chapitre65. 平穏からの脱出
文字数 7,727文字
『おはようございます、生存者の皆さま。本日は――』
「本日は稼働より149263日。
合成音声の挨拶に重ねるようにソレイユは呟く。数秒遅れて同じ数値を合成音声が発音し、続いて百分率表記で負荷率を読み上げる。日に日に負荷率が増えているようだった。ということはつまり、地上からそれだけ人間が流入しているということだろう。ふと思い立って、ソレイユは天井のスピーカーに質問を投げかける。
「地上の人間は今、ハイバネイト・シティに何人いる?」
『――お答えできません』
「ダメか」
肩を落としてひとり呟く。重要性が高い情報は流石にプロテクトされているようだ。部屋に備え付けの洗面台で顔を洗って、服を着替えてからイヤリングを付ける。かつて友人にしてあげていたのと同じように後頭部で髪を結い、身体の調子を確かめるように腕をぐるぐると回す。昨日の筋肉痛がまだ残っていて、「痛っ」と呟いた。先日トレーニングルームを見つけたので、落ちた体力を戻すためにも最近は運動をしている。牢獄グラス・ノワールにいた頃と違って食事はしっかり出るので、まあまあの成果は出せていた。
そんな予定はなかったのに、いつの間にか、地下の生活に馴染んでしまっていた。
鏡の中に映っている自分の顔が、ひどく力の抜けた間抜けな表情に見えて、ソレイユは慌てて表情筋を引き締める。
「ダメダメ、こんなんじゃ」
自分がここにいる理由はまだ覚えているが、意識して覚えていなければ忘れてしまいそうだった。何一つ不自由ない生活に、気を抜くと甘やかされてしまう。
ソレイユは右耳から下がっている太陽のイヤリングを外して眺めた。対となる、月のイヤリングを左耳から下げている友人の無愛想な顔を思い浮かべて、心を奮い立たせようと試みた。
だが、その瞬間恐ろしいことに気がついた。
彼女の顔が、曖昧にしか思い出せない。
くすんだオリーブグリーンの癖っ毛をまとめた長い三つ編み、つり上がった眉、伏し目がちなまぶた、青い瞳の色、自分と同じくらいの背丈にやや細い体躯。ちょっと低くて落ち着いた声、固い口調。形容としては覚えているのに、記憶の中に描き出した友人の姿は、びっくりするくらいぼやけていた。
あんなに大切な人の顔を、なかば忘れてしまっている。
「……嘘だ」
膝から力が抜け、ソレイユは床にへたり込んだ。後頭部で編んだ髪が肩から滑り落ちて垂れ下がる。友人を思い出すために同じ髪型にしているのに、その彼女自体がもはや思い出せないのだ。
どす黒い絶望感が視界を覆っていく。
海岸で最後に彼女の顔を見てから、もう2年以上経った。あまりに遠い、全ての記憶が遠い。彼女だけじゃない、他の友人の顔だって、研修生だった頃の同期だってもう正確には思い出せない。
あの塔を脱出するときに助けてくれた、2人の友人の顔は。異世界からやってきたという少年の顔は。2年間の困窮を一緒に生き延びた、牢獄にいた頃の仲間の顔は。最後の最後にほんの少しだけ心が通じ合った気がした、あの管理人の顔は。
彼らはどんな眼差しをしていて、どんな色で笑ったっけ。
頭の中で彼らの姿を復元しようと必死に試みても、ひどくできの悪い砂の像しか思い描けず、一瞬ののちに波に溶けて消えてしまった。
消える。
記憶が消えていく。
忘れたくないと願い、必死に守ろうとしても、抱え込んだ指の隙間から流れ落ちて、ソレイユの身体ごと暗闇に落ちていく。
「あ、あぁ……嫌だ」
身体を芯から
「――おい」
深海の底、あるいは宇宙の果てのような、真っ黒になった世界の外側で、遠い声が呼んでいる。かすかな光明ですらない、幻聴のような一瞬の音にすがって、ソレイユは必死に手を伸ばした。
助けて、と呟いた。
その瞬間、宇宙がまるごと揺さぶられて暗闇は弾け飛び、人工的な光が目の中に飛び込んだ。固い床にうずくまった自分を、誰かが助け起こしてくれる。
「おい! 大丈夫か、お前」
「あ、あれ?」
ぱち、とソレイユはまばたきをして、ラムの顔をじっと見た。次いで周囲を見回し、最後に手のひらの中に握りしめていたイヤリングを見る。新都ラピス地下、ハイバネイト・シティ、S3-28-4。ずっとそこにいたのに、一瞬自分の居場所が分からなくなっていた。
ぞっとした。
恐怖に飲み込まれたのだ、今。
「立ちくらみでも起こしたか?」
いつになく優しい口調でラムが問うのだから、相当自分は酷い表情をしているのだろう。高速で脈打つ心臓を抑えながら、「いや」とソレイユは首を振った。
「何だろう……今、ひどい不安に襲われた。ラ・ロシェルを離れてから2年経って、だいぶ記憶が曖昧になってるじゃない。それが、とんでもなく怖いことな気がしたんだ」
「はぁ、そうか。良く分からん」
心配して損した、と言わんばかりに眉をひそめるラムの顔を、ソレイユはじっとのぞき込んだ。友人の顔の記憶は、やはりかなり曖昧になってしまったが、その実父であるラムの顔を見ていると、もう少しだけ明確に思い出せる気がした。
「やっぱどこか似てるよね」
「俺を見てニヤつくな。気持ち悪い」
ソレイユを追い払うように片手を振って、ラムが心底嫌そうに舌打ちをした。
*
やはり、日常に染まりきってしまわないためには、何かしらアクションを起こしていくべきなのだ。朝食を取った後にソレイユは居室に引っ込み、午前中の時間を目いっぱい使ってとあるものを書き上げた。隣室をのぞき込み、椅子に腰掛けていたラムに手招きをして、自分の居室に来るよう頼む。
相変わらずしかめっ面をしているラムの眼前に、書き上げたばかりの紙をぶら下げる。
「ねぇ、暇じゃない? ぼくとクイズやろう」
「……なるほどな。面白いことを考える」
「やっぱ娯楽が少ないよねぇ。一時間あげるよ」
居室のなかでの会話はおそらく、管理AIのELIZAを通じて“
ラムはソレイユが渡した紙を持って居室を出て行き、一時間後に戻ってきた。
「どう、ちょっと時間短かった?」
「舐めるなよ。これでも元幹部候補生だ」
そりゃあ失礼、と笑って肩をすくめてみせる。
ラムに渡した紙に書いておいたのは、アルファベットを文字と線の組み合わせに置き換えた暗号表だ。これで多少は安全に情報交換ができるだろう。テーブルを挟んでラムの正面に座り、全く関係ない世間話を口で交わしながら紙に暗号を書き付けていく。
――さっきの紙はどうした?
――下水に流した。
――オッケー。合格。
暗号を使い、そう書き付けてからちらりと視線を上げると、ラムの口元が「馬鹿にするな」と言うように動いた。
目下の目標は、とにかく、今滞在している第28層を抜け出すことだった。より遠い目標としては“
多少強引な手を使ってでも、第28層を抜け出す。
そうしなければ何も始まらないと、認めたくはないがこの数十日で分かってしまったのだ。一日で行って帰ってこられる距離の限界まで地図に記録したが、どれだけ水平方向に移動しても、ここと同じような景色が繰り返し現れるばかりだった。
――ここで調べられることはもう調べ尽くした。やっぱり別の階層に行かなければいけないと思う。
――手法はあるのか。
――強引な方法ならいくつか思い当たっている。
そう書くと、紙がいっぱいになったので裏返した。まだ何も書いていない裏面に、他のフロアに行くための「強引な方法」を思いついた限り書くと、ラムの顔がどんどん渋くなっていくのが分かった。ずり落ちたモノクルを持ち上げて、ラムが溜息とともに文字を綴る。
――死ぬ気なのか。
――死にはしないと思うよ。ぼくは正直、ここに居続ける方が怖いんだ。
「ね、そう思わない?」
そこだけは言葉に出して言うと、ラムも表情を変えないまま頷いた。
ハイバネイト・シティ第28層に流入してきた人間は増え続けている。正確な住人の数は分からないが、今までに出会った地上ラピス市民は50人を超える。その移住してきたきっかけは様々で、より良い生活を保障されると聞いて喜んでやってきた人もいれば、住んでいた場所が攻撃されて仕方なく地下を目指した人もいた。
ソレイユは、昇降装置のある部屋と居室が比較的近いこともあり、新しくやってきた住人と積極的にコミュニケーションをとって親しくなった。その経験の蓄積を生かして、ハイバネイト・シティにやってきた人間が辿る心理的変化をパターン化した。
まずは、何らかの積極性を見せる。
地下の広大な施設に好奇心を示し、何があるか全て把握してやろうと意気込む。あるいは、攻撃を受けてしぶしぶ地下に来た人間に多いが、“
続いて、疲れてくる。
ソレイユたち自身が身を持って体感したように、居住区域は途方もなく広いが、ほとんどは同じような構造の繰り返しだ。夜には居室に戻らないといけない事情もあり、全てを見通すのは限りなく不可能に近い一方、どうせどこまで行っても同じ景色だろう、という結論に達する。あるいは最初に“
そして、停滞に至る。
気力を失った入居者たちは、食事とお喋りと睡眠だけで一日を怠惰に過ごすようになる。
この転落する速度が、誰も総じて恐ろしく速いのだ。地上にいた頃は嫌でも意識していた朝や夜という節目がなくなり、どこまでも同じような景色が続く場所に閉じ込められ、何もしなくても食事は出される。地上に比べて恵まれた平坦な暮らしが、彼らの牙を抜いてしまうのだろうか。
「俺、もう地上にいた頃どうやって生きてたか、思い出せねぇわ」
ソレイユと初めに出会ったとき、故郷を攻撃した奴らに復讐するんだと勇んでいた男は、すっかりふやけた顔で笑った。彼もまた、生ぬるく優しい日常に飲み込まれてしまった一人だ。
「地上と違って寒くねぇし、良いとこだ」
「……ミディ、君はどこの街から来たんだっけ?」
「あぁ――どこだったかなぁ。ま、別に良いだろ。今はここが家なんだからさ、飯もうめぇし」
ソレイユがミディと出会ってから、たった10日しか経っていなかった。
豆と霜焼けが目立つ彼の手のひらは、彼が地上で必死に生きていた証だ。上ではそろそろ雪が降り始める季節のはずだから、彼も冬越えのために毎日色々と支度をしていたのだろう。出会った頃は爛々と輝く目をしていたのに、今はすっかり曇ったガラス玉のようになってしまった。鋭く引き締まった顔立ちは、見る影もなく緩んでしまった。
ソレイユは手を振って彼と別れた後に、居室に戻って少し泣いた。
平坦な暮らしに埋もれてしまうと、過去に必死に生きていた自分のことを忘れてしまう。もともと、人間はそういう風にできているのかもしれない。
ソレイユが今朝、忘却の恐怖に襲われたのも、そうとでも考えなければ理解できない。数年会っていないアルシュやカノンの顔を思い出せないのはまだ理解できるが、たった数十日前に見たばかりのアドミンや囚人たちの顔を思い出せないのは、一度出会った人の顔を忘れないのが自慢のソレイユにとってはまず考えられないことだった。
――と、いうわけで。ぼくは挑戦します。
ソレイユが暗号で書き付けると、ラムは「好きにすればいい」と呟いた。何言ってるの、と明るい調子で返して、ソレイユは次の文章を書き付けた。
――貴方も来るんだよ。
――ふざけるな。
――ぼくがいなくなって、貴方、あの人工知能に骨抜きにされない自信があるなら、置いていってあげるよ。
*
早速その深夜、ソレイユは作戦を実行に移した。ラムは別の手段を試すことになっており、近い場所で実行すると疑われやすそうなので遠い区画に行ってもらっている。
ソレイユはイヤリングを外し、ポケットの奥に入れておく。付けたまま作戦を実行するとなくす可能性があるからだ。
昼間は
「あ、思ったより、きっついな」
ぐらぐらと揺れ出す床を踏みしめて、内心焦りながら昇降装置のある部屋に向かう。別に本気で酔うつもりはなく、ただアルコールを飲んで倒れたのを装うためにやったのだが、この分だと本気で
途端に嫌な警戒音が鳴り始める。
赤い回転灯が円筒形の部屋を照らし、合成音声が倒れているソレイユに淡々と語りかけた。
『侵入者へ警告します。今すぐに退去してください。30秒以内に退去しない場合、強制的に撤去されます』
「――よし、行き倒れ成功」
小声で呟いて、風呂上がりのように熱い顔で小さく笑う。
ソレイユの作戦は、わざと人工知能の言うことに背いて「強制的に撤去」してもらおうというものだった。撤去というのが何を指すのか分からないが、元々ハイバネイト・シティが生存者のためのシェルターだった経緯からして、いきなり焼却炉に放り込まれたりはしないだろう。おそらくは規律を乱す人間を矯正するための区域があって、そこに送られるはずだ。かなりの博打だが、もはやそのくらいしなければ、ここを抜け出せる気がしなかった。
ソレイユが心の中で30秒数え終わるのとほぼ同時に、機械の作動音がした。自由に動かない身体で、視線だけを動かして音の方を見ると、金属製の多関節型の腕、ロボットアームが近づいてくるのが分かった。2本のロボットアームはソレイユの両脇を抱えて、側壁に開いた穴に彼の身体を放り込んだ。
その中は急なスライダーのようになっていた。
四方に腕を張るが、勢いを殺しきれない。どんどん加速して転げ落ちていくと、途中で小さい取っ手のようなものを見つけ、ほぼ無意識に手を伸ばす。左手の指先で掴んだ取っ手は、大きな抵抗ののちに音を立てて壊れ、関節の構造を無視した方向に腕が曲げられる。
左肩を爆発するような衝撃が襲った。視界が暗転するほどの痛みが半身を突き抜け、理性の大半が焼き切れて機能停止した。自分を制御できなくなり、濁音混じりに絶叫する。
無我夢中でスライダーの側壁に両足を突っ張り、どうにか勢いを殺して停止した。ぜえぜえと荒い息をしながら、無事な方の右手で脂汗と涙を拭う。
「ああぁ、痛ったいなぁ、くっそ」
左肩どころか上半身全部に及んだ、どうしようもない痛みに悪態をつく。これでもまだ、酒に酔っているから感覚は鈍っているのだろう。
しかし、左肩だけで済んだのは良かった。
「最高。大当たりだよ」
自分を鼓舞するように、青ざめた顔で呟く。ここで一度、多少無理をしてでも止まっておかなければ、そのうち頭を打って再起不能になっていた可能性が高い。それに比べれば、利き手でない側の腕を犠牲にして止まれたのはまだ不幸中の幸いと言えた。
また転げ落ちないように注意して、狭いスライダー内部を下りる。
スライダーの底面はベルトコンベアになっていて、ゆっくりと下に向かい動いていたので、そこに乗っていれば良く、わりあい楽だった。本来は荷物の運搬にでも使われるのか、ところどころで枝分かれがあった。しかし、分かれ道はどれも封鎖されており、まっすぐ下っていくしか道はなかった。
脱臼していそうな左肩を上側にして、ソレイユは横向きに伏せた。肩の痛みは薄れるどころかどんどん強さを増していき、眉間にしわを寄せて耐える。アルコールを摂取したこともあって、意識を保つ限界が近かった。どうあれ、第28層を脱出する目的は達したので、ソレイユは考えを放棄して目を閉じた。ベルトコンベアのかすかな振動に身を任せていると、すぐに意識が遠くなった。
次に目を覚ましたのは、薄暗い空間だった。
空気は湿っぽい。水滴の落ちる音がどこからともなく聞こえていた。
黒い背景に白いものがうごめく視界をぼんやり眺めて、ソレイユはよく働かない頭のまま起き上がる。怪我をしていることを忘れて体重をかけた左肩に激痛が走り、一気に目が覚める。脳天を貫く痛みに転げ回って悶えながら、ソレイユは自分がここにいる経緯を思い出した。
今度は右腕だけに体重をかけて、慎重に起き上がって周囲を見回す。
そこで初めて、自分を囲んで見下ろしている集団の存在に気がついた。物珍しそうな目と、嫌そうな目と、恨みの籠もった目が入り混じっている。もはや身体のどこが痛むのか分からないほどの苦痛の中で、それでも確かにソレイユは笑った。自分の
白い肌に痩せた体躯。
彼らこそ、“
「初めまして。シェル・バレンシアだ」
脂汗の流れる顔でソレイユが微笑んでみせると、彼らは気味が悪そうにお互いに顔を合わせ、何事か囁きあった。小声で語られている会話から、こぼれた単語の一つが耳に入って、全てを察した。
異言語だ。
地下ではこちらが公用語なのだ。そういえばエリザの名を騙るあの人工知能も、初めは異言語で話しかけてきたような気がする。したがって今のソレイユの発言も、彼らには理解されていないだろう。
「あぁ、そういうことね……」