閉ざされる冬/地上

文字数 8,534文字

 重たい雲がラ・ロシェルを覆っている。薄灰色のずっしりとした雲から、ぱらつくように雪が落ちてくる。アルシュは膝丈の分厚い外套を羽織って、今日も長い階段を下り、ラ・ロシェルの街に向かった。

 十一月下旬。

 この頃になると、統一機関はまったくアルシュたち研修生のことを顧みなくなった。一切の講義と訓練が途絶え、自習を命じる紙すら貼られなくなった。責務が剥奪されるだけなら、暇を持て余しはすれど困らないのだが、食事の支度をしていた下級職員がいなくなり、研修生たちは途方に暮れた。食事と言えば他人に提供されるものだった研修生たちは、調理というものを知らない。仕方なく、保存食などに手を付けて細々と食いつないでいる。

 ひもじさは否定しようもなかった。

 ただ、それでも統一機関の人間はまだ救われている部類だった。階下の倉庫には大量の保存食が眠っているため、当分、食事に困ることはない。だが、そこまでの蓄えを持たない一般市民は、この冬を越えることすら危ぶまれる有様だった。

「ラ・ロシェルに残れば、いずれ飢えて死ぬ」

 以前、伝令鳥(ポルティ)を手に入れるよしみで知り合った市民が言う。この市民は伝報局と呼ばれる場所で働いており、七都から届く情報を管理する業務を「役割」に持っていた。霜焼けで鼻先を赤くしながら、彼は口元を覆うマフラーを引き上げる。

「この冬を何とか越えたらね、バレンシアかスーチェンにでも移住しようと思ってるんです。バレンシアは農耕の街だし、スーチェンは備蓄がたくさんあると聞くから」
「え、でも……」

 驚いてアルシュは問い返した。

「伝報局の仕事は、どうするんです」
「最近はどうせ何の便りも来ないんです。僕がここに詰めてる意味なんてね、だいぶ前から無いんですよ」

 彼はやけに語尾を上げて言う。慇懃な言葉の節々には氷の礫が混ぜられていて、アルシュを穏やかに威圧した。

「旅に出るなら早いうちのほうが良いんです。備蓄を切らしてしまったら、どこかに逃げることもできなくなってしまう。それとも、何ですか。来るか分からない便りを待って、食べるものも尽きたら死ねとでも仰るのか。統一機関の、貴女が」
「……そうは言いません」
「そうでしょうとも。一番仕事をしていないのは、貴女たちだもの」
「ええ……はい」

 言葉が刺さるように痛い。ブーツのなかで足の指を丸めて、アルシュは頷いた。

 持て余した時間を使ってラ・ロシェルを歩き、人々に話を聞いて回ったので、市井の状況はおおよそ耳に入っている。街の現況を簡潔に表現するなら、あらゆるものが足りない、という言葉に尽きる。冬が来ると言うのに食糧が足りない。暖を取りたいのに燃料が足りない。電気は頻繁に途絶える。それら生活基盤の根幹を支えていたのは統一機関であり、従って市民たちがアルシュに向ける視線は自然と厳しくなった。

「この間なんてね、水が出なかったんです」

 険しい口調で彼が言う。

「水道管が凍りついてしまって。仕方ないから仲間たちとどうにかして、それに丸二日かかったんですよ。三人ほどそれで肺炎を拗らせて、まだ寝込んでる奴もいる。それでもまだ仰いますか。役割があるからラ・ロシェルに残れ、と」
「いえ、そんな――」
「ちょっと……その辺にしなよ」

 レンガ塀の向こうから同僚らしい女がやってきて、男の肩を掴んだ。

「統一機関の人って言ったって、研修生でしょ、その子。八つ当たりしてどうすんの」

 彼女は呆れた調子で言って、ちょっと、と背後に声を掛ける。伝報局から何人か出てきて、男を宥めつつ建物のなかに連れて行く。喋っているうちに憤りが閾値を超えたらしく、男の目は腫れて赤かった。どたばたと喧噪が遠ざかっていく間、アルシュは黙って立っていた。その気になれば反論できたかもしれないが、向けられた敵愾心が思いのほか胸に刺さってしまい、声を出した瞬間に自分の方が泣いてしまいそうな気がした。

「ごめんなさいね、お姉さん」

 伝報局の扉に片手を掛けて、仲裁してくれた彼女が眉を下げる。

「あれは気が立ってただけなんだ、あまり悪く取らないで」
「……ええ」

 アルシュがどうにか頷くと、彼女は「でも」と寂しげに微笑んだ。

「あたしもね……春が来たらラ・ロシェルを出るつもり。あなたが悪いなんて言わないけど、ここにいたら死んでくだけだもん。あなたも、悪口を言われにこんなところに来るより、どこかに逃げる準備をした方が良いんじゃない」
「逃げる……ですか」
「そう。こんな情勢じゃさ、責務なんかより、まず生きることが大事でしょ?」

 正論めいた言葉を残し、扉がバタンと閉まった。

 以前は建物のなかに入れてもらえたのにな――と、考えても仕方ないことを考えながら、アルシュはレンガ敷きの道を引き返す。ラ・ロシェルのなかでも中心部に近い区域を歩いているのに、誰ともすれ違わない。ひどく静かだ。だが、深夜のような心地よい静謐ではなく、壁の向こうで誰もが息を潜めていると分かる、ざらついた静けさだった。

 吹き付ける寒風に目を細めつつ、アルシュは彼女の言葉を思い返す。

 ――まず生きることが大事でしょ?

 それは、きっと正しいのだ。親友を喪い、生者の特権を享受しているアルシュだからこそ、改めて思う。死んでしまえば何も為し得ない。生きているから次が開ける。責務を放棄しても生を存続させるべき局面は、たしかに存在する。

「でも……」

 十字路で立ち止まり、アルシュは呟いた。

「生きるためには。誰かが働かないと、いけないんです」

 人が住んで仕事をするから、ただの土地が街になるのだ。誰もが逃げ出してしまったら、その街はもう滅びるしかない。詰まった配管は放置され、倒木はいつまでも撤去されず、打ち捨てられた住居の窓ガラスが割れて――街が荒廃していく。瓦礫の山と化したラ・ロシェルを想像して、胸が軋むように痛んだ。

 この街を滅ぼしたくない。

 単なる一市民ではなく、統一機関という責任ある――責任があったはずの組織に籍を置いているからこそ、アルシュはそれを願う。だけど、住人を繋ぎとめておくには、ラ・ロシェルは貧しくなりすぎた。街と人とは相互に養い合うが、住人の側にその意識はなく、また責任感もない。ゆえに街を捨てて逃げ出し、より良い住処を求めようという発想に辿りつく。

 もっとも、ラ・ロシェルを出れば安泰かと言えば、おそらく違うだろう。恐慌は必ずや他都市にも及んでいるはず。だが、ここよりはまだ良い場所があるかもしれない――という希望的観測に囚われた人々は、もはや足止めできないのだった。

 はあ、とアルシュは白い息を吐く。

 本当は分かっている。こうやって街を歩いたところで得られるものは少なく、市民の流出を止められるわけでもない。ただ、小石のごとく転がっている諦念を、誰かの嘆息とともに拾い集めて歩くだけ。

「せめて、何が原因か、分かれば良いのに……」

 統一機関のいたずらに高いシルエットを見上げて、アルシュは底冷えに身を竦める。

 ***

 十二月も半ばになると、街はいよいよ静まりかえった。

 この冬は例年と比較しても寒く、雪が深かった。ブーツが膝下まで埋まるほどの積雪、視界が白く染まるほどの吹雪。統一機関の一角、研修生に解放された端末室で調べものをしていたアルシュは、室内だというのに差しこんでくる寒気に頬を擦った。

 壁掛けの時計を見ると、十一時半。

 空は灰色をしていて暗いが、もうすぐ昼のようだ。アルシュは端末を叩く手を休めて、昼食はどうしよう、としばし考えた。食糧を調達するためには倉庫まで行く必要があるが、地上寄りの階層にあるため、往復で三十分近く掛かる。二十四時間しかない一日のなかで、三十分の浪費は馬鹿にならない。一方、空腹感はあまり感じなかったため、アルシュは数秒の懸案ののちに「うん」と呟いた。

「いいや、今日は」

 独りごちて、端末の画面に視線を戻す。

 アルシュが端末で閲覧していたのは、研修生向けに統一機関から発信された情報の一覧だ。多くは試験の告知や講義の変更に関わる情報なのだが、なかにはラピスや七都各都市の情勢に関わる情報もある。一般市民には公開されていないこれらの情報から、近頃の異常事態の原因を探れないか、とアルシュは考えたのだ。しかし、情報の発信も例によって滞っており、晩秋に入ってからはほとんど新しい情報が追加されていない。たとえ新しい情報を見つけても、意味のあるデータとは呼べないことが多かった。

 たとえば「各都市の食糧備蓄率」というデータがある。表題通り、ラピス七都市における食糧の消費量と備蓄の増加量を取りまとめ、また比率を算出したデータだ。添付されている図表を見れば、いかに各都市の冬越えが厳しいかが分かる。だが、困窮の理由であるとか、あるいは解決策などは、当然ながらデータを見ても分からない。画面に表示された数字をノートに書き写していたアルシュだが、ついに「駄目だ」と息を吐いて、ペンを机に転がした。

 冷たい机に突っ伏し、疲労で痛むこめかみを押さえる。

「こんなの、いくら書き取ったって無駄……」

 厳しい冬越しになることなど、言われなくたって理解している。こんな作業には何の意味もない。ただ、いたずらに己の労力を費やし、仕事をした気分になっているだけ。だけど、他に何ができようか。唐突に訪れた絶対的な困窮の前で、統一機関の大人だってろくな対処が出来ていないというのに。

 疲れて頬杖を突きながら、アルシュは目を細める。

「何が起きてて、何が問題なんだろう?」

 課題が不明瞭なのが、結局のところ一番の課題だった。食糧が足りない、あるいは水が止まるという問題は、あくまで最終的な結果だ。何か根本的な原因があり、それらが複雑に錯綜した結果として、具体的な問題が浮き彫りになっている。だが、原因が分からないから、それを取り除く努力ができない。原因を探ろうにも、どこに手を伸ばせば答えが見つかるのか、その方角すら分からないのだ。

 なぜなら。

「どうやって食糧が届いていたのか、水や電気が分配されていたのか、知らない……」

 そう――あまりに無知蒙昧だから。

 恐ろしさすら覚えるほど、アルシュはラピスの成り立ちを知らなかった。誰も教えてくれなかったのだ。アルシュが所属していたのは統一機関の政治部、ラピスに存在するあらゆる事物を大元で取りまとめる部門だった。アルシュはそこで幼少の折から学び、また決して不真面目な生徒ではなかったのに、思い返せば――どのように生活基盤が維持されていたのか、それを知らなかった。

 そんな、卑近なことすら知らずにいられた怠惰、あるいは傲慢。

 無力感が全身を押し潰して、アルシュは呻き声を上げる。熱を出したときにも似た、厭な感覚が身体中に満ちていた。どれだけ足掻いても、光が差してくるどころか、水面の方角すら分からない。ずっと溺れ続けているような日々に、実のところ、かなり疲弊していた。

 心のどこかで、これ以上頑張ったって何も得られないよ――と囁くのが聞こえる。あるいは、伝報局で悲しげな笑みとともに告げられた「逃げた方が良いんじゃない」という言葉が、水飴のように優しく指先を絡める。きっとアルシュが逃げ出しても、誰も咎めないだろう。と言うより、研修生が一人消えたところで、それを構う人間など、もはやいない。

「……でも」

 だけど――だけど。

 誰かの役に立っていたい。それはアルシュの信念という言葉を超えて、ひとつの本能、あるいは摂理の域にあった。他者を助けられない、いてもいなくても変わりない存在に堕ちてしまうことが、ひどく恐ろしく感じられた。

 どんよりと曇った頭のなかで、アルシュは、穏やかな青年の笑みを思い出す。

 ――自分が置かれた場所で頑張れば良いんだよ。

 メル・ラ・ロシェル――アルシュの死んだ友人は、まだ夏の香りも残っていたあの朝、彼が生きていた最後の日に、そう言って微笑んだ。きっとあれは、大きな選抜試験を前にして萎縮していたアルシュへの励ましだった。選ばれなくても平気だよ、という優しい気遣いから出た言葉だったはずだ。

 けれど、メルが死に、ラピスは傾いて、あの言葉の意味は変わってしまった。

 研修生という場所に置かれている。すぐには飢えない備蓄と、吹雪をしのげる住処があり、こうして端末を使って情報を集めることもできる。恐慌に落ちていくラピスにおいて、それは紛れもなく()()なのだ。だからこそ、恵まれた立場に置かれたアルシュは、この場所で頑張らなければならない。それは義務で、責任で、役割だ。

 メルが厚意から発した言葉は、アルシュのなかで、いつしか呪いに変わった。

 自分が置かれた場所で頑張らないといけない、だからこそ足掻くのだ。暗い水底でもがき続ければ、いずれ死んでしまうけれど、研修生としての責任を投げ出して逃げることなど、もちろん許されない――死んでいった()が許さない。

 アルシュは頭を振って、淀んだ思考を無理やり振り払った。

 冬は日に日に深まっていくのだ、今日という一日を無駄にしてはいけない。何かひとつでも駒を前に進めなければ。仕事をしている気分になるだけの無為な作業ではなく、ラピス市民のために出来ることを、何か探さないと。

「ああ……そうだ」

 ふと思い出し、アルシュは机の上を片付けて立ち上がった。

「備蓄の計算でもやり直そうかな……」

 ここ最近ひそかに考えているのが、統一機関の蓄えている食糧や燃料をラ・ロシェル市民に開放するのはどうか、というアイデアだった。統一機関の下層には巨大な倉庫があり、不作の年にも耐えられるよう、潤沢な物資が蓄えられている。ざっと概算したところ、八万の市民が肩を寄せて耐えれば、数年ならやり過ごせる程度の備蓄はあるようだ。あっと驚く妙案ではなく、順当で堅実なアイデアだが、ともかく市民は今まさに飢えて泣いている。本当なら今すぐにでも実行すべき案に思えた。

 ただ――統一機関の職員や研修生が許すかは分からない。倉庫の備蓄は、あくまで余剰あるいはバッファなのだ。それを全て解放するのは後ろ盾を失うに等しい。備蓄を数年で消費してしまうとして、底を突いた後はどうするのか。その数年で傾いたラピスを立て直すことができれば良いが、もし備蓄が尽きても情勢が好転していなかったら、その時こそ真の窮地がやってくる。――備蓄を解放しようと提案したらその手の反論がやってくることは明らかで、ゆえにアルシュは、まず明確なデータを求めていた。

 何年くらいなら全市民を飢えさせないことが可能か。来年の収穫は期待できるのか。他都市への支給を行う場合、輸送コストは。備蓄を大々的に開放した前例はあるのか。データは何も語ってくれないが、何かを語るときは味方になってくれる。とにもかくにも情報をかき集めた上で、周囲を説得してみよう――アルシュはそう考えて、今日も階下に向かう。長い階段を下り、静まりかえった長い回廊をたどって倉庫を目指す。

 道筋の傍ら、アルシュはふと白い窓の外を見た。

 雪に埋まって白一面に染まるラ・ロシェルの街に、ぼんやりと違和感が浮き上がっていて、アルシュは何の気なしに目を凝らした。

 違和感の正体は、ひとつの黒い点だった。

 塗りつぶされたようにのっぺりとした白を背景に、一つ、極小の点が、こちらに向かって動いている――その正体に気がついた瞬間、アルシュは倉庫に向かっていた足を反転させて、階段のほうに駆け出した。

 ()()を見つけたのは、責任感に追い詰められる彼女にとって、あるいは救いだった。

 アルシュは統一機関の一階まで転げ落ちるように下りていき、両開きの分厚い扉を、半ばぶつかる勢いで開ける。扉が開き、隙間から、白い光の粒が――吹き荒れる雪のかたまりが飛び出して、頬にぶつかる。産毛を凍らせるような冷気に目を細めた、その向こうに、こちらに向かって歩いてくるシルエットがあった。

 彼あるいは彼女は、腰まで埋める雪をかき分けて、今にも吹雪にかき消されそうな足取りでやってくる。全身を覆う外套を着ているが、フェルトのような生地をざっくりと縫って作られた外套は、水を吸って黒ずみ、汚れている。目元だけが僅かに空いていて、険しく細められた目元は腫れていた。

 眼窩で頼りなく揺れる瞳が、アルシュを見据える。

 目が合った瞬間、その双眸から涙がこぼれた。ああ、ともおお、とも付かぬ声をこぼして、彼女――声からして、どうやら女性のようだ――は、深い積雪に膝を突いた。アルシュは慌てて駆け寄り、その身体を助け起こして屋内に戻る。

「どうしたんです」

 彼女に肩を貸しながら、アルシュは問う。

 こんな吹雪の日に出歩いているだけでも不思議だが、どうも見覚えがない相手だ。統一機関近郊の人間なら、それなりに顔を見知っているはずなのだが。やつれ果てた容貌からしても、遠方からはるばる歩いてきたのではないだろうか。

 推測通り、グラシエと名乗った彼女は、バレンシアから歩いてきたと言った。

「……最初は、もっと多かったんです」

 玄関脇のロビーで、壁にもたれたグラシエは苦しそうに呻いて言った。その顔は血の気が失せて白く、霜焼けになった鼻と目の周りだけが腫れたように赤い。呼吸は明らかに速く、苦しそうだった。

「バレンシアを出たときは五人いて、馬も引いてて……なのに、今は――」

 引き攣った顔で彼女は目元を押さえる。続きは言葉にならず、嗚咽に変わってしまったが、ぼろぼろの風体を見ていれば嫌でも理解できる。……グラシエの仲間は死んでしまったのだ。バレンシアからラ・ロシェルまで、徒歩で向かえば二日か三日だが、これは雪がない場合の話である。とくにバレンシアは山中の街だ、獣道など覆い尽くすような雪のなか、平地に下りてくるのは困難を極めただろう。

「うぇっ、うっ……な、なんで……」
「……グラシエさん」

 気を張っていたのが抜けたのか、糸が切れたように嗚咽を溢れさせる彼女に、アルシュは静かに呼びかけた。これは、哀しみに沈むグラシエを慰めるためではない。泣いている彼女の両目を、自分に向けさせるための呼びかけだった。

「グラシエさん」

 濡れた顔を覗きこんで、アルシュはもう一度語りかける。

「酷だと言われるでしょうが、私は、貴女と話さないといけないように思います」

 名も知らぬ人々を弔う思いは、もちろんアルシュだって持っている。

 だが――雪に埋もれての旅路が苦境であることなど、バレンシアを出る前から分かっていたはずのこと。グラシエと、亡くなった彼女の同行者は、厳しい道中など覚悟した上で、ラ・ロシェルを……否、統一機関を目指したのだろう。

「何か、理由があって来たのでしょう。貴女はそれを語るために来たのでしょう」
「……っ、わ、わたしは」
「どうぞ教えて下さい。私は、アルシュ・ラ・ロシェルです。統一機関の人間ですが、統一機関のようには、貴女を蔑ろになどしないとお約束しますから」

 さあ、とグラシエを促したが、その呼吸は不安定なまま、とても成立した文章を語れる様子ではなかった。憤りにすら似た焦燥を覚えて、アルシュは口の内側を噛む。何人もの命を犠牲にしてラ・ロシェルに来たのだから、グラシエには相応の振る舞いをする義務がある。なのに弱々しく泣き崩れていることが、どうもアルシュには許しがたかった。

 もう一度励まそうと、息を吸い込んだときだった。

「――先に休ませては如何ですか」

 第三の声が割り込んだ。

 アルシュが膝立ちのまま振り返ると、階段室から少女が出てきた。短く切り揃えられた黒髪には見覚えがある――いつだか統一機関の職員に食ってかかっていた少女だ。彼女もグラシエの姿を見つけて、上の階層から下りてきたのだろうか。彼女はかつかつと靴音を鳴らしながらこちらに歩いてきて、グラシエの額に手を当てる。

「――やっぱり」

 呟いて、少女はアルシュを仰ぎ見る。

「熱がある。とても話なんてできる状況じゃありませんよ。……隣の棟に休憩室がありますから、そちらまで向かいましょう」

 後半はグラシエに向けて告げたようだ。割って入られてしまうと口出しができず、アルシュは少女の提案に従うことにする。二人はグラシエを両脇から支えて、冷え込んだ廊下を歩き、休憩室に向かう。埃を被っていたベッドを取り急ぎ整えて、グラシエを寝かせると、いくらもしないうちに、彼女は気絶するように眠った。

 ブランケットを畳みながら、少女がぽつりと呟いた。

「……統一機関の人間のようには蔑ろにしない、ですか」

 カーテンを引いていたアルシュは、少女の言葉の意味をしばし考える。ややあって、それが先ほど自分が言ったことを反復しているのだと気がついた。分からないのは、少女の言葉に、すこし非難するような色が混ざっていることだ。

「統一機関がラピスを蔑ろにしてるのは、事実じゃない?」

 アルシュが問いかけると、少女は口元を曲げて視線を逸らす。彼女は、自分が始めた会話にも関わらず、返事をしなかった。代わりに「水を取りに行きましょう」と言って、休憩室を出て行った。
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登場人物紹介

リュンヌ・バレンシア(ルナ)……「ラピスの再生論」の主人公。統一機関の研修生。事なかれ主義で厭世的、消極的でごく少数の人間としか関わりを持とうとしないが物語の中で次第に変化していく。本を読むのが好きで、抜群の記憶力がある。長い三つ編みと月を象ったイヤリングが特徴。名前の後につく「バレンシア」は、ラピス七都のひとつであるバレンシアで幼少期を送ったことを意味する。登場時は19歳、身長160cm。chapitre1から登場。

ソレイユ・バレンシア(ソル)……統一機関の研修生。リュンヌ(ルナ)の相方で幼馴染。ルナとは対照的に社交的で、どんな相手とも親しくなることができ、人間関係を大切にする。利他的で、時折、身の危険を顧みない行動を取る。明るいオレンジの髪と太陽を象ったイヤリングが特徴。登場時は19歳、身長160cm。chapitre1から登場。

カノン・スーチェン……統一機関の研修生で軍部所属。与えられた自分の「役割」に忠実であり、向学心も高いが、人に話しかけるときの態度から誤解されがち。登場時は19歳、身長187cm。chapitre1から登場。

アルシュ・ラ・ロシェル……統一機関の研修生で政治部所属。リュンヌの友人で同室のルームメイト。気が弱く様々なことで悩みがちだが、優しい性格と芯の強さを兼ね備えている。登場時は19歳、身長164cm。chapitre3から登場。

ティア・フィラデルフィア……とある朝、突然統一機関のカフェテリアに現れた謎の少年。ラピスの名簿に記録されておらず、人々の話す言葉を理解できない。登場時は10歳前後、身長130cm程度。chapitre1から登場。

サジェス・ヴォルシスキー……かつて統一機関の幹部候補生だったが、今の立場は不明。リュンヌたちの前に現れたときはゼロという名で呼ばれていた。赤いバンダナで首元を隠している。登場時は21歳、身長172cm。chapitre11から登場。

ラム・サン・パウロ……統一機関の研修生を管理する立場。かつて幹部候補生だったが現在は研修生の指導にあたっており、厳格だが褒めるときは褒める指導者。登場時は44歳、身長167cm。chapitre3から登場。

エリザ……かつてラ・ロシェルにいた女性。素性は不明だが「役割のない世界」からやってきたという。リュンヌと話すのを好み、よく図書館で彼女と語らっていた。笑顔が印象的。登場時は32歳、身長155cm。chapitre9から登場。

カシェ・ハイデラバード……統一機関政治部所属の重役幹部。有能で敏腕と噂されるがその姿を知る者は多くない。見る者を威圧する空気をまとっている。ラムとは古い知り合い。登場時は44歳、身長169cm。chapitre12から登場。

リヤン・バレンシア……バレンシア第43宿舎の住人。宿舎の中で最年少。年上に囲まれているためか無邪気な性格。登場時は17歳、身長152cm。chapitre31から登場。

アンクル・バレンシア……バレンシア第43宿舎の宿長。道具の制作や修繕を自分の「役割」に持つ、穏やかな雰囲気の青年。宿舎の平穏な生活を愛する。登場時は21歳、身長168cm。chapitre33から登場。

サテリット・バレンシア……第43宿舎の副宿長。アンクルの相方。バレンシア公立図書館の司書をしている。とある理由により左足が不自由。あまり表に現れないが好奇心旺盛。登場時は21歳、身長155cm。chapitre33から登場。

シャルル・バレンシア……第43宿舎の住人。普段はリヤンと共に農業に従事し、宿舎では毎食の調理を主に担当する料理長。感情豊かな性格であり守るべきもののために奔走する。登場時は21歳、身長176cm。chapitre33から登場。

リゼ・バレンシア……かつて第43宿舎に住んでいた少年。登場時は16歳、身長161cm。chapitre35から登場。

フルル・スーチェン……MDP総責任者の護衛及び身の回りの世話を担当する少女。統一機関の軍部出身。気が強いが優しく、MDP総責任者に強い信頼を寄せている。登場時は17歳、身長165cm。chapitre39から登場。

リジェラ……ラ・ロシェルで発見されたハイバネイターズの一味。登場時は22歳、身長157cm。chapitre54から登場。

アックス・サン・パウロ……コラル・ルミエールの一員。温厚で怒らない性格だが、それゆえ周囲に振り回されがち。登場時は20歳、身長185cm。chapitre54から登場。

ロマン・サン・パウロ……コラル・ルミエールの一員。気難しく直情的だが、自分のことを認めてくれた相手には素直に接する。登場時は15歳、身長165cm。chapitre54から登場。

ルージュ・サン・パウロ……コラル・ルミエールの一員。本音を包み隠す性格。面白そうなことには自分から向かっていく。登場時は16歳、身長149cm。chapitre54から登場。

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