chapitre158. 背が軋んでも
文字数 7,289文字
「危惧する気持ちも分かりますけど」
今朝の未明まで、フィラデルフィア語圏に捕らえられていた当のアルシュは、そう言って肩をすくめる。
「だけど――今朝の緊急集会の時点では、彼らは、上の居住区域にいたんですよ。そこからわざわざ、危険を冒して、中間層に降りてきたんです。ここで私たちと出会ったのも、ほぼ偶然のようなものですし……」
アルシュが構成員たちを説得している傍ら、カノンはフィラデルフィア語圏の人々と協力して荷物を詰め替える。ここ数日ほど、ろくに休む時間もなかったためだろう、MDP構成員たちの雰囲気は全体として疲弊しており、データボードを運ぶ要員が増えるのは有り難かった。
お願いです、とアルシュが頭を下げている。
「体力を温存するためにも、ここは飲んでもらえませんか?」
「……分かりました」
先程まで反発していた構成員が、苦い顔で頷いている。どうやら意見がまとまったらしく、カノンは少し軽くなったリュックサックを背負い直して立ち上がった。
ひとり当たりの負担が減ったので、水没した箇所を越えるのも多少は楽になった。足の指先まで水が浸入してくる不快感に耐えて、発電棟までぞろぞろと列を成して歩いて行く。カノンはティアと共に最後尾を歩き、背丈の低い彼が水溜まりを乗り越えるのを、時折助けながら進んでいった。
「……そういえば」
ふと思い出して問いかける。
「ティア君はヴォルシスキーの、MDPの支部で療養してるって聞いてたんだが」
「はい、そちらでお世話になって――あ!」
頷いたティアは、次の瞬間、顔を青ざめさせた。
「そうだ、何も言わずに出てきちゃいました、僕」
「あぁ、やっぱりそうか……」
カノンは頷いた。
アルシュがフィラデルフィア語圏に捕らえられた情報が、どこかから彼に伝わったのだろう。
「いつから地下に」
「えっと……昨日の、昼頃です」
「心配されてないと良いが。いや、心配していたほうが良いのか……まあ、発電棟が復帰して回線に余裕ができたら、いったん地上に連絡を入れたほうが良いね」
「はい……」
ティアがしゅんと肩をすくめる。
「お世話になったのに、僕、ご迷惑を」
「まぁ……良いんじゃないかね。おかげでそっちの語圏と協力できたし、ティア君は故郷の人と会えたし……それに」
「それに……?」
「いや」
ティアが不思議そうにこちらを振り向くが、カノンは言葉の続きを胸にしまう。
どれだけ大人びていたって11歳だ。何も言わずに衝動のまま飛び出して、周囲に迷惑を掛ける――そのくらいの無鉄砲さは、むしろ少年らしくて良いのではないか。そんなことを考えたのだが、言ったところでティアを困惑させるだけだろうと考えて、カノンは沈黙を貫いた。
先を行くアルシュの背中を一瞥する。
ティアが年齢不相応に大人びざるを得なかった、そのひとつの原因は、まず間違いなく彼女だ。アルシュの
ティアが、怪我をしていながら地下までやってきたのだって、彼女のためだ。フィラデルフィア語圏からラ・ロシェル語圏にやってきた彼が、ふたつの語圏の架け橋となるのに最適な人材だったことはたしかだが、それ以上にアルシュの利になると思ったからこそ、ティアは危険を冒したのだろう。
もっと子供らしくあるべきだ――と告げるのは、カノンのような部外者の役目ではないのだ。贖罪で雁字搦めのティアを唯一救えるとしたら、彼の犯した罪のいちばん近くにいる、アルシュしかいない。
*
先頭集団にて。
「ここを降りて、貯水槽の脇の通路を抜けようと思います」
「これ……乗って大丈夫なのか」
アルシュと同様の不安を持ったらしい、他の構成員が眉をひそめる。彼が片足を階段に乗せて踏み込むと、ぎぃ、と軋む嫌な音がした。
「データボードを抱えたまま、ここを行くのか」
「他のルートはないの?」
「いや、ここを避けると、一時間近く遠回りになる」
「なるほど……」
アルシュは腕を組んだ。
時刻は午後一時半。
すでに二時間近く、非常電源以外は使えない状況が続いている。発電棟で作られる電力は、ハイバネイト・シティ内のみならず、地上の一部でも利用されている。電力が不足して、空調や照明が十分に使えない状況のまま、夕刻になってしまうのは避けたい。あまり悠長に遠回りをしている余裕はなかった。
しかし、
「ここで二手に分かれませんか?」
そこで、アルシュは片手をあげて、構成員たちにそう提案してみた。
「全員で発電棟に行く必要はないでしょう。データボードを多めに持って地上に向かうグループと、発電棟に向かうグループに分かれませんか。そうすれば、最悪何かあっても、損害は少なくて済みますし……」
悪いアイデアではないと思ったのだが、言われた構成員たちは微妙な表情になって顔を見合わせる。少しの沈黙のあとにひとりが視線を持ち上げて「仰ることは同意しますが」と低い声で切り出した。
「そう言われて尚、発電棟に行くことを志願する者が、いったい何名いるか……より安全な選択肢を示してしまえば、皆、そちらに行きたがるでしょう」
「……そうですか?」
彼の言葉に今ひとつ共感できず、アルシュは首を捻った。
「分かれるなら、私は発電棟に行きますが……」
「――マダム・アルシュ」
はぁ、と彼は深く溜息を吐いた。
「コアルームに残る残らないの話と言い、貴女は、どうしていつも、
「そう、とは?」
意図が分からず問いかえすが、相手は「だから」ともどかしそうに言って俯いた。
言うまでもない――とでも言いたげな態度だが、アルシュには全く理解できない。
当惑して仲間たちを見回すが、誰もが呆れたような、哀れむような目でこちらを見ている。議論に加わっている十数名のなかで、アルシュの周囲にだけ壁でも存在しているようだった。
「……何ですか?」
落ち着かない空気にアルシュが姿勢を正すと、背後から足音が近づいてきた。
後ろを歩いていたフィラデルフィア語圏の人々が、先頭集団に追いついてきたのだ。口論しているアルシュたちを見て、彼らは不思議そうに眉をひそめる。人垣のなかからカノンが声を掛けて、こちらに歩いてきた。
「どうした。後ろが
「えっと……ちょっと問題があって」
議論の大枠をカノンに説明してみせると「そりゃあ」と呟いて彼は腕を組んだ。
「犠牲を受容するような発想に、全員が同意しろという方が無理な話だろう」
「カノン君まで……」
長々と議論しているような時間はないのに、とアルシュは唇を噛む。
「今はそんなこと言ったって仕方ないよ」
「だが、賛同して着いてくる人間がいなければ、あんたの提案はそもそも成立しないんじゃないのか。無理やり危険な道を選ばせて、着いてこい――と言うならまた話が別だが、あんたはそういうタイプのリーダーじゃないだろう」
「……そうだけど」
淡々とした口調に押されてアルシュが怯むと、どこか哀れむような目でカノンがこちらを見下ろした。
「この話に限らず……あんたはどうも、自陣の被害を被害だと捉えていないように、俺には見えるね」
「そんな――そんなこと、ない」
聞き捨てならないことを言われた気がして、アルシュは眉を吊り上げる。
「私がMDPの仲間を軽んじてるって言いたいのなら……流石に、反論させてほしいな。そんな気は毛頭ない」
「いや、そういう意味じゃないし、俺も喧嘩を売りたいわけじゃないが」
横に視線を滑らせて、彼はMDP構成員たちをぐるりと見回した。
「アルシュと共に発電棟に行っても良いという人間は、ここにどれだけいるんだ。話は、その人数次第だろう」
彼がそう問うと、集まった構成員たちのなかからひとりが歩み出て「私は行きますよ」と、こちらを見て胸を叩く。それを皮切りにしたように、構成員たちがあれこれと意見を交わしはじめた。
「そちらに着いていくよ」
「私は、正直上に行きたいです」
「俺も上かな」
「揃って意気地がねぇな。俺は発電棟に行くぞ」
「上と下のどっちが偉いかって話じゃないだろ」
ひとところに固まっていた構成員たちが、ときに軽口を叩きながらふたつの集団に分離していった。彼らは早くもリュックサックを床に下ろして、データボードの詰め直しを始めている。その様子を見ながら、カノンが「へぇ」と感心したように呟いて、発電棟に行くと進言した構成員たちの数を数える。
「一、二……俺たちも行くとして、八人か」
ふむ、と彼はあごに手を当てた。
「多すぎても困るし、まあ、良い塩梅かね。やっぱり人望あるね、あんたは」
「それは違うんじゃ」
アルシュは首を捻る。
「ていうか――さっきのは、どういう意味。もしかして、わざと、私を試したの」
「試す?」
いかにも意外だと言いたげに、カノンが目を見開くので「だから」とアルシュは小声で付け足した。
「議論の場を動かすために、わざと挑発したのかって聞いてるの」
「ああ――いや、そんな高度な芸当はできないね、俺には。ただ、思った通りのことを言った」
「だから、それは違うって……私、仲間を軽んじてる気はない」
強い口調で言い切ってからふと不安になって「それとも」とアルシュは唇を噛んだ。
「外から見たら、そんな風に見えるのかな」
「いや」
「え? だったら何」
彼の物言いが矛盾しているように思えて、アルシュが首を捻ると、カノンはしばらく考え込んでから視線を向こうに逸らして、呟くような声で言った。
「俺にはあんたが、あんた自身を軽んじているように見える」
「――え」
「ああ、いや……分かったようなことを言う気はないが、どうも、他人事だと思えなくて……」
いつにも増して不明瞭な口調でカノンが呟く。アルシュに言って聞かせるためというよりは、彼自身の内心をそのまま吐露した、独り言のような口調だった。
「なにそれ?」
自分は何を聞かされているのか――と当惑して眉をひそめたとき、後ろから小さい足音が近づいてきた。振り返ると、ティアの琥珀色の瞳と目が合う。彼は少し臆した顔色を浮かべてから、意を決したように「あの」と口を開いた。
「今の、故郷の人たちに伝えて良いですか」
「ああ……そうだね」
アルシュは頷いて、後続の集団を見遣る。
公用語の異なるフィラデルフィア語圏の人々は、当然ながらMDP構成員たちの議論が理解できず、不思議そうな表情を浮かべていた。平時なら
「じゃあ、お願い」
「はい」
機敏に頷いて、ティアが故郷の人々の元へ走って行く。彼が身振り手振りを交えて翻訳してみせると、フィラデルフィア語圏の人々は感心したような表情を浮かべて、ティアのふわふわとした癖っ毛を掻き回す。彼らが交わす言語は、アルシュには分からないが、どんな会話をしているかは手に取るように分かった。
『小さいくせにやるじゃないか』
『賢い子だな、ティア』
そんな声が聞こえてくるようだった。
両手にいっぱいの称賛を受けて、照れくさそうに笑うあどけない横顔。少年の背中を遠目に見つめて、アルシュは、その小ささに唇を噛んだ。
「あのさ……カノン君」
「何」
「あの子は……やっぱり、私が
「来たのかな、って」
わざとらしく溜息を吐いて、カノンは自分の荷物を下ろした。
「言われなきゃ分からないのか」
「……ううん」
小さく首を振ってアルシュも荷物を下ろし、梱包材に包んだデータボードを取り出す。
分かっていた。
ただ、確かめるのが怖かっただけで。そんな簡単なことは――アルシュへの贖罪のために、ティアが危険を冒し続けていることは、誰に言われるでもなく、アルシュがいちばん良く理解していた。
消せない咎を背負いつつ、一方で彼は少年だ。
恨めしく思っていないと言えば嘘になる。でも、大人から守られるべき立場にある子供が、一歩間違えば死ぬような場所にいるのは、どう考えても間違っている。大人である自分には、彼を危険から遠ざける義務がある。
例えば――アルシュが一言、もう昔のことは忘れて良いと言えば、彼は、楽になれるのだろうか。そしてアルシュ自身もまた、死んでしまった友人の幻影から解放されるのだろうか。
「でも……」
リュックサックの生地を強く握りしめて、アルシュは俯く。
「忘れたくはないし、忘れて欲しくもないんだよなぁ……」
彼が死んで二年が過ぎて、世界は大きく変わった。
アルシュたち生きている人間は、激動の中ですり潰されないように、毎日必死で考えている。何のために生きるか、何をして生きるか、どうやって生きるか。
目が回るような勢いで変わっていく、このラピスで、死者に対し記憶の容量を割く人間は限られている。友人――メルのことを記憶に残している人間は減り続けているだろう。なら、彼を死なせてしまったティアと、彼とともに死ぬ道を選ばなかった、
大人として子供を守りたい立場と、メルのことを忘れて楽になってほしくない本心が、アルシュのなかで反発して、頭が内側から押されるように痛んだ。
荷物の詰め替えを終えて立ち上がると、フィラデルフィア語圏の人々に囲まれていたティアが、ぱたぱたとこちらに走ってきて「話、終わりました」と落ち着いた口調で言った。
「皆さん、理解してくれました。データボードを持って地上に向かうそうです」
「……分かった」
ふぅと息を吐いて、アルシュはティアの小柄な体躯を見下ろす。
「ティア。あのさ、貴方も地上に――」
「あ、あのっ――僕は」
アルシュの言葉を途中で遮って、ティアが上ずった声で言った。
「発電棟の方に行かせてください」
「いや、それは……」
「僕、カノンさんと同じくらい前から、地下にいます。地下の構造のこと、ある程度は分かります。力になれると思います」
アルシュが勢いに押されて黙っていると、ティアは一歩こちらに踏み出して「お願いです」と畳みかけてきた。
「僕も、一緒に行かせてください」
大きく見開いた目に、涙の膜が張っている。
強く握りしめた小さな拳はぶるぶると震えていて、彼が心からアルシュと共に来たがっていることが、嫌でも理解できた。すでにティアのなかで、贖罪と自己犠牲が同一になってしまっているのだろう。ここで突き放しても仕方がない――と考えて、アルシュは溜息をこらえ「分かった」と頷いた。
「貴方にも来てもらう」
「あ――ありがとうございます!」
ぱあ、とティアの表情が明るくなる。
無邪気で眩しい笑顔だな、とアルシュは内心で評した。年相応に少年らしい、良い表情をしていた。崩れつつある地下で、輪を掛けて危険な場所に赴くことを許可されたときの笑顔でなければ、もっと良かったのだけど。
*
地上を目指すグループにデータボードを託したので、身体がぐっと軽くなった。リュックサックのなかには水や携行食など、最低限の荷物だけを詰めている。アルシュはここ数日ろくに休めていなかったこともあり、文字通り肩の荷が下りた感覚だった。
とはいえ。
背負うものを減らしたのは、それだけ事故のリスクが高い場所に向かうからでもある。近場のスロープに乗り込むMDPの仲間たちを見送りながら、アルシュは気を緩めないよう、リュックサックの肩紐を締め直す。
「そういえばさ――」
足音が斜め上に遠ざかっていくのを感じながら、ふと気がついてカノンの方に振り向いた。
「カノン君はこっちに来たんだね」
「ああ、うん」
何でもないような表情で彼は頷く。
MDP構成員たちが、地下に残り発電棟を目指すグループと、データボードを持って地上を目指すグループのふたつに別れたとき、彼は「自分を入れて八人」という数え方をした。あのとき既にカノンの中では、発電棟に向かう意志が固まっていたらしい。
「上に行かなくて良かったの?」
「ティア君と同じで、俺は、あんたらMDPの人間よりは、多少は地下のことが分かるし、発電棟に行ったこともある。だから役に立てるかと思ってね」
「あ……そうだったんだ」
どちらが全体の利になるか考えたうえで、リスクの高い選択をしてくれたらしい。聞くようなことでもなかったかな、とアルシュが肩をすくめると「まぁ、でも」と彼は少し笑った声で言った。
「あんたが地上に行けと命じるなら、その限りじゃないが」
「そういう話はしてない――っていうかさ、前から言ってるけど、私は、カノン君を従えてるつもりはないんだよ」
「対等だと言いたいんだろう。分かってるよ、だから俺は、俺の意志で残った」
「ふぅん……?」
彼にしては素直な返答に、思わず気が抜ける。
対等という言葉を、彼はやけに大切そうに発音している気がした。ラピシア緊急集会の前後から、どうも調子がおかしい気がする。以前から、彼の捻くれた物言いを面倒に感じていたが、これはこれでやりづらい。落ち着かないのを紛らわすように、軽くなった荷物を背負い直すと「出発しますよ」と構成員に声を掛けられた。