行き止まり
文字数 7,586文字
彼女の研究のタイトルは「五十年型予測モデルを用いた長期寒冷化傾向予測」である。難解な言い回しだが、要は「いつ寒冷化は終わるのか?」という問いに対して、エリザの未来視を使ってアプローチすることが趣旨だ。もちろん、一般的にはオカルトでしかない未来視の目を研究の根拠として使えるわけがないから、学会やら学術誌で研究内容を発表する際、その辺りは適当に偽装されているらしいが。
いつ寒冷化は終わるのか。
その問いに対してジゼルが導いた最終的な解は、およそ五十年後だった。
五十年ほど待てば、吹雪は止み、地上を覆い尽くしている雪は溶けて、ふたたび人間が生活可能なレベルの気温にまで戻るという。今もニコライの指示で建築が進められているハイバネイト・シティは、数百年は余裕で耐久できる構造だと言うから、こちらは全く問題がない。
しかし。
人間であるプロジェクトメンバーたちにとって、五十年というのはあまりに中途半端な時間だった。いたずらに待つには長すぎる。では子孫を残し、彼らに未来を託すのはどうか。子孫を残すと言っても、七人しかいないメンバー同士で生殖活動を行うことは想定されていない。ハイバネイト・シティには、保存されている遺伝子バンクから人間を再生させるシステムがあるので、主にそちらを利用しての話になる。
だが――五十年というのは、人間の寿命よりは短い。
たったそれだけの時間を惜しんで、新世界の夜明けを見ることができないのは、やはり口惜しい、という感覚を、プロジェクトメンバーは共有しているようだった。あるいは、ここまでプロジェクトに尽力してきて、美味しいところを子孫の世代に奪われたくないという発想なのかもしれないが、ともかく彼らは、第三の選択肢を選んだ。
第三の選択肢。
それは、人工冬眠の技術を利用して、自分たちの時間を止めるというアイデアだ。こうして眠ってしまえば、五十年だろうがあっという間に過ぎていく。冷凍カプセルのための追加費用こそ必要になるが、そのデメリットを差し引いても、人工冬眠こそが最善の案だろう、という結論に固まったらしい。
気候変動の予測モデルが完成し、人工冬眠のアイデアが採用されたことで、ハイバネイト・プロジェクトは最終段階に入った。すなわち、肉体を眠らせて五十年の時間をワープするための下準備である。先鋭技術である人工冬眠カプセルを八人分用意するためには、相当の資金が必要であるらしく、外部との交渉を担っているサティはいつも不機嫌そうにしていた。
***
十六歳になった、ある日のこと。
ルーカスに連れ出されて、エリザはメトロに乗り込んだ。
一時間ほど列車に揺られてから、すこし大きな駅で降りる。そのまま地下街を歩いて、連れて行かれたのは大きな鏡のある店だった。エリザは言われるまま椅子に座らされ、薄手のケープを羽織らされる。後ろに誰かが立ったかと思うと、髪の毛に櫛が通され、大きなクリップのようなもので髪をまとめられる。
美容院か――と、エリザはそこで気がついた。
蜂蜜色のストレートヘアは、ろくに手入れをしていないせいで伸び放題だ。長すぎても邪魔なので自分で整えているが、上手に切れているとは言い難い。おそらく美容師なのだろう店員が、ハサミやらクリップやらを駆使して、毛先を整えていった。
ルーカスが店に代金を払って、二人は駅に戻る。
「……あの」
渡された切符を見て、エリザは呟いた。
「帰るんじゃ、ないんですか?」
印字されている駅名は、ハイバネイト・シティの最寄り駅ではなかった。エリザはこの辺りの地理をあまり把握していないが、ハイバネイト・シティに戻る方向ではなく、さらに遠ざかる方向のメトロに乗ろうとしているようだ。
ルーカスは「うん」と笑顔で頷く。
「今日はね、遠出するから」
「……そうですか」
エリザは頷いて、切符を外套のポケットに入れた。
ルーカスが真意を隠すのは、今に始まったことではない。出かける先が告げられないのも、いつものことだ。どうせルーカスに聞いたって教えてくれないし、行き先がどこだろうが興味はないし、知ったところで何も意味はない。
だからエリザは考えない。
問いかけないし、疑問を持たない。
ルーカスに言われるままメトロに乗り込み、ロングシートの上で揺られ続ける。その旅程は今までと比較しても長く、何度か乗り換えを挟みながら、三時間以上はメトロに乗り続けた。ようやく改札外に出たかと思うと、今度は、個人が運転している車で地下道路を走る。地下に掘られたトンネルは暗く、緑色の照明が等間隔に灯っていた。眠っても良いよ、とルーカスに言われたので目を閉じたが、疲れているのになぜか眠りにつけず、エリザは目を閉じたまま車の揺れを感じていた。
「……そういえば」
運転手が、何事かルーカスに話している。
「結局どうなんだい、資金の方……
「おそらく。今のご時世、けっきょく皆、いちばん欲しいのは未来につなぐ希望でしょ。良い値段を付けてくれるはずです」
「そりゃあ良いや」
ひひっ、と笑う声が聞こえる。
「まあ、せいぜい頑張ってくれよ。俺はまぁ、アンタみたいにカプセルに入ることも、それを買ってやることもできないが……愚かなものを犠牲にして、賢い人間が未来に行く。良いじゃねぇか。それこそが現代の正義だろ、なぁ」
「人聞きが悪いなぁ」
ふふ、とルーカスが笑う声。
「僕はただ、必要なものを必要な場所に運ぶだけですよ」
「よく言うよ、極悪人が」
――極悪人。
聞こえた言葉を、エリザは胸のうちで繰り返す。そうか、ルーカスは悪人なのか、と冷静に考えていた。どうやら資金繰りの話をしているようだ。どこもかしこも困窮している現代において、学術を目的とした金銭的支援を受けるのはかなり困難らしい。そんな貧しいご時世で、さらに高価な人工冬眠カプセルを買い揃えるだけの資金を得るためには、清廉潔白な善人ではいられない、ということなのかもしれない。
この時点でエリザには、自分はその「極悪人」に目を付けられており、知らない場所に連れ去られている真っ最中である――という認識はなかった。
三十分ほど目を閉じていると、眠りに落ちた。
暗闇に落ちた意識のなかで、エリザは、ひぃ、ひぃというあえぎ声のようなものを聞いた。痛みを必死に堪えている声に聞こえる。何だろう、とうっすら目を開けて考えると、他ならぬ自分自身がその声を上げていることに気がついた。
ひどく寒い空間にいた。
荒れ果てたオフィスのような場所だ。古い書類やファイルが散乱している床に、薄っぺらいマットレスが敷かれていて、エリザはそこで横になっていた。正方形のパネルが並べられた天井は朽ちていて、いくつかのパネルは外れて落ちている。横長の窓があるが、シャッタが下ろされていて向こうは見えない。建物も空気も全体的に湿っていて、どんよりと重かった。
身体を起こそうとして、エリザは違和感に気がつく。
やけに身体が重く、動かしづらい。胴体の上に巨大な岩でも乗っているのかと錯覚するほどだった。横になった姿勢のまま身じろぎをすると、重みが内臓を押し潰して、エリザはくぐもった苦痛の声を上げた。
いったい、何が。
首だけを持ち上げて、エリザは重みの正体を見る。
すると。
胸もとまで捲られたワンピースの向こうに、肌色の塊があった。小高く盛り上がった丘のようなそれが、大きく膨れ上がった自分の腹部であると気がついた瞬間、エリザは高い悲鳴を上げた。妊娠しているのだ。心当たりなんてないのに、どうして。意味が分からない、なんで、どうして――
「なんでっ――」
半狂乱で叫んで起き上がる。
そこでようやくエリザは、今の景色が夢だったと気がついた。おそるおそる見下ろした腹部はぺたんとへこんでいて、いつも着ているワンピースに収まっている。得体の知れない何かが収まっている風には見えなかった。
「どうしたの?」
隣からルーカスが尋ねてくる。
「随分うなされていたね。長旅で疲れたかな」
彼の質問には答えず、エリザは周囲を見回した。
車の後部座席に座っているのは、眠りに落ちる前と変わりないが、外の景色が違っていた。地下通路のトンネルではなく、地上の立体駐車場にいるようだ。駐車場は広かったが、停まっている車はほかに一台もなかった。前方の座席から「ようやく起きたか」と言って運転手が振り返り、早く降りるように促される。
ルーカスに連れられて、エリザは車を降りた。
駐車場は密閉されておらず、吹雪が吹き込んでいてとても寒かった。エリザが自分の身体を抱きしめるように身を縮めると、ルーカスがどこからか取り出した分厚い外套を渡してくる。それを着ている間に車は駐車場を出て行き、後にはエリザとルーカスだけが残された。
「あの……」
エリザは嫌な予感を覚えながら、ルーカスを見上げた。
「どこに、行くんですか」
「行けば分かるよ。じゃあ、行こうか」
そう言ってルーカスは歩き出す。
エリザは仕方なく、彼の後を追って歩き始める。駐車場は、もう長らく利用されていないのだろう、ひどく廃れていた。柱の塗装は剥げ落ちていて、内側の鉄骨が見えており、その金属も黒っぽく腐食しているのが分かる。床のコンクリートには大小無数のひびが入っていて、注意して歩かないと転びそうだった。
駐車場を対角線に歩いた先に、小さな扉がある。
二重に設けられている扉を抜けると、エレベーターが一台だけあった。ルーカスがボタンを押すとすぐに扉が開き、エリザは促されるまま乗り込む。一フロアだけ降りたところでエレベーターが停止して、エリザはルーカスに続き、エレベーターホールの外に出た。
向こうには暗い廊下が続いていた。
天井のパネルは落ち、蛍光灯は消えている。ひどく荒廃した廊下の突き当たりに、両開きの扉があり、ルーカスが「お待たせしました」と声を掛けながら扉を開ける。エリザたちが室内に入ったのとすれ違うように、誰かが室内から出てきて、背後で扉が閉められたかと思うと、ガチャリと音を立てて鍵が掛けられた。
向こうは無人だった。
暗い部屋を、エリザは見回す。
そこは照明の落とされたオフィスのような空間だった。デスクは壁ぎわに寄せられて、本棚に並んだファイルや書類は横倒しになっている。掃除されている形跡はあるが、衛生的と言うには程遠い空間だった。天井は正方形のパネルが並べられた構造で、老朽化のためか、パネルのいくつかは外れて落ちている――
「あれ……?」
頭の中央に突き刺さる、嫌な感覚。
それは既視感だった。間違いなく初めて訪れるはずの場所なのに、エリザはこの部屋を見たことがあった。荒廃して天井のパネルが落ちたオフィス。今、目の前にある景色はまさしく、自分が妊娠していたあの悪夢で見た場所、そのものだった。
気がついた瞬間、身体ががたがたと震え始めた。
「あっ、あのっ……る、ルーカスさん」
唇が引き攣って、うまく動かない。
「わ、わたし、この……この部屋でっ、私――」
「んん? ……あぁ」
不思議そうに首を傾げていたルーカスは、そっか、と呟いた。
彼は自分の目を指さして、にっこりと笑ってみせる。
「もしかして、
「……っ」
喉の奥から、引き攣ったような音がこぼれる。
震え出すエリザの肩を、ルーカスが背後から両手で掴んだ。成人男性の強い握力が、エリザの痩せた肩をがっちりと押さえる。それは、支えてくれているというよりは、逃げ出さないよう抑えつけているような力の向きだった。
「ふぅん、そう。面倒だねぇ、その目も……まあ、今さら逃げ出せるわけがないし、君が自分の運命を悟ったところで、僕には痛くもかゆくもないけど」
「なっ……な、なんでっ……」
「なんで、かぁ。理由が欲しい?」
ルーカスはちらりと扉の方を見て「そうだね」と頷いた。
「先方が来るまですこし時間がありそうだから、教えてあげようか。君もちゃんと、自分がどんな役割を果たすのか、知っておいた方が失礼がないからね……ねえ、エリザ。未来のない、閉塞した世界で、人間が欲しがるものって何だと思う?」
ルーカスは三秒だけ間を置いて、それから人さし指を立ててみせる。
「答えは、希望」
希望。
今のシチュエーションにもっとも似つかわしくない単語が、ルーカスの、笑顔の形に歪んだ唇から発せられる。エリザはもはや声も出せなくなって、膝をがくがくと震わせながら、ルーカスの声を聞くほかに何も出来なかった。
ふふ、と小さい笑い声が挟まれる。
「とはいっても、希望っていう概念が欲しいわけじゃない。いくら『希望はある』って言ったって、具体的な形がなかったら、誰も信じないもの。じゃあさ……向こう五十年は吹雪が晴れないと言われている世界で、具体的な形のある希望って、何だろうね?」
遠くで、ガチャリという音が聞こえた。
どこかの扉が開いた音のようだった。その音に続き、冷たい湿った空気を伝って、靴音のざわめきが聞こえてくる。ゆっくりとこちらに近づいてくる靴音の総数は、軽く十人ぶんを超えていそうだった。
「みんな、子どもが欲しいのさ」
自分のネクタイを直しながら、ルーカスが言う。
「自分の遺伝子を持つ存在を後世に残すことで、たとえ自分たちは死んでしまっても、自分の欠片を未来に残したい。だけど従来、出産というのは、男女間のコミュニケーションの先にあるものだった。今の人はみんな生き残るのに必死だから、そんなものに割く時間はなく、だけどお金はある。じゃあ簡単だ。そのお金を使って、自分の子どもを産んでくれる人間を買ったら良いんだね」
「そっ……そんなの、違法です」
必死に声を絞り出すと「そうだよ」とルーカスは臆面もなく肯定した。
「もちろん、これは人身売買に該当する。司法なんて死んだような時代だけど、それでも、その辺を歩いている女性を攫ってきたら流石に問題になるよね。監視カメラに写っていたら一発でアウトだし、勤務先や家族に訴えられても困る」
「そっ……そう、犯罪です――」
「だからこそ」
口元を三日月の形に持ち上げて、ルーカスが嗤った。
「君のように身寄りのない女の子には、莫大な価値があるんだよ」
絶望のあまり、エリザは大きく目を見開いた。
身体中の体温が足下に落ちていく。それは犯罪だ、という最後の盾ですら、ルーカスの前では何の役にも立たなかった。全身の皮膚がぞわぞわと震え、まっすぐ立っていることが難しくなったエリザを、ルーカスはいつものように笑顔で見下ろした。
「誇りに思ったら良いよ、エリザ。君は優秀な遺伝子を持つ子どもたちの母になれる。先方も君のことを見て、自分とともに遺伝子を残す相手として適切と見込んだからこそ、君を買ってくれたんだ!」
「……っ、は、ほ、本気で」
「うん?」
「本気で、それ、言ってるんですか……?」
「それ、ってどれのことかな。僕がここに君を連れてきた理由のこと? 君がこれからどういう仕事をするかってこと? それとも、これは名誉ある仕事だよってことかな……」
言いながらルーカスは、エリザの首元を掴んだ。
恐怖で、すでにほとんど身体が動かない。されるがまま床に押し倒されたエリザの襟元に、ルーカスの手が伸びてくる。服の内側に指がするりと入り込んだかと思うと、ぷち、という感覚がして、一番上のボタンが外された。
「ぜんぶ本気だよ」
言いながらルーカスは、ボタンを上から順に外していく。
「君はこれから、後世に人類を残すための大切な仕事をするんだ。先方は子孫を残せる、君は名誉ある母親になれる、僕たちはプロジェクトのための資金を獲得できる。僕はこのためにいろいろ準備をしてきたんだから、本気に決まってるよ。ああ……まあ、君と僕が恋人だよっていう、あれだけは嘘かな。もし信じてたなら、ごめんね」
腰周りのリボンがするりと解かれる。
「怖い?」
ワンピースを脱がされ、エリザの身体を覆い隠す衣服は上下の下着のみになった。エリザが故郷から持ってきたワンピースを、ルーカスは畳んで紙袋に戻す。続いて、紙袋のなかから別の服を取り出して、広げる。黒い生地でできた真新しいドレスだった。袖は付いていなくて、スカートの丈はやけに短く見えた。
「大丈夫だよ、君はまだ幼いけど、ちゃんと子どもを産める。僕と出かけるときに、飲み物を飲んで、体調が悪くなったことがあるでしょう。あれは、そのための薬だったんだ。それに君はサティに無理やり犯されてたわけだから、経験自体はあるんだし。乱暴にされて、後遺症が残ったら困るから止めさせたけど、あれはあれで、こちらの一助になったよね――」
そう楽しそうに話しながら、ルーカスは硬直して動けないエリザに、真っ黒いドレスを着せていく。うん、サイズは合ってる、などと独り言を言いながら、身体の側面にあるファスナーが引き上げられる。
エリザは絶望的な気分で天井を眺めた。
人間の恐ろしさを、舐めていた。
ルーカスの真意になんて興味がないから知らなくて良いと思っていた、あれはとんでもない大間違いだった。知らないままでいることがこんなに恐ろしいなんて知らなかった。ルーカスの言葉に裏があると分かっていたのに。何年も前から知っていたのに、エリザは、今の今まで愚鈍にも逃げようとしなかった。
後悔が無数に浮かび上がる。
ルーカスがどこまで手を回していたか分からないけれど、もしかしたら逃げ出すチャンスくらいはあったかもしれない。そうでなくても、他のプロジェクトメンバーで、どちらかと言えば無害なジゼルやニコライとか、あるいはユーウェンに相談しておけば、ここまで酷いことにはならなかったかもしれない。
でも――もう、無理だ。
見開いた目尻のふちから、涙がひとしずくだけ落ちた、そのときだった。
部屋の外から何か声が掛けられて、ルーカスが返事をする。電子錠が解除された音がして、重たそうな両開きの扉がゆっくりと開けられる。廊下から光が差しこんで、壁に明るい長方形を描いた。
光のなかに、長身のシルエットがあった。
床に倒れているエリザの目に、最初に入ったのは革のブーツ。男性ものだった。ゆっくりと視線を持ち上げていく。裏地が付いているタイプの、膝丈の外套を羽織っている。さらに視線を持ち上げると、こちらを見ている視線とぶつかった。
その顔には見覚えがあった。
「なんだ、そっかぁ……」
あははっ、とエリザは笑った。
「共犯なんだ、ユーウェンさんも」
じゃあ、最初から逃げ道なんてなかったのか。
全身をだらりと弛緩させて、そのままエリザは目を閉じた。