chapitre132. 分水嶺にて
文字数 5,592文字
「やあ、ブラス」
彼は挨拶に応じないまま、背後に手を回してヘアピンのように細い鍵を取り出す。大人しく手錠を外されながら、シェルは彼の顔をのぞき込んでみた。
「ねえ、その傷さ……もしかして抵抗してくれたの?」
「――うるさい」
「そんな冷たい言い方しなくても」
肩を竦めてみせると、ブラスは投げやりに「早く食べろ」と吐き捨てて視線を逸らした。
シェルたちの情報をフィラデルフィア語圏の人々に流したのは、まず間違いなく彼だろう。だが、彼が主体的に裏切ったのと、求められて仕方なく情報を流したのは、少なくともシェルにとっては重大な違いだった。
「教えてよ、ブラス」
「余計なことを言うな、と命じられている」
「君が抵抗したかどうかって、それ、別に機密だとは思えないんだけど。結果的にバラしたんだから。でもその過程が、ぼくには意味があるんだよ」
ね、と微笑んでみせると、ブラスはぽつりと「力不足だった」とだけ呟いた。
「やっぱり、そうか。ありがとう」
「……礼を言うのは違うだろ」
「守ろうとしてくれたんだから、そりゃお礼言うよ。あのさ、ぼくは別に怒ってないよ。ブラス
ブラスは返事の代わりに鼻を鳴らし、こちらに背を向ける姿勢で壁にもたれかかった。シャツの背中を見るでもなしに眺めながら、手錠から解放された指先でパンをちぎり、口に放り込んだ。
「君は……怖くないのか」
ブラスが背中を見せたまま、衣擦れに紛れてしまいそうな小声で問いかける。
「俺のことなんて気にしている場合じゃないだろう。殺されるかも、とか思わないのか」
「あー……やっぱり、そういう方向で話が進んでるんだね」
滑らせた言葉尻を掴んでみると、ブラスは肩を強ばらせた。全力でしかめた顔がこちらを見る。彼は返事の代わりに大きな舌打ちをしたが、その態度がすでに肯定しているようなものだ。人質の対応をさせるには彼は未熟で、あまりにも優しすぎる。
「フィラデルフィア語圏は、ぼくらを対価に一体何が欲しいのかな。報復される可能性だってあるのに、大胆なことするよね。こういう言い方は良くないけど、ぼくとアルシュちゃんの身柄さえ諦めてしまえば、ここを封鎖するなんて簡単な――」
そこまで言って、ふと脳裏に閃く。
「そっか……
問いかけるが、鎌をかけたと言うにはあからさますぎる質問に、ブラスが答えるわけもなかった。乾いたパンを食べ終わってから、トレイを持って部屋を出ていこうとするブラスの背中に呼びかける。
「もし良かったら、お昼も君が持ってきてくれると嬉しいな」
「……人質に一日三食も食べさせるわけないだろう」
ブラスは呆れた声で言って、横目にシェルを振り返った。
「次は夜だ」
――創都345年1月27日 午前7時19分
――新都ラピス ハイバネイト・シティ最下層
ふと時計を見ると、朝だった。
より正確には、朝と定義される時刻が訪れていた。夜通しの議論を経て、まだ何名かの構成員たちは討論を続けていたが、いい加減に疲労が溜まっていた。内外から押されているように痛む頭を抑えて、カノンはコアルームを抜け出す。
「――おや」
珈琲を注いだカップを片手に休憩室を出ると、居室の方角から歩いてきたエリザと出くわした。部屋で休んでいたらしい彼女は、カノンの姿を認めて小さくあごを持ち上げる。その眼差しを正面から受け止めるには、徹夜明けの頭はあまりにも重たくて、カノンは斜めに視線を逸らした。
「寝ていて構わないと言われていたはずですが」
「いえ、そうは行かない。これは、私の問題でもあるもの……そうでしょう?」
「ああ――あの、すいませんが、お話の前に。ひとつ訊ねても良いですかね」
後頭部を手でかき上げて、僅かに言い淀む。エリザがまっすぐに見つめてくるのを、無言の肯定と受け止めて、思い切って問いかけた。
「今のあんたは
「まだ、概ねはエリザよ」
「……そうですか」
少し気が楽になって、ひとつ息を吐く。
「なら良かったです」
「ええ」
エリザが頷くのと前後して、あ、と背後で叫ぶ声が聞こえた。振り返るとMDP構成員たちが慌てた形相で駆け寄ってきて、カノンの横をすり抜けてエリザを取り囲む。ひとりがエリザの肩を掴んで、険しい表情で見下ろした。
「マダム・エリザ、悪いことは言いません。居室に、安全な場所にいて下さい」
「どうして。私が一番、現場に立ち会っていないといけないのではなくて?」
「それは――奴らの提案に乗る、という意味ですか」
彼は険しい表情を浮かべる。
フィラデルフィア語圏から、拘束されたふたりの身柄を対価に求められたもの――それは、ハイバネイト・シティのあらゆる領域をコントロールするための権限、一般に総権と呼ばれているものの譲渡だった。以前はカシェ・ハイデラバードが所有していたこの権利は、二年前にサジェスに移動し、更に現在はエリザが所有している。
「逆に聞きたいのだけど」
蜂蜜色の髪を流して、彼女は首を傾げた。
「彼らの要求を呑まずに、ふたりを助ける方法があるのかしら」
「それは……難しい、と言わざるを得ません」
眉間にしわを寄せた、苦々しい表情。
「ですが、総権を所持していること、それ自体が脅威なのです。ひとたび渡してしまえば二度と取り返しがつかなくなる。たったふたりの生命など、比較にならないほどの犠牲が出たっておかしくありません」
「そんな野蛮なことをするかしら」
「するかどうか、ではない。できることが問題なんです。総権を渡してしまえば、我々は未来永劫に至るまでフィラデルフィア語圏の言いなりです」
「でも、それは向こうだって――」
何か言いかけたエリザの肩に、彼は半ば押し出すように手を掛ける。細い背中をふらつかせながら、彼女は自分を取り囲む人たちの顔をじっと見つめた。
「ともかく貴女には、安全な場所にいて頂かないと困ります。居室にお戻り下さい」
「……しかし、マダム・エリザにだって、議論に参加する権利はあるんじゃないですか」
カノンは口を挟んでみたが、ひとつ首を振られて終わりだった。エリザが瞳だけをこちらに動かして、微かに微笑んでみせる。諦めましょう――という意味だろうか。
「分かった、居室に戻っているわ」
「――ありがとうございます」
「ええ」
頷いたエリザが「そうだ」と呟いてカノンを見上げた。
「貴方も来てくれる?」
「俺ですか。まあ、俺は構いませんけど――」
言葉を途中で切って、構成員たちをちらりと見る。現在のカノンは、一応MDP構成員に準ずる形で行動しているため、勝手にいなくなって良いのか分からなかった。しかし、視線を向けられた構成員は大きく頷いて「どうぞ」と微笑んだ。
「貴方は軍部の出身でしたよね。マダム・エリザを警護して下さる方がいれば、こちらとしても安心です」
「――はぁ」
曖昧な相槌を肯定と取られたのか、満足げに頷いて彼らは去って行った。遠くなっていく背中を見つめて、ひとつ溜息をつく。
「都合の良い厄介払いだ」
彼らはあくまで、MDPという組織の名の下に集まった人々だ。そこから少々浮いた存在であるカノンは、今までも扱いに難儀されている感触はあったものの、仲介役だったアルシュがいなくなったことで、その構造がはっきりと現れていた。
「まあ、そう腐らずに」
見下ろさなければ視界に入らないほど下で、エリザがくすりと笑う。
「それに私は、別に貴方の腕っぷしを頼って、来て欲しいと言ったわけではないのよ」
「では、何のために俺を」
「浮いた人間同士、仲良くしましょう……というのは、冗談で」
彼女は細い指をあごに添えて、悪戯っぽく微笑む。その所作からして、明らかにエリザの人格が喋っていると分かるのだが、小柄な身体の中に存在すると聞く、もうひとつの人格を思い出した。彼女が同じ動作をするところを想像して、似合わないなと思いつつ、ほのかに頬が緩む。
エリザが少し顔を赤くして、咳払いをする。
「本音はね――私は、組織の中のシェルたちではなく、一個人として彼らを知っていそうな貴方に話を聞きたいのよ」
「なるほど。それなら、まあ……彼らよりはまだ適任かもしれませんが」
しかし、と首を捻る。
「それに何か意味がありますか」
「あるわよ。そちらの方が重要でしょう?」
何言ってるの、と言わんばかりに彼女は肩をすくめた。どうも会話がかみ合わないまま、彼女に促されるまま居室に向かう。扉の前に立って、エリザがノックをする。自分の居室なのになぜノックを、と不思議に思っていると、内側から扉が開けられる。
隙間からこちらを見た白銀色の瞳を見て、ああ――と得心した。
「マダム・カシェ。なるほど、こちらにいたんですか」
「エリザ――この人は」
長く伸びた前髪の下で、カシェは幼子のように不安げな表情を浮かべる。エリザは穏やかに微笑んで、彼女の肩に手を添えた。
「私の娘のお友達よ」
そう告げられた瞬間、カシェの表情が引きつった。見開いた目はぐらぐらと揺れて、頭蓋をわしづかんだ指が金色の髪を乱していく。エリザはそんな彼女の肩に手を回しながら、悠然とした笑みをカノンの方に向けた。
「どうぞ、部屋に入って」
「あ、あぁ――ええ」
呆気に取られていたカノンは、ふと我に返って頬を引っかいた。もつれるように寝台に座り込む彼女たちを視線で追いながら、後ろ手に扉を閉める。
「お言葉に甘えますが……何があったんです」
「何も起きていないわ。ただ私は――本当のことを告げただけ。彼女がラムとリュンヌにしたことを、教えただけ……」
「――ああ」
数日前に立ち聞きした会話を思い出す。
かつて統一機関の重鎮であったマダム・カシェ・ハイデラバードは、いかなる理由かは知らないが、彼女の人生のおよそ半分にあたる20年分の記憶を失ったと聞く。まだ彼女が新進気鋭の若手幹部だった、ラムやエリザと知り合った頃まで記憶が遡ってしまったのだ。すなわち、誰かを生かすために他の誰かの腹を割く――というおぞましい選択肢がカシェを追い詰める前の時期である。
「マダム・カシェも……
噛みしめるように呟くと「そうよ」とエリザが頷く。瞬いた白銀色の瞳が潤んで、いくつかの涙を頬に散らした。
「私たちは……きっとお友達だった。カノン、貴方と、リュンヌやシェルやアルシュがそうであるように」
「はぁ――俺たちのように、ですか」
「あら、違うの?」
顔を伏せたカシェの肩に腕を回したまま、彼女は微笑んでみせる。
「少なくとも、リュンヌは貴方のこと、お友達だと思ってるようだけど。だって、こんなに親しみを持って貴方と話せるのは、私の中にいるあの子のおかげよ?」
「嬉しいような、そうでもないような話ですが――なるほど。あんたが俺に拘ったのは、俺がシェル君たちの友人であるからですか」
「そうよ。初めからそう言ってるでしょう?」
「あれじゃあ分かりませんよ。今、ようやく理解しました」
深く息を吐いて扉にもたれかかる。
僅かに軋む板の感覚を背中で感じながら「それで」とカノンは切り出した。
「俺があの子たちの友人だったら、どうすると言うんですか」
「そうね……先に、反対側から話しましょうか。MDPはきっと、フィラデルフィア語圏の要求に応える気はないのでしょう?」
「ええ――そうですね」
胃がずしりと重たくなるのを感じながら、カノンは首肯してみせる。終着点の見えない議論はまだ続いているものの、総権を明け渡してしまえば全て終わりだ――という点は、ほぼ全員が同意しているようだった。
「人質を取って交渉する――という手段を正当化してしまうことになりますしね。それ以前の問題として、強大すぎる総権を彼らに渡してしまえば、俺たちの安全だって保障されません」
「そうね。カシェに聞いたのだけど、総権というのは、空気や水、電気や食糧、温度や湿度に至るまで、全てがコントロールできる権利と解釈して良いのね?」
「ええ。ハイバネイト・シティが支配あるいは監視している、あらゆるモノが対象です」
「そんなものを、得体の知れない他者に預ける気にはならない……」
歌うような口調でエリザが言った。
「その気持ちは分かるわよ。もっともその恐怖は、向こうから見ても同じでしょうけどね」
「仰るとおりで」
「ええ、それでね、ここからが本題よ。あちらが提示した回答の期限はいつ?」
「明日が終わるまでですね」
「そう……なら、まだまだ猶予はあるわね」
「――はぁ」
言い回しに引っかかり、首を捻る。
「むしろ、全く時間がない……と言うべきでは」
「いいえ。カノン、それにカシェ。ふたりに提案があるのよ――MDPという
寝台に腰掛けた背をぴしりと伸ばして、エリザは微笑んでみせる。その表情に、少し前まで寝込んでいた、病弱で小柄な女性とは思えないほどの存在感を感じて、カノンは思わず唾を飲み込んだ。