chapitre104. 歌声の描像
文字数 5,323文字
木箱に力なく腰を下ろしたアックスが、蒼白な表情で呟くように言う。
「でも……もしかしたら、ルージュのように声色が変わってしまって、それを言い出せない者もいる、のかもしれません」
「
ロンガが問いかけると、アックスは「分かりません」と唇を震わせながら答えた。
「前例がないことなので、何とも言いかねます。ただ、加齢や病気で今まで通りの声が出なくなる団員は今までもいて、そういう人は例外なく……コラル・ルミエールを去りました」
「でもそれは、去って向かう先があったからできたことだわ」
「リジェラの言うとおりです。他の都市の
アックスの応答を聞いたシェルはロンガに向き直り、片方の眉をひそめてみせた。部外者のロンガたちがあまり深入りすべきではない、という意図だろうか。
彼の苦い視線を感じつつも、ロンガは「でも」と声を上げた。
「今となっては貴方たちにとってコラル・ルミエールは、ただ歌声を合わせるだけの場所ではない。共に生き、行動する仲間……です、よね」
「――貴女の言いたいことは良く分かります」
アックスは肩を丸める。彼の全身が動揺で張り詰めているのが分かった。
「僕たちは今や、運命共同体。生きていくために仲間でいなければならない。その通りです。僕だって、声が変わってしまったからといって、みんなが仲間でなくなるなんて、まさかそんなこと――」
「アックス。正直に言うべきだわ」
空虚に笑うアックスの肩に、リジェラが静かに手を乗せた。
「綺麗事ではなく。貴方は本当はどう思ってる?」
「……僕は」
彼の瞳は動揺で揺れていた。
音楽という揺るぎない軸があるからこそ、ラピスが存続の危機に瀕していると知っても自分を見失わずにいられた彼だ。アックスには、彼が尊敬する音楽家のためになら、どんなものだろうと投げ出す気概すら感じられた。
ロンガが固唾を呑んで見守っていると、アックスは小さく溜息をついて眉根を寄せた。
「分かりません。僕が大切に思っていたのが、ルージュたち本人なのか、彼ら彼女らの作り出す音楽だったのか。でも、ルージュが今までのように歌えなくなったら、それは彼女の形をした偽物だ……って、心のどこかで、思ってしまう気がします」
暗い部屋に、よく通る声がしんと響き渡った。彼は手のひらで顔を隠し、すみません、と呟く。
「一人にしてもらっても良いですか」
「――ええ。出過ぎた真似をしました」
ロンガは頭を下げて、倉庫の扉に手をかける。静かな通路を引き返すと、いくらもしないうちにリジェラとシェルが追いついたが、会話が交わされることはなかった。途中でリジェラと別れてからしばらく歩いたとき、シェルが「あのさ」と言って顔を上げた。
「ぼくは……昔とは、きっと変わってしまった。あの頃みたいには笑えないのに、今でもぼくのことをソルって呼んでくれるのは、どうして」
「え? だって当たり前だろう」
ロンガが首を傾げると、違う、と彼は無表情のまま首を振った。
「理由を考えるまでもなく、自然にそうしてくれてるのは分かってる。でもぼくは、その
「その人を構成する要素として大きかったものが失われたから、偽物に見えてしまう、という話か」
「うん」
「その答えなら自信を持って言える。だって、失われてないからだよ」
ロンガがはっきりと切り返すと、シェルは虚を突かれたように目を見開いた。その顔は確かに疲弊しているし、目の光はどこか暗く、頬も痩せたけれど。
「何も変わってないだろう。すぐに人と親しくなれるところも、私のことを気遣ってくれるのも。自分を犠牲にしようとするのも、向こう見ずな性格も相変わらずだし」
「……
「そのくらいは分かるよ」
苦笑を吐き出した言葉尻に、いくら私でもね、と付け足す。
「たしかにソルは少し変わった。ムシュ・ラムに会わせようとしたときの表情なんかは、見慣れなくて、驚いたけど……」
あの時、暗い部屋でシェルの瞳に宿っていた暗い光を見て、少しだけ恐怖を感じた。もう遠くなってしまった昔日のこと、塔の上からラピスの街並みを見下ろしていたときの彼に比べて、あまりにも不自由そうで苦しそうに見えた。
でも、少し違うと気がついた。
シェルはずっと不自由だったのだ。何も知らずに研修生として生活していたロンガと違って、彼は記憶操作の事実を知りながらも隠し、ラムと密かに対立しつづけていた。彼が変わってしまったのではない、笑顔の裏側にあって見えなかったものが、初めて前面に出てきただけだ。
「ソルの外側に見えてるものじゃなくて、内側でソルを動かしているもの。それ自体は、やっぱり変わってないと思った」
「こんな、すっかり諦めきったぼくでも?」
「ラピス全体の問題を一人で抱え込んでしまう、喪失を正面から受け止めたくて苦しむ……ソル自身の言葉を借りるなら、その意志こそがソルの本質だと思うよ。その誠実さのせいで、余計苦しそうに見えるけど」
「――そう」
彼は少し視線を逸らしてから、眉を下げたまま力なく笑った。
「ありがとう。でも、見込み違いだ、それは」
「……え?」
その返事の意図したところが飲み込めず、ロンガが一瞬立ち尽くすと、数歩ぶん先に出たシェルが振り返って「誰か来る」と呟いた。彼の言ったとおり、どこかから忙しない足音が聞こえていた。すぐ背後まで迫った足音に振り向くと、通路の角から飛び出したロマンと目が合う。
あ、と彼は声を上げた。
「なあ!」
ロマンはそのまま早足でこちらに歩み寄り、額の汗を拭った。
「ルージュ、どこかで見てねぇか」
「見ていないな。
「今日、朝からずっと練習に来てないんだよ。や、確かに、来ても歌えないんだけどさ……いつも見学してたから。何かあったかなって」
「それは心配だね――ルナ」
相槌を打ったシェルが、こちらに顔を向けて「どうする?」と唇の動きで問いかけた。彼の意図を察して、ロンガは上着のポケットに思わず手で触れる。そこに入っている
だが、昨日ルージュを通路で見かけたときのように、彼女が一人で練習をしているのだとしたら、そこにロマンを連れていって良いのか分からない。わざわざ離れた場所で歌っていたのだから、人目に付きたくない意図は明らかだ。
黙っておくべきか、ロマンにも真実を告げるべきか。どちらの選択肢も取れる立場にあるからこそ、自分たちが決断しなければならなかった。
ひとつ溜息をついて、決意する。
「危険なことに巻き込まれていないとも限らない」
ポケットから
「こんなとこに?」
ロマンが唇を尖らせる。先日ルージュらしき人影の歌声を聴いたのと同じような、遠く離れた区画の通路だった。
「何やってんだ、わざわざ遠いとこで」
「――あのね、ロマン君」
立体地図越しにシェルが振り返って、目に被さった髪を払いのける。彼がロマンの肩に手をかけると、ロマンは身を小さく震わせた。
「ぼくたちから話して良いのか分からないけど、先に伝えるべきだと思うから、聞いて。あのね、ルージュちゃんは、多分――」
*
通路の向こうに、澄んだ歌声が聞こえ始めた。
しかし、ロマンには数分前から既に聞こえていたらしく、気がつけば地図を見ているロンガたちより先に歩いていた。彼が音楽家であることと関係するのかは分からないが、おそらく平均よりも聴覚に優れているのだろう。
曲がり角の前で、ロマンはくるりと向き直る。意味ありげな表情をシェルとロンガに交互に見せ、自分の口元を指さした。
『ルージュは耳が良い。そろそろ足音に気をつけた方が良い』
ロマンの唇が動いてそう告げる。シェルが少し驚いたように肩を竦めてから、頷いて見せた。ロマンが悪戯っぽく笑ってみせたので、ようやくロンガも気がついた。唇の動きでシェルと会話していることに、いつの間にか気がつかれていたようだ。
『いつの間に気がついたんだ』
ロンガが同じく唇の動きで伝えると、ロマンは苦笑して首を振った。分かんねぇよ、とその口元が動く。読唇で会話していることには気がついても、唇の動きから言葉を読み取ることまでは叶わないようだ。
歌声に導かれるように、通路を折れ曲がりながら進む。歌う息づかいがはっきり聞こえるくらいの距離になると、この辺にしておこうとロマンが告げる。三人は壁沿いに立ち、押し殺したような沈黙を挟んでルージュの歌を聴いていた。
ロマンが伏せていた顔を上げて、シェルとロンガを交互に見回した。
『たしかに、声が違う』
彼はそれだけ告げて、あとは黙って歌声に耳を澄ましていた。ロンガは音がしないように床に腰を下ろし、ルージュの独唱に聴き入った。十数分ほど経つと、一曲を歌い終えたらしいルージュは、少し咳をしながら通路の向こうに遠ざかっていった。
「……緊張したね」
シェルが、どこかとぼけた声で呟いたのを切欠に、張り詰めた場の空気が解けた。俯いていたロマンが顔を上げ、長い息を吐き出す。ロンガも畳んでいた膝を伸ばして、天井をぼんやりと眺めているロマンの表情を見遣った。
「びっくりした」
ロマンは目を見開いたまま、ぽつりぽつりと言葉をつなげ始めた。
「母音によっては、喉がやけに力んでた。低い声が潰れすぎている。新しい喉に慣れていないって感じだな」
「――ロマン?」
「前のルージュよりは下手だった。あれじゃあ確かに、まだオレたちの前には出てこれねぇな。あいつプライド高いし」
彼は肩を小さくすくめて、でもさ、と人差し指を立てた。
「
「個人の声そのものが失われることは、重要じゃないって言うのか」
「いや、重要だよ。決まってんだろ。アックスが動揺したのも不思議じゃねぇ」
ロンガの質問に対してロマンは、何言ってんだ、と言わんばかりに眉を吊り上げる。それからふっと笑顔になった。
「でもオレは――ルージュのいちばん凄いとこって、表現力だと思ってたから。歌声だけで、色や匂いを作れるんだよ、あいつ。そこは全然、変わってなかった」
「色と匂い、かぁ」
「何だよ。シェルだっけ? あんたには伝わんなかったか」
「ぼくは……何だか、夜の海風ってこんな感じかなって思った。感じたことないはずなんだけどね」
「おっ、それだよ」
不満げな顔を一転させて、ロマンはシェルの手を握った。
「普通に考えてさぁ、音楽に聴覚以外の五感が刺激されるわけないんだよな。でも、心に訴えかける力がある。その訴求力みたいなやつ、それはもう、声の質なんかとは全然違う次元の話だから」
「ロマンにとって、ルージュの音楽の本質はそこなのか」
「そーだよ。これでも結構見てるんだぜ、オレ、指揮者だから」
腰に手を当てて笑うロマンが妙に頼もしくて、ロンガとシェルはどちらからともなく顔を見合わせて笑った。
きっとコラル・ルミエールの中にも色々な考え方をする人がいて、声が変わってしまった仲間を許容できる団員もいれば、すぐには受け入れがたい団員もいるだろう。受け入れられないということは、それだけ元の声を愛していたということだから、一概に否定できることでもない。
ただ少なくとも、ロマンはルージュの音楽が失われていないと思っていること。それが分かって、何だか安心したのだ。
壁にかけられた時計を見て、ロマンがあっと声を上げた。
「オレ、そろそろ戻るよ」
「分かった。そうだ、私たちも練習を見に行こうかな。どうだ、ソル」
ロンガが振り返ると、シェルは背後に手を回して「ぼくも付き合うよ」と笑った。