chapitre120. 不可視の意図
文字数 7,680文字
――第八の分枝世界
「この世界は、七語圏のどれとも違う未来に辿りつかなければならない。この意味が分かるかしら?」
白銀の瞳が、まっすぐロンガを見つめる。
ビヨンドあるいはD・フライヤの導きで四世紀の年月を遡り、旧時代末期にやってきたロンガにとっての本来の
つまり、このまま時間が過ぎればやがて彼らは目覚め、宿命に従ってラピスを作り始めるのだ。七人の祖は、誰の言語を新世界の公用語とするかで争い、それによって世界は七つの語圏、あるいは並行世界に分かれた。どの語圏でもラピスはそれぞれに栄え、ロンガが生まれたラ・ロシェル語圏と同様に歪みを内包しつつも人間社会として存続した。
しかし、それから三世紀と少しを過ぎた未来に大水がラピスを襲う。
それによって七語圏は悉く淘汰され、人類の滅びる未来が確定されたのだろう、とエリザは告げた。超越的視点から人類を観測している存在、ビヨンドは人類を未来へ繋ぐため、第8の分枝世界を作り上げた。
第八の分枝世界は――ロンガが今いるこの世界は、七語圏のどれにも繋がらない。同じ未来を再生産するのではなく、全く違う未来像を描き出し、人類を未来に存続させる。それがビヨンドの意向であり、彼が目指した因果だろう。
七人の祖にラピスを創らせてはならない。
彼らが目覚めてはいけない。
それは、つまり。
「私たちは、眠っている彼らを殺さなければならないの」
エリザの言葉は予想こそできたけれど、あまりに衝撃的で、金槌で頭を叩かれたように目眩がした。ロンガが知っているエリザの姿より数年ほど若く、まだ少女の面影すら残している彼女から、殺さなければならない――などという強すぎる言い回しが出てきたことが信じられなかった。
額を抑えたロンガを見て、ごめんなさいね、とエリザが小さく微笑む。
「驚かせてしまったかな。貴女に手を下させるつもりはないから、安心して欲しいのだけど」
「そうじゃない……何を言ってるんですか、エリザ」
ロンガは思わず立ち上がり、シフォンの袖からのぞくエリザの細い手首を掴んだ。
「人類存続のために、祖を殺すなんて」
「それがD・フライヤの思し召しだもの」
「どうしてそんなに、
「従う? それは違うわ」
氷のように冷え切った眼差しが向けられて、ロンガは思わずびくりと震えた。
「私は、因果の導きに身を任せているだけ。D・フライヤの描いた道筋の通りに生きるだけの存在」
「いいえ。貴女はあんなものとは関係ない」
「リュンヌ、貴女と私は違うのよ」
彼女は悲しげに微笑んだ。
「私が複数の世界に連なって存在できること。世界の分枝を観測できること。全てD・フライヤの導きであり、私という存在そのものが彼らの
「それでも……それ以前に、貴女は人間です。自分が
「ええ、そう言ってくれるのは本当に嬉しいの。でもね、リュンヌ。貴女が思っている以上に、因果の力というものは強大なのよ」
乾いた唇を笑顔の形に歪めて、エリザが呟く。
「個人の意志なんてねじ伏せるくらいに」
「そんな。だって、あれは私たちのために協力しているんでしょう――」
「それは違う。都合の良いところまでレールを敷いて、そこからどう歩むかを観測しているのよ。言ったでしょう、情など期待するだけ無意味だと」
エリザは目を大きく見開いた。虹晶石の輝きを閉じ込めた瞳がまぶたから離れて、穏やかさとは似ても似つかぬ印象になる。ごくりと唾を飲み込んで、ロンガは彼女の視線を受け止めた。
「今は理解できないし、したくもないでしょうけど、すぐに分かるわ。私たちはD・フライヤの都合良く動いている駒に過ぎない」
「では……私たちがラ・ロシェル語圏で必死になって生き延びようとしたのも、結局は彼らの筋書き通りだったんですか」
ロンガが食い下がると、意外にもエリザは緩やかに首を振った。
「貴女がいた世界は、因果が未確定な地点。D・フライヤですら観測できない、無限の可能性に満ちた世界だったの。
「ええと……もう少し、分かるような説明をしてくれませんか」
「因果が確定した領域と、未確定な領域、その間にある一点のことよ」
かみ砕いてもなお難しい言い回しに、ロンガは眉をしかめる。だがエリザの言葉を頭の中で繰り返すうちに、ふと気がついて顔を上げた。
「それって『今』のことですよね?」
過去と未来の間を指す、そのありふれた短い単語は、わざわざ複雑な形容で表すまでもない概念のはずだ。なぜ回りくどい表現をするのか、とロンガが首を傾げると、エリザは苦笑してみせた。
「そうね。貴女の感覚で言えばね」
「どういうことですか」
「私たちが存在する
「ええと……ここは、彼らに強固に支配された世界だという意味ですか」
どうにか理解できた部分を言語化すると「まあ、その認識で間違いないわ」とエリザは微笑んでみせた。
「こうしている間にも、
小さく息を吐いて、つまり、とエリザは呟いた。
「私たちはその権利を持たない」
「でも! D・フライヤは人に直接干渉することはできないのでしょう」
「その通りよ」
「なら――止めることだって」
勢いづいて、ロンガは怪我をしていることも忘れて立ち上がりそうになる。そんなロンガを、エリザは冷静沈着な目で見つめていた。
「貴女が祖と呼ぶ七人が目覚めるまでの50年間、ありとあらゆる手でD・フライヤは彼らを殺そうとする。止められないでしょう」
「50年……」
途方もなく長い年月に、ロンガは胸元を抑えた。
超越的存在の持つ、エリザが呼ぶところの因果という力が、どのように現実に干渉できるのかは良く分からない。
だが――ロンガから見れば伝説的な存在であるラピスの祖と言えども、結局はただの人間である。
そして、人を殺すのは簡単なことだ。
ありとあらゆるモノの欠乏、損傷、不調が人間を殺し得て、なおかつ一度失われた
得体の知れない存在が自分を監視している、その感覚に身を震わせつつ「それなら」とロンガは声を絞り出した。
「止められないなら……
「ええ。だけどね」
エリザは伸ばした手を、何かを掴むように握って見せて、空気のナイフを自分の胸元に突き立てた。
「D・フライヤは人を殺すとき手段を選ばない。酷い苦痛に何十時間も転げ回った果てにようやく死ねる者、精神を侵されて発狂して死を選ぶ者、失意の中でじわじわと死んでいく者……沢山、見たわ」
この目で、とエリザは白銀の目を指さす。
「あれを、もう繰り返してはいけない」
「……だから、苦しまずに死なせるため、貴女が代わって手を下すと?」
「ええ」
いつもの笑顔に戻って、エリザは頷く。その表情はとても、超越的存在に代わって人を殺めようとしている人間の顔には見えなかった。
ロンガは目をきつく閉じた。
「少し、考えさせてください」
「ええ、私はいつまでも待つわ。ただ、D・フライヤはどうかしら……」
不穏な一言を残して、彼女は立ち上がった。
与えられた部屋に戻って、寝台に寝転がってもまだ、エリザの言葉が頭の中でうずまいていた。彼女は、かつてロンガが慕ったエリザ本人ではないとはいえ、彼女が誰かを殺めるところは見たくないし、そんな罪を犯させたくもない。
「……それに」
水を含んだ布のように重たい腕を持ち上げて、太陽と月を象ったイヤリングを眺めた。今この地点から数えて、およそ四世紀の後に、ロンガの大切な幼馴染はこの世に生を受ける。だけど七人の祖を殺してしまえば、きっと、その未来すらなくなってしまうだろう。
そこまで考えて、思わず乾いた笑いを零した。
この期に及んでまだ自分は、シェルや大切な友人たちと再び会えるような気になっているのだ。いい加減に諦めて、現実を受け入れなければいけないのに、心がまるで違う場所にあるようで、自分と世界がぴったりと嵌まっていない感覚がある。
寝返りを打って目を閉じる。
まぶたの裏の暗闇に、ここにはない青空を思い描いた。その次に、空の色によく映えるオレンジ色の髪と、赤茶色の瞳を。本物と見紛うくらい丁寧に彼の像を描いたら、今度は他の友人たちを。青空の下に広がっていく、色も形も様々な表情は、たしかにロンガが愛した世界なのに、今はもう思い出の中でしか触れられない。
泣きながら手を伸ばして、彼らの待つ方へ進もうとするのに、その指先はいつまで経っても届かないのだ。
「ソル」
動かない彼に呼びかける。笑顔を浮かべた形のまま固まっている彼は、肖像画か銅像みたいだった。その瞳にロンガの姿を映しているのか、それすら良く分からない。
仮面のような笑顔に向けて、名前を呼んでくれ、と叫んだ。
だけど彼の唇が動くことは叶わないまま、澄み切っていた青空はくすんでいって、描き出した友人たちの姿も溶けて消えていった。最後まで残っていた大切な友人も、金色のイヤリングひとつを残して崩れ落ちた。
落下するような感覚と共に、寝台で目覚める。
握りしめていた手のひらを開くと、霞んだ視界の中、一対のイヤリングが無機質に光っていた。汗でべたついた髪をかき上げて天井を眺めると、視界の端にレモンイエローのロボットが映りこむ。シトロンと呼ばれている小型のロボットが、その天板に薬と水を乗せて、こちらにやってくる。
「飲め、と?」
尋ねるが、もちろん返事はない。
これもエリザが説明してくれた、感情の振幅を抑える薬だろうか。あまり考えないまま手を伸ばして、口に放り込んだ錠剤を水で飲み下そうとした。
だが、錠剤が喉元を通り抜ける直前に、ふと嫌な想像が頭をよぎった。暖かい思い出への憧憬だって、ひとつの感情ではないだろうか。感情を抑えつけてしまったら、彼らの姿だって忘れてしまうのではないだろうか。
思考より先に身体が動いて、ロンガは洗面台に錠剤を吐き出した。白い陶器製の洗面台に転がった錠剤をつまみ上げて、ゴミ箱に放り込む。咳き込みながら寝台に戻って、マットレスに身体を沈め、絶え間なく流れ落ちる涙を袖で拭った。
忘れたくない。
思い出が暖かければ暖かいほど、そこに戻れない苦痛は増すけれど、どんなに苦しくても覚えていたい。悲しみに飲み込まれて心が消えてしまうのは、やはり怖いけれど、大切な思い出が消えてしまうのだって同じくらい怖かった。
もう一度、思い描こうとした。
今度はもっと完璧な世界を。
触れれば体温を感じ取れるくらいに。吹き抜ける風の速度を感じるほどに。鼓膜を揺らす声の、巡らせた視線の、無意識の揺らぎさえ再生して、心の中にあの世界を創り出そうとした。記憶の小片をかき集めて繋いでいけば、完全な虚構を構築して、その中で生きていくことができるだろうか。
点と点を繋ぎ、線に。
線と線で浮かび上がる面を、さらに組み合わせて空間を作り出す。要素と要素の境界には別の記憶を足して、滑らかに繋ぎ上げ、人間の形に整える。
「なあ――ソル」
記憶で編み上げた友人の像に、呼びかけてみる。体温を放つ頬に手を触れて、睫毛の一本一本が別れて見えるくらいまで顔を近づけて、名前を呼んでみる。そのまま、太陽が何周も空を巡るくらい待ってみたが、それでも彼は微動だにしなかった。
ああ、と落胆の声がこぼれる。
思い出で塗り固めた像は動いてはくれないのだ。
「やっぱり、無理だな」
まぶたを押し上げて、溜息と共に重たい身体を起こした。泣き続けた目元が粉を吹いたようになっていて、洗面台で顔を洗う。
振り返って、ふと、先ほどまで部屋にいたはずのシトロンが消えていることに気がついた。思った以上に長い時間、物思いに耽っていたのだろうか。首を捻りながら部屋を出て、通路を当てもなく歩くと、曲がり角でエリザと出くわした。
「ああ、エリザ――」
挨拶をしようと片手を上げたロンガは、彼女がまるで亡霊でも見たような顔をしていることに気がつき、動きを止めた。引きつった表情のまま胸元を抑えてふらつくので、ロンガは戸惑いながらも彼女に駆け寄り、怪我をしていないほうの腕でエリザの身体を支える。
「あれ?」
そこで違和感に気がつき、ロンガは何度か瞬きをした。
「エリザ、髪を切ったんですか」
「ああ――ええ。その、伸びてしまったもの、だから……」
腰ほどまであった長い髪が、胸元までの長さに整えられていた。もう大丈夫よ、と言いながらエリザが立ち上がり、壁に手をついてこちらを見る。
「やっぱり、貴女は変わってない」
「何のことですか?」
「リュンヌ、身体は大丈夫? どこか痛くない?」
「ええ、何も。この通りです」
心配される意味が分からないまま、ロンガは腕を広げて笑って見せた。顔を真っ青にしたエリザの方が、よほど大丈夫ではないように見えるのだが。
「どうしてそんなことを聞かれるんですか?」
「そうね……プラリネに見せてもらうのが早いかしら。プラリネ、こっちへ」
彼女の呼びかけに応じて、通路の角から自律歩行型データベースのプラリネが顔を出す。持ち上げられたディスプレイに表示されたのは、七人の祖が目覚めるまでのカウントダウンだった。
その数字を見て、一瞬理解ができなかった。
「あれ……不具合ですか」
「いいえ。正常よ」
「だって」
首を振って、もう一度数字を確認し、記憶の中の数字と照らし合わせる。
「ほら、かなりずれてますよ」
「違うの。
エリザが肩を掴み、白銀色の両眼でこちらをのぞき込む。落ち着いて聞いてね、と震える唇が言う。
「貴女はずっと眠っていたの。日付にして二ヶ月ほど、水も栄養も摂らずに眠っていた」
「まさか」
ロンガは小さく吹き出した。
「そんなの無理ですよ」
「ええ……私も、そう思うけれど。お腹は空いている?」
「いえ、あまり」
「これも――D・フライヤの思し召しなのかしら」
彼女があまりにも深刻そうな顔をするので、もしかして冗談ではなかったのか、とロンガは思い始めた。たしかに眠りについていた感覚はあるが、せいぜい普段より少し長く眠ったくらいの体感だった。
癖のある前髪を指先でつまんでみる。エリザの言っていることが本当なら、数センチは伸びていて良いはずだが、全く変わっていないような気がする。爪だって伸びていないし、怪我をした腕だってそのままだ。
どう考えても、エリザの言うことが真実だとは思えない。だが――彼女がわざわざ、そんな嘘を吐くとも思えない。
「本当に、二ヶ月も眠っていたんですか」
「ええ……あのね、数日間起きてこないことは、今までもあったの。疲れているから仕方ない、と思っていたのよ。でも、これは人体の限界を超えている」
「そんなこと――あり得ません」
自然に震えだした身体を、両腕で抱えた。次元飛翔体の意志によって、自分はいつの間にか、人ではない何者かに変わってしまったのだろうか。落ち着いて、とエリザが優しい声で語りかけた。
「何はともあれ、貴女が起きてくれて嬉しいわ。私の大切な友達だもの」
「一体、何が起きているんですか」
「道理なんて分からないわ。ここはD・フライヤの創り出した物語の中なのだから。私も貴女も、その登場人物なのよ。お伽噺の妖精が空を飛ぶのに理由がいるかしら?」
「私たちの理解が及ばないとしても、何らかの理由はあるはずです」
「そう……まだ、諦めていないのね」
かすかに苦い笑みを浮かべて、エリザは数歩下がった。彼女が身体を反転させると共に、つま先の丸い靴が床を擦って、小さい音が鳴る。
「そういうところ、可愛くて嫌いじゃないわ。もし良かったら、お茶にしましょう」
「――はい」
頷いて、何かが差し込まれたように痛む頭を抑える。ビヨンドあるいはD・フライヤの介入によって、人間が容易に人間の枠を超えてしまうことは分かっていた。だけど、人間の道理を超えた者にも何らかの秩序があるはずで、その行動には意味があるべきなのだ。彼らはどんな道筋を思い描いて、この分枝世界を作ったのか。エリザとロンガが物語の駒に過ぎないというのなら、何のために生かされているのか。
「考えないと」
ロンガは呟いて、見下ろした手のひらを強く握りしめた。世界の形はきっと歪められている。この身体だって、もう人間の道理とは離れてしまったのかもしれない。
だけど思考だけは、まだ自由だ。
ビヨンドあるいはD・フライヤは、少なくともロンガの思考には介入していない。ロンガはそれを確信していた。理由のひとつは、人間の自由意志に彼らが輝きを見出している以上は、介入して操作する意味がないから。もう一つは、仮に思考を都合良く操作されているなら、彼らに対する記憶や疑念は真っ先に抹消されるはずだからだ。
遠くでエリザが呼んでいる。
今行きます、と答えて歩き出すと、どこかで自分を見つめている超越的存在の笑い声が聞こえた気がして、背筋がぞくりと冷えた。