chapitre57. 体温
文字数 5,377文字
緊張で少し体温が上がっているのを感じながら、ロンガは教えられた通り通用口の扉に手を打ち付けた。扉には磨りガラスの窓がはまっていて、人影がこちらへ歩いてくるのがうかがえた。MDPの構成員らしい少年がロンガを中に案内してくれる。まだ10代前半と思われる少年は幼い無邪気さを残していて、歩くたびに癖っ毛を乱雑にまとめた毛束が勢い良く振れた。
オーブと名乗った少年は、開発部出身の元研修生だそうだ。統一機関が崩壊した当時はまだ12歳だったという。MDPの成り立った経緯からして、もともとは研修生だった人間が多いのは必然的で、従って年齢層も若くなる。だが、10代の大半を勉強と訓練に費やしたロンガとしては、これほど年下の子どもすらもMDPの一構成員として見なされ、立派に仕事をしているのは何だか妙な気分だった。
階段をひとつ昇り、ノックして引き戸を開ける。
そこにリジェラがいるのかと身構えたが、その中は会議室だった。ロンガが部屋に一歩踏み入れて挨拶すると、10人弱の視線が残らずこちらを向く。オーブも含めて全員が、首から銀色に光る笛を下げている。フルルも同じものを持っている、MDP構成員の証だ。
「ロンガ・バレンシアです。マダム・アルシュの紹介で来ました」
「聞いています。ご協力感謝します、こちらへ」
MDP総責任者アルシュの古い友人という立場が、彼らの目には一体どう映っているのか。奇異の視線が身体中に突き刺さるが、あえて気にしないよう努めて、ロンガは案内役らしい男性の後に付いて会議室を後にした。
先ほど昇った階段を、今度は降りる。
「遠回りをしてもらって申し訳ありません。先ほどの、オーブという少年が門番なのですが、彼には見せたくなくて」
「見せたくないって、リジェラのことですか?」
ぎょっとしてロンガは声を荒げてしまった。声はロンガが思ったより高く響き、階段室の天井に跳ね返る。男性が細い目をさらに細めて、唇の前に人差し指を立ててみせる。すみません、と慌てて声を潜め、ロンガは小声で問い直した。
「どうして。本来は学業に励むべき、彼のような歳の子どもにこそ積極的に見せるべきでは? 雑用ばかりでは気の毒ですよ」
「いや、というより――あんな、か弱そうで痩せ細った相手を見て、敵だと思えますか? いえ、思わなければならないのです。地上を侵す“地底の民”には毅然と立ち向かわねばなりません。だからあれを衆目に晒しては絶対にいけないのですよ。情に流されやすい子どもなんて尚のことです」
「――え?」
想像の範疇を超えた返事に、ロンガはとっさの言葉を返せなかった。誠実そうな雰囲気のこの構成員は、今、リジェラを指して「あれ」と言った。ロンガの表情の変化には気づかないのか、彼は平坦な口調のままさらに言葉を繋いだ。
「マダム・アルシュの言うことは私には絵空事にしか思えません。あちらが攻撃してきているのです、私たちが武器を取って何が悪いのか。ご友人の貴女からも、進言してもらえませんか?」
「はあ。彼女は“地底の民”に謝罪し、和解を申し入れる方針のようですが」
困惑のため息とともにロンガが言うと、「だからこそ言っているんです」と彼は語気を強くした。
「私たちはマダム・アルシュを尊敬していますが、しかし、今回に限っては同意する人間のほうが少ないですよ」
「しかし――では、貴方はどうすべきだと考えるんです?」
「
「……お考えは分かりました」
ロンガはようやく、短い言葉を絞り出した。階段を降りる、カツンカツンという足音が頭の中で嫌に増幅して跳ね返る。彼はリジェラを虜囚と呼び、ティアを愚か者と言い、“ハイバネイターズ”を鎮圧すべき悪と考えているようだ。聞き捨てならない意見だが、ここで声を荒げるつもりはなかった。
彼ひとりに怒ったところで意味がないからだ。おそらく彼だけではなく、多くの構成員が同様に考えている。アルシュやフルルのように、“ハイバネイターズ”との同調あるいは和解を志す者のほうが少数派なのだ。
それはやはり自分たち地上の人間が、先に攻撃された側だから、なのか。
「……リジェラを私たちが発見したときも、バレンシアに親しい者がいるという少年がひどく怒っていました」
「当然、そうでしょうね」
「でも彼は反省していましたよ。会話が通じずについ苛立ってしまった、と。子どもでも対話を試みたのに、貴方がたはそれに挑戦するつもりすらないんですか」
「はあ。一方的に殴ってくる相手と対話、ですか」
いささか馬鹿にしたようなニュアンスで彼は呟いた。
表立って言葉には出さなくとも、彼の意図はありありと透けて見えた。――なぜ攻撃された側のこちらが譲ってやらなければならないのか。やられたのだから、やり返して良いのだ。彼らにとってはそれが真理で、殴ってくる相手に頭を下げようとするアルシュこそが愚かに見えるのだろう。
電気の消えた廊下を導かれるままに歩き、突き当たりまで辿りつくと、MDP構成員の男は鍵束のなかからひとつを取り出して扉を開ける。上の部屋で出会ったときよりはやや丁寧さを欠いた素振りで、ロンガを中に導く。
「どうぞ、こちらです」
唾を飲み込み、部屋の中を見渡す。
背中側で手を縛られ、椅子に拘束されたリジェラが、今にも噛みつきそうな表情でこちらを睨みつけていた。
*
終わったら上に顔を出すように、それから縄は解かないようになど、いくつかの注意事項をつらつらと言って、案内役の男は上の部屋に戻っていった。バタン、と拒絶の音を立てて扉が閉まり、後にはロンガとリジェラだけが残される。空気のなかの塵までもが静止しているような静寂のなか、リジェラのエメラルド色の瞳がこちらを見据えていた。ロマンに殴られた痕だろうか、片方の頬が腫れている。紫色の内出血が、真っ白い肌との対比でさらに痛々しく見えた。
大きく息を吸って、次に吐いた。
リジェラが感じているのと同じ空気を身体の中に満たして、それでようやく彼女と話ができるような、そんな気がしていた。静かに呼吸しながら、パイプ椅子をひとつ取って腰を下ろす。緩慢な動作のあいだ、リジェラはじっとこちらを見つめて待っていた。
塔の上の部屋から持ってきた本を膝の上に広げる。
もうひとつ息を吐いてから腹を据えて、ロンガはあらかじめ決められていた質問事項を投げかけていった。
名前は?
――リジェラ。
年齢は?
――22歳。
今までどこで暮らしていた?
――地底で生まれ育った。
リジェラは警戒している姿勢を崩さなかったが、多少とはいえ言葉の通じる相手であるからか、回答を渋ることはしなかった。思ったより順調な応答に、ロンガは内心胸をなで下ろす。
『では――地上にいた理由は何ですか?』
しかしそう問いかけた瞬間、リジェラの表情が固まった。今まで合わせてくれていた視線を外し、痩せた両膝に落として
さてどうしたものか、とロンガは腕を組む。
今のところ聞き出せている名前や年齢といった情報は、実のところそこまで重要ではない。彼女がなぜ地上にいるのか、今後どうしたいのか、それが最も大切な情報だった。リジェラにここで口を
途方にくれたロンガが斜め上を見上げると、明かり取りの小窓から差しこむ午後の日光が目に入った。もとは学舎の備品室か何かだったのだろう、雑然とした空間を、優しく広がる光が照らす。決して強くはないが目を惹く白い光に、ふと、太陽の名を冠した友人を思い出す。いつもロンガの心の片隅で笑っている彼に問いかけてみる。
――ソル。君ならここでどうするだろう?
思い描いた彼が答えてくれるのを待つ代わりに、ロンガは2年前の記憶をたどった。今はもうがらんどうだったあの部屋で、まだ自分と彼が暮らしていた頃、リジェラのように異言語を話す少年と会話したことがあった。
あの時の彼から何か学べることはないか?
ロンガは目を閉じて、当時の記憶の中に帰って行った。まぶたの裏の真っ暗闇に、異言語を話す少年、ティアと自分たちが会話したときの映像を少しずつ構築していく。青空、窓、天井、床、仮設のテーブルと椅子、広げた本とノート、そこにいる3人の人間。ディティールを極めることで、できる限りリアルな状況を思い描く。
思い出せ。
郷愁に浸るためではない。
今ここにいるリジェラのために。
十数秒は経っただろうか、ロンガは静かに目を開けた。現実と見紛うほどに丁寧に構築された「あの時」が霧散し、MDP本部の一室に帰り着く。顔を上げるとリジェラと目が合った。ロンガはその視線に答えて微笑んで見せる。
それから椅子を畳み、立ち上がった。対面に座っているリジェラのすぐ近くまで移動し、そこに椅子を開いて座り直す。今度は正面に向き合うのではなく、隣に座り、リジェラと同じ向きに身体を向けてみた。視界の左端に、リジェラの横顔が少しだけ見えている。
『――名乗りもせずに質問ばかりして、ごめんなさい』
膝の上で開いた本に視線を落として、気取らない口調で話し出す。リジェラが小さく目を見開くのが見えたが、構わず言葉を続けた。
『私のことはロンガと呼んでください。年齢は貴女のひとつ下。3人の仲間と一緒に旅をして、昨日この街に来ました』
『……ロンガ』
『そう。それが私の名前です、リジェラ』
まだ警戒している、穏やかとは言い難いリジェラの表情に、ロンガは微笑みを向ける。努力して表情を作るのではなく、アルシュ達に向けるような何気ない笑顔で、きっと笑えている。わざわざ隣に座ったのはそのためだ。対等な立場であることを、まず形から表現してみせるため。
まず自分から名乗ること。
そして正面ではなく、相手の隣に座ること。
どちらも、記憶の中でソレイユがやっていたことだった。たぶん彼は意図してやっていた訳ではないのだ。天性の人懐こさ、愛される才能が彼にはあった。それはきっと、ロンガには備わっていない能力だったから、こうして記憶の中からすくい上げて、言葉にして分析して、それで初めて真似ができる。模倣でしかないけど、別に恥じ入ることじゃない。ロンガが彼の真似をすることで、リジェラが少しでも穏やかな気分になってくれれば、それは紛れもない成功なのだから。
ロンガの策はほんの少し、それでも確かに功を奏した。
『……ロンガ』
もう一度、リジェラが呟く。彼女にとっては慣れないだろう発音の名前を、確かめるように口の中で転がしているようだった。少しだけ柔らかくなった声の響きを感じ取りながら、ロンガは隣に話しかけた。
『リジェラ。良かったら、何か質問してくれませんか?』
『質問?』
『ええ。何でもいい、私のことでもこの街のことでも』
『……ふふ。
ふわりと雰囲気が揺らぐ。鋭利な印象を感じさせる痩せた顔に、木洩れ日のような揺らぎが訪れる。氷の表面が溶けて風に震えるような、揺らぎの中に確かにひとつ、自分と同じ体温の熱を感じ取る。
ああ――リジェラは人間だ。
たしかに案内役の男が言うとおり、彼女は
くすくすと笑ったリジェラが、つり上がった眉を少し下げてこちらを向いた。
『例えば私、どこかに通信機を持っていて、貴女の言ったことをそのまま味方に伝えてしまうかもしれないのに』
『それは困る……のかな。どうでしょうね、困るかもしれない』
『あはは! 貴女、本当に地上の人間なの? 警戒心がなさすぎる』
ロンガの曖昧な返事に、リジェラは身体を揺すって笑った。椅子にロープで拘束されているせいで、彼女の身体が動くのに伴ってカタカタと音が鳴った。ロンガが大げさなモーションで肩をすくめてみせると、リジェラは更に笑った。