chapitre98. 誰より近い人
文字数 6,268文字
「シャルル。傷の手当を――」
「やめろ」
触れた腕を振り払われて、ロンガは小さくよろめいた。シャルルがはっとした顔になって、悪い、と呟く。
「でも今は、無理だ。お前の顔を見たくねぇ」
「……分かった。ここに救急箱を置いておくから、自分でやってくれ」
「ああ、ありがとな」
ロンガは頷き、踵を返してシェルの待つテーブルに戻った。部屋のもう片方の隅ではアンクルが顔を伏せて泣いていて、少し距離を空けた隣に、困ったような表情を浮かべたサテリットが座っている。
ロンガの父親、ラム・サン・パウロが死んだ。
言葉だけ見れば悲劇的なのかもしれないが、彼は血縁上の父親である以上に、ロンガの記憶と自由を奪い、あまつさえ殺そうとした人間だった。仇敵と呼んだほうがまだ近い表現だ。たとえ目の前で死なれたところで、その評価は覆らない。
だが――彼は、ロンガの大切な友人たちを守ってくれていたのだという。信じがたいが、アンクルたちの反応を見るにそれ自体はおそらく本当だ。彼らからすればラムは、本物の仲間で保護者だったのだ。
統一機関にいた頃と、何もかも事情が違うのは分かっている。ラムがロンガにしたことをどれだけ悔やんだところで、過去は変えられないことも。
分かってはいるのだが。
「どうしてこんなに困らせてくれるんだ」
絞り出したロンガの言葉に、シェルを含めて誰も返事をしなかった。
ラムが善良な父親になれなかったのなら、ただ恨むべき相手でいてくれた方がまだ良かった。彼が死んでも、悲しくもなければ嬉しくもないのに、形の見えない衝撃のようなものが胸の奥に残っている。時間が経てば経つほど、そのしこりは大きく重たくなっていった。
シェルがテーブルに手をついて立ち上がり、ルナ、と呼びかけた。
「話がしたい。隣に行こう」
「……ああ、分かった」
ロンガは彼に続いて、部屋をちらりと振り返ってから通路に出た。隣の部屋の扉を開け、寝台に腰掛ける。シェルが扉の鍵を閉めて、椅子をひとつ引いて座った。
「信じがたいけど、あの人、他人を守れたんだね」
「そのようだな」
「ルナの仲間、みんな良い人みたいだ。彼らが生きてて良かった」
「うん……感謝、しないといけないんだろうな」
ロンガは溜息をついて、両足を引き寄せた。
「恨んでもいるけど」
「感謝しながら恨んだらいいと思うよ」
「はは、そんなに器用じゃないよ……」
ロンガは力なく笑ってみせる。
「そう? ぼくは、敵だと思いながら味方だとも思ってたよ」
シェルは視線をこちらに合わせて、あのさ、と切り出した。
「ぼく、グラス・ノワールにいたんだ。これ話したっけ」
「ソルの口からは聞いてない気もするが、カノンが教えてくれたな」
グラス・ノワールとは、ラピスで唯一存在する牢獄だ。2年前の葬送以降、書類上で死んだことになった彼は、ハイバネイト・シティに辿りつくまでの間はグラス・ノワールで囚人として生活していたのだという。
ロンガの言葉にシェルが頷く。
「うん、で、そこにムシュ・ラムもいた」
「ああ――そうか。人を殺したことになれば、当然、投獄されるよな」
「そう。ぼくらは一先ず手を組んで、囚人仲間として生活した。それから収穫祭の日の一件があって、脱獄してスーチェンの街を逃げた末に、一緒にここに辿りついた」
シェルは目を細めて、視線を上に向ける。
「正直、ぼくは来て欲しくなかったけどね。生き延びてルナに謝ってほしかったから……でも、結果的に会えて良かった。死ぬことも、正気を失うこともなく、本当にギリギリ間に合った」
「そこまで気にしてくれてたのか」
「当たり前でしょう」
事もなげにシェルは言った。
「でも、ごめん。ルナは別に謝ってほしかったわけじゃないんだね」
「どちらかと言うと会いたくはなかったな」
ロンガは小さく肩を竦めてから、でも、と口調を明るくした。
「たしかに彼の顛末は気にはなっただろうな。まだ、心理的にはあまり受け止められていないけど――最期を見届けられたのは、良かったかも知れない」
「そう」
シェルは少しほっとしたような顔をした。
「それなら良かった」
「うん。話したかったのはそれか?」
「ううん。えっと……あの子たち、地上に一緒に来るかな、と思って」
「アンたちか? でも、元はと言えばサテリットが妊娠して、出産に備えた設備が地上にないから地下に来たんだ」
以前にシャルルが手紙で教えてくれたことを思い出して、シェルに伝える。
「だから、彼らは地下に残ると思う」
「そう……ここも安全じゃないみたいだけど」
「うん、そうなんだよな」
ロンガは頷き、でも、と言葉を続ける。
「もしエリザが目を覚ましたら、暴徒化した“
「その可能性はある」
シェルが頷いて、ひとつ瞬きをした。
“
地下の統治者がマダム・カシェからサジェスに変わって、彼はヴォルシスキーの出生管理施設を利用して内臓のみを培養しようと試みたが、それも失敗に終わった。
だからこそエリザは、今までずっと目覚める見込みがなかったのだ。しかし、ラムが死に際に言い残したとおり、彼の内臓がエリザに移植されれば話は全く別になる。エリザは健康な身体を取り戻し、さらにハイバネイト・シティの総権を持っている。彼女の存在によって、“
「そうだ、コアルームにいるアルシュたちには連絡したか?」
「うん、さっき伝えた」
シェルが頷く。
「地下の医療技術は地上よりずっと発展しているし、成功の見込みはある。彼女が諭してくれれば、きっと良い方に行く。それに彼女は、ルナと同じく未来が見えてるんでしょう?」
「おそらくは、そうだ」
「つまり、ラピスの水没をも既に知っている。うん、きっと大丈夫だね、この世界は……」
「何だかやけに楽観的だな」
ロンガは相槌を打ちつつ、ひそかに首を捻った。
数日前、最下層で出会ったときと比べればかなり元気になった彼だが、どうも不自然な態度に思えてならない。シェルは依然として食事にあまり手を付けないし、彼の象徴だった笑顔も戻ってこない。そのくせ時折は楽観的なことを言うが、空元気にも見えない。何というか、色々咬み合っていないように見えるのだ。
まあ――数日前に惨事に巻き込まれたばかりの人間が、普通に会話して生活していることのほうが、不自然なのかもしれないが。
考えるのが面倒になってきて、ロンガは寝台に身体を倒した。
シェルがどこからかブランケットを持ってきて、床に寝転がる。
「床でいいのか。ベッドが良ければ譲るけど」
「ううん、ルナが使って良いよ」
「そう、ありがとう。悪いな」
一旦立ち上がって部屋の灯りを消し、倒れるように寝台に身体を横たえた。考えるべきことも多く、眠れるか不安だったが、身体の疲労の方がはるかに上回っており、すぐに意識が薄れていった。
夢の中で、エリザと出会ったような気がした。
場所は、かつて彼女と語らった図書館。彼女は何も言わず、白銀色の瞳からぽろぽろと単調に涙を零して、じっとロンガを見つめている。亡くなった彼女の夫を想って泣いているのだと、なぜか理解できた。助けられなかったロンガに対して怒ることも、かといって父親を亡くした娘を慰めることもなく、ただ、ひたすらに悲しんでいた。
ロンガが彼女の手に手を重ねると、身体が吸い込まれるように溶け合って、やがて、エリザとロンガは重なり合った。エリザの目で世界を見て、エリザの肌で冬の空気を感じていた。だが――エリザの心はもう、ほとんど言葉を発さなくなっていたので、ロンガは永遠の静謐のなかに閉じ込められて、やがて自分自身も考えることを止めた。
そんな悪夢だった。
目を開けると朝になっていて、午前6時5分前、ロンガは床で眠るシェルを起こさないよう、静かに顔を洗った。5分後に、ELIZAの合成音声が天井から降ってくるが、シェルは眠ったまま身じろぎもしなかった。
「ソル、朝だ」
肩を揺するが、彼は死んだように反応しない。心配になって脈を取ったほどだが、本当にただ眠っているだけのようなので、諦めてロンガはブランケットをかけ直してやった。部屋を出たところでシャルルと出くわし、ああ、と彼は気まずそうに眉をひそめる。あまり眠れなかったのだろう、濃い隈がはっきりとできていた。
「ロンガ……昨日は悪かった。お前とお前の友達が、俺を庇ってくれたあの人に冷たい目を向けてんのが、やりきれなかったんだ。事情は、アンに聞いて、分かったけどよ」
「いや――良いんだ。シャルルこそ、大丈夫か。その、色々と」
口ごもりながらも問いかけると「大丈夫なわけねぇだろ」とシャルルは無理やり口元を持ち上げて見せた。
「右手は死ぬほど痛ぇし、おっさんがいなくなって今後どうすんだ、って感じだし、サテリットの記憶は吹き飛んでるしアンは塞ぎ込んでるし……やってらんねぇよ」
「うん……そうだよな」
「でもよ」
シャルルはガーゼを貼り付けた顔をぐいっとこちらに寄せて、声を潜めて囁いた。
「お前の友達に比べりゃ、言っちゃぁ悪いがずっとマシだ。お前、気付いてるか……あいつ、昨晩ほとんど寝れてねぇみたいだぞ」
「え?」
驚いて声が大きくなった。
「そんなはずない。今だってすごく良く寝てて」
「ああ、今は寝てるだろうな。今朝方、5時くらいか。指が痛くって目が醒めてさ、通路に出たら、あいつ――シェルと会った。眠れないって言うから、宿舎から持ってきた薬草を分けてやったんだよ」
シャルルは目を逸らして言った。
「とびっきり眠れるやつ……たまに、リヤンに内緒で相談をするときに使っていた」
「そうだったのか。ごめん、私が気付けていなかった」
「良いんだよ、それは。でもさ――無理やり眠らせて、それで解決って話じゃないだろ。何か抱えてることがあるんだろ」
「……そうだな」
「良かったら教えてくれないか。俺たちで良ければ力になる」
シャルルが怪我をした手で、任せてくれと言わんばかりに自分の胸を叩くので、え、とロンガは眉をひそめた。
「それは有り難いが、シャルルたちだって、今、すごく大変だろう」
「いや――皆そうだけどよ、当事者だけで問題を抱えたがるよな。でも俺は、ロンガが宿舎を出たからって、仲間じゃなくなったとは思ってねぇよ。俺たち3人と、お前たち2人で、分けて考える必要なんてないだろ」
「……ありがとう。シャルルは、凄いな」
思わず素直に賞賛すると、シャルルが目元を擦って「何がだよ」と笑った。
*
シェルを除く4人で食堂に向かい、食事を受け取るだけ受け取って居室に戻る。食堂のように開けた場所にいるのは危険だという判断から、最近はそうしているそうだ。部屋に戻ってから、トレイに乗せられた食事を見比べる。
「パンと、この小鉢は食っても平気。スープはダメ、サラダは分からん」
シャルルとアンクルが手慣れた様子で食事を仕分けていくので、ロンガは彼らに任せることにした。
「料理に記憶を阻害する成分が入ってるのか。しかし、よく見分けられるな」
「……おっさんが教えてくれたんだよ」
「ああ――そうなのか」
シャルルが眉根を抑えたので、ロンガは小さく頭を下げた。気にしないで、とアンクルが笑ってくれたが、重苦しい雰囲気は払拭できず、口数の少ないまま食事を終えた。
この空気をさらに重たくするのか、と
「
「それは……何というか、想像を絶する話だね」
アンクルが重たい表情で頷く。彼もまた、泣き腫らした目をしていたが、今は落ち着いた口調だった。
「僕だったら耐えられない」
「あの、でも、ごめんなさい。ちょっと良いかしら」
サテリットが遠慮がちに口を挟んだ。彼女にとってはロンガは、シェルと同じく初対面の人間だからだろう、記憶の中のサテリットよりも少し控えめな口調になっている。
「言ってしまったら悪いのだけど……何だか、それだけではない気がする。ロンガ、シェルは貴女にすごく執着というか、拘っているように思えるの。違うかしら」
「……私にか?」
「それはあるかもしれない」
「そうかもしれねぇな」
ロンガが首を傾げるのとは対照的に、アンクルとシャルルが同時に頷いた。
「でも――私たちは
「うん、ロンガはそう言ってたね」
アンクルが頷いて、でもさ、と言葉を継いだ。
「シェルはどう思ってるのかな。彼にとっての君って何だろう、と聞かれてロンガは答えられる?」
「……分からない。ただ、大切な
「いや――非対称すぎる関係だったら、きっと長続きしねぇからよ、今まではそんな感じだったんだろ。でも、お前ら、2年ぶりに再会したんだよな。2年で何か、変わったんじゃないか」
「そうね。2年もあれば、きっと、人間って変わってしまうわ。ごめんなさい、脅す気はないのだけど」
「うん、ロンガ。2年間で君も変わったよね。よく話すようになったし、笑うようになった。同じくらいの変化がシェルにあったと考えても良いと思うんだ」
三者三様の表現で問いかけられて、分かった、とロンガは頷いた。
「ありがとう……彼のことを話すから、一緒に考えてくれないか。ソルにとっての2年間が一体、彼に何をしたのかを」