chapitre23. 取引
文字数 4,884文字
湿気の高い空間で目を覚ました。
自分の名前を思い出すのに一秒。
立場を思い出すのに一秒。
ここに至るまでの経緯を思い出すまでに五秒かかった。
そして全てを思い出し、リュンヌは床に右の拳を叩きつけた。正確には、叩きつけようとした。勢いよく振り上げた右手首に、手錠で繋がれていた左手首が引きずられ、体幹がぐるりと回転する。身体が硬いものに叩きつけられ、全身に鈍い痛みが広がって思わず舌打ちをした。
衝撃に揺さぶられた頭をどうにか動かし、リュンヌは周囲を見渡した。
暗い、直方体の部屋だ。
天井を配管が這っている。複雑に曲がりくねっていてまるで蛇のようだ。四方の壁には、円型の扉らしきものがいくつもあるが、どれも金属製でちょっとやそっとでは開きそうにない。ハンドルも、鍵穴さえもない。身を起こして振り返ると、部屋の中央を貫く太い柱が見えた。
部屋を構成しているのはそれだけだった。
配管、扉、柱。金属質で粗いディティールは今まで見たことがないものだ。だが、それが支配的なこの部屋ではむしろ、ひとり放り出されたリュンヌのほうが異質な存在に感じられる。リュンヌは肘で身体を支えて立ち上がった。そのまま歩き出そうとした瞬間に後ろに引っ張られ、手錠が配管のひとつと交差するようにかけられていることに、遅れて気付く。
秒数を数えながら息をして、自分を落ち着かせる。
状態を確認した。
ガスがまだ抜けていないのか、ひどい眩暈と頭痛がする。背中にも痛みがあったが、打っただけで怪我はなさそうだ。服装はそのまま。ジャケットに仕込んだものも無事。手錠で配管に繋がれているので移動は不可能。銃は――奪われたようだ。手が使えないのだから持っていても意味がないが。
動けないならば体力を温存すべきだと考え、リュンヌは腰を下ろした。
前髪に覆われた額を、汗が伝う。部屋は妙に暑く、そして湿度が高かった。首元のを緩めたかったが、手が使えない現状ではそれすら叶わない。苛立ちや疲れや不安といった、腹の中で渦巻いた者が溜め息になって口から流れ出た。
現状をあらかた把握すると、今度は別の疑問が沸いた。
むしろ、なぜ今まで考えなかったのか、と感じるほど根本的な疑問だ。
――ここはどこなのだろう。
――そして、何のために自分はここに連れて来られたのだろう。
誰が連れてきたのか、という部分ははっきりしている。マダム・カシェだ。彼女がエリザの名前を騙ってリュンヌをおびき出し、麻酔ガスを使って眠らせてから、ここに運び込んだのだろう。
リュンヌがカシェの残したメッセージに気がつくことも、それに従うことも全て彼女の予測通りだったという訳だ。何も知らないリュンヌが昇降装置から降りてきたとき、カシェは何を思っただろう。あまりの愚かさに含み笑いでもしただろうか。
だが、リュンヌはまだ一つだけ隠し球を持っていた。
後ろ手に探って、その存在を確認する。塔を出てくる直前に、ジャケットの裾の折り返しを解き、縫い代の中に石鹸の欠片を入れたのだ。ハーブ系の強い芳香を持つ石鹸は共用の洗面所から持ってきたものなので、ソレイユならその匂いを良く知っているだろう。
リュンヌの移動経路には、ハーブの香りが足跡のように残されているはず。
そのことをソレイユに宛てた置き手紙に書いておいた。絹糸よりも細い希望だが、何もしないよりはまだ良い。唯一の心配点はマダム・カシェに感付かれることだったが、その点は、彼女が麻酔ガスに対抗するためのガスマスクを付けていたことで運良く回避できた。
全て後手に回ったわけではない。ソレイユが朝起きて、リュンヌの不在とあの置き手紙に気がつけば如何様にも事は運ぶだろう。
彼ならば、きっと上手くやってくれる。だから大丈夫、とリュンヌは自分に言い聞かせる。虚勢を張っていなければ、恐れの前に屈してしまいそうだった。
ふと気がついてポケットを探る。
――だが、それは同時に別のことを意味した。
朝に弱いソレイユを毎朝起こしていたのは他でもないリュンヌだ。2人が塔の上に来てからどころか、統一機関に来た当時から、いや物心ついた頃からずっとそうだった。そんな彼が起きるまでには、どうあがいてもあと3時間は掛かる。
顔を俯けると、また汗が頬を滴り落ちていく。
それにしても異様な暑さだった。
セ氏四十度近いのではないだろうか。真夏でもここまで気温が上昇することはそうそうない。この部屋に3時間放置されれば、それだけで不調をきたしそうだ。息をすればするほど、身体に熱を取り込んでしまう。湿気が高いためか、ハーブの匂いがやけに濃く感じられた。暑さと匂いで朦朧としながらも、意識だけは手放さないようにただひたすら耐えていた。
どれくらい時間が経っただろうか、不意に音がした。
リュンヌは弾かれたように顔を上げた。
気がつけば、服も髪も汗浸しになっている。脱げば絞れそうなほどだった。揺れる視界のなかで、柱だと思っていたものの表面が回転して、その内側が見えた。そうか、あれは祈りの間にあったものと同じ昇降装置だったのだと合点がいく。
その中から、二人の男を引き連れたマダム・カシェが歩み出た。
「あら、暑いじゃない」
髪をかき上げて、カシェが開口一番言う。
後ろにいた男の一人が頭を下げた。
「すみません。熱交換システムが不調でして……作業場に優先的に回しているので」
「それで? 私の大事なお客様を危険に晒したことへの言い訳はあるのかしら」
リュンヌはまるで自分が叱責されているかのような恐怖を感じた。口調は穏やかで、いかにも女性的だが、声の響きは氷柱のように鋭く冷たい。
「申し訳ありません、マダム――」
男の声に被せるように銃声が轟く。リュンヌは声も出せず、男の巨体が崩れ落ちるのを見ていた。呻き声を背後に、カシェと、撃たれなかった方の男が近づいてくる。彼の顔を見て、リュンヌは絶望的な気分になった。
「サ――いや、ゼロ? なぜ貴方がここにいる」
感情のない目で、ゼロはリュンヌを見下ろした。彼は答えない。
カシェが彼に一瞥を寄越すと、ゼロはリュンヌの背後に回って、手錠の固定を外した。普段のリュンヌならばその一瞬をついて逃げ出せたかもしれないが、暑さと疲労で体力のほとんどを失っていた。されるがまま、手錠を付け直される。
一連の流れを見ていたカシェが、紅を引いた唇を開いた。
「彼は私の『駒』よ。有能だから、他の子よりも気に入ってるけどね」
彼女の冷たい物言いに心臓が冷える一方で、ひとつ腑に落ちた。だからカシェは、ティアの言葉で手紙を書けば、リュンヌにのみ選択的に伝わることを知っていたのだ。ゼロはリュンヌたちの世話役であると同時に、カシェに手配された監視役でもあったのだろう。
ゼロがリュンヌの肩に手を回し、立ち上がるよう促した。彼に身体を支えてもらい、どうにか身体を立てる。全身が水を含んだスポンジのように重く、体重をかけるたびに膝が震える。
カシェが部屋を斜めに横切り、一つのハッチの前で何か操作すると、扉は奥に引っ込み、それから四つに別れて壁に吸い込まれた。洞穴のような真っ暗な通路が一瞬見えたが、すぐに人工的な白い灯りがついた。道は左右に分岐し、時には登り坂になり、先程までいたのと似たような部屋を通り抜けて、また別の道に入る。
辿りついた先は小さなバーだった。
同じような直方体の部屋だが、端に酒瓶の並んだカウンターがあり、椅子とテーブルのセットが規則的に配置されていた。背の高いカウンターチェアを勧められ、体力の限界を迎えていたリュンヌは倒れ込むように腰掛ける。目を閉じて荒い息を吐いた。自分の呼気が熱く感じられる。先程までいた部屋とは違って涼しく、全身の汗が急速に冷えていった。
首元を引かれ、上半身を起こされた。
唇に冷たいものが触れる。薄目を開けると、口元にコップをあてがわれているのが分かった。
「水を。飲め」
相変わらず聞き取りづらい声が言う。ゼロの声だ。ついさっきガスを吸わされたのもあって、本当に水なのかという疑いは捨てきれないが、明らかに脱水状態にある以上は水分を摂らないと危険だった。リュンヌは目だけで頷き、コップの中身を飲み干した。水は常温で、決して美味しいとは言えなかったが、失われていた生気が取り戻されるような気がした。
「――ありがとう。ゼロ」
「何か盛るとでも思った?」
いつの間にかカウンターの裏に回っていたマダム・カシェが、液体を満たしたカクテルグラスを片手に微笑んだ。
エリザもそうだが、カシェもまた笑顔が特徴的な人だ。ただしその性質は真逆に近い。エリザの笑顔が柔和で穏やかな、人を許すための笑顔ならば、カシェの笑顔は鋭利で油断ない、人を絆すための笑顔だ。同性のリュンヌの目から見ても、蠱惑的とすら思えた。
その笑顔に飲まれないよう注意しながら、リュンヌは「いえ」と首を振った。
くくっ、と低い笑い声をもらし、カシェは酒に口を付ける。
「別に嘘を言わなくても良いのよ? 警戒しているでしょ、リュンヌ」
「――しない方がおかしいでしょう」
負け惜しみに近い返答だが、マダム・カシェは「それもそうね」と余裕に満ちた表情を浮かべた。リュンヌはゼロに頼み、もう一杯水をもらう。それを飲み干して、ようやく体力が戻ってきた。
「何故私を呼び出したのですか」
「簡単よ。リュンヌ、貴女を助けてあげたかったの」
あたかも当然のように、カシェは微笑んだ。
リュンヌは呆気にとられた。これほど乱暴な仕打ちをしておいて、助けたかったとは一体どういうつもりなのだろうか。それに、問うのうえに閉じ込められているのは自分だけではないのに、なぜリュンヌだけを呼び出したのだろうか。確かに思い返せば、葬送のときからカシェはリュンヌに興味があるような素振りを見せていたが。
いったいカシェはどの立場に立っているのだろう。
「あの男に塔の上に幽閉されているんでしょう? まあ、貴女もただ手をこまねいていた訳ではないようだけど……」
薄暗い部屋で、やけに光る青い瞳がリュンヌを見据えた。リュンヌは腹の底に冷たいものを抱きながら「何のお話でしょうか」としらを切った。
「あの娘、アルシュ・ラ・ロシェルと言ったかしら? なかなか優秀な子だわ。ああ、別に私に行動が知られているからといって彼女の不手際じゃないのよ。統一機関の――いえ、ラピスの人間である限り、私に知られないように動くなんて無理だもの」
「――貴女はアルシュをどうするつもりですか」
リュンヌは慎重に言葉を選んだ。
「今の段階では、別にどうも? それより、私の目的は貴女なのよ」
「私に何をさせようと?」
「ええ、そうね。取引しましょ。貴女を塔の上から出してあげる。その代わり――」
カシェは唄うように言った。カクテルを呷った唇が、灯りを反射して輝く。
空になったカクテルグラスを一瞬、興味なさげに見つめたあとに、あろうことか指先でつまんでリュンヌの背後に放り投げた。それが頬の横を掠めるのとどちらが早いか、カシェはリュンヌの目前に青い瞳を見開いてみせた。
笑顔が消えている。
カシェの瞳には、紛うことなき激情が燃えていた。怒りとも、興奮とも、あるいは恨みとも取れる凄まじいほどの強い感情が、熱線となってリュンヌの網膜を灼いた。
「あの男を。ラムを殺しなさい」
背後で、ガラスの弾ける高い音がした。