chapitre141. 幻を駆ける声
文字数 7,447文字
「私のいる場所、分かる? こちらの道よ。少し行けば皆と合流できる」
「ああ――そうか! ありがとう」
一切の疑う素振りを見せず、声はリジェラの横をすり抜けていく。靴音が背後に遠ざかっていくのを確認して、リジェラは笑みを消し、すっと目を細めた。
「真祖エリザ――まだ、そこにいらっしゃいますか?」
声は応えなかった。
真祖が、リジェラひとりの声を掬い上げてくれるわけがない。いや――彼女は、リジェラという個人の存在だって、きっと知らないだろう。それでも、ついに彼女が完全な身体を取り戻し、リジェラたちに助けを求めてくれたのなら、“
彼女の声に従って、手となり足となって動くのだ。そこに疑う余地などない――なのに、真祖ではない、誰かの声が邪魔をする。
『そんなものは――』
――危険を冒してまで、従うほどのものですか?
後半は実際に言われたわけではないが、彼の顔には明らかにそう書いてあった。リジェラの熱意に歩み寄ろうとして、それでも埋め切れない隔たりが、そのまま困惑の表情になっていた。
リジェラは眉間を抑えて、記憶を振り払う。
分かっている。
まるで太陽から降り注ぐように思えたあの声は、実際には配電系統を通じてやってきた、ただの電気信号だ。喋っているのはスピーカーと呼ばれる電子機器だ。その向こうで喋っている声は、初めて耳にしたが、特段変わったところのない穏やかな声だった。
「……でも」
それでも、紛れもなく全ての祖である女性、真祖エリザがそこにいたのだ。
彼女は四世紀の
黄金色の瞳をたずさえた、自分たちの指導者だった青年を思い出す。彼の導くまま、かつて“
失敗したのだ――そう、真祖エリザは告げた。
背後でガシャンと音がして、リジェラは我に返る。異世界の民を隔離すべく、通路が封鎖された音だ。それと前後して、耳の奥に詰め込んだ機械から、合成音声が流れ出す。
【C-36-12で待機】
一方的に命じるだけの声は、リジェラの声には答えない。
先に進まなければ。
目尻にじわりと滲んだ涙を拭って、リジェラは走り出す。
感傷に浸っている暇などないのだ。
「貴女の祈りに、添えているのでしょうか」
呟きは誰にも捉えられず、幻に消えていった。
*
そして、喧噪から少し離れたブレイン・ルームにて、当のエリザ――の姿をした女性は、息を潜めていた。
喉が痛む。
水晶の欠片を飲み込んだせいで、粘膜が傷ついたのだろう。さざめく痛みを深い息で押し流して、ロンガは、あるいはエリザは、
こちらに人質がいる、と叫ぶ誰かの声。
聞き覚えがあるようにも思える、その声に従って、混乱していた声の群れが、通路の向こうに遠ざかっていく。エリザの目論見どおりに事が運んだようだ。互いの相貌が認識できない幻像の内部において、敵と味方――フィラデルフィア語圏とラ・ロシェル語圏を見分ける、もっとも分かりやすい差異は、使っている言語の違いである。
「そういえば――」
声帯は震わせず、エリザの意識に直接問いかけてみる。
「フィラデルフィア語圏と、地下の人間が同じ言葉で通じ合えるのは、偶然なのですか」
「その質問への答えは、どこまでを偶然と呼ぶかによる――でしょうけど。どちらも、旧時代でもっとも広く用いられていた言葉をベースに発展したものだから、もとは同じ言語と言えるのよ。四世紀のあいだ語り継がれて、少しずつ、形が変わったようだけど――」
一息つくように、エリザは間を挟んだ。
「大元のストラクチャが同じだから。そこまでは気がつけなかったみたいね」
「それも貴女の読み通りですか?」
「そうね、正直なところ、通用するかどうかは半信半疑だったけど――成功したようで、何より」
エリザはそれだけ言って、顔を背けるように、意識を遠ざけた。
つまりエリザは、決して高くない勝算に、彼女自身の身体という、10年の眠りのあいだ渇望し続けたものを賭けてくれたのだ。捕らえられたロンガの友人たちを救うために。感謝の言葉のひとつどころか、十や二十を重ねてもまだ不足だろう。
だけど。
ロンガはそれを口に出さないまま、エリザの存在から目を逸らす。繋ぎとめる言葉が失われて、暗い泉に似た意識の奥底にエリザが沈んでいき、借り物の身体はロンガに委ねられた。
腕を背後に回して、凝り固まった肩を伸ばす。筋肉も脂肪も薄いエリザの身体が、麻のワンピースのなかで泳いだ。
シェルとアルシュを救出する一連の作戦について、ロンガの、あるいはエリザの役割はほぼ終わっている。後は、フィラデルフィア語圏の兵士たちの目を欺いたまま、最下層の安全圏まで戻るのみだ。だからこそエリザも、あとはロンガひとりで十分と踏んで、意識の奥底に姿を消したのだろう。
スカートの裾を払って、ロンガはブレイン・ルームの出口に向かう。D・フライヤの導いた時空間異常によって、正確な視界は妨げられている。とはいえ、現在の景色が見えていないという事実さえ理解していれば、混乱するようなものではない。
そこに僅かな油断があった。
爪先が重たい金属の塊を蹴飛ばし、身体がよろめく。同時に、蹴飛ばされた何かが壁とぶつかって、派手な音を立てる。通路の壁ぎわで、何かがうごめく気配があった。
「あ……! 誰か、いるのか?」
青年と思われる声が、こちらを捉えて呼びかける。
「悪いが、目が眩んでしまって。皆、どこに行ったのか――」
自分の
「大丈夫?」
ロンガよりも流暢な発音の異言語で、エリザが問いかける。
「閃光弾か、何かなのかしら」
「いや……これは本当に、ただの光学兵器だろうか」
「ええ、そうでしょう?」
「その、俺の知人が、なんだか不思議なことを言って。絵空事だと思ってたんだが、これはもしや――」
「貴方……何を言ってるの」
フィラデルフィア語圏の出身である彼は、超常現象の存在に勘づきつつあるようだ。エリザは、わざと呆れた口調を作ってみせながら、彼の腕を掴んで立ち上がらせる。
「向こうで声が聞こえるわね。あの曲がり角の、右手のほう――見えるかしら」
「あちらか。悪い、ありがとう……ええと、君はなぜ、ここに残っている?」
「靴紐が絡まってしまったの。後から行くわ」
「そ、そうか。分かった」
足音が遠くに駆けていくのと同時に、ロンガは身体のコントロールを取り戻す。先ほどけつまずいた金属の塊を手探りで拾い上げると、思った通り、拳銃の形をしていた。何かの保険にでもなれば、と思い、そのまま服のなかに収める。エリザの痩せた指で取り扱えるかは怪しいが、持っておくに越したことはないだろう。
乱れた服の裾を直しながら、エリザに語りかける。
「豪胆ですね……逃げても気がつかれなかったでしょうに」
「細かな違和感の積み重ねで真実が露見する、なんて良くある話だわ。末端の兵士だとしたって、変に疑問を抱かせないほうが良い」
「それは、たしかに。しかし、もう眠ったものと思っていました」
「貴女より、私の方が向こうの言葉を喋れるもの。だから出てきただけ――」
そう告げたのを最後に、エリザの意識は再度、淀みの中に潜っていく。
ロンガの意識があの図書館から解放されてからというもの、ふたりはできる限り、身体のコントロールをどちらか一方に任せて、他方は眠りにつくようにしていた。
どうせ動かせる身体の数はひとつに限られているから、というのが理由だが、同時にそれは、ひとつの心のなかでふたりが距離を保つためでもあった。エリザが、彼の夫の件でロンガに怒りを抱えている限り、ふたつの意識はそうそう混ざり合わないと踏んでいる。しかし、ひとたび意識が混ざってしまえば、ロンガとエリザというふたりの人間には、二度と戻れない。
だからこそ慎重にならざるを得ない。
エリザがすぐ隣にいると分かっていても、気軽には話しかけられない。助けられたことに感謝を述べたり、不注意な行動を謝罪したり、心の内側を開いてしまうような真似をすれば、そこから綻びて、流れのままに混ざり合ってしまう予感があった。
「……せっかく会えたのにな」
エリザに聞こえないように、心のなかの、さらに内側でだけ呟いて、ロンガはハイバネイト・シティの通路に踏み出した。
*
ここまで来たときの道を、頭の中で逆向きに再生しながら、やや早歩きで通路を駆け抜ける。途中で景色がふっと揺らぎ、それと共に
どうやら逃げ出せたようだ。
天井近くにスピーカーを見つけて、コアルームのカシェに無事を報告する。カノンが迎えに行ったからと言われ、彼女に指示されるまま、近い部屋に身を隠して彼を待つ。安心したと同時に、疲弊した身体がどっと重くなる。
長い髪に覆われた首筋に、少し汗をかいていた。後頭部に手を回してざっくりと編み、手首に回していたゴムで結ぶ。ロンガ自身の癖のある髪と違って、するりと滑らかなエリザの髪は、扱いやすいものの纏めやすさに欠けており、数本の毛が指先から逃れて鎖骨に跳ねた。
それでもまだ少し暑かったので、ワンピースの前を開けて空気を入れる。ブレイン・ルームから走って逃げ出すような事態を想定して、ワンピースの下は動きやすい服装にしてある。しかし、改めて見ると、めくった袖から伸びた腕も、ショートパンツから伸びた腿もかなり細く、体力勝負になったときに勝てないのは明らかに思えた。そういう展開にならなくて良かった――と、何度目か分からない安堵の溜息を零した。
両足を伸ばして休んでいると、カノンが声を掛けて部屋に入ってきた。それからこちらの姿を捉えて、少し驚いたように目を逸らす。
「……ご無事で良かったです」
「カノン、そんなに気を遣わないでくれ。今は私しかいない」
ワンピースの裾を払いながら立ち上がり、エリザの頬に笑顔を浮かべてみせる。
「来てくれたんだな。ありがとう」
「ああ、うん。どっちかというと、マダム・エリザ本人より、彼女の皮を被ったあんたの方が、俺は緊張するんだけどね……」
「ふぅん……そういうものか」
当然ながらロンガは、ひとつの身体のなかに複数の心を持つ人間を、客観的な目で観察したことはない。
「でも、今は普通に、カノンの友達の私だと思って話してくれて大丈夫だ。私も、そちらの方が嬉しい」
「はは……それが緊張するって言ってるんだよ」
カノンはこちらに背を向けて、行こう、と通路の方を指さした。ロンガは頷き、彼に従って通路を引き返す。
道中、彼は
「ひとまずの成功と言って良いだろうね」
カノンがそんな言葉で纏めてみせる。
「ただ、MDPの連中に詰められるのが見えてるのと、それから隔離した奴らの対処は、まだ未解決だが。前者に対しては、アルシュが取りなしてくれると思うし、後者については……“
「うん……ちゃんと、言葉が届いていると、良いんだけどな」
ELIZAシステムを通じて“
「言葉って、本当に難しいよな。どれだけ頑張っても、結局は一方通行だ。聞いた側の、心の持ちようで、如何にでも意味合いが変わってしまう」
「はは――本当にねぇ」
なぜか笑い混じりで、カノンは応える。
「まあ、でも、あんたらの弁舌は悪くなかったと思うよ。あんたの言うとおり、それが、狙ったとおりの場所に響くかは、彼ら次第だけどね」
「うん……あとは、祈るしかない」
しばらく無言で歩いた。
「それにしてもさ――」
来たときも乗ってきた昇降装置が近づいてくると、カノンが、そんな言葉で会話を切り出した。
「さっきのあんたが、一瞬、まるで本当のあんたみたいに見えて驚いた。長い羽織に、その編んだ髪と言い」
「髪を編んでたのは昔の話だが」
「俺が最初にあんたを、リュンヌ・バレンシアという個人で認識したときの姿が、それなんだよ」
「おかしな言い回しをするな」
首を捻りながら、ふと思いついて訊ねる。
「なあ――私とエリザは、似ているのか」
「そうだねぇ……」
カノンがちらりとこちらを見て、少し考える素振りを見せる。
「親子だし、面影はあると思うが、それにしても、ムシュ・ラムの方が似てる気はするねぇ――目元とか、髪質とか」
「そうなのか……」
どういう反応をすれば良いのか分からず、曖昧に頷いてみせると「まあ」とカノンが苦笑した。
「顔立ちを明瞭に覚えてるわけじゃないから、あまり参考にはしないで欲しいけどね」
「……もう忘れられたのか。
「あんたの顔は忘れないよ。ムシュ・ラムのことだ」
「ああ――そっちか」
得心して頷く。
どことなく楽しげな笑いで応じたカノンが、ふと真剣な表情を浮かべて振り返る。
「今、
「何というか――まあ、そうだよ」
「じゃあ、
カノンは少し間を置いて、つまりだ、と切り出した。
「あんたの本来の身体は、いま、結局どこにあるんだ。
「……それは」
どこまで話すべきか、一瞬だけ悩む。しかし、ここまで事情を明かしたのに、今さら隠す意味もないだろうと考えて、ありのままを話すことに決めた。
幻像に飲み込まれた先は四世紀もの昔で、さらに、七語圏のどれにも続かない第八の分枝であること。ロンガの身体はそこにあり、おそらくは白銀色の瞳を辿って、
「因果に支配された分枝、ねぇ――」
「そうだ。色々とおかしな世界だ。こちらでは、まだ、私が
「へえ……」
正気を疑われそうな話だが、カノンは真剣な顔で耳を傾けてくれた。
「あんたが初めにエリザとして目覚めたのは、1月14日。
「差があるとは思っていたが、そこまでか……」
話しているうちに、ふたりは昇降装置の前まで辿りついた。程なくしてやってきた昇降装置に乗り込み、ロンガは壁に身体をもたれさせる。
「でも、理屈の通じない世界ではあるが、たぶん何らかの意味はあるんだ。エリザは――あ、えっと、分枝世界のエリザは、D・フライヤが確固たる意志を持ってこの世界を作ったのだと、そう言っていた」
「つまり、あんたと世界の時計がズレているのにも、意味がある――としたら、ひとつ、希望があるね」
「希望……?」
「本当なら、四百年待たなければ、
「……でも、それで辿りつくのは、皆のいない未来だ。
爪先を見下ろして、小さく息を吐く。
「それに。分枝世界の私の身体は、もう――」
そのとき、突然。
もたれていた壁に背中から突き飛ばされて、言葉が途切れる。完全に不意を突かれて、為す術もなく向かいの壁に衝突する。何かを叫ぶ声と同時に、衝撃で凍りついた身体が、強い力で抑え込まれる。
重力の向きを忘れるほどの揺れが、昇降装置を襲った。
*
足下の床が、とつぜん横に滑るような感覚。
高い円筒の天井を眺めていたシェルが、とっさに両手を広げてバランスを取った直後、壁がまるで生き物のようにざわめいた。横に立っていたアルシュが息を呑む音。壁に埋め込まれていた、遺骨を納めた円筒が一斉に飛び出して、いくつかは重力のままに落ちてくる。
何が起きた?
それを問いかける間もなく、轟音と振動が押し寄せる。シェルは立ち尽くしたアルシュの手を引いて、地面に伏せた。庇った頭のすぐ横に何かが落ちて、けたたましい音が弾ける。物理的実体としての自分自身を守る以外のことは、しばらく何も考えられないまま、永遠にも思える数十秒が過ぎた。