きがそこかしこに記されていて、構造を理解しようと苦労した痕跡が残されていた。
「本当にやろうとしてたのね、あれ……」
ハイバネイト・シティ居住区域では、人間の腕のように動くロボットアームが雑用をこなしている。アンクルはその技術を応用して、サテリットやシャルルのように、思うように使えない身体の補助に利用できないかと考えているようだった。
「とっくに……諦めてると思ってたわ」
その方面の造詣が深くないサテリットですら、アンクルが挑もうとしている課題の困難さは分かる。
「だって、そんなの、一朝一夕でどうにかなることじゃ……」
「うん……正直、僕の知識程度じゃ全然追いつかない。こんなことしてても、ふたりの役には立てないのかもしれないけど、でも他に、僕ができそうで、ふたりを手伝えそうなことって、分からなくて」
「でも……」
どうして、そこまでするの。
喉元まで出てきた言葉を、音にしないままサテリットは飲み込む。わざわざ問うまでもなく、彼が宿舎の仲間たちをまとめる人間としての矜恃を持っていて、サテリットたちのために何かひとつでも成し遂げたいからなのだろう。
ごめん、とアンクルが眉を下げた。
「これ、シャルルには内緒にしてね。俺のことは良いから――みたいに言わせちゃうと思うから」
「分かったわ、けど……ひょっとして、そのせいで体調崩したの?」
「うーん、分かんないけど……でも、寝不足気味だったのは本当。ごめん、かえって迷惑かけて……」
「迷惑だなんて思ってないわ。けど、どんな病気をもらうか分からないんだから、あまり遠出はしないほうが良いと思う」
「――そうだね。ごめん」
「謝りすぎよ、貴方は」
彼は、過剰なくらい自分とシャルルに気を遣っている。それもきっと、見方によっては長所なのだろうけど。そういうところを気に入ったのかしら――とサテリットが首を傾げたとき、定時の放送以外では自分から音を発することのないスピーカーが、不意にチャイムを鳴らした。
「あら?」
ふたりは会話を中断して、視線を天井に持ち上げる。しばらく雑音が流れたあとに、クリアな音質が人の声を伝えてきた。
『コアルームより、移動のお願いです』
「……移動?」
アンクルがひとつ瞬きをして呟く。
『S2-22区域の一部に放送を流しています。感染症の発生が確認されたため、汚染されている可能性のある区域から退避をお願いします。これから読み上げる居室を利用している方々は、一時間以内に荷物をまとめて下さい。S2-22-143、144――』
延々と読み上げられる番号のなかに、サテリットたちの居室も含まれていた。部屋の扉がノックされて、アンクルが返事をする前にシャルルが顔を出す。
「やっぱ、こっちにも放送流れてんのな……一時間以内って、そんな急な話があるかよ」
「シャルル、声抑えて。まだ話が途中」
「あ……悪い」
サテリットは唇の前に人差し指を立てながら、寝台の上に置かれたロボットアームの破片を見せないよう、そっとブランケットを被せる。そうしている間にも、スピーカーからは淀みないアナウンスが流れ続けていた。
『――以上の居室を利用している方々が対象です。三時間後を目処に、区画を切り離す予定です。移動が遅れた場合、取り残される可能性があります』
「え?」
アンクルが小さく息を呑む。
『連絡は以上です。繰り返します――』
「取り残される可能性――って」
シャルルが唖然として、アナウンスの言葉を繰り返した。
「そんなの、お前らの匙加減次第じゃねぇのかよ。こっちにだって都合が……なんだよ、さも自然現象みたいに言いやがって」
「いや、仕方ない――準備しよう」
少しふらつきながら、アンクルが寝台から立ち上がる。彼の肩を支えて、シャルルが恨めしそうに天井を見上げるものの、一方的に流れるアナウンスが、入居者ひとりの反論に応じるわけもなかった。
「……急ぎましょうか」
降って湧いた面倒な指示だが、従うしかない。溜息を吐きたいのを堪えて、サテリットは杖を取って立ち上がった。水を含んだように重たい身体が、両足と腕に容赦なくのしかかる。
「私もアンも、移動に時間が掛かるから、少しでも早く動き始めた方が良いと思うわ」
「――そうだな」
渋い顔で舌打ちしつつも、シャルルが頷く。
「ふたりとも、荷物持つのキツかったら相談してくれ。前みたいに、任せろ、とは言えねぇけど、できるだけ持つから」
「うん、ありがとう」
「ったく……何が起こってるってんだよ」
背後でシャルルがぼやく声を聞きながら、アンクルの居室を出る。自分の居室に入る前に、サテリットは一瞬だけ振り返って、はるか遠くの消失点まで伸びていく通路を眺めた。